永田聽泉口述原稿について

琴道、あるいは泯(ほろ)びゆく琴

伏見 无家




 上野学園日本音楽資料室蔵の永田聽泉口述放送原稿と講演原稿は、日本琴学東皐心越道統の終焉の言として、また、日本に於ける琴楽の復興を考える上で、重要な意味を持った資料と思われる。
 永田聽泉。名を孝成、字思純、通称淳治郎、聽泉は号である。明治五年生れ昭和十二年没。漢詩、漢学の素養深く、生地である大阪府豊能群南豊島村の初代村長の経歴を持つ。琴を妻鹿友樵、小畑松坡に学んだ。聽泉には琴の弟子が数人いたが、心越琴統の最後の琴人といってよいだろう。
 日本の琴楽は、江戸延宝年間明末の亡命僧東皐心越によって齎らされ、再興された。心越以前、日本へ最初に琴が伝来したのは奈良時代まで遡る。正倉院には〔銀平文琴〕が伝わり、法隆寺旧蔵の琴は「開元十二年」(七二四)の銘が琴裏に書かれ、かなり弾奏したと見られる形跡がある。しかし、当時の日本に於いて奏された琴曲については全くわかっていない。また最古の琴譜『碣石調幽蘭』が日本にのみ残されている。平安時代に至ると『宇津保物語』『源氏物語』『枕草子』などには当然のように琴の記述があり、当時の普及のほどが知られる。その後、平安末期に於いて琴は絶音する。鎌倉時代応永年間に至って禅僧が弾じた記録などがあるが、本格的な琴楽の復興は心越の渡来を待たなければならなかった。心越の門下には、人見竹洞、杉浦琴川などがおり、江戸時代中後期に於いて琴楽の大流行をみた。岸辺成雄教授によると、江戸時代の琴人は六五〇人あまりいるということである。そのほとんどが心越の琴統に属す。心越琴楽の道統は昭和初期まで連綿と続き、永田聽泉はその約八代目にあたる。
 聽泉手稿の琴学資料は六種ほどあるが、特に聽泉の琴学を知る上で重要と思われるのが、昭和二年五月二十九日午后零時五分大阪中央放送局JOBKラジオ放送用口述原稿と、昭和十年十一月二日後后六時大阪市新町通四丁目仏教会館に於ける講演原稿の二種である。何故日本の琴楽が絶音に至ってしまったかを聽泉はそこで端的に語っている。

『何ト云ッテモ琴ハ君子人ノ楽シム可キ音デ各自ノ徳性ヲ涵養スル様ノモノナレバ決シテ多クノ人ガ聞キテ悦ビ、又、人ニ聞シテ悦ブトイフモノト違フ事ナレバ遂ニ遂ニ絶音ニ帰シタ事ハ止ムヲ得ヌ』

