論理哲学論考 1-7 5.1-5.6 5.41-5.47 5.471-5.476
      
5.473 論理は自らの面倒は自らでみるはずだ。
可能な記号はまた〔何かを〕表示し得るはずだ。論理において可能なことがらはまた許されてもいる。(「ソクラテスは同一である」は、「同一」と呼ばれる属性など存在しないため、何も意味しない。この文はナンセンスだ。それは、我々が何の恣意的な規定も為していなかったからであり、件のシンボルがもっぱらそれ自体で許されていないからではない。)
我々は、或る意味で、論理においては誤り得ない。
5.4731 ラッセルがしきりに語ったあの自明性は、言語そのものがあらゆる論理的誤りを阻むというただそれだけのことによって、論理においては不要になり得る。――論理がアプリオリであることは、何も非論理的には考えられない点に在る。
5.4732 我々は記号に不適切な意味を与えることはできない。 〔5.47321
5.4733 フレーゲはこう言う: 適切に形成された文は何れも何らかの意味〔einen Sinn〕をもつはずだ。一方、私はこう言う: 可能な文は何れも適切に形成されており、もしそれが何の意味ももたないならば、それは我々がその成分の幾つかに何の意義Bedeutungも与えていなかったせいでしかあり得ない。
(たとえ我々がそうしたと信じているとしても。)
例えば、「ソクラテスは同一である」は、我々が「同一」の語に形容詞としての何の意義も与えていなかったのだから、何も述べはしない。というのは、この語は、それが等号として現われる場合、全く別の仕方でシンボライズするのであり――それが表示している関係は何か別のものであり、――したがって、当のシンボルも両ケースで全く異なるからだ。両シンボルはたまたま当の記号を共有しているだけだ。