−日本琴學思想史−
伏見 无家
日本最初の漢詩集『懐風藻』(七五一)には琴字が驚くほど多くある。一二〇首のうち、琴字を詩中に詠んだものは三五首も数えられる。中には琴趣を詠じた中国の詩篇を典拠としたものや、比喩的象徴的に用いただけのものもあるが、実際に琴を奏でたであろう詩も確かに認められる。『懐風藻』は古来から「綺麗繊巧にして雄健高花の致に乏し、」などと言われ低い評価を受けてきた。確かにその独自性は『万葉集』に数歩譲るであろう。その平仄の稚拙さも中華の詩の比ではないかもしれない。しかしそこに表現された仙境ともいうべき詩的空間は、後代、日本の詩人や画家、文人藝術家たちの求めて已まなかったあの理想郷と同一のものではなかったろうか。『懐風藻』の詩作品には、老莊的清談神仙思想の影響があると言われている。また三浦圭三氏は「後代万葉集以下の歌集の先駆を爲し、歌にすべく詩にすべき材料を暗示す」と言っている。『万葉集』より先立つこと八年前に成ったこの『懐風藻』に、日本の藝術家の心の原点があると思われてならない。琴韻響く詩を数首挙げる。
春苑言宴 大津皇子(六六三 六八六)
開衿臨靈沼 遊目歩金苑 澄徹苔水深 暗曖霞峰遠
驚波共絃響 哢鳥與風聞 羣公倒載歸 彭澤宴誰論〔襟を開いてくつろぎ、御苑の池に臨み、春色に目を楽しませつつ、逍遙する。池の水は澄み切って、深い底には苔が覘かれ、暗くぼんやりと霞にかかった峰が遠くに見える。さわぐ池波は琴の音につれて響き合い、さえずる鳥の声が風の間に間に聞こえてくる。諸公は酔いつぶれてしまって、さかさまに車に載せて帰るという有様だ。詩と酒に耽った彭澤の県令陶淵明の催したような酒宴さえも、この御宴にくらべると論ずるに足らない〕
「驚波」は「流水曲」にかけたと思われる。「驚波共絃響」の表現から推察するに実際に琴を撫した様がしのばれる。陶淵明は常に無絃の琴を撫した隠遁詩人である。その酒宴もきわめて質素で、近隣の農夫らと酌み交わした。
山齋 大納言直大二中臣朝臣大島(六八二頃)
宴飲遊山齋 邀遊臨野池 雲岸寒猿嘯 霧浦柁聲悲
葉落山逾静 風涼琴益微 各得朝野趣 莫論攀桂期〔酒宴を開いて、山荘に遊び、遊び楽しんで野池に臨んだ。雲のかかる池の岸には秋の寒さの中、猿が啼き、霧がたつ池の浦には舟を漕ぐ舵の音が悲しく聞こえる。木の葉が散って、山はいよいよ静かになり、吹く風は涼しく琴の音はますます冴えて微妙である。朝廷や俗なる風趣を各々知ることができた。桂を手折る<官吏の登用試験>ような機会について、もはや論ずる必要はない〕
琴音はきわめて小さく、その表現には、低、静、または微を用いることが多い。琴音を「微」というには実際に耳にしたからであろう。
春日應詔其二 太宰大貮從四位上巨勢朝臣多益須(六六三 七一〇)
姑射遁太賓 崆巖索神仙 豈若聽覽隙 仁智寓山川
神衿弄春色 清蹕歴林泉 登望繍翼徑 降臨錦鱗淵
絲竹時盤桓 文酒乍留連 薫風入琴臺 蓂日照歌筵
