『monochrome』
とうとう月が昇り始めても、うずたかく積まれた本の山は一向に片付く気配を見せなかった。
「勘弁して欲しいよ、全く」
ジェームズ・ポッターは大きくため息をついて、右手で弄んでいた皮表紙の本を後ろへ投げた。
「希少本だぞ。扱いに注意しろ」
古ぼけて題名も判然としない本を拾い上げ、もう一人が舌打ちする。
図書室の一角にいる二人を、窓から差し込む月光が照らし出していた。
他は誰もいない。完全に二人きりの冷たい部屋。
喧嘩の後始末を命じられた当事者達は、倒した棚を起こすところから始めて、今やっと半分ほどが片付いたといえる位になっていた。
ジェームズはちらりと後ろに視線を送る。
律儀に本の題名を確かめ、数冊づつ棚に収めるという単純作業を、喧嘩相手は黙々と続けていた。
セブルス・スネイプ。
ジェームズはこのスリザリン生が苦手だった。
苦手という表現には語弊があるかもしれない。
ただ嫌いというか、見ていたくない相手だった。
中身がないんじゃないかと思うくらい軽そうな体は、同じ学年のほかの連中より随分と細く見えた。
いっそ不健康なほど白い肌に、肩までかかる黒髪。
顔にはいつも冷笑が浮かんでいた。
その外見のすべてが、自分とは相容れない気がして。
そう。合同授業の時の悪口も、試験での妨害も、廊下ですれ違うときの口論も。
いつでも彼と自分は反発していた。
こちらから悪戯の標的にすることもあったし、向こうから仕掛けてくることもあった。
そんなやりとり、上手くかわせばいいのだが、ジェームズにはそれが出来ないでいる。
他のスリザリン生なら簡単に無視るか再起不能なまでにとっちめてしまうことができたのに、何故か彼だけは違った。
無視も出来ない。かといって叩き潰すのも気が引ける。
何か弱みでも探り出して全校生徒の前で披露するとか、単純に腕力で叩きのめすとか、出来ないわけではないのだがジェームズはやらなかった。
そんなやり方は賢くないし。
とか、なんだかんだと理由をつけて、どちらが勝ちとも言えない喧嘩を繰り返してもう五年になる。
何を好き好んで毎月毎週いがみ合っているのか、ジェームズは自分でも図りかねていた。
第一、相手が何を考えているのかわからない。「口も利きたくない」と言っては論戦を張ってくる相手のことなどわかるはずもない。
…で、何の因果か今日は二人で図書館で罰掃除というわけだ。
「手を動かせポッター。いい加減サボりすぎだ」
振り返らずにセブルスが言う。
「へぃへぃ」
ジェームズも、相手を見ずに返事をした。
もうお互い喧嘩をする気にもなれない。そんな気力も吹き飛ばすほどに、積まれた紙の山は高いのだ。
「なんかさ、もー今夜中に終わるんかい! って感じだよね」
「幸い明日は日曜日、とかダンブルドア先生が仰ってたような気がするな…」
「くっそ。あの校長喰えねーって話ホントだよ」
どすどすと乱暴に本を押し込んで(勿論整理番号なんか知ったこっちゃない)、ジェームズはぼやいた。
「シリウス達は廊下のペンキ剥がしだっけ? 流石にもう終わってるだろうなー。ずるいなー。何で僕だけこんな寒い部屋で完徹しないといけないわけー?」
「自業自得ということだな」
「君もね、スネイプ君」
相手の顔が曇るのを承知でジェームズはわざと可愛く呼んでやった。
案の定、地を這うような低い声が返ってくる。
「やめろ。不快だ」
「じゃあ何て呼ぼう? セブルスちゃん?」
互いに背中合わせで作業しても、からかうように笑うジェームズも顔も、眉間に皺を寄せるセブルスの顔も、ありありと思い浮かべることが出来た。
「…………」
「…………」
同時に無言で息を吐くと、二人は黙々と作業を再開した。
流石に、今ここで乱闘する気にはなれない。
「あのさ」
代わりに、ジェームズはやや声色を落として話し掛けた。
「今更だとは思うけど、なんで君って僕らを目の敵にするわけ?」
