〔金銀平文琴〕については、林謙三教授によると、「軫池の底部の通絃孔の周囲には軫(糸巻き)の使用痕が認められる」(『正倉院の楽器の研究』)と言っており、かつて絃を張って彈奏したであろうことが窺える。しかし、博物館展示のガラス越しに観察しただけだが、〔金銀平文琴〕の龍齦(ここに絃をかけて、裏面に回し、雁足というところに巻きつけ固定する。強い力で絃を引っ張るので龍齦には必ず絃の跡がつく。)にはいくらながめても傷が認められなかった。したがって頻繁に絃を張っていたとはあまり考えられず、その装飾性から見て恐らくは無絃琴として鑑賞用であったあったのではないかと想像できる。たとえ彈奏したとしても細かな金銀象嵌のために音響効果は相当に悪かっただろう。軫と雁足(絃を巻き付ける突起)は失っているが、『東大寺獻物帳』には象牙製と記されている。
〔金銀平文琴〕の表面上部には格子の枠に囲まれ三人の人物が描かれている。三人は三本の樹の根本に座り、その間には酒器が置かれ、右側の人物は觴(さかづき)をあげ、左側では琴を弾き、真ん中の人物は琵琶(阮咸か)のごとき楽器を奏でている。上空には鳳凰に乗った二人の天女が今まさに舞い降りんとしている。格子の枠の上部には山水が描かれ、下部には一本の大樹を間にして二人の人物と、琴尾にかけて対称的に六人の人物が並ぶ。二人の人物の右側は、これも角杯をあげ、左側ははっきりとはしないが、多分琴を弾じているように見える。二人の脇には酒の入った甕が置かれる。前には池のごとき川のごとき流れが琴尾まで続いている。
従来この人物像は伯牙と鍾子期と言われているようだが、彼等なら二人の人物だけが、『流水』の曲想に則り巍々とした高山を背に、洋々と流れる川を前にして描かれるべきである。あるいはまた、酒甕の多さから竹林の七賢人としても、たとえひとりが阮咸を弾じているとしても、人数が合わない。
ファン・フーリックはこの〔金銀平文琴〕について独自の見解を披瀝している。これは、書聖王羲之で有名な蘭亭修禊の様を描いたものと言うのである。蘭亭修禊とは晉の穆帝の永和九年(三五三)春三月三日、会稽山陰の蘭亭に風流韻士四十一人が会し、鶩が游ぶ曲りくねった小さな流れに觴を浮かべ、その左右にそれぞれ列座して觴が自分の前に流れつくまでに詩を賦し遊んだ故事である。その詩会の序文が王羲之の『蘭亭帖』である。〔金銀平文琴〕を手に取って詳細に眺められないのが残念だが、鶩(がちょう)らしき鳥も描かれており、その説はおそらくは確実として信じられるかもしれない。対称的に並んだ六人の人物の前には確かに水が流れている。蘭亭を題材にした絵画は多くあるが(たとえば湍溪硯における『蘭亭硯』など)、その中に琴を見出せるものは寡聞にして知らない。フーリック説が正しければ、この〔金銀平文琴〕だけである。『蘭亭帖』を読むと「糸竹管絃之盛、無しと雖も、一觴一詠、亦以て幽情を暢叙するに足れり」と言っているが、派手やかな音楽で会を盛り上げなかっただけで、琴のみは用いたかもしれない。当時の雅会において琴を奏さなかったとはあり得ないことである。他の管絃糸竹と琴とは一線を画していた。そして羲之の息子王獻之は琴の名手でもあった。獻之はその死において「人、琴とともに亡びる」という有名な言葉を残している。
曲水の宴は日本においても大陸の最高級の文化として受入れられた。大和朝廷時代、顯宗天皇の元年(四八五)にすでに曲水(蘭亭修禊)の宴を催したと、『日本書紀』には書かれてある。
「三月上巳(三日)、後苑に幸し曲水の宴あり」
当時日本の文化人にとって曲水の宴は最新の雅遊であったであろう。そしてその流行は奈良時代まで確かに続いたろうと思われる。〔金銀平文琴〕はまさに大陸の文化と美学が凝縮された楽器だったのであり、奈良時代から国宝級の扱いを受け、雅人ら大切にされてきたと推察出来るのである。
琴学者稗田氏によると、この琴は日本で製せられたのではないかと言っている。傾聴に値する説である。
フーリックは〔金銀平文琴〕の制作年代を、池内に書かれた「乙亥之年」から、通説では唐開元二三年(七三五)とされるが、それよりもっと遡った、北魏代(四三五または四九五)と推定する。『蘭亭修禊』の宴が行われた時代を考えると、その推測はあながち不当ではないかもしれない。
この琴の背面には後漢の李尤(不詳)になる次のような銘が記されている。「琴之在音蕩滌耶心 雖有正性其感亦深 存雅却鄭浮侈是禁 條暢和正樂而不淫」(琴の音というのは邪心を洗いそそぎ、その本質が正しいものであっても感興はまた深いものである。優雅であって猥雑を退け、軽薄な奢りを生じさせない。のびやかに楽音をたのしみ、己れを失うこともない)。