岫室開明鏡 松殿浮翠煙 幸陪瀛州趣 誰論上林篇〔藐姑射の山に尊い賓客として隠遁し、険しい巖に神仙を探し求めるより、天子が政治を聞こしめす余暇に、山川に御心を寄せ給うことに及ぼうか。天子の御心は春景をもてあそび賞し給い、行幸の御車は御苑の林泉の間を通って行く。高い處に登って鳥の通う小道を望み、水辺に降りて魚の淵を臨み給う。音楽を奏してあたりを行きつ戻りつしたり、しばしば詩酒の会を催して留まったりする。薫風が琴を彈くうてなに吹き入り、日の光りは歌う宴席に照る。岩穴の山荘には鏡の如き明らかな月光がさし込み、松林の中にある御殿にはみどり色の靄が浮かぶ。幸いにして仙人が住む瀛州の如き御苑に侍べることができた。司馬相如の上林賦を凌駕するほどと論ずる者は誰であろう〕
「琴臺」とは琴を弾く机のこと。琴案とも言う。ここの琴臺は外にあると思われる。外に置かれた琴臺は多く石作りである。それが今に残っていないのは残念であるが、これは古典詩に拠ったものかもしれない。しかし、「薫風入」というところから、「臺」は「室」の誤字であろうか。
秋夜宴山池 從四位上治部卿境部王(七一七頃)
對峰傾菊酒 臨水拍桐琴 忘歸待明月 何憂夜漏深〔峰に対座して菊を浮かべた酒をかたむけ、流水に臨んで琴を彈ず。家に帰ることも忘れ、明月の出るのを待っている。どうして夜が更けゆくのを憂えようか〕 「菊酒」は重陽(九月九日)に、酒杯に菊花をうかべて飲む風習。「臨水」は流水曲。ここでは琴字はあくまで詩語として用いられている。
春日侍宴 主税頭從五位下黄文連備(七一一頃)
玉殿風光暮 金墀春色深 雕雲遏歌響 流水散鳴琴
燭花粉壁外 星燦翠烟心 欣逢則聖日 束帯仰韶音〔御殿には暮色が迫り、御庭には春色が深い。美しい雲は地上の音楽の妙音にそこに止まり、流れる水は琴の音につれて飛び散る。燈火は白壁の外にまで華やかに美しく輝き、星はみどり色の靄の中にきらめく。うれしく思うのは、則聖の日<太平の御代>に逢い、束帯して天子の音楽を仰ぎ聞くことよ〕
「鳴琴」と「歌響」と「韶音」の三つの音楽が出てくるが、それぞれ琴音に集約できない音楽である。「懐風藻」には流水になぞられる琴が多くある。
從駕吉野宮 正五位下図書頭吉田連宜(七三〇頃)
神居深亦静 勝地寂復幽 雲巻三舟谿 霞開八石洲
葉黄初送夏 桂白早迎秋 今日夢淵上 遺響千年流〔神仙のすまいは奥深く静かで、景色美しいこの地は静寂で幽静である。雲は三舟の谷に巻き収まり、煙霞は八石の洲にかかる。木の葉は黄に変じ夏を送ったばかりであるが、桂のの花は早白くなり秋を迎える。今日夢の淵に佇めば、琴の遺響は千年の昔から今に流れる〕 「遺響」は、琴音を太古遺音とも言う。琴音はいつの時代でも、千年の昔からの音楽であった。「千年流」は「流水」を言ったものかもしれない。
和藤原太政遊吉野川之作 從五位下陰陽頭兼皇后宮亮大津連首(七三〇頃)
地是幽居宅 山惟帝者仁 潺湲浸石浪 雜沓應琴鱗
靈懐對林野 陶性在風煙 欲知歡宴曲 滿酌自忘塵〔吉野の地は世をのがれ隠れて住むすまいである。山はこれ帝の仁徳の如きもの。石を侵して寄せる波がひたひたと音をたて、琴の音に応じて魚が雑踏する。心にわだかまりなく林野に相対し、性情を養って自然の中にいる。心楽しい酒宴の音曲を知りたく思うなら、十分酒を酌み交わし俗塵を忘れている様を見よ〕
この琴音もまた流水曲になぞられたものと思われる。
