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ウルトラマンメビウス外伝 RAYGA

 第7話 侵略のオトメゴコロ その5

 シロウはユミと同じく、突然の雨に濡れていた。
「シロウ……さん……」
 近寄ってくるシロウは怪訝そうな顔をしていた。
「ユミ…………ひょっとして、泣いてんのか?」
「!!」
 思わず、身体がびくっと震えた。
 弱気な自分を見られたくない、その一心で首を激しく振った。
「ううん。雨が目に入っちゃって。急に降ってくるんだもの、びっくりしちゃった。うふふ」
「ったく、びっくりさせんなよ。――っと、このまんまじゃ二人ともびしょ濡れだな」
 言うなり、シロウは右手を頭上に差し上げた。
 途端に、二人の周りの雨が消える。
 見上げると、空中で雨粒が方向を変えて二人を中心とした円の外へとそれていた。見えない傘か、皿が頭上にあるみたいだ。
「シロウさん、これ……」
「あいにく、家を出るときに傘持ってこなかったんでな。ちょいと力使ってんだ……が、あんまり長いことはもたねえし、ちょっとそこの陰に行こうぜ」
 シロウが指差した方向は、奇妙に時代がかった和風建築の玄関の軒下だった。
 そそくさとそこへ移動した途端、それを待っていたかのように降りが激しくなった。水煙が上がるほどではないが、見通しが悪くなる程度の激しい雨ではある。
「ひゅう〜。はは、危機一髪だぜ」
「……この降りなら、すぐ止みますよ」
 軒越しに空を見上げるユミに、シロウは意外そうな顔をした。
「へぇ。ユミ、わかんのか?」
「はい。この時期のこういう土砂降りは、長くは降りません。長くても1時間もすれば晴れると思います」
「そっか。すげえな。ははっ、未来が見えてるみてぇだぜ」
 ユミと同じように空を眺めて、脳天気に笑うシロウの声が心地いい。
 さっきまでの鬱々とした気分が、この雨と共に少し融けて流れていったような気がした。
 やっぱり、好きな人と笑って話が出来ることは幸せで、元気になれることなんだと改めて感じる。
 とはいえ……。
 しくり、と胸が痛んだ。
(この人は、わたしの世界のシロウさんじゃないんだ……よね)
 ちらっと横目でシロウを窺う。
 好きな人と寸分違わぬ別人。
 この愛しさも、胸の高鳴りも、喜びも、幸せな気持ちも、本来向けるべきではない人。
 でも、彼は自分が別人だとはわかっていない。
 どうしたらいいのか……。
 ユミは軽く首を振って、考えるのをやめた。
(よそう。考えても答えなんて出ないよ)
 気持ちを切り替えたユミは、ふと思い出した。
「そういえばエミちゃん、大丈夫かな……」
「あん? なんだ、ユミ。師匠と一緒だったのか?」
「あ、うん……ええと……」
 すぐにカズヤの一件を思い出して、ユミは答えをためらった。下手なことを言って新たなケンカの火種になってはまずい。
「今日はエミちゃんの家でお勉強をしてたんですよ。お昼ごはんを食べに出て来たんですけど……その、食べた後に散歩してたら、エミちゃんとはぐれちゃって。わたし、この辺りはよく知らなくて……シロウさんに会えて助かりました」
「そっか。じゃあ、晴れたら送ってやるよ。師匠んちでいいんだよな?」
「はい。……それで、シロウさんは? どうしてこんなところに?」
「ああ、それがな」
 腕組みをしたシロウは、少し難しい顔をした。
「家で昼飯食い終わって、畑に戻ったんだけどよ。タキザワのおっさんも、ワクイのじじぃも、イリエ超師匠も全然戻って来ねえんだよ」
「あー……」
 喫茶店の騒ぎを思い出して思わず苦い顔になったユミは、その表情を気取られぬようそっぽを向く。
「だから、三人の家を回ってたんだよ。ところが、全員昼飯は外で食うっつって、そのまま帰ってねえって家の人に言われてな」
「へぇー……………………家の人?」
 引っ掛かりをおぼえて向き直ったユミは、シロウの服の裾をツンツン引っ張った。
「だもんで、もう一度畑へ――なんだよ」
「シロウさん? タキザワさんやイリエさんの家を訪ねられたんですか?」
「おう。それがどうかしたか?」
「あ、いえ…………あの〜……変なことになりませんでした?」
「変なこと?」
 シロウは小首を傾げた。
「いやぁ、別に……普通だったと思うが」
「その、いきなり、抱きつかれたりとか……好きって言われたりとか」
 全然、と首を振るシロウ。
「なんでそんなことを俺が言われるんだ?」
「あ、いえ。その……」
 ユミは答えに窮した。喫茶店のことを言うべきか。それと、公園であったことを。信じてもらえるだろうか。
 困ったユミは、にっこり満面に笑みを浮かべた。
「シロウさんって、魅力的だから♪」
「……意味わからん」
「ですよねー。あはははー」
 我ながらなんてバカな答え方をしたのか、と赤面してうつむく。
 シロウは今のやり取りを気にした風もなく、再び空模様を見上げている。