 聽泉は平安末期の時代に於いて琴楽が途絶えてしまったことを言っているのだが、しかしこの言は聽泉の生きた昭和初期にもそのままあてはまる。日本の琴楽は再びこの時代に絶音した。
 聽泉はその講演の前言ですでに琴の演奏というものを否定している。昭和初期の日本にはかなり多くの西洋音楽が入って来ており、近代的な音楽理念も国民の間に相当浸透していたと思われる。その人々に向かって、琴は聴衆があって演奏するものではないというのは、音楽としての琴の否定を説くものに他ならないだろう。しかしここで聽泉が先ず言わんとしたことは、琴には音楽的価値以上のもがあり、それは『徳性ヲ涵養スル』精神修養の具であるということだった。自己の徳を高めるために琴を弾奏するのである。楽としてより道としての価値が琴にはあるとするのである。
 故三谷陽子氏は、永田聽泉琴楽資料を詳細に調査し、その結果を『東洋音楽研究』第四九号に報告している。その中で三谷氏は聽泉が琴楽を如何に考えていたかを簡潔に語っている。「聽泉は『琴楽』という言葉を用いず『琴学』と書いており、琴の音楽を学問つまり琴道として認識していたのであろうと推察される。従って、聽泉の草稿では、中国古代から伝承されてきた琴の精神的な面が強調されている。厳密にいえば、琴を人前で弾じたり、放送するなどということは、琴学本来の在り方にもとるのであるが、大正以後衰微した琴学の再興普及を目指す手段として、ラジオを通じて琴を聴かせることを敢えて行ったらしい」と。
 そもそも琴はその発生時より、〔禮〕と結び付けられ奏されたと考えられる。孔子は「詩に興り、禮に立ち、樂に成る」(『論語』泰伯第八)と語っており、学者の進むべき道として、詩を学び、禮を学び、その後に音楽を学んで初めて徳を成就することができる、と言う。音楽は孔子にとって最重要課題であり、孔子の作と言われる『禮記』中の〔樂記第十九〕は、音楽についての体系的な論文であった。「君子曰く、禮樂は斯須(ししゅ)も身を去る べからず。樂(音楽)を致して以て心を治むれば、則ち易直子諒(いちょくしりょう)の心、油然(ゆうぜん)として生ず。易直子諒の心生ずれば則ち樂しむ。樂しめば則ち安し。安ければ則ち久し。久しければ則ち天なり。天なれば則ち神なり。天なれば則ち言はずして信じ、神なれば則ち怒らずして威る。樂を致して以て心を治むる者なり。…」と、音楽が個人の人格の完成(まことの正しき心)に効用があることを説く。〔樂記〕は琴学の原典でもあった。
 孔子のその風貌は、堅苦しい求道者というよりも、流浪する音楽家といってよい面がある。たとえば、衞から故郷の魯に帰る途中孔子は、沢の中に衆草と混じり香り高い蘭(藤袴)が毅然として生えているのを見て、琴を取り『幽蘭』の曲を弾じた。
 ある日孔子は自室で琴を弾じていた。外から弟子の閔子が聴いて言うには、日頃子の弾ずる楽の音は実によく響き、和やかで、清らかで、至道に没入するところがある。ところが今日は幽沈な音楽にきこえる。幽音とはその心に利慾がある時に発し、沈声とは、その精神が腐って貪欲のために生まれる音である。閔子はそのことを孔子に告げた。孔子が答えるに、その通り。私は先ほど猫が鼠を捕ろうとしているのを見た。猫に鼠を捕らせようと思い、音楽で猫を応援してみたのだ、と(孔叢子記義篇)。
 孔子は母の喪が開けた五日目に始めて琴を弾じてみたが、楽の音にはならなかった。十日目にしてやっと笙の歌らしいものができた、と(『禮記』檀弓上篇)。
 また、孔子が齊に滞在していた時、舜の作った韶の音楽を聴き、三カ月間ほとんど肉の味を忘れるという有り様であった。そして賛歎して言うには「舜の音楽は、善を尽くし美を尽くし、これまでに立派であるとは思いもよらなかった」と。(『論語』述而第七)
 孔子は琴を衞の音楽長官襄子より学んだ。孔子が弾じた『文王操』は現存曲である。また孔子は琴曲も作っており、数曲が伝わる。『亀山操』『將帰操』『獲麟操』『猗蘭操』(『碣石調幽蘭』の別名)などが現存する。孔子のこのような音楽に対する真摯な姿勢が、後世、儒教思想に結びついた礼楽的琴学理念の発展の基礎となった。また、儒教以外にも、道教あるいは仏教などが琴学に深く関わりを持つが、それについてはいずれ稿を改めたい。莊子『天運篇』、けい康『琴賦』は琴学の重要な論拠となり得るだろう。
 孔子以後、早い時期の琴学について記された文を挙げる。
 「琴は禁也、邪淫を禁止し、以て人心を正す也」(後漢班固著『白虎通』)
 「琴は楽の統なり。君子の常に御する所のもの、琴最も親密なり、身より離さず」「窮閻陋巷、深山幽谷に在ると雖も猶琴を失れず」(応劭『風俗通』〔一七〇〜二〇〇年頃〕
   「伏羲、身を修め性を理め其れ天真に返るために琴を製す」(蔡ゆう〔一二二〜一九三年〕『琴操』)
 後代に至るほど、琴の徳を讃える文は多くなる。それら古典籍にみられる筆札により琴学理念は自らを発展させていく結果となるわけだが、いずれにせよ琴はその優美な形態と美しき音色と相俟って、礼楽の器として聖なる楽器と見なされ、君子が身を修め心を正しくするための音楽という格別の意味を持ち、読書人の間で愛され続けたのである。
 このような琴学理念を以て琴を弾ずなら、聴衆に聴かせることの意味が自ずから異なってくる。琴道の本質は、音楽を通じて『各自ノ徳性ヲ涵養』することにある。さらに言うなら、『禮記』〔樂記第十九〕「樂なるものは、施すなり。禮なるものは、報いるなり。
樂は其の自りて生ずる所を樂しみ、禮は其の自りて始まる所に反る。樂は徳を章らかにし、禮は情に報い始めに反るなり。」ということである。すなわち音楽は徳を施すことにあり、その成立の由来、すなわち、聖王の徳の象徴として作られたことを楽しみ、それを章(あき)らかにするというのである。
 聽泉は別の箇所でも、

