泣くための部屋2 −女−


 もうすぐ夕食の時間だった。あたしはスーパーに寄ってパンとハムを適当に見繕った。ついでにビールを数本。これを口実に待てば、部屋に入れて貰えるかも知れない。

 アパートの、男の部屋のある階まで階段を昇ると、あたしの部屋へ続くのと同じ無機質な光景が見えた。木のドアが何の飾りもない壁の両側に幾つか並んでいる。そのひとつにあたしは足を向け、端にもたれて男を待った。
 階段の踊り場にある窓から差し込む光がどんどん長くなり、窓辺に置かれた植木の陰もそれにつれて長くなっていった。あたしはただ、黄色くなる光をぼんやりと眺めていた。

 そうしているうち、日差しは段々と赤みを帯びてきた。もう今日は帰ってこないのかしら、そんな風に思った時、足音が聞こえた。少し重く、ゆっくりとした足取り。あの男だ。

 階段を昇り切る前に、男はあたしを認め、少し驚いた顔をした。部屋の前で待っているなんて初めてのことだから、怪訝に思われても仕方ない。あたしは慌てて煙草を取り出すと彼の目の前にかざし、ライター忘れちゃって、と言い訳をした。腕を上げたその時、コートの袖が落ちて、手首の縄の痕が廊下まで差し込む夕日に晒されてしまった。あたしの唇の端が少し切れているのにも気づいたのだろう、途端、男は眉をしかめた。

 そんな目で見ないでよ。
 「同情されに来たわけじゃないんだからさ。」あたしはわざと明るい声で言った。
 よくあることよ、こんな仕事なんだから、仕方のないことよ。

 ……嘘。本当は同情されたい。思い切り優しくされ、子供のようにあやし、可愛がって欲しい。

 男はあたしの顔を注意深く見つめながら、ゆっくりと上着の内側に手を滑り込ませた。男の手にライターが握られた。それ自体はいつもの動作なのに、あたしは緊張した。
 「ちょっと待って。夕食、買い過ぎちゃってさ。良かったら一緒に食べない?」
 さりげなく言ったつもりだったのに、語尾が震えてしまった。男は改めてあたしの様子を眺めた。今日、妙に擦り寄っていくようなあたしは、彼に不信感を抱かれたとしても仕方がない。そうでなくても、彼にはどこか人を一定の距離で拒絶するような雰囲気があるのだから。
 あたしの目をじっと見据えながらライターをしまうと、男は代わりにズボンのポケットから鍵を取り出した。そして部屋のドアを開けながら、入れ、と目で合図を寄越した。

 あたしはほっと息をついて、男の部屋に足を踏み入れた。
 あたしの部屋とほとんど変わりない、何もない部屋。煙草の匂い。必要最低限の家具とキッチン。半分引かれたカーテンの向こうには粗末なベッド。ついそこに目が引き寄せられてしまって、あたしは焦った。慌ててスーパーの袋を探り、キッチンを貸して、と言おうとした。その時だった。
 「…大丈夫か?」男が低い声で一言だけ呟いた。
 あたしの中で、必死で守っていたものが壊れてしまった。全身の力が抜けた。

 「抱いて。」
 まるで中途半端な場所に立ち尽くしたまま、あたしは言った。手にはまだスーパーの袋を握り締めたままだった。
 側に来て。抱き締めて。忘れさせて。
 声にならない声を、あたしは必死に繰り返した。
                                  
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