現在の名称 :紀伊安国寺跡
足利時代の名称 :安国寺
所在地 :和歌山県那賀郡打田町久留壁
辺土村
当地の真言宗極楽寺は「続風土記」に「本尊地蔵菩薩、相伝ふ古此地に安国寺という寺あり、安国寺は歴応2年足利直義各州に令して安国利民のため建てるところの寺なり、しかるに土人の伝えには安国寺を行基の開基という(中略)後世寺廃してそばに極楽寺とありしを、安国寺の跡に移し2寺をあわせて1寺となししなり、今堂内に安する阿弥陀如来は安国寺の本尊なり、什物恵心の筆の三尊の阿弥陀、行基の筆の自像、兆殿司か画ける涅槃像、琢磨法眼か筆の二十五菩薩、空海の画ける蓮絵二幅及弁財天像等あり」と記される。
日本歴史地名大系 和歌山県の地名 より
安国寺跡
指定年月日 昭和五十年十二月二十五日
管理者 久留壁寺役
概要 安国寺は南北朝時代に足利氏が全国国ごとに設けた寺塔で、その頃は吉野の南朝方の勢力が振るわず、北朝の足利尊氏は征夷大将軍となり、武家の勢力はまさに全盛を呈していた。暦応元年(1338)足利尊氏の帰依をうけた臨済宗の無窓疎石の勧めで、尊氏、直義兄弟が、元弘以来の罪を消滅するために、後醍醐天皇以下の戦没者の霊を祭り、また吉野の朝廷に対して足利氏の勢威を誇示して人心を按撫するために、全国六十六カ国に一寺一塔(安国寺と利生塔)を建立する計画を立て、南北朝中期には殆ど全国に完成した。紀伊国の安国寺は打田町大字久留壁に建立されたといわれている。
現在の地蔵院安国寺は江戸時代にその跡に建てられたもので、「紀伊続風土記」や「紀伊国名所図会」には、安国寺の跡に建てたもので、安国寺の什物を移した寺と見えているが、今では往時をしのぶものは何もない。(中略)
昭和十年に藤岡長和知事が「地蔵院安国寺」の額を書いて掲げているのも、由緒ある寺であることを物語っている。
地蔵院安国寺は江戸時代に庶民の観に広まった地蔵信仰が反映したもので、室町幕府の禅寺から江戸庶民の地蔵信仰の寺へ移行したものである。
打田町史跡史料より
打田町史跡史料より
打田町教育委員会に「極楽寺」の存在について問い合わせたところ、それは存在せず「安国寺跡」として町が「史跡指定」しているとのことで資料をファックスでお送りいただいた。
紀伊安国寺はリストでは「不明」となっていたところであるがはからずも「跡」として確定でき幸いである。
打田町教育委員会のご担当の方には心からお礼申し上げます。
2002/02
訪問記
紀伊安国寺跡は紀伊国分寺跡と同じ打田町にあった。
国分寺跡にある歴史民族資料館の学芸員さんに「次は安国寺跡を見に行くので場所を教えていただきたい」とお願いすると「案内しましょう」と気楽にご自分の車に乗せていただき案内していただいた。
跡に残るのは小さなお堂だけである。そのお堂もそう古いものではない。江戸時代地蔵信仰で建てられたお堂が更に再建されたものであろう。右脇には古い石像などがたくさんある。やはり「中世安国寺」を伝えるものは何もない。
中世安国寺は、多くは後ろを山に囲まれたところに建てられ、軍事基地もかねるという意味がわかるような気がするが、紀伊安国寺跡は平地にあり、立地が違うなという感じがする。
学芸員さんは「国分寺は一段落が着いたので安国寺も今後研究してみたい」といっていた。「安国寺跡」としてささやかでもいいから整備されれば幸いと思った。
2002/11