国境 |
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■足で越える |
島国である日本で暮らしていると国境というモノのイメージが湧かない。一度だけ都丸と行ったことのあるニューヨークも飛行機で入出国したため周りの人に合わせて「サイトシーイング」とでも発声しておけば問題はなかった。 陸続きの国境を自分の足で越えてみる。大きな1つの目標であった。英語もできない、手続きもよくわからない、そんな不安なラインを自分1人の力だけで横切ることができるのか。ベルリンの壁を乗り越えるような憧れに近いイメージがあった。 地球の歩き方東南アジア編やメコンの国を読めば一応の方法は載っている。読むのとするのには隔たりがある。賄賂を要求されることがあるなどと書いてあるので、くそボクはそんな金払うもんか!と心の中では決めているが実際は、通してくれるなら素直にお金払います〜という小心者になっていた。 パスポートとビザ、あとは入出国カードの記入をしてあればとりあえずは問題ないハズだ。 最初のボーダーは大阪からの出港。周りに日本人は多いしクルーは日本語も話せる。1万円さえ出せば中国[China]のビザも発行してくれるし(2003年秋から15日以内の観光目的の滞在ならばビザ不要となった)、2泊すれば上海[Shanghai]に着く。入国スタンプを押してもらい両替すればココはもう中国[China]だ。あっけない。これからの寝る場所や食べ物は自分で探して自分で交渉しなければいけない。不安は大きくあったが感慨はない。 北京[Beijing]⇒麗江[Lijiang]⇒大理[Dali]⇒昆明[Kunming]⇒河口[Hekou]と電車とバスを乗り継いでいよいよベトナム[Vietnam]へ渡ることとなった。国境の町・河口[Hekou]は2月だというのに少し蒸し暑い。夜も他の中国[China]の町よりも活気がある。民族の血が混じっているからか美人が多い気もする。いよいよ南国なのだというムードがある。翌朝中国銀行で余った元をUS$に替えてもらっている所でコージくんに会った。内心あー日本人が居て良かった助かった、と思いながら市場で買った饅頭でもどう?と見栄を張って旅慣れたフリを見せてみた。この時のボクは人には頼らず自分自身で全てを解決するという意志をまだ持っていたから。実はコージくんはエジプトのピラミッドにも登った経験があるツワモノで、ベトナム[Vietnam]縦断中は一緒に行動して助けてもらうことがしばしばだったのだけれど。 国境での手続きはだいたい以下のようなものだ。 まずこれまでいた国での出国審査。その国に入る際に記入した出入国カードのうち切り離された出国用カード部分が残っているはずなので必要事項を記入して提出すればいい。出国用のスタンプが押される。次の国へ行ってしまうと両替ができないこともあるので、余った通貨は事前に両替しておくかUS$に戻しておくといい。ただ国境付近でのレートはあまり良くない。 そして国境を渡り入国審査。備え付けの出入国カードを記入してパスポートとともに提出。目的は?滞在日数は?と簡単な質問を受けることがある。ビザが必要な国では事前に大使館等で取得しておかなければならない。ビザはパスポートにシール状のモノを貼られることが多いがスタンプだけのこともある。30日滞在できるビザでだいたい20$〜50$といったところ。即日発給を申請する場合はエクスプレス料金として値が上がる。 税関の手続きも必要だが東南アジアでは申告書に記入するだけで、かばんの中身までは調べずに省略されることが多い。タバコやお酒といったものを持っていた場合申告しなければならないのだが余計な手間がかかるためたいていは「Nothing」にチェックすればよいようだ。 この他に検疫といって健康上の調査を受けることがある。これも申告書に発熱・嘔吐がなかったか?過去2週間以内に訪れた国は?などという事項を記入するだけである。が、特にボクが旅行した時期はSARSと鳥インフルエンザというやっかいな伝染病が広まっていたため、国境にマスクをした医療関係者が立ち会っていたり、空港ではサーモグラフィーで体温を測定し異常者は別途診断室に連れていかれたりなどということもあった。 中国[China]からベトナム[Vietnam]へ。ボクが持っていた古い版のガイドブックでは国際列車が通る線路沿いに渡る道しか書かれていなかったのでそこを歩いて渡ろうとしたら止められた。どうやら新しい橋ができているようである。中国[China]側で出国手続きを済ませ橋を渡ってベトナム[Vietnam]側の国境へ行く。たまたま日本人3人と一緒になった。心強い。ケンさんなんか迷彩服にズダ袋という誰が見ても怪しい格好だ。入国審査でひっかかっても文句はいえないだろうが慣れたもので早速ベトナム人と談笑している。残金5万円でインドまで行こうというのだからなかなかの覚悟だ。 出入国カードに欄に『Occupation』とあった。皆で何これ?と頭を寄せ合う。1人が辞書を取り出して『職業』だとわかる。『Job』とか『Work』とか簡単な英語にしてくれればいいものを習ったことがあるかもわからない単語を使われても困る。ボクは仕事を放棄してきたのだけど『Engineer』と書く。 国ごとに記入内容が少しずつ違っていたりしてブルネイ[Brunei]に入国する時は『Race』(人種?)という欄があったり、ラオス[Laos]のビザを申請する時は『Relationship』(?)という欄があったりしてポケット辞書を持っていたボクもなんと書いたらよいか悩んでしまった。 ベトナム[Vietnam]の国境は人が悪く賄賂を要求することがあるがそれは運次第と書いてあった。例えばパスポートを机の下に隠して返してくれないとか子供だましのような方法だ。そうやって小銭を稼がなければならないくらいアジアは貧しいのだろうか。しかしボクが越えた時はそんなそぶりは全くなく、早く行けという感じで淡々と事務作業をこなしているだけだった。あっさりと入国用スタンプが押されベトナム[Vietnam]に入国できた。新しい国の土を自分の足で踏みしめるという喜びを期待したがなんということもなかった。いくつの国境をまたぎどの国に行こうとそこに何があるというわけでもなかった。所詮は狭い東南アジアという地域でしかないのだから。 両替おばちゃんを振り切って銀行を探し、2万円ほど両替してハノイ[Hanoi]行きの列車に乗った。椅子は固く速度は緩いが窓から吹く風は涼しかった。 |