 沈黙の隙間を雨音が埋めてゆく。



 好きな人と隣り合わせなのに、気の利いたことを言えない自分が恥ずかしい。
 でも、シロウさんと共通の話題なんてそうそう持ってないし……
 ふと、考えるより先に口が動いた。
「……あの、シロウさん。もしわたしが……」
「ん?」
 こちらを見たシロウと目が合った瞬間、ユミは声を失った。
 たちまち、言ってはいけない、と止める自分と、ここで言ってしまえという自分が頭の中で大戦争を始める。
「なんだ、ユミ?」
「あ、はい」
 言ってしまえ、という自分が、『好きな人に隠し事をするのか!』という理論武装で膠着戦線を突破した。
「もし…………わたしが別の世界から来たユミだったら、どうしますか?」
 笑われるだろうか。きっとそうだ。一笑に付されてしまう。なにバカなこと言ってんだよ、とか。
 胸を締め上げられるような気分を味わいながら待っていると、シロウはじーっとユミを見ていた。
 そして、言った。
「そんなことはないだろ」
「え?」
 どう受け取っていいのかわからない断定的な答え方に、軽く混乱する。
 その間に、シロウは続けた。
「俺が見る限り、ユミは純然たる地球人だし、異次元人でもない。機械人形というわけでもないし……並行世界から紛れ込んだにしては、存在上の次元揺らぎもない。それとも、ウルトラマンの感覚でもわからんような何かカラクリがあるのか?」
「あ……………………と。いえ、その……」
「なんかあったんだったら、話せよ」
 やっぱり話すのをやめよう、もう一度おちゃらけてお茶を濁して終わりにしよう、と思った矢先のその一言に、ユミは足元が揺らぐような気分を味わった。
「俺にはわからんが、ユミには自分が別の世界から来たんじゃないかって思える何かがあったんだろ? んで、それを俺に訊くってことは、俺ならなんとかしてくれるかもしれねえ、とそう思ったんだろ? いいとも、なんとかしてやるよ。俺はユミのウルトラマンだからな」
「シロウさん……」
 安堵が胸の締め付けを緩める。途端に視界がぼやけた。あふれ出した潤みがたちまち粒になって頬を伝う。
 シロウが見えなくなるのが嫌で、ユミはしがみつくようにしてシロウの胸に顔を埋めた。
「あ……シロウさん、シロウさん……助けて。お願い、助けて。わたしとエミちゃんを……!」
 泣きながら訴えるユミの肩を、シロウは優しく抱きしめる。
「ああ、わかった。任せとけ」
「うん……………………っくしっ」
 頷いた後、小さくくしゃみをしたユミは頬を染めて、身体を離した。
「ご、ごめんなさい。わたし……」
「そうだな。先にうちへ行くか。なんだかんだで濡れっちまってるしな。かーちゃんに話せば、洗濯とかなんとかしてくれるだろ」
「そんな、ご迷惑ですよ。わたしはいいです、このままエミちゃんの家へ……」
「バカ言うなよ。せっかく可愛いワンピース着てんのに、ずぶ濡れじゃ辛いだろ。靴だって泥だらけだし」
「え?」
 屈託なく笑うシロウ。しかし、ユミは驚いていた。まさかシロウの口から服を褒めたりだとか、こちらを思いやる言葉を聞けるとは。
 瞬時にユミは濡れた服が乾いてしまいそうなほど、全身が沸騰し、熱くなるのを感じた。
(か、可愛いって言われた! シロウさんに、可愛いって♪ ああ……このワンピース着てきてよかった!)
 もぞもぞと小さく身悶えするエミに、シロウが怪訝な顔をする。
「なんだ? 顔が赤いぞ? 熱か? それに、震えてんのか? やっぱり濡れたせいだな? そりゃダメだ、一刻も早く帰らねえと」
「あ、いえ、その、これは――ひゃっ!?」
 うまく言葉が紡げない間に、シロウはいつぞやのようにユミをお姫様抱っこに抱え上げた。
「シ、シシシシシロウさん!? まさか!? このまま街中を――」
「おう、舌噛むぞ。黙って首にしがみついてろ!」
 言うなり、シロウは軒下から飛び出した。
 折から、雨の降りが治まってきていた。遙かに、雲の切れ間と差し込む光。
 まだ降り残る雨粒を超能力で掻き分けつつ、騎士シロウはユミ姫を抱えて突っ走った。
「わきゃああああああああああ…………っっ!!」
 姫らしくない喜びの声が、尾を引いて小雨の町に響き渡る。