在常陸贈倭判官留在京 正三位式部卿藤原朝臣宇合(七三七没)
自我弱冠從王事 風塵歳月不曾休 褰帷獨坐邊亭夕
懸榻長悲搖落秋 琴瑟之交遠相阻 芝蘭之契接無由
無由何見李将郭 有別何逢逵與献 馳心悵望白雲天
寄語徘徊明月前 日下皇都君抱玉 雲端邊國我調絃
清絃入化經三歳 美玉韜光度幾年 知己難逢匪今耳
忘言罕遇從来然 為期不怕風霜觸 猶似巖心松柏堅〔二十歳頃国事に従事して以来、風塵の中に多くの年月を経たが、少しも休息をとることはなかった。とばりを巻きあげてひとり夕暮れの辺国の亭に坐り、友を待って木の葉の揺れ落ちる秋のわびしさを眺めて長く悲しむ。琴瑟相和した朋友の交わりは遠くへだたり、芝蘭の如き芳しい交わりも、相近づくすべもない。会うよすががなければ、後漢の李膺と鄭玄はついに相会わずに終わり、会わずに別れるのなら、晋の王子献と戴逵の如く門まで行きながら会わずに帰ったようなものである。白雲なびく遠くの空を望んで君のもとへ心を馳せてなげき悲しみ、君に音信をよせて明月に対して徘徊する。天下の帝都で君は智徳を抱き、遠い雲のはての辺土で私は琴をととのえる。清らかな琴の音は秘奥に入って三年を経、智徳優れた君は空しく埋もれて幾年もたった。真の知己に逢い難い事は今日だけではなく昔もそうだ。どうか、君と私は如何に世の艱難辛苦にあっても、巖の中に生い茂る松柏が四時色を変えぬような堅固な節操を保ってゆかんことを〕
作者は琴(清絃)の秘奥を得て三年たつというのであるから、相当な琴の奏者と察せられる。これほど深く琴に思いを寄せた人物の存在は日本琴學史において貴重である。王子献もまた琴の名手である。王子献の死によって「人と琴倶に亡ぶ」という言葉が残った。
從駕吉野宮 從五位下鑄銭長官高向朝臣諸足(七三五頃)
在昔釣魚士 方今留鳳公 彈琴與仙戯 投江将神通
柘歌泛寒渚 霞景飄秋風 誰謂姑射嶺 駐蹕望仙宮〔むかし吉野川で魚を釣って生活していた美稲という男があった。唯今はこの吉野に御車を留めたもう天子がいる。琴を弾いて仙人と戯れ、川の仙女と相通じるようにと、川遊びをしたりしている。美稲と柘枝の仙姫とのよみかわした相聞の歌は、秋寒き川のなぎさに漂って聞こえ、霞は秋風に飄える。誰が言うだろう、仙人のいるという姑射山に天子がとどまり遊び仙宮を思慕し望み給うと〕
飄寓南荒贈在京故友 從三位中納言兼中努卿石神朝臣乙麻呂(七五〇没) 〔遙かな遠い千里の他郷にさすらい、さまよい廻り我身の不運をこの狭き心になげき悲しんでいる。蘭は馥郁たる芳香を風とともに送り、月が出ると桂はその樹影を地に長くひく。雁は雲間を鳴き渡り、蝉は木につかまりさびしく鳴いている。互いに思い合うものは離別の悲しみをよく知っている。無聊をなぐさめるために、白雲の彼方ただ琴をもてあそび彈ず〕
遼夐遊千里 徘徊惜寸心 風前蘭送馥 月後桂舒陰
斜雁凌雲響 軽蝉抱樹吟 相思知別慟 徒弄白雲琴
贈掾公之遷任入京 同
余含南裔怨 君詠北征詩 詩興哀秋節 傷哉槐樹衰
