―賞琴一杯清茗― 第六回
 
『醉古堂劍掃』と文人 其の五    伏見 无家


全日本煎茶道連盟『煎茶道』二〇〇四年十一月号第五六七号掲載

「優人古人に代りて語り、古人に代りて咲[わら]ひ、古人に代りて憤[いきどほ]る、今の文人の文を爲[つく]るは之[これ]に似たり。優人臺[だい]に登れば古人に肖[に]たり、臺を下れば還[ま]た優人なり。今の文人文を爲るは又之に似たり、假[も]し古人をして今の文人を見しめば、當[まさ]に如何に憤り、如何に咲ひ、如何に語るべき」

 俳優は古人を演じて台詞[せりふ]を語り、古人を演じて笑い、古人を演じて怒る。今の文人が文を書くというのもこれにそっくりである。俳優が舞台にのぼれば古人にそっくりである。そして舞台を降りればまた俳優に戻っていく。今の文人が文を書くというのもこれと同じである。もしも古人が今の文人を見たならば、いかに怒り、いかに笑い、いかに批判するだろうか。

 古今を通じ偽物というのは常に存在するものです。絵画、器物にしろ骨董にしろ本物の顔をして横行しますが、たとえ贋作であっても精巧にできたものであれば作人を褒めこそすれ、それを捨てること無く楽しむこともまた一興でしょう。しかし偽物が人にあっては楽しむわけには参りません。似非[えせ]や偽善は罪深いものです。それはいなくて宜しい。文人を気取ることについては何の罪もないことですが、それが知識を衒[てら]って権威的であったり、名誉欲や利に走り、世間をぺてんにかけたり惑わしたりするようであっては許しがたいことです。
 そもそも「文人」とは何でしょうか。それを定義づけることは難しく、諸説紛々と喧しく論議されてきています。最初に「文人」という言葉が文献にあらわれるのは『詩経』です。「大雅」江漢篇に「文人に告ぐ」とあり、その注釈として「文人は文徳の人なり」(「毛氏伝」漢代)とあります。すなわち「文人」とは「文徳の人」と言う意味で、学問徳行のすぐれた人物ということです。古い時代は「文人」は道義的な面が強調されていたようです。後代になると、学問徳行はさることながら、そこに風流を解す人というようになってきます。士大夫(官僚)や支配階級から文人は生まれてきますが、衣食足りて風流という芸術を為すのですからある程度の資産は必要だったでしょう。学問や知識は特権階級の専有物だった時代です。時代が下がるにつれ、民間の中から文人はあらわれ、詩書画に堪能な芸術家を文人と呼ぶようになって来ます。日々の糧としてそれらの作品を彼等は売って生計を立てていましたが、決して職業としてではなく、文人としての矜持を失わず創造的な作品を制作していました。書画二つの技藝に優れていれば二絶、詩が加わって三絶、篆刻が入って四絶、琴へ至れば五絶と呼ばれます。古来五絶の文人は希です。文人たる最低条件を言うなら、第一条件として学問の人であること、第二条件として風流の人であるということになりましょうか。富岡鐵齋は最後まで自分は画家ではなく儒者だと言っていたのも、第一の学問の人である「文人」に徹していたからだと思います。それでも学問だけでは文人たり得ません。それは学者、学人と呼ばれる人々です。そこに鐵齋のように芸術的な心性がなければ「文人」とは呼ぶことはできません。近頃、小説家や文筆家などを文人と称すことがあるようですが、どうしても違和感は否めません。余技としての画が油絵であったり、詩といっても漢詩ではなく短歌や俳句であったりするのは文人とは別なものです。やはり伝統的に学問、教養は漢学にあって、芸術面では詩書画琴でなければならないと思います。特に琴は文人にとって必須の具です。中国歴代の文人たちはすべて、琴を弾いたり聴いたり、何らかの関わりを持っていました。琴を弾くことで文人となる、と言ってよいほど多くの記載が残されています。楽器を奏でることは現在では趣味として楽しんだり、あるいは演奏家として舞台に立って聴衆に向かって音楽を供すことですが、古代東アジアのそれは儒教の礼学思想に法った最高の美の現われとしてありました。知識人、教養人にとって琴を演奏することは、学問(儒学)を大成するための大切な営為だったのです。
 日本の南画、文人画の区別もそれに拠ってよいかと思います。詩をあまり詠まなかった池大雅や与謝蕪村、谷文晁などは南画家の部類に入るでしょう。彼等は琴を嗜みませんでした。浦上玉堂、田能村竹田、頼山陽、亀田鵬齋などは詩や書に堪能で琴もまた嗜んでいました。それ故に彼等が描く画は文人画と称してよいかと思います。山陽や鵬齋は決して画は上手ではありませんでしたが、その詩と書と共に画を観るなら専門画士には無い深い精神性がそこにあります。玉堂の画は現在では国宝になるほどですが、当時の玉堂は画士と呼ばれることを嫌い、自らを琴士と名乗っていました。
 そしてもう一つ、反骨精神というのも必要なことです。これは中国や日本の歴代文人たちに最も共通しているものです。文人は世俗を超越することを心がけ、山林に棲み、自然に身を置くことを望みます。歴代文人たちに共通している何かを探るなら、自ずと文人たる条件は明らかになるでしょう。ただ単に文人趣味として古物や文房四宝を弄するだけではその雰囲気を味わうことはできますが、文人を生きることへは至り得ないものです。それこそ文人を演じる俳優のように、古人に笑われてしまいます。文人の代表的典型的人物を二人挙げるなら、竹林の七賢人、嵆康と田園詩人の陶淵明です。反権威主義で、世俗を超越し、山林を志向し、もちろん学究的な詩人でもあり、徹底した風流の人でありました。後代の文人たちはすべてこの二人を範として文人たることを希求したと言ってもよいでしょう。嵆康、淵明の思想、生き方を学ぶことはそのまま「文人」の何たるかを学ぶことになります。