『此琴ヲ会衆ノ前ニ於テ游藝ノ御浚ヒ講的ニ弾奏ヲシテ御聞カセヲスルナドト云フコトハ全ク間違ッタコトデアル夫レハ琴ノ本来ノ主旨ニ戻ッテ居ルト云フコトハ勿論デアル』 『要スルニ琴ノ具ハ徒ラニ声曲ヲ弄シ人ニ聴カセテ媚ヲ取ル一般的声曲ノモノトハ全然撰ヲ異ニスルモノ』

 と言っており、また、削除文ではあるが、

『漫リニ曲折ヲ工巧ニシ人ノ心ヲ浮揺セシムル調子ノモノデハナイ』

 とも言っている。さらに、戴安道の故事〔朝廷から琴演奏の所望が安道にあり、招かれたが、琴を破ってそれを謝絶した〕をあげ、琴人は伶人にあらざることを断言する。演奏家が目指す技巧の完成と、人の心に訴える演奏とは琴道の逸脱に他ならなかった。
 弾琴の心得などを記した「琴有七要」(聽泉旧蔵『誠一堂琴譜』〔一七〇五年頃〕に載す)には、
「一に曰く、学琴は風韻瀟灑として塵俗の気無からんと欲し、聖人の雅楽と相い稱うを佳とす。…四に曰く、曲調は雅正にして淫哇を挾まず。五に曰く、俗奏を為さず、以て古人の高風をきずつければなり」とある。「俗奏」とは、聽泉の言う通り『徒ラニ声曲ヲ弄シ』『媚ヲ取ル』演奏、『人ノ心ヲ浮揺セシムル調子ノ』演奏の謂であり、それは古人の高風をきずつけることに他ならない。  聽泉はまた琴の弾奏についてこう述べている。

『…随ッテ總テノ調子ガ低ク之レヲ一様ノ者ガ聴クト一向ニ面白味ガナク何ヤラ倦ミ易イ様ナ心地ガスル 抑モ夫レ其処ガ琴ノ静カニシテ性ヲ養ナヒ心ノ落付ヲ得サセル緊要ナル妙所デアル』

 と。
 琴の音はあまりに微であり低すぎる。騒音の如く溢れる豊饒なる現代の音楽の中から、琴のような前近代的音を聴き分けるのは困難と言わざるを得ない。近年、中国の琴楽はその絃を絹から殆ど鉄(スチール)絃に替えた。そのために音響が大となり、大舞台の演奏にも耐え得るようになった。しかし太古の遺音とは全く別の音になってしまった。琴道に於いては、多くの聴衆に受け入れられ沢山の拍手を浴びることが成功ではない。琴道は、琴を通じて達せられる君子としての人格の完成がその目的である。
 聽泉は言う。