「知るか、そんなこと」
脱力気味に答えが返る。
「なんかさー、結局羨ましいんじゃない? 仲間に入れて欲しいってゆーか。だから絡んでくるんでしょ」
普段ならこれだけで一、二時間は舌戦が可能になる台詞だった。しかし、
「…私がお前やブラックと仲良くしたいように見えるのか?」
セブルスは大きく首を振っただけだった。
「こっちから願い下げだ」
「じゃあなんで?」
「…ジェームズ・ポッター。君は自分がどれだけ人の神経を逆撫でする存在かわかっていない」
「ふーん? 君には悪いけど、僕ってガッコの人気者なんだよねー」
「皆どうかしているということだな」
「君が偏屈ということだよ。…あーあ、こんなことならシリウス達とチェスでもしてるんだった!」
「は、あのお調子者。名門ブラック家も奴の代で終わりだな」
「はっはぁ。こちら、喧嘩を売っていらっしゃる?」
「事実を述べただけだ」
「親友の悪口はほっとけないね」
ジロリ、と振り返ったジェームズは黒髪の他寮生を睨んだ。…ので、数時間ぶりにその姿を直視することになった。
相変わらずの陰気さ。
これだから嫌なのだ。
セブルス・スネイプがジェームズにとって鬼門なのは、その何とも言えない雰囲気のせいだった。
白い肌に黒い髪。生気の薄い表情。彼の周りの景色だけがいつも線画のように見えてくる。
黒と白と灰色と。そんなくすんだ空気をいつもまとっているのだ。
色の洪水のような毎日を送っているジェームズにとって、その単色の世界は見るに耐えなかった。
「あんな空気背負ってよく生きてんな、こいつ」。
…どんなに好意的に見てもせいぜいこの程度だ。
「親友、か」
しかし、セブルスの口から発せられた言葉はいつもとは違っていた。
陰気さを伴っていつつも、何かが違う。
そういえば、あの冷笑がないのだとジェームズは気がついた。
「親友の悪口は許せないというが、いったいどこまで許せないのかね? ルーピン? ペティグリュー? お前ならグリフィンドール生の悪口だけで怒りそうだ」
「あったり前じゃん」
「……安いものだな」
数冊の本を抱えつつ、まっすぐに見据えてくる黒い瞳に、思わずジェームズはたじろいだ。
「何だって?」
「誰にでも笑顔を振り撒いて、同僚生なら皆友人か? お前の友情は薄利多売に見える」
「は…」
絶句したジェームズにセブルスは畳み掛けた。
「お前を慕う女生徒もいるだろうに。誰にでも一律の好意では、彼女も浮かばれんよ」
どうやら彼は、具体的に誰かのことを言っているらしかったが、ジェームズには思い当たらなかった。
腹立ち紛れに眼鏡を指で押し上げると、ジェームズはセブルスを睨んだ。
「友達の好きと恋人の好きくらい区別できるよ」
次の瞬間、空間が歪んだかと思った。
ジェームズの言葉を聞いたセブルスは、信じられないほど鮮やかに笑って、言った。
「それは、嘘だ」
と。
言われた内容より、その一言で彼の周りの世界が一斉に芽吹いたように見えて、色付いた世界に目を奪われた。
現実はそんなことは全然なくて、やはりただの暗い図書館の青白い月明かりの下だったのだが。
それでも、はにかみと挑発とを交えたうつむき加減の笑顔が、すべての色を塗り替えていた。
……セブルスは知ってるんだ。
呆然と、それだけを思った。
単色の世界が彩られるほど強く、そして普段はその気配を微塵も見せないほど深く―――誰かを想っている。
ずるい。
あんな暗い顔で嫌味ばかり言ってさんざ僕らを罵倒してくれたくせに。
他人になんて興味ないって顔してたくせに。
自分だけ想い人を隠していたなんて。
そんなのは、ずるい。
「…ジェームズ?」
その一言など聞こえていなかった。
言ってから、セブルスがしまったというように口を押さえたのも見えてはいなかった。
ただ一つ心に決めていた。
絶ッッッ対に暴いてやる! と。
だってずるいから。