2001年 9月19日 - 30日
沖縄の N さんからの短い手紙 9/22
アトランタの J さんのメール 9/24
アフガニスタン国連職員 E さんの手記 9/20 (*9/29変更)
イギリスで勉強中の大学院生 A さんの手紙 9/20
湾岸戦争の時、アメリカに住んでいたT さんの手紙 9/19
ニューヨーク在住のS さんの手紙 9/22
沖縄の N さんより
本土からの修学旅行が取りやめになっています。
今の状態では、安全を保障できないからって. . . ? ? ?
「基地の島」沖縄は、戦争に一番近いところにあります。
いつもいつも、戦争に一番近いところに置かれています。
アトランタのJ さんのメール 9/16日付、Hさんより転送いただく。
今日土曜日に、反戦・反民族主義集会に行ってきました。
200人ぐらい集まったと思います。この集会の主催者は、同性愛者の人権を守るためのグループや、黒人イスラム教徒たちです。好きな人が自由に意見を発言しあうという体裁の集会でした。
「テロに対する軍事報復はテロと同じ」「イスラム教徒の人権を守れ」「戦争はテロに対する正答にはなりえない」「二度と戦争はしてはならない」などの発言が相次ぎました。
ここにも良心的な人、全ての人の人権を守るという視野を持っている人がいることに安心しました。洋の東西を問わず、この類の集会には、似たような雰囲気の人が集まることも発見しました。
UCLAのバークレー校でも同じような趣旨の集会に 4, 000人ぐらい金曜日に集まったそうです。この類の情報は日本であまり報道されていないと思いますが。
右翼による野次や(なぜか黒ずくめでスキンヘッドやザンバラ髪というお定まりの格好なのですが)、軍事報復を支持すると思われるカップルとの激しいやり取りなどもありました。
やはり私たちは少数派です。郊外含め400万人都市のアトランタで、この規模ですから。
昨日金曜日は国民的追悼の日でした。
おそらく日本の報道はワシントンの礼拝(カトリック・プロテスタント・イスラム合同)に集中していたと思います。しかし、これはもう少し詳しく述べなくてはいけません。なぜならこの日、キリスト教が、政教分離原則にお構いなく、国家に利用されたからです。
娘の学校でも生徒は国旗の色を着るように指示されました。他の学校では、さらに、「君が代」に相当する「神よアメリカを祝し給え」を「賛美」し、「近所の牧師」が来て「説教と祈り」をしました。
全米で夜7時から祈り会をするようにと奨励され、各地方教会がたくさんの国旗をたなびかせて、ろうそくを手に、路上や公園で祈りをささげました。これらの趣旨は追悼だけでなく、国家主義的な色彩の強いものがほとんどだと思います。
我が家の前でも催されたので、車でしばらく外に出かけたほどです。外国人にとっては異様な風景です。
ついでに、ドライブ中に国旗と南部の旗をはためかせている民家を、いくつか発見して、本当に怖くなりました。南部の旗は、有色人種差別の象徴的存在で、実際それを理由に、ジョージア州の旗(三分の二が南部旗というデザイン)も昨年改正されたばかりだったからです。
今日行ったスーパーは特に南アジア系の従業員が多いのですが、常に警備員が監視して、暴行を受けないように配慮されていました。
ただし、日数が経ってきて、次第に落ち着いてきたという側面もあります。テレビ番組をチェックしているのですが、いろいろな立場の声を取り上げたものも、多くなってきました。
今日も子供同士の討論番組に、イスラム教の指導者・アフロアメリカンの牧師も登場し、均衡の取れた意見を言い、素朴でしかも放置すると危険な、いくつかの誤解を解いていました。
(米国の安寧秩序を守る限りにおいては、イスラム教徒でも人権を守りましょうという論調も、時折感じられるのですが。)
しかしその一方で、陸軍の募集も番組の合間に入るようになりました。24時間救出作業をバックに、視聴者からの電話を受け付けるという体裁の番組が、いくつもあります。ラジオ番組でもこれは定番です。
アメリカ人の多くの発言は情緒的・国家主義的なものです。
各局で微妙にスローガンが異なっていますが(「アメリカは一致団結している!」「新たな戦争!」「アメリカは祈っている!」)、実態は人々の感情に訴え、軍事報復を煽るようなもので統一されています。
牧師も登場して、相手に悔い改めを迫るだけではだめだ(戦争しろ)などと、テレビでも説教しています。政府の高官も、自分の孫を前線に送る覚悟の程を強調していました。
日本なら、人権平和の市民運動は教会がある意味先頭に立って担っているように思いますが、こちらでは全く逆です(良心的な教会も多数あるでしょうけれども、ここはバイブルベルトと呼ばれる深南部です)。
