−私的サイボーグ009−

『死』
 SW版009第21巻に収録の「サイボーグウォーリア」238ページの画像を某氏から頂きました。
 一応別人ということらしいが容姿、服装とも004そっくりのサイボーグが代理戦争に敗れ死んでしまうというストーリーだとか。 なんと両手と片足ふっとばされてしまう。さすがにこれ目に入ったときは体ががくがくしてしまったが。 でも、何故か気持ちには馴染んだ。読んだことないけれどこれについてやっぱり考えてしまいました。

 これは004ではあるが004ではない。また004ではないが004そのものでもある。彼のダミー。
 先生はどうしてこれを描かれたのでしょうか。
 
 どうしてこの役を負わされたのが004だったのか、それはもちろん、メンバー中最も死に近いところにいるのが 彼だということが明らかだからでしょう。自ら話していたように「もう何十回も死んだ」人ですから。 彼は死をもたらしていると同時に自らに死を引き寄せている印象があります。
 この酷い最期の図に対して違和感がなかったのも、彼の心が何度かこのようになってしまう瞬間を 見せられているからだという気がします。それを視覚化したような、既視感ある場面でした。

 また、常に危険な闘いの中にある彼らにとって死は意外なものでもなんでもない。なんらの感傷の入り込む余地のないこういう 唐突で残酷な死にいつ出会ったとて不思議ではない。人気漫画の主人公である彼らはその意味で甘やかされている。 しかしご存知のようにそれは作者の意図を離れてしまっているのです。
 原作では2度までも死を暗示する終りから引き戻されている。 004も一度死なされている。個人的にはなかったことにしてる映画での話。なんともみっともないことに安易に生き返らされて しまうのですが、これは実はこれまでに「読者が、作者に対して強いてきたこと」を改めて具現化した図となってはいないでしょうか? とすればこれを安易に批判するのはあたらないのかもしれない。
 その意味では、この「サイボーグウォーリア」は004の姿をしてはいるが他の誰でもかまわない。009であっても003であっても、 006ですらあっても構わないのではないでしょうか。

 機械の身体に縛られて常に闘いの場、それも大抵は「代理戦争」の場にいなくてはならない彼らを開放するにはその身体を破壊するしかない。 彼らが正しく弔われるにはこの方法しかないのかもしれない。これは彼らの創造者である作者が差しのべた慈悲の手ですらあるのかも。
(この「機械の身体、武器」を強調したいならばやはり004でなくてはならないのか...。)
 先生は本当は本編でそれをしたかったのかもしれないですよね。
 いずれにせよ、早くこれを読んでみたいです。この話はまた改めて。

(1999年12月5日記)追記:その後読みましたが上記の印象が特に変わらないのでこのままです。

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