文人がこよなく愛した琴─七絃琴
書斎で古えの曲を

幽琴窟主人



宇宙や自然から発する音

 琴(キン)という楽器は、古代の中国で誕生しました。漢代の末ころから楽器として定型化し完成され思想性も備わり、その後は現代に至るまで長い間全く変化することなく伝えられて来ました。現在見られる琴と同一形のものは唐代の琴が最も古いものです。絃は七本。十三絃箏のように琴柱はなく、左手で絃を押さえ音の高さをかえます。絃長を分割した純律の位置に十三個の「徽(き)」が、勘所として埋め込まれています。琴の大きさは片手で抱えられるほどで、表板に桐あるいは杉、裏板に梓の木を用い箱形の胴を作ります。これに漆を全体に塗ります。その構造は陰陽五行によって定められ、宇宙や自然運行を象徴的にあらわしています。琴が奏でる音はそのまま宇宙や自然から発する音といってよいでしょう。また隅々にまで名称が付けられ、十三絃箏などはその影響を受けています。
 儒教の祖孔子はまた音楽家でもあり、好んで琴を弾じたといいます。孔子が作曲したといわれる「碣石調幽蘭」という曲が東京国立博物館に国宝として伝わっています。隋代のころの写本で日本にのみ遺されました。音色も音律もそのままに、現在でも再奏できる文章で書かれた楽譜です。その他、現在伝わる琴曲は、琴譜(琴の楽譜)約一五〇種、総数二〇〇〇曲にものぼります。これらの曲は琴独自の記譜法である漢字を組み合せた「減字譜」に記されています。

中国文学・絵画にみる琴

 「琴棋書画」という言葉がありますが、文人貴族の修得すべき技芸の筆頭に琴はありました。「琴心劔膽」とは、琴の音のようにおだやかな心と剣のように鋭い膽という意味です。「知音」とは親友をいう言葉ですが、琴音を知る者、春秋時代の伯牙と鍾子期の故事によるものです。琴の名手伯牙は親友の鍾子期の死後、絃を断ち二度と琴を弾きませんでした。
 琴についての故事は枚挙にいとまがありません。中国の古典文学のそこかしこに琴は登場してまいります。
 『唐詩』を繙くなら「琴詩」を見つけるのは容易なことです。
 「獨り幽<たけむら>の裏に坐し 彈琴復た長嘯す」王維
 「琴を愛し酒を愛し詩客を愛す 多賤多貧 苦辛多し」白楽天
 「瓷には不盡の酒を餘し 膝には無聲の琴あり」杜甫
 「琴を松裏の風に彈じ 天上の月を勤す」李白
 「我醉うて眠らんと欲す 卿且く去れ 明朝 意あらば琴を抱いて來たれ」同
 「江上に玉琴を調ぶ 一絃は一心を清らかにす 冷々として七絃遍し」常建
 彼ら唐代の詩人たちが自ら弾いたり聴いたりした琴曲を、現在でもまた弾じることができます。琴音と共に鑑賞するならさらに深く詩を味わえることでしょう。
 絵画でも琴は至るところに見出すことができます。「弾琴図」「抱琴図」は水墨画の画題です。山水の風景の中の小さな人物の多くは、隠棲した高士が童子を従え深山幽谷を彷徨い歩いているものです。その童子の胸には必ずといっていいほど布に包まれた琴が抱えられています。主人は琴を弾くべき場所を探します。あるいは琴韻を共に聴くために隠者の庵を訪ねるのです。琴の聴き手はひとりの知音と自ら弾ず奏者がいれば足りるとされていました。宮廷音楽師の中には琴を弾く者はいましたが、皇帝は自ら弾ず琴の音になぐさめられたのです。
 琴を弾くべき最もふさわしいところは、幽谷にある文雅の香り高い書斎においてでしょう。読書や文墨にも厭いたとき、香をたき茗を入れ、傍らの琴を援きよせて古えの曲を調べます。琴曲のほとんどは作曲者を特定できるものです。琴は民衆が育くんだものではなく、王侯貴族、知識階級の「文人」によって弾じ愛され発展し伝えられてきました。彼らは悉くそれを記録し後世に遺しました。琴曲にはいまだ再奏されることのないたいへん多くの曲があります。減字譜で書かれた琴譜には徽の位置と演奏絃、それに伴う奏法のみが記されるだけで、テンポやリズムはほとんど記されていません。琴譜からメロディとリズムのある音楽を甦らせるためには、弾琴者の修練と研鑽が求められます。すなわち作曲あるいは編曲の創作性が要求されるわけです。その作業を「打譜」といいます。指法もまた複雑で難しく、左右の指の動きは舞踊的でさえあります。左右とも小指は禁指として使いません。