むしろ教会に来られない人がこれらの反政府的な動きに賛同し、教会人たちは軍国アメリカを支える良き市民であろうとする傾向があります。
日本の戦後平和教育のすばらしさを痛感します。
共に祈りを合わせて、何とか戦争を食い止めましょう。
在アフガニスタン国連職員 E さんの手記。
これまで掲載していた Eさんのメールは、諸事情により転載・転送を控えてほしいとの伝言をもらいました。ここではイニシャルにして載せていましたが、実はEさんは署名入りで書かれていたのです。その手記が様々な場所で紹介され、何か差し障りが起きてしまったのかもしれない. . . 。
アフガニスタンの人々への理解を深めてくれた E さんの優しさと勇気に感謝します。 9/29 やみぃ
イギリスで勉強中の大学院生 A さんからのメール
今日、フラットで、トルコ人、サウジアラビア人の友人と話しました。
街の中のモスク(イスラム教の寺院)にトマトが投げられたそうです。
この辺りでも、アラブ系移民並びに留学生に、言われ無き差別が起きつつあります。
あと、イスタンブールでフットボールの国際試合でトルコ人のサポーターが、テロの犠牲者に対しての黙祷中にブーイングをとばしたそうです。
何千人ものトルコ人がクルド人のテロによって殺されてきたのに、アメリカは、何もしてくれなかった、そればかりかグルド側を守り通した。そんな憤りが彼らの中にあったと説明を受けています。でも、犠牲者に哀悼の意を表している人々が一般的です。
こちらでも、事件の時に「驚喜するパレスチナ人」のことを報道していますが、「けれど、往々にして平静です」の一言を忘れませんよ。日本では、パレスチナ自治区の人々全員がお祭り騒ぎ、という感じの扱いだったそうですね。
そういえば、日本のTV番組で、北アイルランドでカトリック系の子どもがプロテスタント系に爆弾かつ罵声を浴びせられながら登校しているのを放送していたと聞きました。
その時も、プロテスタント系がひき逃げされているということは放送されなかったとのこと。
日本のメディアは使えませんね。一面しか、あるいは部分的にしか見ない。
世界は我ら日本人が思うほどシンプルでは無い、イギリスで改めて実感しています。
湾岸戦争の時、アメリカで暮らしていた T さんのメール
本当に、今回のアメリカでの出来事に、私はショックを受けて、悲しみで一杯です。
シカゴ大学の嘆願書にサインしました。私が見たときは45,000になっていましたね。
シカゴ大学は、私がUMKC(ミズーリ州立大学カンザスシティ校)の大学院に行ってたときに、最後にとったクラスのDr. ドールという先生の出身校です。
ドール先生のコースはSociological Foundation For Educationという抽象的なタイトルでしたが、実際は、教育に携わる者が、どのようにして「戦争」のない社会を、教育を通して作っていくべきか、ということを考察するクラスでした。
いかなる種類の戦争も許されるべきではない。でも、なぜ人間は戦争を始めてしまうのか? ということを、ありとあらゆる角度から論じるクラス。
ドール先生は、保健衛生兵としてヴェトナム戦争に行ってた経験から「絶対戦争はしてはいけない」と確信し、その後、どうしたら社会から戦争を生み出す性質を無くしていけるか? ということを一生の研究課題にしたらしいのです。
だから戦争があると、「なぜそれが起きてしまったか? 」という自分の問いに答えるため、そこに行ってしまう無茶な先生です。私が授業を取っていた時も、休み中にボズニアに行ったりして、生徒たちをハラハラさせていました。
講義の内容はとても短い文章では書ききれませんが、私はこの先生の講義の内容にいつも「私はこういうことがずっと勉強したかったんです!」と叫びたいくらい、毎回感動しました。
でも、同時に、アメリカの中では、ドール先生のような人は、とても少数だとも思いました。
ちょうどカンサスにいたとき、湾岸戦争が始まったのですが、アメリカのメディアは、まったくイラク側の被害状況を報道しなかったのです。
第二次世界大戦の敗戦国の子供として、私はその辺りのところが気になりました。むこうにも同じように、普通の人々がいて、子供もいて、母たちもいるはずだよ. . . と。
でも、まわりの近所の人々もほとんどそのことには触れず、ひたすら「打倒フセイン」一色になってました。みんな、家々にWe Support This War(我々はこの戦争を支援する)と書いたステッカーを貼り、黄色いリボンを掲げていました。
うちの地区で黄色いリボンを掲げなかったのは、私の家と、もう一軒、中国人の人の家だけでした。
ドール先生のような一部の人々の間では、たくさんの批判もあったことと思いますが、私が実際暮らして感じた限りでは、普通の人たちの間には、戦争は「人を殺すことだ」という観念がとても薄いと思いました。