彈琴顧落景 歩月誰逢稀 相望天垂別 分後莫長違〔私は南方の辺地に流遇して怨みを抱き、君は北征の詩を吟じつつ帝京に帰任する。秋の季節にそぞろ哀感を催し、詩興がわいてくる。槐樹も秋になって衰えいたましく見えることよ。琴を彈じて夕日をふりかえり、月光の下を歩いても人に逢うことも稀である。互いに友を思いながら、この辺地に別れるのだが、いつまでも交わりを違えず、交誼を続けて下さるように〕
また、他にも「琴酒開芳苑」(琴酒は風雅な宴会)「琴瑟設仙篽」(禁苑に籬を設け琴瑟を奏す)「嶺峻絲響急」(峰はけわしく高く琴は急激に響く)「琴樽宜此處」(琴を弾き宴会を開くにはここが相応しい)「琴樽叶幽賞」(宴は風流な愛賞に適す)「琴樽興未已」「琴樽断何日」「清夜琴樽罷」「琴樽猶未極」「絃即激流聲」(激流は琴曲『流水』の謂)「繁絃辨山水」(急調な琴は山と河を弾きわける)「流水韵嵆琴」(流水は嵆康の琴の如くこの彈琴に響き入る)「弾琴仲散地」(仲散は嵆康のこと)「琴樽促膝難」(宴席で膝を接して歓をつくすことはむずかしい)といった多くの琴字がこの『懐風藻』には含まれている。<『文華秀麗集』の琴>
『懐風藻』から遅れること六七年、漢詩集『文華秀麗集』(八一八)をみると『懐風藻』と比べ、琴字は少ししかないが、あきらかに彈琴をして歌った詩が二首ある。山亭聴琴 良岑安世(七八五〜八三〇)
山客琴聲何處奏 松蘿院裡月明時 一聞焼尾手下響 三峡流泉坐上知〔山人はいづこにて琴を奏でているのだろうか、サルオガセの垂れた奥庭に月が照っているこの時に。一たび焼尾<焦尾>琴が手もとに響くのを聞くと、三峡<揚子江の四川・湖北省の境付近>の流泉を<石上に>坐して知るようだ。)
「焼尾<焦尾>琴」は焼けた船材から琴を作ったという故事。名琴が生まれた。この琴式はまた「蔡邕琴」とも言う。「流泉」は伯牙の作曲による「石上流泉」がある。良岑安世は桓武天皇の皇子。騎射を善くし、技芸多く、志は学述にひそめる。また書を能くし、音楽を解するをもって雅楽頭をつとめた。
琴興 巨勢識人(八二三頃)
獨居想像嵆生興 静室一弄五絃琴 形如龍鳳性閑寂
聲韻山水響幽深 極金徽一曲 萬拍無倦時 伯牙彈盡天下曲
知音者或但子期 子期伯牙歿來久 鳴琴千載□□□〔独居して嵆康の琴趣をおもいやり、静かな室で琴を弄ぶ。その形は竜や鳳凰のようで、その性質は静寂である。琴の音は山水に響き、その音響は奥深い。金徽を押さえ一曲を奏しきわめ、拍をとっていつまでも倦みあきるということがない。伯牙は天下の名曲を弾きつくしたが、それを聴くものは鍾子期だけだろう。子期も伯牙も死んでから年月は久しいが、鳴琴は永遠に<伝わり響く?>) 琴を頌賛した詩である。作者は深い思い入れをもって琴を彈じている。嵆康は竹林の七賢人のひとり。「濁酒一杯弾琴一曲志意畢」という言葉を残した。刑にのぞむ時、大曲「廣陵散」を彈じた。「形如龍鳳」は、琴は本体各部の名称が龍や鳳になぞられる。たとえば、「鳳額」「鳳舌」「鳳翅」「鳳腿」「鳳足」「龍腰」「龍唇」「龍鬚」など。「金徽」は、絃を押さえる堪どころ。蚌(アオガイ)が使われるのが本来。蚌は月下においてきらきらと輝き、徽のありどころがよくわかる。金は高価だがそうはならないと言われる。鍾子期と伯牙は斷琴の交わりの故事として有名。鍾子期が死んで伯牙は二度と琴を弾くことはなかった。
巨勢識人については未詳。