浦上玉堂の琴


−日本琴學思想史−
伏見 无家



 江戸時代における琴を詠った詩(漢詩)は膨大な数にのぼる。琴詩を集めただけでも叢書が優に数冊はできるものと思われる。江戸の漢詩人たちで、その詩中に琴字を用いなかった者を探すのは困難であろう。詩人たちは文人の美意識を体現した琴をこよなく愛したのである。中でも特筆すべきは、我が詩中に琴を詠まないものはない、と言い切った浦上玉堂である。玉堂の詩には琴に対する熱い思いが込められ、他に抜きんでて精彩を放つ。詩としては当時の詩壇からは、稚拙であり洗練に欠けるとしてあまり高い評価は受けなかった。琴においてすら、曲は三、四曲知るのみ、心越(東皐)の正宗も得ていないと玉堂は酷評されている。しかし、玉堂の描く琴の世界、詩にしろ画にしろ琴自身にしろ、それはまさに文人藝術の理想的美の風景が表現され、玉堂の生き方そのものと共に、高く藝術的に完成の域に達していたと言えるのである。玉堂の書も、その隸書を一度見たなら、玉堂の書であることが直ちに判別できるほど玉堂体ともいうべき様式を確立している。
 玉堂によって日本の琴は、ひとつの頂点に到達したといえるだろう。たとえ指法や節奏が熟さず素人であっても、彈琴の正鵠を得ていた玉堂は、自信に満ち悠然と琴を撫したのである。素人こそ古琴演奏の本質である。玉堂は、学琴は一曲に止むべし、多曲を貪るなかれ、唯一曲を愛した古人は衆い、高き志があれば一曲にして足る。と言う。琴詩書画と文人必修の芸術を修めた四絶一致の境地というのは、中国において藝術創造における最高の理想とされたが、それを実現した藝術家を見出すのは、中国においても日本においても稀なことである。玉堂はその境地を生涯にわたり求め続けた。頼山陽の撰になる『玉堂琴士之碑』に「…酔へば則ち琴を鼓し、又時に山水を写す。…気韻高揮なること猶ほ其の琴のごときなり。」「山水の韻、琴に寓し、人に著はる。」とある。あえて贅言をついやすなら、画の雪舟、歌の西行、茶の利休、俳諧の芭蕉というあの日本の藝術家の系統に、琴の玉堂が直系として連なるといっては不当だろうか。『玉堂琴士集』(前集及び後集)から数首挙げる。

雜詠
藞苴生涯寄醉吟 劣能學得古般音
頭倒祇咲吾癡着 無一詩中不説琴

〔自堕落な生涯を送り、酔って詩を吟ず。わずかであっても古えの調べをよく学び得たものだが、結局は自己の執着ぶりをわらうだけである。我が作るところの詩に琴を詠まないものはないのだ〕

雜詠
俸餘蓄得許多金 不買青山却買琴
朝坐花前宵月下 哈然彈散是非心

〔蓄えたお金は沢山あるが、隠棲するための山を買わずに、かえって琴を買ってしまった。昼間は花をながめ、夜は月あかりの下に坐し、この琴を彈いて世俗の煩わしさをすっぱり払い落としてしまおう〕

玉堂鼓琴
玉堂鼓琴時 其傍若無人 其傍何無人 嗒然遺我身
我身化琴去 律呂入心神 上皇不可起 誰會此天眞

〔この玉堂、琴を弾く時、その傍らに人無きが如くである。何故人が目に入らないか、すっかり我がことを忘れて琴を弾いているからである。我身は琴と化し、琴の調べは深奥に入る。もはや太古の聖天子が今の世にいないというなら、誰がこの私の天真の心を理解しよう〕

閑中自詠
玉堂琴士一錢無 只有琴樽兼畫圖
誰識獨絃黙對處 折衷太古伏羲徒

〔玉堂琴士は一銭もお金がない。ただ琴と酒と絵があるばかりである。誰が知るというのだろう、黙然としてひとり琴に向かい彈じているところ。太古の伏羲氏、神農氏、燧人氏らが聴いてくれるのだ〕

嬾夫
嬾夫非不欲彈琴 才説彈琴即惱心
但解琴中若箇趣 何須琴上七絃音

〔このものぐさな男、琴を弾きたくないとは言わないが、たまに琴を弾いてくれと頼まれると、嫌気がさしてしまう。ただ琴中の趣を少しでも分かればいいのだ、なにも琴を弾くのにわざわざ七絃を弄すことはない〕

掃石彈琴
掃石彈琴隱益眞 寂然虚室絶來賓
坐移白日松間色 夢破幽禽竹處頻
心遠自親人外境 身清殊覺世中塵
塵埃不到門不鎖 這裏青山朝夕新

(石を掃き清め、その上に坐して琴を弾けば、いよいよ世を遁れたことが身にせまる。たった一人静まりかえった室にいて、来る客も無い。琴を弾いて一日が過ぎてゆき、松林に夕日が映って、日が暮れたことを知る。朝は竹林の陰でしきりに鳴く鳥に目を覚まし、心は遠く遙かに、自ら世外の境地に親しんでいる。身は清潔だからこそ、俗世の汚れを知ることができるのだ。塵埃はここには来ない。だから門を閉ざすこともない。ここの青山は朝夕新たに美しく変化する〕

 浦上玉堂、延享二年(一七四五)岡山藩士浦上兵衛門の子として生まれる。二二才頃すでに琴を教えており、三〇才になって江戸の多紀藍溪について琴を学ぶ。三五才の時、明の顧元昭製〔靈和〕琴を手に入れる。玉堂はこの琴を生涯酷愛した。四〇才で詩を学ぶ。五〇才で、春琴、秋琴二児を伴い脱藩する。以後放浪生活が続く。著 書に催馬楽を減字譜化した「玉堂琴譜」と「玉堂雑記」。漢詩は脱藩後に出版した、「玉堂琴士集」(前集及び後集)がある。文政三年(一八二〇)九月九日、京都にて死す。享年七六。





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