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5.535 |
それとともに、そうした見かけの文に結びつけられていた総ての問題ももう片がつく。
ラッセルの「無限公理」に伴う総ての問題は、これでもう解かれ得る。
無限公理が述べているとされることがらは、相異なる意義〔Bedeutung〕をもつ無限に多くの名称が存在することを通じて、言語において自ずと現われることだろう。
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5.5351 |
ひとが「a = a 」なり「p ⊃ p 」なりといった形式の表現を利用したい誘惑に駆られるような或る種のケースが存在する。しかも、それは、ひとがプロトタイプ、つまり、文、もの等々について語ろうとするときに起る。例えば、ラッセルは、『数学の諸原理』において、「p は文である」というナンセンス〔den Unsinn〕を「p ⊃ p 」によってシンボルに表わし、或る種の文の前に仮定として置いている。それらのアーギュメントの座がもっぱら諸文によって占められ得るように。
(或る文に適切な形式の諸アーギュメントを確保するために仮定 p ⊃ p を当の文の前に置くのはナンセンスというものだ。なにしろ、その仮定は何か文でないアーギュメントに対しては偽ではなくナンセンスになるのだし、当の文も、それ自体が不適切な類のアーギュメントによってナンセンスになるため、自らを不適切なアーギュメント全般から護るということにかけては、その目的で附け足された件の無意味な〔sinnlose〕仮定と同じ役割しか果たさないのだから。)
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5.5352 |
同様に、ひとは「何ものも存在しない」を「〜(∃x ) . x = x 」によって表現しようとすることだろう。だが、たとえこれが文だとしても――それは、また、「諸物が存在する」にはするもののそれらが何れも自己自身と同一ではない場合にも、真なのではないか?
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