―賞琴一杯清茗― 第七回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の六    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇四年十二月号第五六八号掲載

「口中雌黄[しわう]を設けず、眉端[びたん]煩惱を掛けずんば、烟火の神仙と稱すべし。意に隨ひて花柳を栽[う]ゑ、性に適して禽魚を食[やしな]ふ、此れは是れ山中の經濟なり」

人の批判を喋ったりせず、眉の端[はし]を顰[ひそ]めて憂い悲しんだりしなければ、俗世間にあってもそれで神仙の人と言えよう。心のおもむくままに、庭に花や柳を植え、心が好むまま禽魚を養い飼えば、これはこれで山中において国を治め世を救うことである。

 口は災いの元、人の批判をすれば必ず人も自分の批判をしているはずです。人の評価に一喜一憂していては眉をひそめて憂い悩むことばかりです。そんな無駄な心痛をせず、ひとり孤高の精神をもって泰然自若としているなら、それだけで神仙の仲間入りができるというのです。死して後、神仙になるのではなく、たいへん難しいでしょうが生きている間に神仙となりたいものです。
 禽魚、すなわち鶴、鵞鳥や金魚を飼うことも文人清玩のひとつです。清代中国では太った召使いと太った金魚のいることが裕福な家の象徴でした。丸々と太った金魚が水の中で泳ぐ姿はぬいぐるみのようで愛くるしいものです。
 金魚の鑑賞法というのは、缸[かめ]に水を入れて上から眺めるというのが最も適していると思います。ガラスの水槽に入れて横から眺めるのでは、金魚と共に水中にいるのと同じことになってしまいます。部屋の片隅、窓の下の水をたたえた缸は、深淵を覗きこむような人工的な自然を作り出してくれます。そこに泳ぐ金魚はまるで仙女の如くです。日がな一日、舞うような金魚の優雅な泳ぎを眺めるなら飽きるということはありません。明代萬暦の『硃砂魚譜』の著者張謙徳はその序の中で「余はあっさりとした気質で、別にこれという趣味もないが、ただ、清らかな泉を汲んで硃砂魚(金魚)を飼い、ときどきそれが浮いたり沈んだりするさまをながめては、いつも、こころゆくばかりたのしんで、ひねもす倦くことも忘れている。」(中田勇次郎『文房清玩』)と述べています。まことに心たのしい清閑のひとときです。文人清玩としての金魚の種類をあげるなら、墨眼睛(出目金)、藍魚(尾や鰭[ひれ]が長く広く渋い青色をした青文魚)、紫魚(茶金)、獅頭(蘭鑄[らんちゅう])、望天眼(眼が上を向いている)、水泡眼(眼の下に風船のような水泡がある)、絨球(鼻孔がリボンのようになっている)などが適しているでしょう。赤い金魚も愛らしく好ましいものですが、中でも藍魚などは水墨画のような色合いで、味わい深い姿の金魚です。ほかに珍珠鱗(鱗が玉のようにふくらむ)、翻鰓(エラがめくれる)などがありますが病魚の感は否めません。
 『硃砂魚譜』による金魚鑑賞法は「硃砂魚を鑑賞するには、朝方がよい。暘谷[ようこく](東方の日出づるところ)より朝日がのぼり、あやなす雲のなお消えやらぬころ、清き泉の緑濃き藻のなかに、ゆらゆらと浮かんでいるのは、あたかも武陵(桃源郷)の落花が、目のあたりにひらひらと散りかかってくるようである。また、月夜がよい。真澄[ますみ]の月は空にあり、影はさかしまに波くだるおりしも、魚は驚きひれ振り、目も覚むる心地がする。また、微風[そよかぜ]がよい。そよそよと吹きはらえば、񐠎々[そうそう](玉を叩くような音)と響きをたて、游魚も浮かびいでて聴きとれるという趣[おもむき]は、この上もなく好ましい。また、小雨がよい。あるか無きかに降りこめて、さざ波の紋をちらし、飛びつつ跳ねつつ、争うて天漿(うまい雨水)を吸う。ながめる人々はしばし足をとどめて、立ち去ろうともしない。」とあります。これは庭池の金魚の様子を言ったものですが、室で飼う場合の缸は磁州窯の白色のものを第一とし、また古銅器も青絲[あおさび]につつまれて、金魚を飼うと映りがよい、としています。