『若シ夫レ人里離レタ深山ノ巌洞ヤ石室、世塵ノ至ラヌ雲山泉石ノ勝境ヤ松ヤ竹ヤ茂リタル閑静ノ庭院(オザシキ)、明窓浄几ノ間ニ於イテカ、又ハ夜深ク人定マリ萬籟寂タル時分ニ安座、香ヲ焚キ心ヲ静カニシ欲ヲ沈メ、独リ琴ニ向ヒ時々千古ノ妙曲ヲ弾奏スルトキハ、其レ実ニ不思議ナ程雄大ニシテ天地ノ間ニ満チ充ツルカノ慨ガアル』

 琴を奏する舞台はこれ以外にない。この音楽的体験は聴衆を前にしては決して得られない。その姿勢は、大衆に受け入られるものこそ価値ありとする近代的価値観に背くものである。
琴道は前近代的価値観の上に成立する。琴は藝術的音楽美学と善としての道徳的礼楽が未分化のまま二千年以上も持続する世界に稀に見る楽器である。琴から純粋に音楽美学だけを切り離してはならない。そうすれば一挙に俗奏化が始まってしまうだろう。道徳的価値を琴に付帯することにより、自由が失われ、琴楽の純粋音楽としての発展を阻害することにもなってしまったが、却ってそのために世俗に影響されることなく、娯楽性を抑えた禁欲的な独自の音楽的世界を創出した。だからといい堅苦しい道徳的価値ばかりを強いてはならないだろう。『禮記』樂記篇に「夫れ樂とは、樂しむなり。人情の免るる能はざる所なり。樂しめば必ず聲音に發し、動靜に形(あらは)るるは、人の道なり。…」とある。琴は美しい音を奏でる楽器である。琴の存在価値はまさに、道徳的善と藝術的美の一致にあるといえるのだから。
 では、琴を聴く者は誰か。それは君子である。『琴ハ君子ノ楽ム可キ音』であり、琴を聴く者は奏者自身と知音、そして庭前の鶴と中天にかかる月以外にない。しかもその知音は「博學廣賢の士と雖もその心雅ならざれば、即ちこれを聞くを喜ばず」(亀田鵬齋『澤清泉氏所藏古琴記』)また、「琴ハ有道ノ器也、有道ノ人ニアラザレバ傳ハラズ、其製古樸、其音ハ中和、其趣ハ雅淡、其志ハ高遠、其楽ミ洋々トシテ、耳ニ盈ル事、誠ニ其ノ人ニシテ始テ得ルナリ」(杜澂『琴傳説』)といった人物でなければならない。
 琴は諸楽の統である。従ってその奏者も統であらんことを欲す。琴の奏者は雅の君主たるべきである。雅の君主とは藝術的な創造性を持し、自娯を善しとする高潔なる人士の謂である。しかしそれは決して権力志向的君主であってはならない。そうなればたちまち俗に堕す。江戸時代、日本琴学の道統に於いて家元が存在しなかった理由も、それゆえと思う。世俗的な名声を得ようと欲した琴人は一人もいなかった。琴は極めて貴族的な音楽であるが、それはいわば精神の貴族主義でなければならない。

『夫レ琴ハ東洋諸楽器中最上最古ノモデアル』
『衆楽ノ琴ニ於ケル関係ハ宛モ臣ノ君ニ於ケルガ如キモノ』

 と聽泉は言っている。
 雅の君主たらんと欲するなら、独り琴を撫し自己の徳性を養うべきである。琴は決してある一部の選ばれた者だけの占有物とはなり得ない。たとえ伝統的に士大夫、あるいは武士階級に属していたと言っても、喧騒を遠く離れ、この微なる琴韻に静かに耳を傾けることが出来るなら(現代では殆どそれは不可能に近いが)、必ずや琴を聴く人となれるだろう。先ず静寂に耳を澄ますことである。琴の音楽的世界は静寂にこそ在るのだから。

