伏見无家
ここで言う琴(きん)はすべて七絃琴をさす『古事記』に仲哀天皇(一九二年即位)が熊襲を撃つために神の命に従わず琴を弾くのをやめてしまい、怒りをかって殺されるという話がある。無理に琴を弾かせたため国が大禍に見舞われた、というのが『史記』にある。また仁徳天皇(三一三年)に、大樹をもって作った舟を塩焼きのために焼きその燃え残りの木で琴を作ったという話がある。これと同じような話が『日本書紀』応神天皇(二七〇年)にもあり、燃やすことができない桐の木を不思議に思い、琴を作らせたが、その音は「鏗鏘(こうそう)にして遠く聆(きこ)」えたという。『後漢書』「蔡[巛+邑]伝」に、桐を焼きその火の烈しい音に良木とであると知り、琴を作ると美音であった。琴尾が焦げていたので「焦尾琴」と名付けたとある。「鏗鏘」は七絃琴の美音をいう言葉である。
これらの話は琴學(七絃琴)思想が色濃くあらわれたものである。実際に弾かれたのは和琴だと言われているがそのまま読むなら七絃琴以外ありえない。天皇と七絃琴には深い関係があった。中国から伝来当初、七絃琴は「諸楽の統」として権威的な楽器だったため天皇自身が宗教的権威の象徴として弾くべきとされた。琴學思想に基づき、天との交流の音楽として天皇が七絃琴を弾くことで世の中が平和に治まったのである。『風俗通』に「舜(古代中国の王)は五絃の琴(後に二絃を加え七絃となる)を弾じ、而して天下を治めた」とある。允恭(四五三年)、雄略天皇(四五六年)などは遊宴において歌いながら七絃琴を弾いた。
平安時代になると『延喜式』には天皇が七絃琴を弾じた記載が多く見られるようになる。宮廷楽士なる伶人に七絃琴を演奏させるのではなく、天皇自らが弾きこなしその音楽を楽しんだのである。特に醍醐天皇(八八九年)の「御遊」(管弦の遊び)においてそれは慣例化した。天皇は和琴も箏も弾くようになった。ちなみに七絃琴を雅楽に取り入れようという試みがこの頃行われたが、音も小さく、旋律を奏でる楽器だったため「雅楽化」はなされなかった。その試みは江戸時代にもあった。日本の雅楽とは唐王朝の宴楽や雑楽などの「俗楽」が楽器とともに輸入され伝存したものである。
「わが国に伝えられている雅楽はもともと外来の楽舞であった。これは唐代の中国宮廷で行われていた宴饗楽(宴饗雅楽)が渡来したものである。この日本に伝えられた「雅楽」は確かに広義の雅楽ではあるが、実は本来の中国の狭義の雅楽ではない。というと、意外に思われる向きがあるかも知れない。その理由は、古代中国では「雅楽」が儒教の祭礼楽を意味したからである。中国では宗教儀礼のための雅楽と、宴饗のための「讌楽(えんがく、燕楽、宴楽とも書かれる)」とを区別していた。前者は「正楽」つまり「雅正の楽」として、後者は「俗楽」として分類されていた。俗楽は「胡楽」をも吸収していった。胡楽は中央アジア・西アジアなど西域の楽舞で、漢民族にとっては外来音楽であった。こうした起源を異にするさまざまな楽舞の様式が宴饗楽にとりこまれており、それが日本に中国の雅楽として伝えられたのである。」
(東京藝術大学教授柘植元一「ビデオ『雅楽』」序文)
七絃琴は儒教の祭礼楽釈奠などに用いられ、聖楽として「雅正の楽」であった。取り入れることができなかったのもむべなるかなである。
平安以後天皇が奏でるべき楽器は七絃琴ではなくなり、笛となり、鎌倉時代は琵琶となり、室町時代には笙と変わって行った。
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応神天皇像 『集古十種』より
邦楽ジャーナル 2003、VOL.199 8月号より転載