世田谷郷 中世の世田谷は世田谷吉良氏の8代、二百数十年間の館の地で、上野国飽間から吉良治家が鎌倉公方北条基氏の命により当地に入部し、6代吉良康が北条氏綱の女をめとって、小田原・世田谷・江戸という政治線を確保して全盛を極め、「世田谷御所」といわれるほどであった。この館を中心に宿駅がおかれて、商業交通が発展、勝国寺などの大寺や、安藤・相原・関・大場氏らの有力な家臣を配置していたが、天正18年、小田原北条氏の滅亡と共に城は衰退した。城跡は江戸期には古城山とよばれていた。 日本地名大辞典 角川書店 都指定史跡 世田谷城跡 南北朝時代(1331-91)の中頃、鎌倉府の支えとして、足利氏の一族、吉良治家が築城したとされ、寺域は豪徳寺の境内を含めた台地全体に及んでいたと見られる。 鎌倉公方足利持氏の時代(1409-39)の文献によると、鎌倉府における吉良氏は、公方の次の関東管領上杉氏に次ぐ第三位の位置にあって、吉良殿様とか世田谷御所様とか呼ばれ尊敬されていた。 吉良氏は、小田原城の北条氏の勢力が武蔵の国に及ぶと、北条の女を室としてその傘下に入っていたが、天正18年(1590)八代吉良氏朝のとき、豊臣軍に世田谷城を開け渡した。 昭和五十七年十一月 世田谷区教育委員会 |
豪徳寺(リンクあり) 曹洞宗大谿山豪徳寺は、吉良氏の館に隣接し、文明12年、吉良政忠が伯母弘徳院のために建てたという。当寺の招き猫によって落雷を免れた彦根井伊氏の菩提寺となった。境内とその周辺は豪徳寺10景の名で有名。幕末には井伊直弼が葬られた。 |
八幡社 鎮守八幡社は、源義家が奥州平定後、弓矢・旗を納めた社と伝えられ、吉良頼貞が天文15年に新造したことを示す棟札があった。その折に備前雲次の大刀一振りを奉納したと伝える。永禄元年の北条氏の鶴岡奉納相撲にはじまる相撲行事が毎年8月15日に行なわれた。 |
勝光院 浄土宗金谿山龍鳳寺ともいう勝光院は、建武2年吉良治家の開基、天文15年に、吉良頼康、法号勝光院が中興開基。元禄11年9月銘の鐘があった。この寺の墓地には吉良氏代々の墓がある。 |