HOME > おしゃべりな椅子 > 読書ノート3 「考えることは、自由になること」
『「おろかもの」の正義論』 小林和之 著 (ちくま新書・777円)― 2004. 12. 20 (05. 1. 04追記)
「正しさ」ということについて "考えさせられる" 素敵な一冊です。
私は、受動的な「〜させられる」という表現が、あまり好きではありません。とくに、自分でしたことなのに、誰かにさせられたみたいに言うのは、ちょっとカッコわるい気もして. . . 。
けれど、この本のことは、「考えさせられる」という言葉で紹介したい、と思いました。
著者の思想の押しつけも、答えの強要もないのに、ただ本を読み進むうちに、私自身がいろんなことを考えていたのでしたから. . . 。 たとえば、そう、
「なぜ、人を殺してはいけないの?」
「命は、なぜ大切なの?」
子どもたちの問いかけに、私だったら、どう答えるだろう?
死刑制度、臓器移植、戦争、南北格差など、人によって価値観の大きく分かれる問題については?
もしも、そのことで友だちと気まずくなったら? なんて言ったらいい?
様々なことを思いながら、私は、いつのまにか「正しさ」について ――「正義」という(しばしば殺戮の言い訳として利用される)大仰な言葉についてではなく―― 人のふつうの「正しさ」のことを考え始めていたのです。
第7章 「選択の自由があるのはいいことか」では、ページを繰る手が止まってしまいました。
ここ数年、がん患者として医療の問題に多少なりとも係わってきて、ずっと迷い続けてきたことが、扱われていたのです。
患者に 「選択の自由」があるのは、すばらしいこと。今まで、あまりにも自由がなかったから。患者は長いあいだ弱者で、今だってとても弱い立場だから。
でも、最近、その患者サイドの中にも、「階層」のようなものが顕著になっている気がするのです。
〜 五感をフルに使って勉強せよ。インターネットを駆使し、文献にあたり、情報収集せよ。優秀な(または気の合う)医師を探しあて、最新の(あるいはスタンダードな)治療法の中からベストを選ぶべし。セカンド・オピニオンを得るのは当然の権利。疑問を感じたらサードもフォースも受けるべし。コネクションも最大限に利用せよ。―― あなたの命がかかっているのだから。という、「賢い患者になりなさい」という論調が、増えてきて. . . 。
もちろん、そうした主張は妥当で. . . 、私自身も、相談を受けたときには、似たようなことを答え続けています。
「十分に納得してから、医療スタッフを信頼して、治療を受けてくださいね」
「ドクターに遠慮したりしちゃ、ダメですよ」
それでも、あからさまな「勉強した者勝ち」という言い方には、戸惑ってしまうのです。
「勉強した者勝ち」って、どこか弱肉強食的で、少し昔の「お金のある者勝ち」と共通点が多いから。たぶん、お金が知識にかわっただけ. . . 。
また、患者側の医学的・法的な知識が増すにつれ、後々問題にされることを恐れてか、医療者が「十分な説明もせずに」決定権(≒責任)を患者にゆだねてしまうケースも多くなっています。
そんなの、インフォームド・コンセントとは言えません。多様な選択肢を比較検討し、ベストを選ぶのは、専門家にも難しいことなのに。それを、診断を受けたばかりで動揺している患者に強いるなんて. . . 。
「自分の身は自分で守る」のは、"基本のき" でしょうけれど、その感じがエスカレートしすぎるのは、悲しいし、すごく怖いこと . . . 。
なーんて、愚痴が長くなっちゃいました。が、日頃そんなふうに思っていたこともあって、私は、「選択の自由…」の中の次の言葉に、ふう. . . と、ため息をついたのでした。
◆ 「弱者の切り捨てと悪平等のどちらを選ぶのか。選択の自由と共感の充実のどちらを選ぶのか。これらは、…… (P. 141)」
ページのはしはしから、著者の生真面目で、優しい、「声」が聴こえてくるようです。
たぶん、その声のせいで、思いました。 「この本は、要約してはいけない」と. . . 。
ですから、以下、読んでいて、ホッとしたり、嬉しくなった箇所から、少しだけ引用してみます。
◆ 「「正しさ」の理想は、オーケストラの交響楽だ。それぞれが異なり、もっとも自分らしくしていることによって、美しい音楽を奏でることだ。
いうまでもなく、理想までの道のりは遠い。だが、出発点は明確だ。価値観の違いを認めること。これは終わりではない。「正しさ」の探求はここから始まる。 (P. 52)」
◆ 「"自分さえよければいい" というのは、たとえ不道徳でないとしても不合理なのである。 (P. 197)」
◆ 「(議論をするのは……多数派にとっても、よいことである) 異質な考え方・ものの見方に接することができるのは成長のきっかけになりうるし、少なくとも、知らずに人の足を踏んでいた、という事態を防ぐことができる。 (P. 206)」
◆ 「…… そして自由であるからこそ、その選択に責任を負わねばならない。 (P. 244)」
ほかにも、「(民主主義は)質より量―必然的衆愚政治」とか、「世界は100人の村じゃないから」とか、ステキな文章がたくさんありました。とくに、補論の 『「未来を選ぶ」ということ』 は、圧巻。
でもって、冒頭の「考えることは、自由になること」っていうのも、すごく好きです。
ときどきは、
(そこまで丁寧に説明しなくても、わかるよ〜!)
