泣くための部屋 5 −男と女−


 ことを終えたあと、男は素早く衣服を身に着けた。女は半分瞼を開けて、その様子をもの言いたげに見ていた。

 服を着た後も、長く澱んでいた熱を放った余韻がまだ身体に残っていて、男はしばし放心した。泣いている女に対して、欲望を制御し切れなかった自分に対する後悔もあった。うつぶせている女の隣に再び身を横たえると、それでも、自らがなしたことを確かめるように、汗でしっとりと湿った女の身体をそっと撫でた。長い間張り詰めてきた力が抜け、指先まで全身が楽になったような気がしていた。

 「…ありがとう。」男が小さな声でぽつりと呟くと、女が笑った。
 「ばかね。童貞でもあるまいし。」
 「そうだな。」男もつられて笑う。
 外はすっかり暗くなり、部屋の中を照らすものはもう、向かいの建物から漏れる灯りだけになっていた。

 「ねえ、お腹空かない?」男がうなずくと、女は服を拾い上げ、軽く羽織るとベッドをするりと抜けて立ち上がり、電燈のスイッチを入れた。軽くシャワーを浴びて戻ると、テーブルの袋からパンとハムを取り出し、キッチンへ向かい、勝手にナイフを使って遅い夕飯を用意した。
 ベッドの端に腰掛けていた男もゆっくりと立ち上がると、女とテーブルに着いた。

 「ビール、ぬるくなっちゃったね。ごめん。」缶を口に運んで、女が言った。
 「ああ、冷蔵庫に冷たいのがある。」立ち上がって差し出すと、微かに笑って受け取り、美味そうに飲んだ。
 「この街のビールは少し苦いな。」
 「そう?アンタ、どこの街から来たの?」
 「つまらん街だ。」
 「…あたしもだよ。」

 そのまま黙って、パンとビールを交互に口に運んだ。味気ない食事に、沈黙。それでも、不思議と居心地は悪くなかった。急にやって来て、初めて寝た女だというのに。彼女には、人が抱えるあれこれをそのまま受け止めてしまうような不思議な何かが備わっているように思えた。女のその性質がその商売から来るだけのものとは、思えなかった。
 時々女は悪戯っぽく笑って、男の胸を指先でつつく。それが心地よくて、このままこの夜がずっと続いてゆくような気がした。
 窓に映る遠い灯りは、ひとつ、またひとつと消えてゆく。

 「そろそろ行くわ。」女は唐突に言い、それでものろのろと立ち上がると、はっきりとした口調で男に詫びた。
 「今日はごめんね、泣いたりして。」
 「いや…」
 でも、アンタも泣いていたんじゃない?
 女は言葉を飲み込むと、立ち上がった。

 「じゃ。……あんたのこの部屋、いい部屋だね。」
 泣くためには。アンタもそうだった、でしょう?
 「…何もない部屋だ。」これから、また一人に戻るだけの。

 女の職業を思い出し、男はジャケットを手に取って、そのまま逡巡した。
 「今度街で遭ったら、買って。あたし、結構高いんだけどね。」ポケットで迷っている手をはぐらかし、コートをふわりと肩にかけると、女はそのままヒールの音を立てて階上へと姿を消していった。


………

 部屋に戻った女は、鏡台の前に座って、すっかり化粧の落ちた顔と、乱れた髪を見た。
 そして少し笑った。

 もう、商売用の顔じゃないね。

 それにしても…不思議な男だわ。
 あの身体の他にも、何か言えない秘密を抱えているのかしら。あたしと同じ匂いのする男。自分の意に染まぬ何かに、その身を委ねることがあるのだろうか。あたしに教えてくれた仕事のほかに、何か罪を犯してでもいるのか。

 けれど、やさしい男だ。何も訊かずにあたしを受け入れ、慰めてくれた。あの抑えた笑顔の裏に、一体何を抱えているのだろう。

 …詮索はよそう。

 女は鏡台を離れると、ベッドにどさりと身を投げた。そしてそのまま、久しぶりに味わう、安らかな眠りへと落ちていった。


………

 去って行く女の足音を聞きながら、暫く覚えることのなかった寂寞が冷気のように、男の足元からゆっくりと上ってきた。それが胸まで達したとき、男はシャツのボタンをむしりとるようにはずすと、衣服を全て足元に落とした。

 灯りを消して、男は裸身のまま、鏡の前に立った。女がたくさんの口づけをくれた、自分の冷たい人工の膚が、ぼんやりと浮かび上がる。それがかつて暖かいものだった頃、同じように口づけてくれた女がいた。鏡の中に見つめる自分自身の影の後ろに、彼女が立っているような気がする。先ほど受けた女からの熱が、彼女からのものに変換されて身に戻ってくる。再び兆してくる欲望を、男は冷たい膚に触れて殺す。

 その膚を、全身を憎みながら、男はどこかでそれを当然のものとして受け入れてもいた。
 かつてあんなにも愛し合った、細く小柄で少年のような女。その身体は男の腕の中で、血に染まって力なくくずおれていた。二度と開くことのなかった、大きな瞳。
 彼女が身に受けた傷は、そのまま癒えることはなかったのだ。自分のこの身体がこのまま決して元には戻らないであろうこともそれと同じことだ。今日女に見せたよりも遥かに重い秘密を抱えるその身体を、男は両の腕で強く抱き締めた。

 女の腕が絡みつく暖かい感触が蘇り、男を包み込む。

 「あんただけじゃない。あんただけが特別だなんて思わなくていいのよ。」

 何もない部屋に差し込んでいる微かな明かりが、長い影を床に落としていた。


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