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

 雨が降っていたせいか、ユミを抱えたシロウの姿を誰かに見られることもなく、無事二人はオオクマ家についた。
 頭から白煙を噴きそうなほど真っ赤になっているユミを玄関ポーチに下ろすと、シロウは中へ入って行った。
「ただいまー。かーちゃん、悪いんだけどよー……」
 上がり切った動悸を鎮めるために、胸に手を当てて深呼吸を繰り返していたユミの前で、玄関が閉まる。
 そして――開かなかった。
「……………………?」
 妙な胸騒ぎと違和感に、ユミは顔をしかめた。
 玄関の扉一枚。いつもなら聞こえるはずのシロウさんの声が聞こえなくなっている。シロウさんに答えているはずのシノブさんの声も聞こえない。
(……なんだろう。なんだか……)
 音が消えていた。
 雨の音さえ。
 視界が固定されている。玄関のノブに。見つめるつもりはないのに、そこに目がひきつけられる。
 ユミは、おずおずと手を差し伸ばし、ノブを握った。そうしなければならないような、強迫観念めいた何かに急かされて。
 ゆっくりとノブを回し、扉を開いてゆく。すると――

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

 道場。
 畳を敷き詰められた広いその部屋は憶えがある。
 ノムラ道場だ。ただ、明かりがなく、薄暗い。
「……………………あれ?」
 ユミは道場の中、出入り口を背に立っていた。
 今、オオクマ家の玄関の扉を開けたはずだ。
 中に踏み込んですらいない。
 なのに、なぜ。いや、なぜという問いはおかしい。何が起きたのか。
 まるで、映画やテレビ番組で、シーンが変わったときのような。
「え? え? わたし、今……えぇ?」
 振り返ってみても、見覚えのあるノムラ道場の道場入り口と壁。
 不意に、閃きが走った。
 道場の窓の外、暗雲の中に稲妻が走っていた。数秒遅れて空気を割く音が届く。
「どういう、ことなの? これ……」
「……なんでここへ来るかなぁ」
 正面から聞こえてきた声にびくりと身を震わせる。
 そちらを見やれば、人影があった。腕組みをして仁王立ちしている人影と、正座しているらしき人影の二つ。