そして、このようなアメリカの人たちの戦争に対するinsensibility(無神経、冷淡)を、すごく怖く感じました。
今10年経って、こうしたことが起きてしまうと、やっぱり戦争の本当の恐ろしさを感じます。暴力は何も解決せず、ただ新たな悲しみと憎しみを生み出すだけです。
やみぃさんがサイトに書かれたとうりです。
本当に日本はあれだけの人を原爆で失ったのに、その後「復讐」の方向になんか行かなかった。それは心底戦争そのものの怖さを知ったからだと思います。
私はアメリカの人たち(特に政府の上層部)は戦争の本当の恐ろしさがわかってないと感じます。
この「平和のための嘆願書」などを知って、私たちと同じ気持ちの人もたくさんいるということに少しホッとします。
でも、日本の人にはピンとこないかもしれないけれど、アメリカに住んだ経験からは、あまり楽観視できないとも思っています。
とにかく、こうした運動で、気持ちがひとつになった人々の思いが、大きなエネルギーとなってくれることを願うばかりです。
ニューヨーク在住の S さんの手紙
先週は、わたしも夫も睡眠不足で、やはりかなりショックを受けました。
マンハッタンは今週になってから、仕事に復帰する人も多いため、かなり街中は以前のように人が多いですが(ダウンタウン以外)、ダウンタウンに近いほうへ行くと、焼け焦げたような臭いがして、なんともいえない気分です。でも、意外と人々は以前の生活にもどり、見た目は何もなかったかのようにも見えます。
今回、この事件以来、ずーっとTVを見てる状態でしたが、改めて、アメリカの報道について疑問がわきました。
どこの国でも自分の国を悪くは言わないでしょうが、「アメリカは何も悪いことしてないのになぜこんなことに」「やられたからやりかえす」「アメリカは世界でいちばん強い」「これは戦争行為だ」、などなど、とにかく、ブッシュ大統領をはじめ政府は、国民に戦争をあおってるかのように見えます。
テロはもちろん許されない行為ですが、これまでの歴史的な背景などについてほとんどのアメリカ人は知らないみたいです。このことをきっかけに、なんの罪もない中近東からの移民の人たちが無知なアメリカ人にいじめられたり、中には、ラディン氏に似ているという理由で殺された人もいます。
NYは外国人が多いので、かなり冷静な見方をする人もけっこういますが、「報復はいけないのでは」などとアメリカ人に言おうものなら、「でも、やり返さないと今後またやられる」と. . . 。
やはり、戦争は二度と起してはいけないと育った日本人とはもともとの教育が違うので、今は何をいってもだめだ. . . と、ショックでした。(もちろん全部のアメリカ人がそうだとは言いませんが)
わたしの夫は今年アメリカ市民権をとった、先進国の某ヨーロピアンですが、彼もどちらかというと、報復は避けられないと思ってるようで、このことについて、先週は大喧嘩をしてしまいました。
アメリカはいつも他の国を助けるとかいうけど、そのかわり、たくさんの罪のない人たちが殺されてます。そういうことを、たいていのアメリカ人は知りません。
戦争で亡くなるのはいつもなんの罪もない人達. . . 。
わたしは、夫と知り合い、結婚が理由でNYに住みましたが、はっきりいって、今はここに住んでいるのが怖いです。アメリカの対応を見てると、まじで戦争になってしまうのかと. . . 。
アメリカ人は本土をやられたことがない唯一の国です。いつも、他の国にいって戦争してるのだから。戦争の悲惨さを知らないのではないかと。今回も相手方に行くようですが、テロを全滅できなければ、今度はアメリカ本土が攻撃されるということもあり得なくはないです。
A Petition For Peace のことを知り、よかった。アメリカ人でもこのようにメディアに流されず、戦争はやはりいけないと思ってる人たちがいて、とてもうれしいです。
同じ人間同士. . . 。言葉や宗教が違っても、親が子を思う気持ちは一緒だと思います。
なんとか、軍事行動でなく、平和的解決を望みます。 ― 2001. 9. 21
やみぃのため息& 深呼吸
「平和ボケしているからそんな甘っちょろいことが言える、女・子供の感傷だ。戦争は必要悪。力でねじ伏せなければならないこともある。」というメールなども貰ったりしています。
いいじゃない、私は「女」なんだからぁ! (笑)
それに、甘っちょろくても、感傷的でも、それなりの覚悟はして言っています。
私には、貧しくなる用意があるし、殺されても殺さないと決めたから、こうして書いてるんですぅ。
人のいのちで、ゲームみたいなことしないでほしい。あなたはほんとうに戦場へ行って人を殺すつもりなの?
