泣くための部屋


 その客に案内された部屋は、豪奢なホテルの一室だっ た。
 金持ちの客なんてものにはもう何年もご無沙汰だった あたしはすっかり怖気づいてしまって、入り口で歩みが止まった。張りのある生地の見るからに高そうな スーツに身を包んだ客は、そんなあたしの背中に優雅なそぶりで手を回すと、調度品に彩られた部屋の真ん中にある鉄製のベッドへと促した。

 あたしなんかとの一時の行為のためだけにこんな部屋 を取るなんて、あるところにはあるもんだわ、
今日は実入りが期待できるかも、なんて思っていると、 後ろからコートをするりと脱がされた。
それを合図と思って媚を含んだ商売用の顔で振り向く と、品良く振舞っていたはずの客が嫌な感じの笑みを浮かべた。
 「ちょっと変わったことをしてもいいかな?」
 訊かれてあたしはまたか、と思った。よくあることだ から。ただ、客の表情の異質さがちょっと怖くて返事をためらった。

 …恐れていた通りだった。あたしがちょっとうつむいたその隙 に、客はあたしをベッドに押し倒すと裸にし、手足を大きく開いて手慣れた様子で縄を取り出し、四隅に縛り付けた。

 ………

 それはまるで永遠に続くように思えた。
 客の顔に張り付いた酷薄な笑み。ずっと着衣のまま で、あたしには入ろうとせず、ただ様々な異物で体を嬲り続けた。痛みに声を上げると男は興奮し、もっと泣 け、声を出せと迫った。拒否すれば首を絞められた。もう限界だと思った頃、そいつはズボンを下ろすとそれを口に押し当ててきた。抵抗すると頬を張られた。
 あたしの口に出してしまうと、満足したそいつはさっ さと元の紳士然とした様子に身をに整え、やっと両手の縄だけを解いた。そしてあたしの下腹部に、滅多 に目にすることのない高額の紙幣を数枚投げつけると悠然と部屋を出て行った。

 吐き気がした。口の中と顔はすっかり汚れて、足だけ を縛られたあたしは本当に惨めな格好だった。震える手で残った縄を解くと、バスルームに走ってあたし は吐いた。あの客に奢られた豪勢な食事と一緒に、汚らしい液体を全部、吐いて吐いて、吐き続けた。それでもまだ汚い気がして、シャワーを浴びながら口も身 体も洗い続けていると流れる水に混じってあたしの涙も流れ始め、嗚咽がどうしようもなく込み上げてきた。

 でも、ここで泣くのだけは御免だった。泣いたりするものか。こんな部屋で、一人裸で泣いたりなんてしてたまるものか。

 収まらない吐き気を堪え、よろけながら服を着ると、あたしはベッドの下に散らばった札を拾い上げた。本当は破り捨ててしまいたい。だけど、これだけ であたしの二ヶ月分の稼ぎにもなるのだ。あんな目に遭わされて、ただで帰るなんて出来ない。やっぱりあたしは商売女なのだ。

 豪華なクロゼットにかけられた自分の安っぽいコートを取って急いで羽織り、あたしはその部屋を出た。振り返らないように後ろ手でドアを閉めて階下に 降りると、ロビーのふかふかの絨毯がヒールを絡め取り、躓きそうになる。そこの立派なソファに座っている人たちの姿がまるで蜃気楼のように遠く見 える。張られた頬を隠すように、あたしはコートの襟元を立ててロビーをすり抜け、まだ日の光が眩しい表通りに出ると、急いでタクシーを拾った。早くここを 立ち去りたかった。

 タクシーの後ろの席で身を縮めながら、あたしは幾つか思いついた通りの名を上げ、適当に流して頂戴、と頼んだ。自分の部屋にまっすぐ帰りたくなかった。 運転手が怪訝な顔をしたので、探しているブティックがあるのだと嘘をついたが、その通りの名があたしが時々立つようなところだってことに気づいて、自分が 惨めになった。
 結局いつも飲みに入る安酒屋のそばで降ろして貰い、馬鹿みたいだけどチップをはずんだ。あたしは今日沢山稼いだんだから…。

 酒場に入ってカウンターの端の席に座り、昼間だけれど強い酒を飲んだ。今日は馴染みの店主とも目を合わせたくなかった。ただグラスを口に運びながら、あ たしは細かく震えていた。まだアパートには帰りたくない。あたしは仕事を住まいに持ち込むことだけは避けているのだ。こんな震えた身体のままで自分の部屋に なんて入れない。
 唇が痺れるような酒を啜り続けていたら、ふと、階下に住んでいる男のことを思い出した。時々階段ですれ違い、煙草の火を借してくれたり、ちょっ とした世間話を交わす男。それだけなのだけれど、あたしは何故だかその男に自分と似た空気を感じて気安かった。そういえば今日は夕方くらいにあの男が帰っ てくるはずの日だ。

 あの男の部屋へ行こう。 
 あたしは酒の代金を払うと、アパートに向かって歩き出した。



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