 日本の琴学の道統が昭和初期に於いて絶音したのは、音楽としての琴の藝術的価値より礼楽としての思想的道徳的価値に重きを置いたせいであると思われる。この儒学的精神を伴った琴音は、近代的音楽観の影響を受けた人々にとって、何と重苦しく難しい音楽であると聴こえたことだろう。琴の世界に入るためには、感覚的な音からよりも、先ず漢学が必修であり、そのことが何よりも琴を人々から遠ざけた理由と推察される。
 日本の琴楽譜は、東皐心越が齎らした琴曲を集成した『東皐琴譜』が流布していたが、その琴譜の中のすべての曲には歌詞が付されており、弾奏の指法にはさほど複雑な技法は見られない。すなわち、詞を専ら主とし、琴は従として弾奏されたと考えられる。その歌詞は決して人心を浮揺させるようなものではなく、みな中国の古典詩であり、読解するには当時にあってもかなりの教養を要した。しかも中国語音で歌うのである。そのことについて聽泉は言っている。

『其歌詞乃チ琴ノ手ヲ付ケタル原文ガ経籍乃チ四書ヤ五経ナドノ経籍中ノ文句其他古代ノ詩及賦辭ナド云フ片苦シク六カシイ文章(もの)斗デ所謂珍文漢文デアッテ而カモ其上之レヲ唐音デ歌フノデ有ルカラ一寸聞テハ何ヲ言ッテルヤウ一向譯ノ分ラヌモノデアル』

 と。
 ここで注目したいのは『其歌詞乃チ琴ノ手ヲ付ケタル原文』という箇所である。聽泉は明らかに琴は伴奏であると言っている。琴演奏は『経籍乃チ四書ヤ五経ナドノ経籍中ノ文句其他』を歌うためのものであり、琴の音楽性を一段下に置いていたと推察できるのである。唐音の歌が主となり、琴弾奏が従となることによって、琴はますます近寄り難いものとなってしまった。それにしても、日本人が唐音でうたう琴楽は何と特殊な音楽形態であったろう。
 琴学者水原渭江教授は日本の琴韻の絶音についてこう述べる。「彈琴趣味が近世日本の儒堂から民間に波及していかなかったがために、漸次、彈法の傳承を絶ち、特に琴の記譜の教授法の傳承をもたなかったことは、史的研究以外の、新しい意味での琴學研究を全く不可能にしてしまった」と。漢学の素養もあって、音楽の才もあるといった人士を得ることは、今も昔も困難なことであった。まして微かな琴韻に耳を澄ますことができる者など皆無に近い。
 昭和初期日本の文化的状況は西洋の学、藝術がその大勢を占めていたと、先に言った。漢学や儒学などは最早過去の遺物と成り果てた時代である。琴の世界を絵画的に表現した幽邃な南画も、当時にあっては急速に衰退し、愛読者の多かった投稿漢詩欄も新聞紙上から消えつつあった。明治以来、西洋文化の流入は日本的、東洋的なるものの一掃を図ったのである。琴もまたその趨勢からは免れなかったろう。それは聽泉の言う通り『止ムヲ得ヌ』ことであったに違いない。いずれ琴が泯んでしまうことを聽泉は知っていた。この『止ムヲ得ヌ』という言葉から、琴が通俗化し、本来の琴道からずれてしまうなら絶音となりても致し方がない、という聽泉の諦念が聞こえてくるようである。そこに聽泉のジレンマがあったのではないだろうか。目の前で日本の琴楽が日々衰えつつある。それを黙って見過ごすわけには行かない。しかし聴衆のために琴を演奏することは、琴道に戻る行為である。それでもあえて聽泉は、琴楽再興普及のためラジオ放送を以てして、一般聴衆に向かって小畑松坡奏する琴韻(『帰去来辞』の曲。しかし聽泉の講話が長くなったため全曲ではない)を流した。聽泉はこの琴演奏について、括弧つきで

『(他ノ御勧スメモ有ッタノデ)』

 と断っている。この言葉に聽泉の衿持がうかがわれる。
 昭和二年当時、どれだけラジオの普及率があったかわからないが、琴史上、これほど多くの聴衆を得たことは初めてのことであったのではないか。聽泉は琴演奏の前に琴道についての講話を行う。恐らくその思想内容を理解できた者はごくわずかであったろう。
 その後聽泉は、講演に出かけたり琴会を開いたりして、積極的に琴楽の再興普及に努めた。にもかかわらず日本の琴韻は再び絶音したのである。