 いや、それよりも。
 今の声は。

「…………エミ……ちゃん?」
 恐る恐るユミは声を出してみた。
 稲妻が窓の外を走る。
 一瞬、道場が明るく照らされた。
 そこには、柔道着を着たエミの姿が。
 奥で正座している人物の姿ははっきりと見えなかったが、やはり柔道着を着ていた。
「エミちゃん、なにをしてるの?」
 ユミは道場の空気が張り詰めていることを感じていた。緊張のあまり、ごくり、と空唾を飲む。
 カズヤを説得するために残ったはずの彼女がここにいること自体おかしい。なにかある。
「それに、シロウさんはどこへ行ったの? わたし、シロウさんの家に来たのに、どうして道場に――」
「ユミぃ……あたしはさぁ、あたしの家に来てって、言ったよね。どうしてシロウさんの家に来るのかなぁ?」
 ユミが聞いたことのない、エミの声音だった。はすっぱというか、彼女の言うところの『師匠モード』でもない、なにかしら怒りや憎しみさえ感じられるような……。
「それは……道に迷っちゃって。シロウさんが送ってくれるって言ったんだけど……」
「だったら、さっさと行けばいいじゃない。どうしてわざわざシロウさんの家に来るの?」
「だからそれは、シロウさんが――」
「へぇー……。シロウさんが悪いんだ。へぇー……。いい子ちゃんのユミも、いざとなったら人のせいに出来るんだぁ。好きな人でも、そんな風に責任転嫁できちゃうんだ」
 いちいち胸に刺さる物言い。日頃の、元気が良過ぎて男前とさえ揶揄されるエミの言葉とは思えないほど、毒を含んでいる。
「違うの。エミちゃん、わたしの話を聞いて。お願い。なにか変だよ、これ。どうしてエミちゃんがそんなこと言うの?」
「どうして?」
 暗がりで表情は見えづらいが、確かにその時、エミは鼻で笑った。
「わかんない? そんなはずないよね。じゃあ、わかってて訊いてる? 結構悪女なんだ、ユミってば」

