輓近中国における琴楽演奏について

伏見 靖

 現代中国の琴楽演奏者はステージ上でほとんどスチール絃を用い、CDを録音製作する際にもそれを使用し伝統的な絹絃を一切顧みないという事実がある。スチール絃と絹絃は琴楽演奏における根幹をなす重要な選択であり、どちらを選ぶかは、好みとして演奏者自身の自由に委ねられる問題とも考えられるが、琴楽を世界音楽史上のオリジナルな楽器として捉えるなら、選択の余地はない、当然絹絃を使用しなければならない。なぜなら琴は、漢文化という絹文化の中で生まれた美しき楽器だからである。絹絃と琴は離れるべき関係にはなく、寸分たがわず規矩に則り製せられた琴は、太古の遺音を得ると言われるとおり、そこに張る絃は絶対に絹絃でなければならない。琴学書目には、琴には絹絃を張らなければならないとは書かれてないが、それは絹文化の中では自明の理として常識だったからにほかならない。絹絃を用いるということは、規矩に則られ製せられた琴と同一のことなのである。
 自然素材の絃で絹ほど強い張力を持った絃はほかにない。西洋音楽史のリュートやヴァイオリンはその誕生当初より羊腸のガット絃を用いていたが、張力はあまり無く高音を得ることは難しかった。産業革命以後、スチール絃の誕生はそれら弦楽器にとって朗報であった。細いながらも張力があり切れることのないスチール絃に、楽器は次第にその構造を合わせていった。西洋古典音楽における絃楽器の発展は、近代に至るまで続いたのである。したがって現代の絃楽器はスチール絃を張り演奏するのに最もふさわしい構造の楽器となったのである。西洋古典音楽には厳然としたスチール絃の歴史がある。
 しかし琴は数千年の間、その楽器の構造を全く変えて来なかったのである。千年もの長い年月を経た美しい琴に、突如二十世紀にあらわれた工業製品のスチール絃を張るという無謀なことが許されてよいのだろうか。絹を巻いたスチール絃ならまだしも(スチール絃を芯として薄くのした絹を巻き付ける。この技術は驚異的である。)、金属が木部に直接当たれば、歴史的古琴を損ない傷つけてしまうことになる。それにスチール絃から発する音色は、琴独特の微妙な音色とは似て非なるものである。ただ響がよく、音が大きいだけの、たとえればハワイアンのスチールギターに紛うものである。だから演奏は、勢い大味で大ざっぱで琴独特のデリカシーは微塵もない。中には奇を衒う演奏やアクロバティックな奏法が見られ、演奏家同士そんなことを競っている印象さえ受ける。聴衆もまたそんな非人間的な演奏を望んでいるようだ。上手に弾くことや超絶技巧の駆使に専心することだけでは音楽の感動など体験できるはずはない。貧困に陥ったアジアの音楽状況がここにある。そもそも千年もの歳月を経た琴に現代工業製品を用いることに何の意味があるというのだろう。何も古い琴でなくとも現代の製になる新琴でも、規矩に則られ製せられたなら確かに太古の音を得るはずである。唐琴にスチール絃を張って悦に入る琴演奏家の聴覚を疑わざるをえない。どんな価値のある音楽がそこから生まれるというのだろうか。その音楽性と美意識の欠如には、腑甲斐なさと憤りさえ覚える。
 絹は中国文化のアイデンティティの産物といってもよい。紀元前数千年以上も前から絹はこの国に存在していた。シルクロードという言葉が示すとおり、中国は世界中の文物を絹との交易によって自国に齎し、成長発展を遂げた国である。唐代および宋代において世界で最も優秀な文明を形成した。絹こそが、文化を爛熟させ、経済成長の原動力となった。現代に至るまで超大国としての中華思想の淵源をここに見出すことができる。絹は中国文化にとって最重要な産物であることを忘れてはならない。琴が漢民族の音楽を現すなら、絹はさらにもっと深く漢民族全体を体現しているだろう。それほど絹は中国文化にとって重要な存在であることを再確認したい。
 ではなぜ、現代琴楽演奏者はこの伝統的な絹絃を用いようとしないのか。絹絃とスチール絃とでは聞き比べればてみればわかるが、その音質、音色および音量は天地ほどの差がある。一言をもってせば、スチール絃はうるさく、絹絃は静かである。静かさというのは、音を出すことが音楽であるという本質から懸け離れるものであるかもしれないが、静寂はじつによく琴の音楽的本質を現している。琴は静寂の音楽である。琴は静寂を奏でることが出来る世界でも稀にみる楽器である。花に対(むか)い、月に対い、鶴の舞に対い、流れに対って弾くのが琴である。スチール絃を使用する現代中国の琴楽演奏者たちは、そのことを全く忘れてしまっているようだ。否、最初からそうとは認識していないのだろう。本来音に敏感であるはずの音楽家が、スチール絃と絹絃の区別がつかないはずはない。音を奏でることができないのは音楽ではない、という即物的実際的な発想に基づきスチール絃を選択したとしたら悲しむべきことである。琴を職業楽士が奏でる音楽としか見ないというなら、それは琴に対するまぎれもない誤解である。あるいは中国共産党の国家政策の一環として、音楽を大衆の娯楽に供するため、支配階級に独占されていた伝統的な琴楽を解放し、貧富を問わずあらゆる人の耳に聞こえるように通俗的な音楽にするため、静かな絹絃から音の大きなスチール絃に換えさせたとも考えられる。当然中国の琴演奏者はそれに従う。かつて文化大革命の時、中国の過去の歴史はすべて否定され、歴史的文物は破壊されつくした。唐宋代および、元明清代の数ある名琴がいくつも火にくべられ焼かれたことだろう。支配階級の音楽であったからなおのことひどい目に遭ったにちがいない。そしてその音色も再生不能にまで破壊されてしまったのではないか。伝統的な美しい音は革命以後、琴楽を復興させようという先人のなみなみならぬ努力があってさえも、もはや破壊の後遺症は治癒せず現代に至っても甦ることはなかった。国家に隷属せず、一個の独立した芸術家として洗練された高度な聴覚の持ち主なら、絶対にスチール絃など選ばないだろう。外的要因と強制ゆえに否応なくスチール絃を張らざるを得なかった、と私は信じたい。



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