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6.4 |
総ての文は対等だ。
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6.41 |
世界の意味は世界の外に在るはずだ。世界においては総ては在るがままに在り、生じるがままに生じる。世界の中には何の価値も存在しない――それに、存在したとしても、それは何の価値ももたないことだろう。
価値をもつ価値なるものが存在するならば、それは総ての生起と相在〔So-Seins〕の外に在るはずだ。総ての生起と相在は偶然的なのだから。
それを非偶然的にするものは、世界の中には在り得ない。在り得たとすれば、そのことはまた偶然的だろうから。
それは世界の外に在るはずだ。
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6.42 |
したがって、倫理の文なども存在し得ない。
文は高次のものを何も表現し得ない。 〔6.421-6.423〕
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6.43 |
善き志なり悪しき志なりが世界を変えるにしても、それは、ただ世界の限界を変え得るだけであり、事実全般を変えることはできない。言語によって表現され得ることがらを変えることはできない。
要するに、世界は、そのときそれによって、そもそも別ものになるはずだ。世界は謂わば全体として減るか増えるかするはずだ。
幸福な者の世界は不幸な者の世界とは別ものだ。 〔6.431-6.432〕
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6.44 |
世界がどのようであるかではなくて、それが在ることが神秘だ。
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6.45 |
永遠の相のもとの〔sub specie aeterni〕世界の観想は、全体――限定された――としての世界の観想だ。
限定された全体としての世界という感じが神秘だ。
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