 悪女。

 ユミは思わず言葉を失った。
 生まれてこの方、そんな言われ方をしたことはない。自分でも、そんなことを言われるような性格ではない、と思っていた。
「違う違う違う違う違う違うっ! わたし、そんなんじゃないっ!! どうして? なんでそんなひどいこと言うの!? どうしちゃったの、エミちゃん!」
「どうもしないわよ。わたしがカズヤさんと戦っている間に、イチャイチャしちゃってさ。いいご身分ですこと。それとも、あたしならそんな扱いでも気を悪くするとは思わなかった? 安く見られたものねぇ」
「それは……ごめんなさい。でも、イチャイチャなんて」
「あたしの家じゃなくって、シロウさんの家に来るってことは、そういうことでしょおっ!!」
 まるでエミの怒声に反応したかのように、稲光が閃いた。かっと目を剥いて吼えるエミの姿が浮かび上がる。
「……………………!!」 
「弱いと言ってもさ、あたしは男の人と戦ってたんだよ? 年上のさ。そんなあたしを探すように頼まずにさ、家に送ってとか、シロウさんちに連れてってとか、まあ、うまく事を運ぶものよね。ねんねなふりして、やるったら。は」
「違う」
 ユミはそう呟いて首を左右に振った。
「……違うよ。わたしの知ってるエミちゃんは、そんなこと言わない! あなた、誰!?」
 勇気を振り絞って放った言葉。自分が言える、ギリギリの嫌味。
 しかし、エミは別段堪えた風もなく、腕組みを解いて肩をそびやかした。
「ああら。次は別人ときましたか。……自分に都合が悪いと、今度はあたしまでニセモノ扱い? それでよくもまあ、友達でよかったとか、嬉しい言葉をもらったとか思えたものねぇ。もっとも、あたしの方はそんなこと欠片も思ってなかったケド」
「え……でも。え?」
 ユミは目を瞬かせた。なぜそのことを――自分が口走った言葉だけではない。思っていたことまで。
「あたしが偽者かどうか、その目で確かめてみなさいな」
 歩いてくる。
 エミの声を持つ誰かが。
 そうして見えるところまで近づいて来たその者の顔は――やはりエミだった。
 だが、その眼差しは。挑戦的にユミを見据えている。
 どこかに差異はないか、じっと見つめるユミに対し、エミは右手を自分の胸に当てた。
「あたしはあたし。今朝からずっと一緒にいたチカヨシ・エミよ。ユミが何を以ってニセモノホンモノいうのか知らないけどね」
 言われるまでもなく、目の前にいるのがエミであることを、ユミは感じていた。差異があるとすれば、その態度しかない。ポニーテールの髪も、稲妻が閃くようなきらめきに溢れた瞳も、その顔も、首筋も、体のどこを見ても、外見上の違いは何一つ見つからない。
「うそ……うそよ。じゃあ、なんで……そんなひどいこと…………言うの? へ、変だよ……おかしいよ、エミちゃん……」
 栓でも抜けたかのように、足元から力が抜けてゆく感覚。ぐらついて、二、三歩後退る。すぐに背中が壁についた。
 さらに近づいて来たエミは、ユミの顔の横へ叩きつけるようにして壁に手をついた。
 思わず顔を背けるユミ。
「そもそもさぁ、『わたしの知ってるエミちゃんは』、とかほざいてくれたけどさぁ。あんたがあたしのなにをどこまで知ってるっていうの? 冗談じゃないわよ、たかだか高校に入ってから一年ちょっと、一緒にいたぐらいで親友気取り? 言っとくけど、ユミ。あんたが知ってるあたしなんて、あたしのほんの皮一枚。元気印の裏表ない猪突猛進ガール? 元気が良過ぎて男前? はは、あたしがそんな単純な人間だって、思ってるわけだ。しっつれいねぇ」
「じゃあ、じゃあ……今までのは嘘だったっていうの? 水泳部で負けて泣いてたのも、シロウさんと一生懸命頑張って、クモイさんと戦ってたのも」
「嘘なわけないでしょおっ!!」
 どんっ、と手を壁に叩きつける。ユミは思わずびくりと震えて、身を縮こまらせていた。
「あんたは見方が一面的だって言ってんのよ。とはいえ……あんたも相当鈍いわねぇ。ま〜だわかんないわけ?」
「え? ……え?」
 怯えて上目遣いに見やるユミ。
 エミは空いた手で前髪をかき上げるような仕種をした。
「かーっ、この期に及んでまだカマトトぶりますか。やってらんない。そうやって、自分だけ乙女演じて、あたしのこと嘲笑ってるわけね。いいわいいわ、じゃああなたの目論見どおり、あたしの方から言ってあげる」
「エミちゃん……」

