ガレージシャンソン歌手
山田晃士の
『嗚呼、泥沼回顧録』 其の壱百弐拾八 〜放熱の証明〜
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自分で言うのもナンだが、私は諦観の持ち主だと思う。 こんな時代に申し訳ないが、モラリストでもなければエコロジストでもない。 ナガレに身を任せ、馴れ合いが得意で、立ち向かわずに逃げ出す。 本当に大事なモノ以外は、まあどうでも良いのかもしれない。 人と人のコミュニケーションにおいても、かなり寛容。 自分とまるで価値観が違う相手とのコミュニケーションは愉しい。 互いに相手の話を聞けば、人と会話をするのは素敵な行為である。 “へえ、こんな感じ方もあるんだ…”と、かなり面白い。 ただ時折、会話自体が成立し得ない相手もいる。 例えば… 「お昼、何食べに行こうか」 「昼ゴハン!」 とか 「ここまで何線で来たの」 「電車!」 とか。 こういった場合、私は 「らーめん・カレー・ハンバーガーその他いろいろ、何食べたい?」 と訊き直したり 「JR・地下鉄・私鉄、どれに乗ってきたの?」 と訊き直したりする。 大概の場合2〜3言で会話は先に進む。 でも中には 「朝ゴハンじゃないよ、昼ゴハンって言ってるでしょ!」 「タクシー使ってないし、電車で来たんだよ〜」 と言い張る相手もいる。 日常の些細な会話であれば愉しめるのだが、 仕事の上でこのような会話になった場合は厄介だ。 何かを能動的に生み出す為ではなく、マイナスをゼロ地点に引き上げる為に、 私は多大なるエネルギーを注がなくてはならない。 言ってみれば不毛だ。 そんな時はそういった星の下に生まれたのだと諦めるしかない。 忍耐あるのみ。耐えるのだ。 その結果、往々にして私は発熱する。 平静を装って、そういった会話を忍耐強く続けている内に、 体温が上昇していく事実を自覚する様になった。 勿論、どれ位疲労しているかという事も関係しているが、 挙句の果てには39度に到達する事もしばしば。 ロキソニンが手放せない。 最後にもう一度、私は諦観の持ち主だと思う、のだが。 |
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