伏見无家
「天神様、学問の神様としてつとに有名な菅原道真(845〜903)は学琴の人であった。しかし自分には音楽の才能がないとあきらめて、弾琴を習うことを止めてしまったのである。興味深い詩が『菅家文集』にある。貞観十二年(870)道真二十六歳の時の作である。
琴を弾くを習ふを停(や)む
偏(ひと)へに信ず 琴と書とは学者の資(たすけ)と
三餘の窓の下 七条の絲
心を専(もっぱ)らにすれど利あらず 徒(いたづ)らに譜を尋ぬ
手を用ゐれど迷ふこと多し 数(しばしば)師に問ふ
断峡 都(すべ)て秋水の韻なし
寒烏 夜啼の悲しみ有らず
知音皆道(い)ふ 空しく日を消すと
豈(あに) 家風の詩を詠ずるに便りあるに若(し)かんや
琴と書は学者、文人にとって学問を大成するための必須の教養であった。道真もこの二つはおさめるべきものとひとえに信じ努力を惜しまなかったと思われる。「琴書」と言う場合、それは琴と書籍(学問)を意味する。道真の時代の法令集『学令義解』によると「およそ学生は学に在りて楽を作し、および雑戯するを得ざれ。ただし弾琴と射を習ふは禁ぜず」とある。
道真は学問をすべき空いた時間、すなわち夜、冬の日、雨の日(三餘)に琴を修得しようとした。指使いがうまくいかず、心を集中して楽譜に首っ引きで練習してもなかなか上達しない。いちいち師にたずねてばかりである。思うように琴を弾けない道真のもどかしさ、いきどおりがこの詩からうかがわれる。
「断峡」は、中国の竹林七賢人の一人阮咸が作曲した「三峡流泉」である。「烏夜啼」は魏の将軍の娘の作曲とされる。道真が愛読していた『白氏文集』に「慈烏夜啼」という詩があるが、子が母に恩返しをしたくともすでにいない悲しみを歌ったものである。道真はただ曲を弾きこなすだけを目的としたのではない。深くその曲の意味を理解しようとした。これは弾琴する者の大切な心構えで、すべての琴曲には文学的背景が存する。しかし道真の学琴の友人たち(知音)は、その稚拙さに半ばあきれたように、弾琴に日をついやすことは無駄だ言う。ならば家業であるところの詩作に専心しようと道真は決心するのであった。
それにしても今に伝わる琴曲「烏夜啼」などは難曲のひとつに数えられるものである。それを習う道真の弾琴の腕前はかなりの域に達していたと想像できる。また道真を批判する琴友たちの中には名手が多くいたと察せられるのである。学問と同じように琴も大切にしていた時代であった。
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菅原道真肖像 橋本雅邦画
邦楽ジャーナル 2003、VOL.196 5月号より転載