泣くための部屋

−Love for Sale−



 お久しぶりね。
 どうしたの?こんなところで待ってるなんて。
 角を曲がれば、アパートまですぐじゃない。寒くないの?

 街で遭ったからあたしを買う、っていうのね。
 あはは、律儀な人ね、アンタって。
 ありがとう。
 …でも、ホテルはやめましょう。今日は、あたしの部屋に来て。
 まあ、これはあたし自身への規則違反なんだけどね、見せたいものがあるのよ…。

 さあ、階段を上がりましょう。


 …………


 見て欲しいものっていうのはこれ。この箱よ。懐かしいでしょ、レコードプレイヤー。
 前に開けたのはいつだったか、もう忘れちゃったわ。
 捨てようと思ってもどうしても捨てられない古いレコードがあってね、そのために後生大事に持っているってわけ。


 あたし、歌を歌っていたのよ。
 あの陰気で、そのくせやけに目まぐるしい、壁に囲まれていたあの街で。
 ピアノに合わせて、あたしの好きな歌ばかりを歌うの。気に入らないリクエストはお断り。
 それでも、あたしの歌を聴きに来てくれる人は結構いてね、毎日幸せだったわ。だけどね……

 …ダイナ・ワシントンって歌手、知ってる?
 ブルースの女王って呼ばれてた。
 浴びるようにお酒を飲んで、早くに死んでしまったわ。
 彼女の歌う歌が好きだった。本当に、全身で溺れていたのよ。
 あんな風に歌えればって、いつもいつも思っていた。
 いちばん好きな歌は、"Love for sale"って歌。


  あたしはどんな恋も売ってるよ、本物の恋以外なら
  お望みならついて来て、階段を昇って
  あたしはどんな恋も売ってるわ
  「恋売ります」



 どうしようもなく切なくて、哀しくて、それでも強くて…怖いのよ。
 その娼婦の張り詰めた強さが、今にも壊れてしまうものに思えて、怖いの。
 そんなに凄い歌なのよ。
 大好きなのに、どうしても彼女みたいに歌えなかった。
 だから知りたかったのよ、恋を売るって、どういうことか。

 ……そしてあたしは、からだを売ったの。

 うふふ。馬鹿みたいでしょ?

 次の日、いつものように店に出たわ。
 そしたらあたしは、だめになっていた。まるで歌えなくなってた。
 いままでさんざん歌ってきた甘い恋の歌も、失恋の歌も、何もかも。
 やっと歌っても、まるで上の空よ。
 からだを売ったとき、あたしが心の箱の中に抱えていた何かが失われてしまったのかもしれないね。まるでばらばらと路上に転がってゆくガラス玉みたいに、取り返しようもなく。

 お客はどんどん店を出て行ってしまって、最後に歌うはずだったあの歌を歌う前に、店は閉められたわ。それでお仕舞い、あたしはお払い箱。
 あの歌が歌えるようになってたかどうか、もう確かめることもしなかった…。

 あとは見ての通りよ。もう、街にはあたしが身を売る女だって評判が立っていた。生きなきゃならなかったし、仕方がなかった。

 こんなになったあたしだけど、彼女のあの歌をまた…。でも……。

 
 ……………

 ありがとう…分かってくれて。アンタにも諦めた音楽があるなんて…。
 身の上話なんてして、あたしらしくもなかったわ。アンタにまで話させてしまった。
 ごめんね、せっかくあたしを買ってくれたのに。

 もうすっかり暗くなったわ…。
 ねえ、どんな恋をお望み?


 ………失われた愛。


 分かったわ。歌いなれた歌よ。
 誰かの代わり、引き受けるわ。

 こっちに来て。目を閉じて……。



 ………………



 ……こんな風に抱かれたなんて、彼女もしあわせね。
 どうしてアンタは、置いて行かれたんだろうね。


 ねえ、いつかまた来るのかしら。
 アンタとあたしが、閉じた箱を開く日は…。




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