「婦に問ひて釀を索むれば、甕に新芻[しんすう]あり、童を呼びて茶を煮、門に好客に臨む」

 妻に我が家に酒はあるか、と聞けば、甕に新酒があると答える。童僕を呼んで茶の用意をさせ、親しき客を門に迎える。

 まことに豊かな文人的暮らしがほの見える句です。豊かと言っても、新酒と茶以外はあまり豊かではないかもしれませんが、それでも客をもてなすだけの糧はあります。陶淵明は酒に醸す米しか作らず、食べる米が無いといって妻は嘆いたと言います。そこまでしなくとも、我が家にわずかな新酒と茶があれば客をもてなすに十分です。そして好き友と語りあう清談と。朝から落ち着きが無く客の到来を待ちわびている主人の姿が見えるようです。山林での生活で最も心楽しいことは友人の来訪でしょう。わざわざ遠方より我が家に訪ねてきた友に茶を献じ、酒を酌み交わして談笑することほど楽しいものはありません。そして何より客へのご馳走は、緑したたる山林の風景です。

「良晨美景、春暖秋涼、杖を負ひ履を躡[ふ]み、逍遥自ずから樂しみ、池に臨み魚を觀、林に披[ひら]き鳥を聽く。濁酒一杯、彈琴一曲、數刻の樂を求め、庶幾[こひねがはく]は居常[きょじゃう]を以て終りを待たん。」

 朝の風景で美しいのは、暖かき春、涼しき秋の頃である。この季節に杖をつき、履[くつ]を踏みつつ、心が赴くままに遊歩して自ら楽しみ、池の汀[みぎわ]をそぞろ歩んでは、魚が躍るのを眺め、林に分け入っては小鳥の声を聴き、濁酒一杯を傾け、琴を一曲弾じて数刻の間の楽しみを得る。願わくば、平生日常においてこの楽しみを尽くして、以て命が終わるまで安楽に暮らせることを。