琴銘の鑑賞も、琴独特のものである。琴名や蔵者の名、あるいは琴に対する賛美の辞などが琴の裏面に刻される。中には裏面のほとんど表面にもおよんで銘や讃が書かれた琴もある。琴所有者が自ら刻したりするのである。宋代謝希逸の『雅琴名録』には「緑綺、清英、寒玉、百納、春雷、黄鵠、秋嘯、存古、冠古、天球、洗凡、悲風、混沌材、雪夜鐘聲、玉澗鳴泉、九霄環珮」などの琴銘があることが記されている。琴士浦上玉堂は明琴(中国明代の琴)を得て、その銘から『玉堂』という名を取ったと言われるが、その琴の正式銘は『靈和』といい、蔵者の印章として『玉堂清韻』とあって、玉堂の名はすなわち賛の方を用いたわけである。
フーリックは『書苑』(第一巻第十号)において流暢な日本語で〔琴銘の研究〕を書き、その中で氏は琴銘の彫り方を風韻豊かな筆致で述べている。
「コノ塗面ニ字ヲ彫ル事ハ非常ナ困難ノ仕事デアリマスガ、一般ニ朱墨デ先ヅ字ヲ書キマシテ、印刻ノ刀デソノ通リ字ヲ彫ルノデアリマス。ソシテ最後ニ字ノ中ニ白、赤、又ハ緑ノ絵ノ具ヲ塗ルノデアリマス。シカシ字ヲ彫ル時、漆ハトカク裂ケ目ヲ生ジ易イモノデスカラ、中々彫リ難イモノデス。幾ラ注意シテモ文字ノ輪郭ハギザギザニナルノヲ避ケ難イノデアリマス。デアリマスカラコノ場合ニ草書ト行書ノ琴銘ハ不適当デ、時ニハ草書、行書ノモノモアリマスケレドモ、素ヨリコレラハ不適質デアリマシセウ。然シ篆書、隷書、又ハ楷書ハ適当ナ書キ方デアリマシテ、特ニ篆書と隷書ハ自然ニギザギザノ輪郭ガアリマスカラ、コノ二ツハ一番適質デアリマセウ。即チ古拙ノ妙トイフベキモノガ現レルノデアリマス」
この琴銘をあるいは乾拓にして鑑賞したりもする。寔に琴銘は、板に彫る刻字や石に彫る篆刻に比し高尚にして風雅な書藝と言えようか。
琴の鑑賞法はもう一つある。それは罅割れである。
法隆寺、正倉院、いずれの蔵琴も、表面に<斷紋>という美しい罅割れがあらわれている。岸辺成雄教授は〔金銀平文琴〕の斷紋についてこう述べている。
「この琴の斷紋は、裏面の龍池の右側、鳳沼の右側、龍池の左側下方、鳳沼の左側下方に、粗い平行線として現れる。蛇腹紋のように裏面の左側から右側に貫通した線は見られない。平行線の右側か左側の続きが側面に繋がることもない。両側面(磯)、頭端側面、尾端側面は、麒麟、飛鳥、獅子、鹿などの走獣に草花、雲を配する装飾が全面にほどこしてあるので、断紋が現れる空間がない。ことによると漆塗に獣骨灰混じて斷紋を生ぜしめる方法を、この部分には採らなかったのかもしれない。すると、琴の全面は、斷紋を生ずる漆塗法と生じない漆塗法とを区別してほどこしたのかもしれない。粗く細く、弱々しい平行線は、蛇腹紋でないとすれば、流水紋、牛毛紋などといわれる斷紋であろうか。流水紋とするには流れの力が弱く、牛毛紋とするには線が粗く太い。実物を拡大鏡によって精査した折に、名称を決め難くて困った記憶がある。
斷紋を探し出すのを妨げたのは、斷紋のある面より上に膨れ上がった、不規則な形の漆塗りである。平文が全面にある表面にはなく、裏面にのみ見える。裏面の頭部には罫引枠内に、後漢の李尤の琴銘(四行三十二字)が平文で書かれ、龍池の左右の龍が、鳳沼の左右に鳳凰が、上下四ケ所に草花が縦に配してある。膨れ上がりはそれらすべてを避けている。龍池、鳳沼の孔や、雁足をはめ込む足池は膨れ上がりの下になっている。膨れ上がりはところどころで剥がれている(写真で真っ黒に見える)。この琴の表面のほとんど傷のない美しさに比べて、裏面はこの膨れ上がりで汚された観がある。修理の跡でもあろうか。」(『楽道』11月号No.661)
当時、天平年間に奏された曲目はわかっていないが、琴を奏した人物については『萬葉集』巻八に次のような文が載せてある。「右冬十月、皇后宮維摩講を之す。終日、大唐高麗等種々の音楽を供養す。……彈琴する者、市原王、忍坂王……」「大唐高麗等種々の音楽」から彈琴されたのは七絃琴であろうと思われる。「冬十月」は天平十一年(七三九)、「皇后宮」は光明皇后、「維摩講」は維摩経を講ずる法会。「市原王」は写経司の舎人、のち天平宝字七年(七六三)正月、摂津大夫に、四月、造東大寺長官となる。「忍坂王」は『續日本紀』に天平宝字五年正月戊子(二日)、無位より從五位下を授くとある。天平十一年のころはまだ少年であったと思われる。
果たしてこの〔金銀平文琴〕は当時、どんな琴曲を奏でていたのだろう。たとえ絃を張らずとも、この無絃の琴を撫でていた雅人はどんな曲を聴いていただろうか。想いは尽きない。
伏見 靖