と、実は、少々まどろっこしく感じる箇所も. . . 。 でも、それは、著者の考え方や言葉づかいが、私のものとどこか少し似ているからかもしれません。そもそも、「ちくま新書」に、読者の誤解を招くような表現があったとしたら、それこそ問題なわけで、厳密な表現はとっても大事. . . 。
とにかく、「法哲学」って、すごーく面白い、と思ったのでした。(^-^*)
著者自身は、「 "明るく軽いトーンで" 書きすぎてしまったか?」という所感をお持ちのようですが 〈注1〉、私は、明るい感じに書いてもらえてよかった ―― お礼を言いたい気持ちでいます。
だって、西暦 2005年、世界は、すでに絶望的なことで満ちあふれているから。(*1)
(自明の悲惨な現実ばかり、つきつけられるのなんて、もう嫌だ〜!)
もちろん、一端はとことん絶望して、「それから ?」を考えることが大事だとは思っていて、だけど、私は今、単なる「告発」を超えるものがほしいのです。
『「おろかもの」の正義論』の中に、「答え」はありません。でも、大きな「希望」があります。〈注2〉
この本は、ともすれば、個として静かに淘汰されることを願い、ときには、人類の美しい滅亡さえも夢見てしまったりする、どこか投げやり体質(器質?)の私に、カツを入れてくれたのでした。
「あきらめちゃダメ. . . 」 ― It's too early to abandon ship.
そう、まだ、あきらめるのは、はやすぎますね。
私なりに、一所懸命に考えて、「未来を選ぶ」という責任と負担を、引き受けたいと思います。
未来は値すると、信じることを、選びたいと思います。
追伸
2005. 1. 04 現在。
『「おろかもの」の正義論』の売れ行きは、ちくま新書の中でも大変に良好だそうです。
やっぱり、未来は値する、みたい♪
おまけ:
注1 〉 著者自身によるウェブサイト、"Thinking like Singing" を参照ください。
更新履歴によれば、本のタイトルに「正義論」という言葉が入るのも、ご本人の意向ではなかったそうです。でも、私は、『「おろかもの」の正義論』って、いいタイトルだと思いました。「正義」という言葉が、リーサル・ウェポンみたいにされちゃってる昨今. . . 。
同サイトの、「未来は値するか―滅亡へのストラテジー」という論文も、楽しく読みました。
注2 〉 ここの "「答え」はありません"は、いわゆる正解が明示されていないとか、保留にされているとか、言うべきかもしれません。
どうやら私は、、お仕着せっぽい答えのない本に、「共感」しやすいみたい。それとも、「安心」しやすい、でしょうか? ――この本を書いた人は信頼して大丈夫、というような感じ. . . 。
そういえば、「あとは勝手に考えてね〜♪」と書いて終わっちゃう、橋本治の本なんかも、私はすごく好きなのでした。
同じように "「答え」がない"ように思えて、ふんわりしたり、しみじみしたりするのが、大島弓子 や E・L・カニグズバーグ などの、考える余地、想像の余地がたくさん残された本たち. . . 。
いずれも、かなりの度合いで、客観的、かつ、ニヒル。だのに、どこか細やかに情熱的で、決して「希望」を見失わない、といった感じのしなやかさがあって. . . 素敵です♪
そんな信頼感や憧れは、誰かと一緒にいたずらをするときの共犯感覚とも似ているみたい。 〈注3〉
そうしたことも含めて、もっと、もっと、考えてみたいと思います。
たぶんきっと、こんな場合にも、「考えることは、自由になること」 だから♪
There is HOPE when people can still find reason to live . . . .
注3 〉 「いたずら同盟」っぽい雰囲気のサイトの中から、三つ. . . 。
辺境書房 by 西村 多加
にがおえ大画報 by さいとう あきら
まちがっていたらごめんなさい〜『夢想之欠片』 by 森 珪
*1. いわゆる西暦。A.D., ap.J-C, D.C. などとも。