 平穏無事な日々を暮らすことは誰もが望むことです。たとえ今の自分が俗世間の煩わしさや柵[しがら]みに雁字搦[がんじがら]めになって、社会の競争に明け暮れていたとしても、いずれ来る良き日々のために現在の苦労は厭わないのではないでしょうか。その良き日々とはおそらくこのような情景を言うのだと思います。「濁酒一杯、彈琴一曲」というのは竹林七賢人の筆頭、嵆康の言葉です。「濁酒一杯彈琴一曲志意畢」一杯の濁酒と一曲の琴を弾く、これで私の志は終りだ、という意味です。まことに潔[いさぎよ]く端的な生き方と言えましょう。嵆康という人は、友人のために罪に連座して処刑されました。刑場にのぞんで嵆康は表情も変えずに琴を索[もと]め、衆人が見守る中「廣陵散」という曲を奏でました。曲が終わると、「かつてこの曲を学びたいと頼む者がいだが、私は渋って教えてやらなかった。廣陵散はこれでおしまいだ。」と言って死に赴いたのです。この嵆康の静かな激情は、乱れた世に対しての憤りでした。時に嵆康四十歳。「濁酒一杯、彈琴一曲」にこめられた意味は、人生はその程度のものだと言うより、それすらも得ることが難しいということだと思います。安楽に一生を暮らすこと。人生にこれ以上の願いは無いかもしれません。





富岡鐵齋(1836〜1924)京都の人。名は猷輔。字を百錬、号は裕軒、鉄人、鉄史、鉄崖。耳が不自由であったが、神社の神官を勤めながら全国を行脚する。「万巻の書を読み、千里の道を行く」ことを全うした最後の文人画家である。

池大雅(1723〜1776)京都の人。幼名を又次郎、字は公敏、貨成。号は三岳道者、九霞山蕉、霞樵、大雅堂。京都三条樋口に書画を描いた扇子屋を開業。代表作に「十便図」「楼閣山水図屏風」などがある。書にも優れた日本南画の大成者である。

与謝蕪村(1716〜1783)大阪の人。姓は谷口。名は長庚、のちに寅。字は信、章、春星、夜半亭と称し、蕪村のほか雅仙堂、謝寅等々を号した。俳聖松尾芭蕉の影響を受け、多くの名句を残す。池大雅との合作「十宜図」などがある。

谷文晁(1763〜1840)江戸の人。名は正安、後に通称文五郎。字は子方、号は文朝。名、字、号を統一して文晁。一如居士、無二安主、画学斎は別称である。文房には写山楼と名付けた。

浦上玉堂(1745〜1820)岡山の人。幼名を磯之進、名は弼、字は君輔、通称を兵右衛門。玉堂の号は明代の琴(銘「靈和」)を入手し、そこに彫られた印「玉堂清韵」から取った。玉堂は生涯この琴を身より離さなかった。著書に『玉堂琴譜』『玉堂琴士集』などがある。

田能村竹田(1777〜1835)大分の人。名は孝憲、字は君彝[くんい]。竹田の号は生まれ故郷竹田村から取った。著書に『竹田荘茶説』『山中人饒舌』『填詞圖譜』などがある。文人たちとの交遊はたいへん広かった。

頼山陽(1780〜1832)大阪の人。名は久太郎のち襄。字は子成。号は山陽。詩書画に優れ、賀茂川のほとりに「水西荘」と号す家を建て,庭中の草堂「山紫水明処」にて文人生活に入った。著書に『日本外史』『日本楽府』『山陽詩鈔』『山陽遺稿』などがある。

亀田鵬齋(1752〜1779)江戸の人。名を翼、後に長興または興、字は穉龍、通称は文左衛門、号は鵬齋。別に善身堂の堂号もある。駿河台に家塾を開いた。詩書画に優れ、特に書は独特な風格がある。著書に『大學私衡』『東西周考』『伊呂波釋文』『鵬齋文抄』『善身堂詩抄』などがある。







三希堂人物畫譜大觀



笹川臨風校訂注訳『醉古堂劔掃』画像 国会図書館近代デジタルライブラリー



<<前回  次回>>

鎌倉琴社 目次