「シロウさんはあたしのものよ。誰にも渡さない」

 今日何度か聞いたそのセリフ。
 だが、誰がその言葉を口にしようとも、今ほどの衝撃はなかった。
「………………エ、エミちゃん!!?? え? ええっ!! でも、だって、今日! ええええええっっ!?」
 目を白黒させたユミが言葉を吐くまで、じっくり待っていたエミは、底意地の悪い笑みを浮かべていた。
「あたしが言ったこと、全部真に受けてたって? は、バカじゃない? ああ、そうか。あんたの中じゃ、あたしは嘘もつけない頭の悪い正直者なんだもんね。でも、それで騙されてるあんたって、実はあたしよりバカじゃない?」
「あ、ああ……」
 ユミは震え始めた。壁に叩きつけられるエミの手が怖くて身を震わせた時とは違う、身体が心から冷えてゆく感覚に伴う震え。自分が底なしの穴に落ちて行くような錯覚。
「でも……でもでも、助けてくれたじゃない! エミちゃん、喫茶店でも公園でもヤマグチさんの時でも!」
 途端に、エミは吹き出した。
 ひとしきり可笑しそうに笑い、改めてユミの顔に自らの顔がひっつくほどつきつける。
 ユミはエミの瞳に映る、怯えきった自分の姿を見た。
「喫茶店の時はさー……あのバカどもと同じことをしても、あんたを出し抜けないじゃない? 公園の時は、あれであなた、あたしのこと信じたでしょお? で、カズヤのときは――あのバカをのしてから、あんたをうちで待たせといて、あたしは一人でシロウさんとこへ行くつもりだったのよ。あんたより先に、告っちゃおうってね。まさか、逆に出し抜かれるとは思ってなかったけど」
「じゃあ、じゃあ……」
 何か言い返そうとしても、もう何もでてこない。
 それでもエミを信じたい気持ちと、裏切られていたという暗鬱たる思いが、組み紐細工のように絡み合い、喉から声が出ない。
 それを見透かしたように、エミは続けた。
「だいたいさぁ、あんた自分がどれだけ醜いかわかってんの?」
「は……え?」
 ユミは、背中を壁に預けたまま、徐々に膝を折ってゆく。エミの近すぎる顔から逃れるためには、ずり下がってゆくしかないからだった。
 無論、エミはそれを逃がさない。手を壁についたまま、一緒に姿勢をずり下げてゆく。
「いっつもおどおどしてさ、あたしの陰にいるくせに頭いいのを鼻にかけて、あたしのことバカにして。部活では見事に足引っ張ってくれるし。ああそうそう。特訓の話が出たときもそうだったわよね。わたしが命懸けで、泣いてまでシロウさんに強くなってもらおうとしてた時に、あんたなに考えてた? イリエのおじいちゃんが津川浦へ行こうって言った時よ。あんた、なにはさておきまず海だってはしゃいだわよね」
「あ…………うん……」
 ぺたり、とお尻が畳についた。もうエミはユミにのしかかるような格好になっている。
「津川浦行ったら行ったで、今度は一番辛いことあたしに任せたままで、自分はずっと見てるだけ。そのくせ、シロウさんは自分のものにしたいって? あまつさえ泣き落としでつながりを作るなんて、どこまで恥知らずに欲深なのかしらね」
 そこで、エミの頬笑みはさらに深く、歪なものになった。悪夢の中でしか見られないような、狂気めいた笑み。
「そんな女、シロウさんが好きになるって、本気で思ってるわけ? いいえ、そもそもシロウさんの横に立っていていいのかしら? いつだって命懸けの真っ直ぐに生きてるあたしを差し置いて、シロウさんを奪う資格が、あなたにあるのかしら!?」
「ご、ごめ……わ、わた、わたし……そんな、つもり……じゃ」
 逃れようのない態勢で、浴びせかけられる逃れようのない非難。
 ユミは、あふれ落ちる涙をこらえ切れなかった。
 さっきまでの嫌味とは全く違う。一つ一つが心を引き裂くような指摘。事実だけに、否定できない。
 こうして第三者から責められて初めて思い知った。自分は、自分の思っていた以上に腹黒で、欲深で、調子のいい、いいかげんな生き方をしてきた人間だったのだと。
 ずるい。その通りだ。
 卑怯。その通りだ。
 欲深。その通りだ。
 恥知らず。その通りだ。
 自己中。その通りだ。
 つまり、醜い。返す言葉もない。

 こんな人間が、誰かを好きになるなんて、そんな資格はない。
 まして、誰かに好きになってもらうなんて。

「ごめん……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 しゃくりあげながら、それだけを繰り返すユミ。
 ……もはやユミに、抗う性根は残っていなかった。


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