 琴楽の現代日本に於ける復興は可能だろうか。今さら前近代的音楽の琴楽を持ち来たることは、時代の逆行でもあり、現実からの離反とも言えよう(吉川良和『現存琴譜に見られる明代琴楽の俗化問題』多摩芸術学園紀要第4巻)。しかしその離反とは、現代の音楽に欠如したものを補うこと、あるいは現代の音楽が進むべき道の指針となり得るのではないだろうか。近年、琴楽以外の古楽の復元が盛んに行われているが、はたしてどれだけ往古に近づいた復元が成されているか疑問である。楽器は、絵や実物が存在するのでそこからの復元はある程度可能だが、曲についてはその奏法すら伝わっておらず、勢い現代的解釈による演奏がなされることになる。復元した古楽を、現代に生かすことも一つの方法だが、出来るだけ往古に近づけることが復元することの本来の意味なのではないか。琴楽に於いては楽器と共に楽譜が現存しており、容易に往古の楽を今にそのまま演奏することが出来る状態にある。
 琴曲には優れた曲が多い。殆どの曲には作者の名が付されている。あたかも固有の歴史的、民族的音楽風土から遊離したような、直接現代曲に結びつくかと思われるものがある。たとえば琴曲中最も古い〔神人暢〕(堯帝作曲)など、その導入部の泛音の旋律は実に新鮮である。また〔廣陵散〕は、世界的遺産というべく、完成された古代の大曲である。二千年以上も前の曲が、その音色も、記譜されているがため曲風も変わらずに伝わり、現代にそのままの形で聴くことができるのは、奇跡としか言いようがない。
 現代の琴演奏家の中には、この太古の遺音に電子音楽などの伴奏を付けたりして現代的解釈を行っているものもあるが、それこそが現実と離反した古楽の復興であり、正に「俗奏」的行為と言うべきである。琴楽が現代に意味を持ち得るのは、現代の音楽に迎合することでは決してないだろう。鉄絃にしても、それは現代工業の製品であり、梅花断の古色美しい唐琴に張ることに何の意味があるというのだろう。太古の遺音なる琴曲の、古曲は古曲のままで出来るだけ当時の曲風に近づけ、再奏するだけでも現代に於いて十分意味のあることと思う。そしてさらに重要なことは、二千年以上もかけて進化発展してきたその琴学理念についてである。
 琴のみがあらゆる俗楽、宮廷雅楽、宗教楽が持ち得なかった深遠な理念を有し、そのために他とは隔絶した独自の音楽的世界を形成したことは、強調してもし過ぎることはないだろう。この琴学理念とその音楽性は決して乖離するものではない。極論かもしれないが、琴曲はすべて琴学理念の音楽化といえる。琴曲の作曲者たちの脳裏には統なる楽という意識、他の音楽とは別格という自負があったはずである。彼らは超俗的で高踏なる音楽を求めた。巷間の中の桃源郷ともいうべき書斎、あるいは人里離れた深山幽谷の石上や竹林の奥で琴曲は作られたと思われる。民俗楽として、民衆の中から生まれ作られたのではなく、近代的作曲法というべく個人が、密室に於いて作曲したと想像できるのである。しかもその作曲の目的は聴衆のためではなく、琴のため、一人の知音のため、そして自娯のためにであった。
 琴楽の復興が、より広く一般に受けいられることにその目的があるのではないことを銘記すべきであろう。ひとりの知音さえいればこと足れりとするのは極論にすぎるが、琴楽の正確な知識の普及は是非ともなされなけばならないと思う。聽泉は言う、

『(此大妙音ヲ世間ノ多クノ人ガ等閑ニシテ居ルノハ返ス返スモ遺憾ノ極ミデアル)』

   と。現在目にすることの出来る琴楽についての纏まった著書は、三谷陽子『東アジア琴・筝の研究』全音楽譜出版刊と、岸辺成雄・稗田浩雄・坂本守正『訳注鳥海翁琴話』冬青社刊(絶版)の二冊だけである。

