ガレージシャンソン歌手 山田晃士の
『嗚呼、泥沼回顧録』
其の七拾九
若気の至り





最近“若気の至り”って素晴らしいよなあ、と思ったりする。
勝手・無謀・莫迦。
其処からこぼれ落ちて来るモノの中には“予期せぬ宝物”が潜んでいる。
まあ、その分ゴミも多いのだが。

誰しも歳を重ねるに連れ、大人になるに連れ、
行動には目的が定められ、代償や報酬が伴い、
より合理的なスケジュール管理が必要とされてくる。
“お仕事”は見取り図通りに“こなす”る事が大切、という訳だ。
それは仕方がない。否定しない。
私もそんなシステムの中で生きている大人の1人だ。

だが、私は敢えて声を大にして言いたい。
バンドはそれじゃ駄目なんだ!と。
私は根っからのバンドマン。
中学時代にKISSに痺れ、QUEENに震えてしまったあの時から、
その血は拭えやしないのだ。

メンバーがスタジオに介し“せ〜の”で音を鳴らす。
その気持ち良さ。官能的快感。
反応し合う。挑発し合う。
勝手・無謀・莫迦。
新しいメロディーやコトバが溢れて来る。
それを何度も何度も繰り返す事で血となり肉となる。
インプロビゼーションも音楽の強みだが、
私は稽古の繰り返しの中で構築されるモノの揺るぎなさを大切にしたい。

現在『山田晃士&流浪の朝謡』は水無月・文月の旅巡業に向けて稽古の日々。
いくつかの新曲も仕上がりアレンジも固まりグルーヴもうねって上り調子。
一皮向けた我々をお目にかけましょうぞ。
私の中のバンドマンの血が沸々とたぎっている。
 
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