「書屋の前に曲檻[きょくかん]を列ねて花を栽ゑ、方池を鑿[うが]ちて月を浸し、活水を引いて魚を養ひ、小窓の下香を焚いて易を讀み、淨机を設けて琴を鼓[こ]し、疎簾[それん]を捲いて鶴を看る」

書斎の前の庭に曲がった柵をこしらえ、花を植え、四角な池を掘ってそこに月影を映し、清水を引いて金魚を飼い、小さな窓のもと、香を焚いて『易経』を読み、清らかな机の上で琴を弾じ、まばらな簾[すだれ]を捲いて庭に舞う鶴を眺める。

 この魚を養うというのも、錦鯉[にしきごい]などではなく金魚が文人の生活に最も適ったものでしょう。鶴(丹頂鶴)は天然記念物なのでみだりに飼うことはできませんが、文人隠棲の風雅な友として愛玩されてきたものです。明代萬暦の屠隆[とりゅう]の著わした『考槃餘事[こうばんよじ]』には「鶴品」として鶴の見立て、飼い方などが記されています。「鶴を見立てるにはただその標格の奇古(風変わりで古めかしい)と鳴き声の清亮[せいりょう](清く明らか)なものを取る。頸[くび]は細くて長いものを好み、足は痩せて節があるのを好み、身は人の丈ほどのものを好み、背は直削なものを好む。身が横になったのは鸛[こうのとり]や鶩[あひる]に類し、頸が太いのは鵞鳥[がちょう]や雁[がん]に類する。鼻が高くて嘴[くちばし]が短いのは眠ることが少なく、脚が高くて節が疎なのは力が多く、項[うなじ]が朱紅色のものはよく鳴く。露眼赤睛[ろがんせきせい](大きく開いた眼、赤い瞳)は遠きを視、翎[はね]をはばたいて膺[むね]におしつけるのは体が軽く、亀のような背をし、鼈[スッポン]のような腹をしたものはよく産み、鳳[おおとり]のような翼をし、雀のような尾をしたものはよく飛び、前が軽くて後の重たいものはよく舞い、髀[もも]が大きく、指がやさしいものはよく歩む。」と、言っております。また飼い方として「これを蓄うているものは、茅庵に住み、池沼と隣をなし、魚と穀物や鰍[どじょう]や鱔[うなぎ]をやらなければならない。煮た物を腹一杯食べさせてはならない。精采[いろつや]をとぼしくし、仙骨を塵倦[けがれ]させる。」とあります。そして鶴を舞わせるために、「鶴に舞を教えようと思えば、それを饑えさせておいてから食物を野に置き、童子に掌[てのひら]を拊[う]たせてこおどりをさせ、首を揺すり足をあげてこれに誘いをかけると、彼はそこで羽ばたきをして鳴き、逸足[はやあし]で舞うのである。」とあります。要するに餌付けをして芸を仕込むということです。
 琴を前にして鶴が舞う画が多くありますが、これはあまり現実的ではないようです。宋代の趙希鵠[ちょうきこく]の著『洞天清禄集』には「琴を弾いて鶴を舞わせること」という項があって「琴を弾いて鶴を舞わせようと思っても、鶴は必ずしも舞うとはかぎらない。そんなとき、見物しているものががやがやと騒ぎたて、弾いているものは心がそわそわとして落ち着かない。これでは俳優を見物しているのと何も異なったことはなく、君子のすることではない。」とあります。琴に合わせて鶴が舞うなどとても幻想的な風景ですが、それは俗だということです。
鶴の愛好がみられるのは唐の詩人白居易からですが、やはり西湖に隠棲した林和靖が最も有名です。清朝第一の書家であり篆刻家であった鄧石如[とうせきじょ]も鶴を愛してやまなかった文人のひとりでした。

