現在の名称    :存在せず(廃寺)
足利時代の名称
  :楽音寺(がくおんじ)

所在地   :三重県上野市坂之下
木津川断層涯、標高約300mの山上にいたる急坂にあった中世寺院。現在は標高約250mにある法0m程の平坦地に国分寺という小堂がある。それより山上に至る間により広いへい平坦地があり、盗掘された経塚跡がある。
楽音寺については、寛永14年(1637)の書判のある歴応2年(1339)8月の伊賀楽音寺縁起(三国地誌)と伊賀国楽音寺住僧等言上状(坂之下区保有)の写本がある。同縁起によると、当寺は文徳天皇の勅願により円仁の開基。本尊薬師仏。応和3年(963)頃落雷で本堂は焼失したが本尊は無事で、天禄元年(970)国師が精舎を建立、長元6年(1033)料田を寄進した。建武元年(1334)国司山田禅門が三昧料寄進、同2年国領寄進、同4年には守護仁木義長が寺内に城郭をかまえ、南伊賀、名張の凶徒の侵入を防ぐのみならず、守護領山と丸柱保(現阿山郡阿山町)を寄附したと述べる。
当寺足利尊氏・直義は一国利生塔を各国に一塔づつ建立する計画で候補寺を選んでいたが、同縁起はこれをふまえ、これほどの寺であるから早く塔婆を当寺に建てて料所を与えて欲しいと最後に主張している。しかし楽音寺に建てられたという史料は無い。
現在の国分寺小堂よりさらに山上に2ヶ所ほど寺院跡と推定されるところもあり、手洗石鉢も現存する。下って天正9年(1581)寺は織田信長の伊賀攻めで焼失したといわれる。
その後藩主の藤堂家が寺を再建、薬師像を寄進したが檀家が無いため荒廃し、薬師像も盗まれた。
享保7年(1722)には楽音寺は国分寺と改称される。
                
日本歴史地名体系  三重県の地名 より
「国分寺」(全国国分寺番外編参照)の石碑が残る道を入るとすぐに急な上り坂になる。奥醍醐寺への道よりもきつく狭い。道の表面は竹の落ち葉で深く覆われ気をつけて登らなければすべり転んでしまうようである。もし人と出会えば驚いてしまうような山道であった。およそ10分弱であろうか「国分寺」の小堂に着いたが、そこからは道がみつからず先に行くのをあきらめた。革靴の軽装では先は一寸無理。

途中には崩れ落ちた土塀で作られた山門のようなところもあり、確かに山城の様子が見られた。

2001/06
楽音寺跡入り口
国分寺