 現代の音楽に欠如しているものがあるとするならば、それは恐らく静寂であろう。音楽だけに限らず、日常に於いてさえ無音の静かさを探すのは難しい。西洋音楽の流入は、まさにこの静寂を音で埋め尽くそうとしたところにある。
 琴道に於いては、曲が終わった後の余韻こそを聴くべきである。「弦外之音」を聴き、「琴外趣」を味わうのである。琴を終わらせた時に生まれる静寂に琴の音楽世界が成立する。琴の音は微であり低である故に静寂そのものである。琴音を高く大きくすることはだから、琴が本来表現する音楽世界の破壊に繋がる。この余韻が充満する無音の世界に琴人たちは魅せられた。
 春秋時代、琴の名手伯牙は己が琴を最もよく解した知音なる鍾子期が死んだため、琴を破り絃を断った。伯牙は終身琴を弾ずることはなく、余韻をうちに秘め生を終えた。
 けい康は刑場に於けるその死の間際、誰にも伝授しなかった〔廣陵散〕を弾じた。けい康は己が死と共に琴を無音に帰せしめたである。
 「人と琴と共に亡びぬ」という有名な言葉を残すことになった王獻之も、その死とともに琴も無音となり果てた。
 また日本に於いては、江戸後期、琴の名手相良淑卿の死を悼み、その知音通寛上人が淑卿遺愛の琴をうづめたエイ琴碑の故事がある。無音なる琴の余韻を後世に残したのである。
 音の無い琴。琴道の窮極は、かの陶淵明が弾じた無絃琴にあるのではないだろうか。無絃の琴を撫し、無限なる琴韻を聴き深き琴趣に悟達すること。淵明によって琴学理念は飛躍的に展開した。絲桐(琴の別名)に手を染めなくとも、深遠なる琴趣を味わえるのである。淵明の無絃琴は、弾琴しないものにとっての朗報ともいうべきものであった。琴を奏するには、たとえ簡単な曲であってもかなり高度の技術が要求される。修練を積まなければ調絃でさえ覚束ない。やはり琴を奏するためには音楽の才がどうしても必要である。しかしその才が無い者にとっては淵明の無絃琴はよき弁解となり得た。無絃の琴が書斎にあることで風流才子と呼ばれたのである。そのことが後に琴楽弾奏の衰退を招くことにもなったが(高羅佩〔ファン・フーリック〕 『琴銘の研究』)、かえって俗奏の士が増えるより、琴を飾りとし賞鑑の対象として普及した方が琴学発展のためには有益なことだったかも知れない。因みに琴の鑑賞法は非常に特殊で、琴の名器の条件はその漆面にあらわれた皴割れにある。古いものほど皴は細かく美しい。この皴を梅花断、蛇腹断、牛毛断、龍紋断などと呼びならし、尊ぶのである。
 中国明代屠隆の『考槃餘事』の中の「琴戔」にこうある。「琴は書室のうちの雅楽である。一日でも清音居士にむかっていにしえを語らずにはいられない。もし古い琴がなければ新しいものでよいから、壁に一床を懸けておかなければならない。弾くことができるならばいうまでもないが、またたとい弾くことができなくとてもかまわないから、琴がなければならない。陶淵明はいっている。
ただ琴中の趣を得ば
いかでか弦上の音をわずらわすべき
(但得琴中趣、何労弦上声)
 と。われわれが琴を学ぶのは、ひろく曲を覚えることになく、ただ琴の趣を知って、そのまことを得るのをたっとぶのである。(略)清らかな月明かりの夜に一つ二つ弾いてたのしめば、性をやしない身を修める道はこれよりほかにはない。どうしていたずらに絲桐をもって耳を悦ばすはかりごととなすばかりであろうか」(中田勇次郎訳)と。
 無絃の琴は、琴道を覚った者のみが達することのできる名人の領域である。ここに於いてはもはや、演奏することは全く無意味である。琴を弾じては深き琴趣は得られない。無絃の琴は余韻そのものである、琴無くして琴を弾ず。永田聽泉が考えていた琴道も最終的にはここに行き着くのではないだろうか。





HomePage ][ 輓近中国における琴楽演奏について

E-mail fushimi@rose.zero.ad.jp