平安時代には『宇津保物語』『源氏物語』『枕草子』などの古典文藝作品には当然のように琴の記述があり、もちろん貴族階級だけだが、一般的知識として普及していたようだ。
『宇津保物語』は親子三代にわたる琴(七絃琴)伝授の物語であり、琴の音楽が通底する藝術至上主義の文学である。「うつほ物語は琴の音楽が主題であって、全巻を通して琴の尊重と賛美に貫かれ、求婚譚は副次的地位に置かれている」(河野多麻『うつほ物語の琴』お茶の水女子大学人文科学紀要)。俊蔭という琴の名手が異国に流浪して琴を学び、名琴を得て帰国するが、朝廷には仕えず、邸にこもり娘に琴を伝授して死ぬ。娘は何かの縁で妊娠し男子仲忠を生み、人里離れたところで仲忠に琴を伝えるが、やがて二人は夫であり父である貴族の兼雅に迎えられ、都に住んで華やかな生活を送る。仲忠は皇女を得て犬宮という姫をもうける。犬宮が六歳になったとき、祖母と仲忠がこれに琴を伝授する。琴の音は天上天下すべてのものを感じさせ、ここに才能はあったが帝寵を得ずして亡くなった俊蔭の霊も官位を追贈され、物語は終る。
これが『宇津保物語』の琴を縦糸としたあらすじであるが、そこに描写された琴の音楽は異常とも思える激しさである。犬宮らが琴の演奏をするということを聞きつけた人々はあまねく参集し、じっと息を凝らして聞き入る。そのとき、琴の響きは天地を揺るがし、季節でもないのに空には霰が降り、星はさわぎ、瑞雲が棚引き、地上の楽の音はすべて消え失せ、琴の響きのみが澄みわたる。あげくには天上界から菩薩や天子も舞い降りて来て賛嘆するといった有様である。そういった描写が琴の演奏の場面で頻出するのである。琴の音を耳にしたことが無いものがこれを読めば、いかにも想像力をかき立て、ひたすらありがたい音楽として受け入れることだろう。作者もまた果たして実際に琴の音を耳にしたのだろうかと疑問に思えるが、琴の音楽的価値、琴の音楽的美を文字で表現しようとするなら、かくならざるを得なかったのかもしれない。『宇津保物語』は音楽自体を文字で表現しようした世界でも希にみる文学作品である。
『源氏物語』についても、そこかしこに琴の記述が見られ、特に若菜下において、紫式部は光源氏に琴について次のように語らせている。これは日本で最初の琴論といってよいだろう。源氏は『宇津保物語』の俊蔭に対し批判的である。琴をあくまで文人の余技としてたしなみとして捉えようとしている。しかしそれは必修でなければならないとも言っている。
「……琴というものは、やはり面倒で、うっかり手の出しようもない。この琴の、定まったほんとうの奏法を習得した昔の人は、天地を揺るがし、鬼神の心をやわらげ、すべての楽の音が琴の音に従って、悲しみの深い者もその気持ちが喜びに変わり、身分卑しく貧しい者も高貴な身分にうって変わり、財宝を得て世の中に認められる例が多かった。この国にこれが弾き伝えられた初めのころまでは、深く音楽の道を習熟している人が、多くの歳月を見知らぬ外国で過ごし、我身を投げうつ覚悟で、琴の奥義を習得しようとさすらったが、そんなことをしてすら望みを遂げるのはむずかしいことだった。また、あきらかに空の月や星を動かしたり、季節はずれの霜や雪を降らせ、雲や雷を騒がせたりした例が、上代にはたしかにあったものだ。琴はこのように際限がないもので、伝えられたとおりに習いとるのは滅多におらず、末世のせいであるためか、どこにその昔の秘法の一端でも伝わっているというのだろう。それでも、やはり、あの鬼神の耳をとらえて感動させたのがそもそも初めであったためだろうか、なまじっかの程度に稽古して思いどおりにならなかった例があってからというものは、これを弾く人に災いがあるとかいう難癖をつけて、(奏法が)面倒なあまり、今ではほとんど習い伝える人がいないという。まったくもって残念なことだ。琴の音を除いては、何の楽器を用いて音調をととのえる基準としよう。いかにも万事にわたって衰えていくばかりの世の中で、ただひとり世間から超越して高く志を掲げ、唐土や高麗などと国々のあちこちをただよい歩き、親子別れ別れになるというのでは、世の中ののけ者になってしまうだろう。とはいえ、どうして並み一とおりには、しかもこの方面(琴)をわきまえ知るだけの糸口ぐらいは、心得ないでよいものであろうか。ある調子一つ弾きこなすだけでさえ、計り知れぬほどむずかしいものだ。いわんや、多くの調子、やっかいな曲がたくさんある。わたしがこれに熱中していたころには、この国に伝わるありとあらゆる譜という譜の全部を、どれもまったく調べあわせて、しまいには師と仰ぐべき人もなくなるほど打ち込んで習ったものだが、それでもやはり昔の名人には追いつきそうにもない。まして、これから後の世というと、伝授できそうな子孫もないのが、まったく心からさびしい。」
