吹屋(吉岡)銅山 (岡山県高梁市成羽町吹屋)   1/3  
           ふきや(よしおか)             ・Photo:2007年・冬  ・更新:2008.11



  吹屋銅山は一般的にはあまり知られていない。インターネットが普及してから鉱山に多少とも興味のある方が徐々に広めていった、という感じである。かく云う私も同様で”吹屋銅山という鉱山が岡山のどこかにある”ぐらいのことしかしらなかった。そこで調べてみるとなかなか面白そうな銅山である。一度は行って見る価値ありかな?と思い早晩行ってきたわけです。結論から先に言うとなかなか面白い銅山でした。先ず最初の写真にあるように”露頭”が文字どうり露出している。他の鉱山でも露頭はあるのだがここほどはっきりそれと分かる露頭は私の知る限り珍しい。そしてその露頭から堀り進んでいった狸堀りの跡も写真でみるようにはっきりとわかる。大変勉強になる銅鉱山である。第二に坑道内部の広さ。驚く広さである。
 
 ここ吹屋銅山は西暦807年、平安時代に発見され採掘が始まったと地元に伝わる古文書にはある。当初は銀産出が目的だったが後には銅や硫化鉄鉱(磁硫鉄鉱)も産出するようになる。この硫化鉄鉱が酸化第二鉄、いわゆる当地を有名にしたベンガラ(ローハ)の原料である。発見されてから戦国時代までの長い間のことはあまり詳しくは分からない。戦国時代に入ってからは戦国大名の財源としての価値が高まり山陰の尼子一族や広島の毛利一族などが銅山の争奪戦を繰り返す中で江戸時代に入ってからは徳川幕府の天領(直轄地)になる。この頃から泉屋(現・住友グループ)が幕府に対し鉱山の採掘権を手にし坑内の排水などの近代化を進め採掘量も一挙に増える。しかし泉屋は愛媛の別子で進めていた別子銅山の開発に力を注ぎ吹屋銅山からは手を引くことになる。その後1700年頃〜1850年頃までは福岡屋が経営権を握り採掘を続けていた。明治に入ってからは三菱鉱業に経営権が渡り、それまで以上に採掘方法や選鉱方法、製錬方法などに積極的に近代化を取り入れ飛躍的に生産量が増えた。明治・大正時代は”富国強兵”政策により鉱山経営も順調だったが鉱石品位の低下などにより1931年(昭和6年)についに閉山となる。その後、一度は太平洋戦争終了後に復活するが1972年(昭和47年)再度、閉山となり現在に至る。


 銅鉱山の露頭です。ここもこれを発見してからここから堀進んでいった。そして下の写真にあるように大規模な銅鉱山に発展した。


 吹屋銅山前の広場です。右の建物が料金所。入坑にあたってヘルメット着用義務です。もちろん貸してくれます。三菱系だけあってさすが何事もそつがないですね。  入坑です。白いのは雪です。でもそれほど寒くはなかった。それでは楽しんできます。


 観光用のこの坑道は”笹畝(ささうね)坑道”(笹畝鉱山)と云って数ある坑道の中の一つだ。ほかに吉岡鉱山、小泉鉱山、本山鉱山、大滝鉱山、などなど多数存在する。ただどれも金属鉱山としては規模は小さい。これらを全部総称して「吹屋銅山」という。


どことなく生野銀山に似てます。三菱系だからか。  入坑したときは暗くて分からなかったが帰って写真を見ると出水の色が・・・?。画像を加工処理したからなのか。あるいは銅分が含まれるとこんな色になるのか?


 いくつかあるうちの閉塞坑道の一つ。かなり奥まで続いている。  掘った鉱脈の跡。だいたい50〜60cmから1m強の”厚み”で堀り進んでいく。だいたい鉱脈は一般的に垂直に近い斜角度で巾と深さが数100mぐらいで厚みが1mぐらいの規模が最も多い。もちろん例外もある。そんな鉱脈が一枚だけではなく多数あるのが一般的だ。


黄銅鉱の鉱脈。キレイですね。  硫化鉄鉱の鉱脈。この鉱物から鉄はもちろん硫酸もつくる。硫化鉄鉱では岡山の”柵原鉱山”が有名だ。


 おなじみのマネキンさん。江戸時代以前のかっこうだ。  近くにあった硫化鉄鉱の鉱脈。突き当たりだった。ここで鉱脈が終わりなのか。(多少PC加工しています)


笹畝観光坑道はL写真の右上赤枠で「現在位置」とある箇所。 黄銅鉱鉱脈の説明である。


 この吹屋銅山に入ってビックリ。なんと・・・内部がと、と、とっ、とてつもなく広い! まるで天井の高いホールだ。まさか観光用にここを掘ったわけではなかろうに。それにしてもここが元は鉱石でぎっしりだったのかと思うとすごい。鍾乳洞のように空洞だったのだろうか?そんな風には見えない。その辺を聞くのを忘れた。あちこちの鉱山を行っているがこんなに広い空洞は初めてだ。


 階段を手前側に登ってきてまもなく出口だ。下から入って上に出る、かっこうだ。丸太ではなくコンクリートの階段でしっかりしている。


 枠組みもいかにもしっかりしている。不安がない。 枠組みがない。岩盤が固いようである。


                                
 実際にはこんなに明るくない。坑道の壁など暗くてほとんど見えない。出来れば鉱脈などもっとよく見たいものだが。興味のある方は懐中電灯など持参されたほうがいいだろう。
                                    


 鉱脈が走ってます。上の坑道写真の一部です。


 出口の最後の階段。ステンレスの手すりが水滴でビチャビチャ状態でした。しようがないけど。  出口。ここから出てきました。入り口より10mぐらい海抜が高い。


出口を下から見たとこ。  下に見える手前の屋根が料金所。そして雪がUの字型に溶けているところが入り口。


最初の写真と同じ黄銅鉱の”露頭”。よくわかるように大きな看板があります。


 これは製錬所の跡である。昔は”床場”と云っていたらしい。出口からすぐの所。読めないので別掲する。

床場(とこば・製錬所)の跡
江戸時代末期から明治10年頃までここで銅の製錬を行った。選鉱を終わった鉱石は??鉱石を約2000Kg割木とともに積み焼いたものを焼箔(やきはく・ハクはカネヘン)という。それを炭灰(すばい)で作った大床(おおとこ)に入れて焼く。これを箔吹(はくぶき)または荒吹(あらぶき)という。荒吹で出来たカワ(カネヘンに皮)銅を小床でふいごを使い焼くのを真吹(まぶき)といいこうしてできたものが出来銅といわれ当時、大阪の銅役所に送られていた。


 Lが磁硫鉄鉱(硫化鉄鉱)、Rが黄銅鉱。反射して見えにくい。入り口の管理室にあった。




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