世田谷代官屋敷 せたがやだいかんやしき
都指定史跡
(大場家住宅主屋及び表門 国指定重要文化財)
東京都世田谷区世田谷1丁目
世田谷代官屋敷
世田谷通りの南に面して走る通称ボロ市通りの南側にある。近江彦根藩世田谷領の代官であった大場氏の屋敷で都指定史跡。寛永10年(1633)彦根藩主井伊直孝に関東で2万石が加増され、うち2306石余が世田谷領であり、世田谷村20ヵ村といわれた。大場氏はもと吉良氏の有力な家臣で、天正18年(1590)主家が没落した後は世田谷に土着。寛永10年彦根藩世田谷領が成立すると、市之丞吉隆が代官役に起用され、合力米70俵が与えられていた。明治4年(1871)の廃藩置県まで代官職を世襲した。10代弥十郎景運は天明飢饉の影響などで荒廃していた村々の復興に大きな功績をあげ、文政13年(1830)士分に取り立てられている。大場氏は居宅を役宅として代官の執務を行なった。現在の建物は当時世田谷村名主で世田谷宿の問屋役であった盛政が元文2年(1737)に建築、宝暦3年(1753)に表門の建築など代官屋敷として大規模な改修を加えたものと推測されている。茅葺・寄棟造の主屋および同じく茅葺・寄棟造表門(長屋門)は国指定重要文化財。敷地内に世田谷区立郷土資料館が設けられている。大場家に残る天正6年から幕末にいたる文書1300余点は都指定文化財。
日本歴史地名大系
東京都の地名
大場家住宅主屋及び表門
主屋は屋根を寄棟(よせむね)造り茅葺(かやぶき)とし、式台が付く平屋建ての建物で、規模は桁行(けたゆき)9.5間(17.3m)、梁間(はりま)6.5間(11.8m)としている。間取りは多室形式で7部屋からなっている。南西の隅には蔵前を介し、文化12年(1815)に建てられた内倉がある。
一方表門は屋根を寄棟造り茅葺とし、規模は桁行23尺(6.5m)、梁間12尺(3.6m)である。長屋門形式をもち、正面右手に番所、左手に潜戸が付く。番所には表に面格子窓、内側に与力窓が設けられている。建築年代は大場家文書などから元文2年(1737)に主屋が建てられ、宝暦3年(1753)に式台がつけられたと思われる。また、表門は、資料は無いが、宝暦3年ころの建築と推定されている。
大場氏文書記録
所在:大場家代官屋敷保存会
大場家文書は総数4200点余、うち3点が中世文書で、他は近世近代の文書である。同家が彦根藩世田谷領の在地代官であったことから、当然に代官の役職に付随する文書が多く、代官研究の貴重な史料となる。なお、天正6年(1578)の「楽市掟書(らくいちおきてがき)」はボロ市の起源を語る重要な郷土史料である。
せたがやの文化財
世田谷区教育委員会
東京の区内に代官屋敷が残されているなんて当初信じられなかった。というのは代官というと幕府が天領に置いた代官を思い出し、したがって代官屋敷は地方にあるものと思っていたのである。ところが調べてみると彦根藩井伊家の代官屋敷ということである。なるほど、世田谷は現在23区の中にはあるが、江戸時代は「江戸、朱引き外」であり、いわゆる郊外に当たっているので、大名領だったと思い当たった。各大名も代官を置いていたのだ。
代官屋敷といえば飛騨高山の陣屋が思い出される。たしかそこには白州跡というのがあったと思うが、この世田谷代官所にも白州跡がある。ただ、白州の石はやや大きめの茶色い石である。ここに茣蓙を敷き座らせたのだろうか。
なお、大場家の旧主人、吉良氏の暮らしていた「世田谷城」の跡と、その後の主人井伊氏の江戸菩提寺「豪徳寺」はこの代官屋敷のすぐ北にある。
表門
内側から見る表門
主屋 この写真の右側に表門がある
主屋 横から
白州跡
白州への出入り口
代官屋敷の位置