源氏物語中、琴曲の大曲とされる『胡笳』『廣陵散』の記述、あるいは「輪の手」「五六の撥」といった琴の奏法に関する指法の表現があることから、作者の紫式部(九七八頃 一〇一四頃)も、琴を弾きこなしていたのではないかと想像できる。男まさりの才女であったと言われる紫式部が、男子の専有物であった琴を撫しても不思議ではない。『枕草子』にも琴の記述は確かにあるが、昔語りとして述べられ、清少納言は琴を彈じていたとは思われない。当時にあっても琴は源氏が言うように、すでに誰にも省みられず滅びつつあった音楽だったのである。これに関し、山田孝雄教授は『源氏物語の音楽』の中でこう疑問を呈している。「……当時最も今様の風を好み、その先頭に立ち、風尚を導きたるらししく思はれ易き源氏君が、今は殆ど廃れたりと自ら認めてある琴の権化の如き姿を呈することは抑も如何にこれを解すべきものなりや」と。琴は流行に左右されることがない新しさと古さを持ち得、これは平安時代においても現代においても変わりがない。普遍的な音楽として源氏が好むのも当然と思われる。また『源氏物語』に通底する〔もののあはれ〕の美意識に、琴が見事に合致したからではないかと考えられる。源氏君の生涯が無常感を体現しているのなら、いずれは滅びてしまう琴に己が姿を重ねることにより、彼は琴の権化になるに相応しい。「挫折の季節、光源氏の傍にあって、彼の傷心の日々がこの王者の宝器・琴の御琴を奏でることによって表象されたこともあったのである。」(上原作和『琴のゆくへ』 楽統継承譚の方法あるいは光源氏の思想的位相 「日本文学四一」)
琴は今も昔も、得難く聴きがたく、絶えず滅びつつある音楽であり続けた。琴の音楽性というのは、余韻にこそある。曲を彈じ終わった後、誰も彈くことのない琴そのものに、まさに琴の音楽的価値が存在している。山田孝雄教授によると、延喜(九〇一 )から天暦(九四七)頃にかけて、琴が奏された事、最も著しいとする。教授は史乗に散見する彈琴の記録をまとめられている。「延喜二年三月廿日の藤花宴には主上の琴を彈ぜられることあり。延喜一二年正月四日、延喜一七年三月一六日の六條院行幸の際の御遊にても主上琴を彈ぜらるることあり。同一八年二月二六日の六條院行幸の際の御遊には克明親王の琴を彈ぜらるることあり。延長二年一二月二一日醍醐天皇四十の宝算を中宮の賀せらるる儀に管絃の御遊もありしが、その際にも琴を奏することあり。延長四年八月十六日六條院に行幸あらせられし時には琴筝を彈ずという記事あり。……朱雀天皇承平三年三月廿七日の御遊には長明親王琴を彈ぜられ、承平四年十二月九日に皇太后五十の御賀を左大臣藤原忠平の行ひし時に、琴を奏することあり。又天慶十年天暦元年正月九日の朱雀院行幸の際の御遊に山水といふ琴を李部王即ち中務卿重明親王の賜はりて彈ぜられしことあり。同年正月廿三日の内宴には重明親王琴を彈ぜられしことあり……」(同『源氏物語の音楽』)
これだけ琴彈奏の記録がありながら、その曲名が何だったか見出せないのが残念である。〔山水〕と銘のある琴についてもどのようなものか調べられなかった。
また『三代実録』(九〇一)の清和天皇貞観六年(八六四)二月にこういう記事がある。「(従五位下行越後守高橋朝臣)文室麻呂琴を能くし、その名は当時に於いて冠たり。嘗て文徳天皇、清和太上天皇、徴して殿上に侍せしめ、師と為して彈琴を学ぶ。仕して四代を歴て頗る寵幸を蒙る。」このころ、日本人でかなりの琴の名人がいたことが窺われる。
その後、平安末期に於いて琴は絶音する。『八代集』などを繙くと、〔松風〕として琴を詠んだ和歌がいくつか見受けられるが、これらの琴は倭(和)琴とも考えられ、七絃琴を詠んだとは断言できない。 鎌倉時代応永年間に至って禅僧が琴を弾じた記録(漢詩等)などがあるが、本格的な琴楽の復興は心越の渡来を待たなければならなかった。