◆現在の名称:史跡紀伊国分寺跡歴史公園

◆所在地  :和歌山県那賀郡打田町東国分
◆宗派    :
◆交通    :JR和歌山線 下井坂駅 車


和歌山市から京都までの国道は24号線である。国道24号線が京都への出発点である和歌山市の市街地を抜けると間もなく「紀ノ川」の土手に沿って東に向かう。国道24号線が「紀ノ川」を「岩出橋」で横切りバイパスに入ってホンの少し行ったところを北にそれると「史跡 西国分塔跡」という処に出た。でも、「出た」と表現できるものではなく、見かける人に聞いて歩いた結果として「出くわした」という表現が合う。
さらに「紀伊国分寺跡」を探すのがまた大変。ただ今日幸いであったのは稲の刈り取りの最中であったのでお年寄りが大勢田圃の中に居たことであった。そして探し求めた「紀伊国分寺」は「紀伊国分寺復元工事。***工務店」ってところであった。田圃の中に、建物の柱、梁などが出来上がり、これから外装工事にかかろうと言う建物の状態である。

しかし凄く不自然な感じを受けた。基礎に使われている石が天平の石ではない。側に屋根に乗せる瓦が積まれていたが、それも天平の文様ではない。おそらく暫く後に建てられた「その後の国分寺」の再現をしているとしか思えない。そして、そのまわりには関連する遺構が全く見あたらない。

でもいい。何かしているから。「紀伊国分寺跡」を残そうと思っているから。「西国分塔跡」には塔の中心となる柱をささえた礎石が発掘されているが、国分寺に付属する七重塔の
跡ではないのであろう。「国分寺跡」とはあまりにも離れすぎているから。

「紀伊国分寺跡」は案内板もなく、地図で見つけるのは全く困難である。土地のお年寄りに教えてもらうしか見つける方法がない。

1990/10


再訪記
今回の紀伊国分寺跡訪問は前回から12年たっている。前回は跡がどこにあるか事前の調査ではわからなかったものであるが、今回車のナビゲーターをセットすると「紀伊国分寺」が出てくる。これには驚き、期待も高まった。
大阪から高速阪和道に出て泉南インターを降り、岩出方面に向かう。根来寺入り口を過ぎ少し行ったところで県道粉河加太線を東に入り中三谷の交差点を右折、南に信号を2つほど行ったところの右側に「史跡紀伊国分寺跡歴史公園」があった。
1990年には何も無かったところが歴史公園になっているのだ。
公園のほぼ中央に国分寺本堂がたっている。これが前回訪問時に復元工事をしていた寺なのである。そして周囲に天平時代の国分寺の伽藍基礎が復元されていた。
金堂、講堂、塔など主要建物全ての基壇が復元され、塔の跡には全ての礎石が発掘復元されている。
紀伊国分寺跡は全国の国分寺跡の中でも高度に整備されたところとなっていた。
本堂は江戸時代のものが傷んだまま現存しており、それを保存修理したものだそうである。「紀伊名所図会」に江戸期の本堂が画かれていたがそれが保存されたのだ。これはこれで面白い取り合わせと思った。
南門手前から
南門から
塔跡と奥に金堂跡
本堂の建っている所が講堂跡
本堂の立つ講堂跡とその後ろ僧房跡
紀伊名所図会「国分寺」
発掘中の塔基壇と礎石
   打田町パンフレットより
歴史公園の全貌と年度別復元工事の内容
           
打田町パンフレットより
歴史公園の南西端には「歴史民族資料館」が設置されていた。
展示品の量は多くはないがコンパクトにまとまっており、また、映像により歴史を説明してくれる。
これで無料であり、ここには学芸員さんが常駐し説明もしてもらえる。

歴史公園の整備総事業費は508百万円とパンフレットに書いてあり、事業期間15年間を平均すると1年間に34百万円の費用をかけていたこととなる。町の規模でこれだけの費用を長年にわたり支出していったことは簡単なことではないと思うし、今後の経費も継続支出となることで、関係者のご努力には頭が下がる思いである。

2002/11
資料館内の国分寺模型
打田町歴史民族資料館