「趣を得るは多きに在らず、盆地拳石の間、煙霞具足す。景を會するは遠きに在らず、蓬窓竹屋の下、風月自ら賒(はるか)なり」

興趣を得るにはものが多くあっても仕方がない。小さな庭に石を少し並べただけでも、山紫水明の風景を観ることができる。景色を眺めるのは何も遠望することはない。蓬草の覆う窓、竹をもって作ったあばら屋でも、おのずから風月の情趣を備えている。

文人世界とは小宇宙です。それは大宇宙に比してなお遠大で深遠な世界です。一幅の画、一冊の書、一篇の詩、一顆[か]の印に凝縮された世界は掌中におさめられた自然であり宇宙と言ってよいでしょう。文人が育み作り出した盆魚、盆栽、盆石などもそこに大自然の幽趣を観ているわけです。浄らかな机上に広がる文雅な世界、明るい窓から見る移り変わる四季の景色など、書斎にいながらにして宇宙を我がものにする。たとえ小さな世界であっても無限に広がり窮まることの無い世界です。決して多くを必要とするものではありません。一篇の詩があるなら、それが世界へ至る入口となるでしょう。芸術創作というのも、広大無辺の宇宙を掌中におさめる作業なのかもしれません。「壷中天」という言葉がありますが、まさにせまい場所や小さなものの中にもう一つ現実世界があるということです。文人が住む蓬窓竹屋こそ「壷中天」であるべきでしょう。そこは時間さえも一瞬の間、永遠となってしまう場所です。





張謙徳(一五五七〜一六四三)江蘇省崑山の人。字は叔益、後に名を丑と改め、字を青浦として、米庵と号した。少壮のころから古玩の鑑識に秀で、『論墨』『茶経』『瓶花譜』『野服考』など文人清玩に関する著述が多い。また書画に関するもので『清河書画舫』『真蹟日録』の二大著述がある。『硃砂魚譜』は著者が二十歳のときの作。金魚に関する専門の著述で単行で行われるものはこれ以外に知られていない。

屠隆(一五四一〜一六〇五)浙江省鄞[ぎん]県の人。字は長卿、また緯真、号は赤水、由挙山人、一衲道人、蓬莱仙客。晩年は鴻苞居士と号した。官にあった経歴もあるが、文を売って生活し、宴遊を好み、風流才子をもって聞こえた。文集に『由挙集』二十三巻、『白楡集』二十巻、『栖真館集』三十巻がある。また戯曲もよくし三曲がある。『考槃餘事』とは、『詩経』の「槃[たのしみ]を考[な]して澗[たにま]にあり、碩人これくつろげり」に拠る。

趙希鵠(生没年不明)南宋人。

白居易(七七二〜八四六) 河南省鄭州の人。字は楽天、号は香山居士。貞元十六年(八〇〇)、二九歳の時に進士に及第。官吏の変遷を重ね、みずから望んで風光明美な杭州・蘇州刺史についた。晩年は洛陽に閑居した。「長恨歌」「琵琶行」などの詩で有名。著書に『白氏文集』がある。『白氏文集』は平安貴族の必読の書でもあった。

鄧石如(一七四三〜一八〇五)安徽省懷寧の人。名は鄧琰、字は石如、また頑伯。号は完白山人。篆刻や書写をしながら生活し、各地の名山名水を訪ね歩いた。包世臣[ほうせいしん]著『芸舟雙楫 』によって清朝第一の書家とされた。近代篆刻は鄧石如の流に基づく。







高簡(1634〜1708)村居図



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



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