琴を学ぶ心得

 琴は聴衆のために演奏する音楽ではなく、自らの心を涵養するための音楽です。琴は歌舞音曲といった耳目を楽しますのではなく、その音色は低く深く沈みこみ自ずと心を鎮ませ沈潜させ瞑想させるものです。微弱で繊細な琴の音は耳を澄まさなければ聴こえてきません。近年、中国から来日して琴を弾ず演奏家のほとんどはスチール絃を張った琴を用いています。国宝にもなりうる唐宋代の断紋(琴の表面にあらわれる罅割)美しい琴に鋼鉄製の絃は違和感を抱かざるをえません。琴には絹絃を張らなければなりません。絹は最もアジア的中国的産物です。絹の方が琴よりはるか歴史は古く、いわば絹絃の美しい響きを得るために琴が生まれたといってもよいかもしれません。スチール絃の音は大きく派手で余韻はいつまでも伸び、コンサートホールで演奏するにはよいかもしれませんが、静寂の中に生まれる太古の遺音である琴韻を聴くことはできないでしょう。
 静かな夜更け、月明かりのもと、ひとり弾ずる琴は寂寞たる思いを弥がうえにも増します。かつて東アジアの人々が憧憬の念を抱いていた仙界へと琴音は誘います。音曲を戒律できびしく禁じられていた僧侶や道士でさえ、琴は別格として許されていました。それは決して修業の妨げにはならない音楽だったからです。
 琴は楽としての志向はもとより、その歴史と文学的世界を持つものです。琴を学ぶ心得として、「琴を學ぶものは、必須の条件として文學を有し、詩をよく吟ずる者でなければならない」と言われます。琴楽は単に音楽として演奏するより、深遠な琴の趣を悟ることにあります。それゆえに琴楽は「琴學」あるいは「琴道」と呼ばれ、音楽演奏のみにとどまらない藝術的世界を有しています。琴人(弾琴者)は多曲を誇りません。技巧も。かえって羞じます。一曲の琴、たとえ弾琴せずとも幽玄な琴趣を知るなら「琴道」の実践者なのです。

光源氏は琴の名手

 日本に琴が渡来したのは奈良時代ころです。正倉院には世界最古の琴「金銀平文琴」が国宝として保存されています。螺鈿模様の美しい琴ですがさほど弾じられたという形跡は見られません。おそらく無絃琴として装飾的なものであったと思われます。しかし法隆寺に伝わる唐琴は江戸時代まで絃を張られ弾じられていました。
 日本最初の漢詩集『懐風藻』(七五一)には多くの琴詩がみとめられ、当時の文人貴族の間で弾琴が流行していた様がしのばれます。平安時代の『宇津保物語』は琴伝授の三代の物語です。そこでは琴は崇高な音楽藝術として書かれ、弾琴の描写は壮大なファンタジーとして描かれています。また『源氏物語』には「琴のコト」「箏のコト」として琴は十三絃箏とは明確に区別されていました。光源氏は琴の名手としてえがかれ、自らの琴論をも述べています。琴独特の奏法の記述もあり、作者紫式部も弾琴の心得は多少あったと思われます。
 日本で最も琴が流行した時代は江戸期です。長い絶音の時期をへて元禄時代に中国明の亡命僧東皐心越によって再び日本に琴がもたらされました。主に武士階級、儒者の間に広まり、孔子を慕い儒教の教えに則って精神修養のために弾じられました。琴の高い精神性はそのまま日本に伝えられたのです。
江戸中期から幕末にかけて、琴を奏し、琴を耳にしなかった人物は皆無といっても過言ではありません。江戸期の弾琴者は相当の数にのぼり、代表的な琴人を挙げるなら、人見竹洞、小野田東川、幸田友之助、柴野栗山、荻生徂徠、多紀藍溪、杉浦梅岳、皆川淇園、浦上玉堂、桂川甫周、立原翠軒、児玉空々、佐久間象山、梁川星巖等々。琴學者岸辺成雄博士の調査によると、江戸時代の琴人は六五〇人あまりいるということです。南画家の浦上玉堂は、画人よりも自らを琴士と名乗り、日本古来の民謡『催馬楽』を減字譜に移し替え日本的琴道をめざした人です。

文雅の士なら誰でも

 琴には十三絃箏のように家元という制度は発展しませんでした。師が知らない琴曲を別な師が知っているならそこへ習いに行きました。もちろん師弟関係というものは厳然としてありましたが、個人の自由が尊ばれました。当時の琴会はとても自由な雰囲気があったと察せられます。
 江戸牛込安養寺で行われた定期開催の琴会(琴人の集い)の「会約」の第一条に、  「一、集まるのは社人(琴社の人々)であるが、甚だしい俗人でなければ客人として連れてきてもかまわない。富貴をみせびらかす人、文字を解さない人はお断りである。」
 とあります。一見きびしい規約のようですが、当時の身分制社会にあって誰でもよいということになります。条件は文雅の士であるならということです。琴は男子が嗜むべき楽器でしたが、女性もわずかですがいました。

 東皐心越琴學の道統は明治以後も続きましたが、昭和の初めに時代の趨勢ゆえか途絶えてしまいました。しかし数年の絶音の後、オランダ駐日大使ロベルト・ファン・フーリックが岸辺博士に琴の指法を伝え、ここに再び日本における琴楽の端緒が開かれました。そして、東京大学の岸辺博士の研究室のもとへ香港から張世彬が留学し、箏曲家、中国文学者など数人に琴を伝授しました。
 近年では中国の音楽院などに留学し琴を修得する日本人も増えています。ようやく琴楽復興の兆しが見えてきました。喧騒あふれる現代にこそ、静寂から生まれる琴の音は人々に必要とされる音楽でしょう。


邦楽ジャーナル 2002、VOL.191 12月号より転載



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