ガレージシャンソン歌手 山田晃士の
『嗚呼、泥沼回顧録』
其の壱百壱
〜旅の宿




盟友、塚本晃と『莫迦の一つ憶え』と題して長旅巡業を廻って 来た。
金が無いのは承知の上の旅である。
舞台の後はしこたま酒を呑んで眠るだけ。当然安宿となる。
我々が利用するのは往々にして“ビジネスホテル”。
シングルベッド・ユニットバス・トイレ、運が良ければ冷蔵庫付き。無機質な空間だ。
連日ビジネスホテルを転々としていると、本当に今、自分が何処に居るのか分からなくなる。
バスルームがカビてたりする“もしものビジネスホテル”に当たってしまう事だってある。
呑まずにゃ寝られん。
 
さて、今回の旅では“お初の舞台”に伴って“お初の宿”にもいくつか遭遇した。
その中に“○○旅館 和室シングル”というのがあって、行く前から興味をそそられていた。
到着したのは二階建ての民家。表札には○○旅館の文字。昭和の佇まいだ。
ガラガラと引き戸を開けると薄暗い玄関にスリッパが並んでいる。古い柱時計。
つげ義春の世界そのものだ。これが商人宿か、ビジネスホテルなんて未だ無かった時代の安宿。 ちょっと嬉しくなる。廊下がまっすぐ続いており両脇には客室が。扉に101、102…と部屋 番号がふられている。私は階段を上がって、いや厳密には上がりきっていない所に引き戸がある 203号室だった。六畳ほどの和室に布団。いやあ、和むなあ。
本番前、オフクロサンが使っていた様な鏡台にむかってメイク。衣装に着替える。畳の上で弦を 張り替える。203号室から歩いて舞台へと向かう。気分は昭和の場末のキャバレー歌手だ。
その夜の私の唄声は、おそらく旅中で一番湿っていたと思われる。どっぷりと滴る程に。
心地良かったぜ…。
 
この宿が、その後も続く旅巡業の英気を養わせてくれたといっても過言では無い。
メルシー、商人宿。
 


 
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