日本の琴
失われた琴韻を求めて3

伏見无家



天籟を奏でる無絃琴

正倉院には世にも美しい楽器群が伝存する。その中でも特に金銀平文琴は、その豪華さ華麗さ緻密さにおいて他の楽器に抜きんでている。異常ともいえる装飾過多、貴重な金や銀を多用して紋様を象り全面を埋めつくし、楽器というより光り輝く宝石のようなその工芸的美には圧倒される。一つの楽器に対しなぜこれほどまでに過剰な装飾を施したのだろう。金銀平文琴を製作させた人、製作した人の琴に対する深く熱い思いが伝わる。音を奏でる楽器というより、音楽を超えたある価値観すらこの琴から感じとれる。この琴の背面には後漢の李尤になる次のような銘が記されている。「琴の音というのは邪心を洗いそそぎ、その本質が正しいものであっても感興はまた深いものである。優雅であって猥雑を退け、軽薄な奢りを生じさせない。のびやかに楽音をたのしみ、己れを失うこともない。」道徳的、倫理的価値がこの琴に、その音にあると言うのである。琴は単に音楽を奏す楽器ではなかった。「諸楽(もろもろの楽器)の統」として金銀平文琴は燦然と輝く。
正倉院伝存の琵琶や箏などは実際に演奏され実用に供された形跡がみられるが、この金銀平文琴にはそれをみとめることができない。一度だけ絃をかけたであろう跡がみられるだけで、絃を押さえ弾じた跡はみとめられない。実用にならないという理由で弾奏しなかったのではない。おそらく弾奏することが憚られたのではないかと思う。絃を張って弾じなくても琴韻が聴えた。無絃琴としてこの金銀平文琴はあったのではないだろうか。晋代の詩人陶淵明は「ただ琴中の趣を得ばいかでか弦上の音をわずらわすべき」といって常に無絃の琴を撫していた。「琴中の趣」がこの金銀平文琴には横溢している。埋め尽くされた紋様から琴韻が溢れる。表面に描かれた川の流れに「流水曲」を聴くことができる。なにも絃を張って「わずらわすべき」ことはない。音の出ない楽器から音を聴きそれを味わうというのは琴以外にない。東洋的な考え方である。無絃の琴は音楽を超える。あたかも天籟なる宇宙の音を奏でようとする究極の音楽のように。
「余韻の音楽」「静寂の音楽」は琴の本質である。曲が終った後にこそ聴くべき音があり、静寂は琴韻によってますます深まる。古人は常に無絃の琴から奏でられる音に耳を傾けた。金銀平文琴は最初から無絃琴であった。無絃琴から奏でられる音楽を視覚化するならこうなると、この琴はそういっているように思えて仕方がない。



正倉院 金銀平文琴


邦楽ジャーナル 2003、VOL.197 6月号より転載




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