私たち、みんな一所懸命生きていて、生きたくても生きられない人だって、たくさんいて、だから、死ぬ必要のない人たちまで、死なせることが嫌なんです。
あなたも自分のいのちを、もっと大事にしてください. . . 。
なーんて、ちょっと ブースカ言ってしまった。
深呼吸して、また楽しいこと考えよう! Love to the world! −やみぃ
明日世界が終わるとしても、あたしも林檎の木を植える
( C.V. ゲオルギウのまねっこ? ) 注1
注1: 2007年 7月1日 追記
この 林檎(リンゴ)の木のフレーズについて、最初(2001年9月)は、「マルティン・ルターのまねっこ」と書きました。なんとなくそんなふうに覚えていたのです。
しばらくして、二人のかたからお便りをいただきました。それぞれ、この言葉の作者として、
・ 開高健
・ C. V. ゲオルギウ (『二十五時』の作者)
の名前を教えてくださいました。その後、別のかたから、こんどは、寺山修司が「ポケットに名言を」という著作の中で、ゲオルグ・ゲオルギウの言葉として紹介している、とのご連絡. . . 。そのゲオルギウ(1901-65) は、ルーマニア共産党のリーダーだった人らしい、とのこと。
もとは、いったい誰の言葉なのか. . . ???
・ 明日世界が終わるとしても、今日わたしは林檎の木を植える。
・ もし世界の終りが明日だとしても、わたしは今日林檎の種子をまくだろう。
引用にも、おもに「木を植える」と「種を蒔く」の二通りがあり、それぞれに少しずつ違ったヴァージョンがあるようでした。
2003年からは、とりあえず寺山説をとって、、林檎の木のフレーズには、(ゲオルグ・ゲオルギウのまねっこ ?) と 「? 」をつけて載せることにしました。
そして、注釈をつけて、
と書いておきました。いつごろ、誰が、どんな状況で、言った言葉なのでしょうか。
すてきな言葉の出どころについて、もう少し調べてみたいと思います。
詳しくご存じのかた、ぜひお教えください。 - Yummy
すると、2006年1月に、ミニマルキッチン Blog さんがご連絡をくださって、いろいろ詳しく教えてくださいました。一つの言葉をめぐって旅をしているようで、とても幸せな気持ちになりました。
そして、2007年6月、こんどは柴田昭彦さんというかたから、さらなる事実を教えていただくことができました。
『二十五時』の作者、C.V. ゲオルギウ(1916〜92)が、小説『第二のチャンス』の巻末で、マルティン・ルターの言葉として引用しているのだそうです。
柴田さんによれば、
「この言葉は、1944年10月のドイツ・ヘッセン教会の回状にルターの言葉として記されたのが初出だと言われています。ただし、ルターが生前にそれを言ったという確証はないようです。ルターに帰されている言葉というわけで、いまだに謎を秘めたままです。」
とのこと. . . 。
詳細は、柴田さんのサイト「ものがたり通信」の "8. 真実を求めて"をご覧ください。
数多くの文献にあたりながら真相にせまっていく様子に、感激してしまいます。
先日、椅子のコーナーのアビーへの手紙 2 で、「ニーバーの祈り」を取りあげたときに書きました。
まさしく同じことが、この「林檎の木」の名言にも言えそうで. . . なにやらとてもうれしく思います。ちからのある言葉は、人にイマジネーションを与えるんだなぁ . . 。
さまざまに変奏されながら、コアの部分はきっと受け継がれていく。
さて、出典のところを、(C.V. ゲオルギウのまねっこ? ) と書き直して、もう一度. . .
Stop the wars and let peace and love prevail!
Not arms, but flowers.
Life is beautiful.
平和の状差しへ