■ボートで30分 |
インドネシア[Indonesia]のスラウェシ[Sulawesi]島北部からフィリピン[Philippines]へ国際船が出ているという情報があった。過去そこを渡ったことがあるという日本人の旅行記もネットで見つけた。港町ビトゥン[Bitung]へ行きFajar Lineという会社を訪問する。数年前まではフィリピン[Philippines]行きの船はあったけど今はもうないのだという。他に行く方法はないか?と粘ると、タフナ[Tahuna]まで行けばあるかもね?といういい加減な答えをくれた。しかしこの情報に頼るしかない。船で行けないならばマナド[Manado]から飛行機(180$)を使うことになる。ココまで8ヶ国を陸海路だけで来たんだ。こんなところで断念してたまるか、という思いもあった。わずかな期待を持ちながらタフナ[Tahuna]行きのチケット22600Rp(≒300円)を買い船に乗りこんだ。 カトリーナという名にふさわしくオンボロで汚い船。かつては運送用の船だったものを改造したらしくクルー以外の座席はない。平らな汚れた甲板にホロが張ってあるだけという作り。乗客はダンボールや新聞紙をしいてそこで横になる。風が吹けばモノは飛ばされ雨が降れば水びたし。こんな奴隷船のようなモノが現役で働いていることが驚きだ。どんぶらことよく揺れるし速度も遅く小さなスピードボートに簡単に抜かれる。 そんな船で一泊してタフナ[Tahuna]という島に着く。同じ船に乗っていた、かつて税関の仕事を数十年していたサディという高木ブー似のおじさんが親身に話に乗ってくれた。フィリピン[Philippines]に行きたいのか?とイミグレ(入国管理)の兄さんに話をつけてくれる。兄さんは問題ない行けるはずだという。この船に乗ったままマロレ[Marore]へ行けという。ほっとしてもう一泊その船で泊まった。 夜遅く、車もバイクもない小さな島マロレ[Marore]へ到着し、その夜はサディ宅にお世話になることになった。といってもマットレスのない固いベッドに新聞紙だけ。風通しが悪く蒸し暑い割には蚊が多いという寝るにはしんどいところだった。道を隔てて隣の立派な建物は『Philippines Border Station』と看板が掲げられており本当にココからフィリピン[Philippines]へ行けそうな気がした。こうやって自分だけのルート、誰も行かないような国境を越えることにオリジナリティという価値を見出そうとしていた。 翌朝、インドネシア側のオフィスへ行き出国の手続きを試みようとする。前例のないことらしく、無線でマナド[Manado]の偉い所に繋ぎ訊いてもらうことになった。電波の調子が悪いらしく話をできる状態ではない。1〜2時間待たされたあとで満面の笑みとともに答えが返ってきた。 「Bagus!(Good)」 やったこれで国境が越えられる!うざったいインドネシア人とはおさらばだ。と思ったのだが、 「Bisa?(I can?)」行けるの? 「Tidak Bisa(You can’t)」ダメ おいおい何がバグースなんだよ!その笑顔はなんだったんだよ。無線の電波が通じたことがうれしいのか?元々無理だとはわかっていたけどわずかな可能性にかけてココまで来たんだ…。引き返すしかないのか。飛行機に乗るしかないのか。たびそらの船の墓場へ編のような脱力感だった。 ボートでたった30分。北へ進めば隣の島はもうフィリピン[Philippines]だ。なのにそこへは行くことができない。このボーダーステーションは家族や親戚同士が行き来するためにのみ存在しているものなのだという。外国人は渡航できない。 この島には観光名所もきれいなビーチもない。食堂も宿もない。百人住んでいるかどうかという小さな島だ。そしてこの島を出る次の船が来るのは6日後だという。いったいボクはこんな所で何をしているのだ。長い長い6日間だった。読む本はない。交流する言葉も意欲もない。ただなんとなく空と雲を見て過した。のんびりするのがいいのだという旅行者もいるがボクにはあわない。 |
■物足りなさ |
全ての荷物を調べられた上危険な人物ではないかと厳重に審査される。国境にはそんな恐いイメージがあった。しかし日本人だというだけでポンとスタンプ。そんなあっさりとした手続きに拍子抜けし物足りなさも感じていた。 東ティモール[East Timor]へ入国する時が最も厳しかった。独立後1年ちょっとという不穏な空気のせいだろう。やっぱり国境はこうでなくちゃと擦れた満足感があった。山さんはタイで購入したエロVCDを取り上げられたのだ。貧しくても国境。VCDの中身をチェックするくらいのPCは持ち合わせていた。 陸海路で越えられない国境もある。台湾[Taiwan]⇔中国[China]間は距離的に近いのに政治的な問題から船はない。ミャンマー[Myanmar]はいまだ軍事政権が鎖国的政策をとっているため陸路入国は不可。空路でのみの入出国しかできない。 ボクにとって国境というのは、その国を通ったというスタンプを埋めてもらうためだけのモノでしかなかったのかもしれない。所詮東南アジア。国が変わったからといって大きな違いはない。アフリカ・中東・ヨーロッパ・南米…そんな所へ行ってみないとより大きな驚きを感じることはできないのかもしれない。 |
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