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ウルトラマンメビウス外伝 RAYGA

 第4話 史上最大の逆襲 反逆のロボット怪獣軍団 その4

 水中から無我夢中で起き上がったシロウは、しかしまたも動けずにいた。
 わからない。どうしたら相手に勝てるのか。考えつく限りの手は試した。
 なにをどうしても、躱され、やられる。
 悪島での敗北、ツルク星人と戦うクモイの背中、腕を十字に組んだウルトラマンジャック――脳裏に次々と湧いては浮かぶ敗北のイメージ。
「――どうした。もう終わりか?」
 稽古の開始当初とまったく変わることなく、傲然と立ちはだかるクモイ・タイチ。
 シロウの目は、自分でも気づかぬうちにエミを見やっていた。
「目が救いを求めているぞ。レイガ」
 気づけば、手の平が視界いっぱいに広がっていた。顔面をわしづかみにされ、そのまま水中へ押し倒される。
 しばらく水中でもがいた後、引きずり出され、再び沈められる。
 それを何度か繰り返され、やがて、シロウはわけがわからなくなった。今が水中なのか空気中なのか、なぜこんなことになっているのか、自分が何をすればいいのか。
 身体から力が抜け、意識が薄れる。

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

「師匠ーーーーーーーーーーっっっ!!!!」
 叫びとともにタックルしたエミを、クモイ・タイチはシロウをわしづかみにしたまま腰でがっしりと受け止めた。
「クモイ師匠、もうやりすぎです! シロウが死んじゃうっ!!」
「こいつがこの程度で死ぬようなタマか」
 片手に男一人をつかみ、腰に女子高生をまとわりつかせながら、クモイ・タイチは揺るぎもしない。身も、心も。
 しかし、エミも怯みはしなかった。
「そういう問題じゃありませんっ! 戦う意志もなくした相手に、そこまでするのがクモイ師匠の武道ですかっ!?」
「あいにく、オレは武道家ではない。ただ単に他者を腕ずくで制する技、武術を修めた者だ。崇高な人道主義や博愛主義など、期待するな」
「そんなの、人としてどうなんですかっ!」
「人としてどうとか言っていて、地球が守れるかっ!」
「そんな……そんなこと威張って言う人に、地球を、みんなを守る資格なんかあるもんですかっ!」
「………………っ!!!」
 クモイ・タイチが硬直したその刹那――プラスチックのオールが後頭部に炸裂した。
「ぐあっ!?」
 呻いて、思わずシロウを離す。膝から崩れ落ちながら、背後を振り返り見れば――ユミがいた。
 今にも崩れそうな泣き顔を必死に引き締めて、親の仇を見るような目でクモイ・タイチを睨み、へし折れたプラスチックボートのオールの柄を握り締めている。
「……アキ、ヤマ……? なぜ……」
 クモイ・タイチが今日初めて波間に沈むと同時に、ユミは折れた柄を放り出し、ぷかぷか浮いているシロウに駆け寄っていた。
「シ、シ、シロウさん!? 返事をして! 死なないで、シロウさん!!」
 必死に叫んで肩に担ぎ、砂浜へ引きずってゆくユミ。その姿は、日頃の弱々しい姿とはまったくかけ離れたバイタリティに満ちている。
 クモイ・タイチが苦悶の表情で後頭部を押さえているのを横目に、エミは大きくため息をついた。
「……とりあえず、今日の稽古はこれで終わり、だよね。乱入と武器は制限外だし」

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

 午後七時。
「ほっほっほ、そりゃあ災難じゃったのぅ」
 他人事のようにからから笑うイリエに、エミは頬を膨らませた。
「イリエのおじいちゃん――じゃなかった、大師匠。笑い事じゃなかったんですからね」
 二人がいるのは道場の食堂。
 差し向かいで夕食を取っていた。
 ご飯にお味噌汁、エビフライに付け合せのレタス、プチトマト、きゅうり、ポテトサラダ。小鉢にほうれん草のおひたしと煮豆。
 食べているのは二人だけで、テーブルにはあと四人分のおかずが並んでいる。
 カズヤはまだリビングで寝ており、ユミは倒れたシロウを道場で介抱している。
 そしてクモイ・タイチは用がある、と言い置いて姿を消していた。
「でも……」
 エミの箸の動きが止まる。
「クモイ師匠があんなこと言うなんて、ちょっとショックだな……」
 煩悶のため息が口をつく。
「あやつもまだまだ若いでの。色々思うところがあるんじゃよ」
「でも、明日もあんな調子じゃ……あたし、ついてく自信がなくなっちゃうかも」
 肩を落としてため息をつくエミ。
「それはどんなもんかのう」
 イリエはきゅうりを口に放り込んだ。
「え?」
 ぽりぽり音を立てて食べたイリエは、そのまま味噌汁をすする。
「大師匠……今の、どういう意味ですか?」
「タイチは何も間違っとらん。それについていけん、というのならあいつを選んだエミちゃんの覚悟も、そこまでじゃったということじゃな」
「そんな! でも……だって……」
 すねたように唇を尖らすエミ。
「独掌みだりに鳴らず、じゃ」
「ドク……なに?」
 怪訝な顔をするエミに、イリエは箸を置いて両手を広げた。
 それを正面で、ぱん、と打ち鳴らす。
「さて、今どっちの手が鳴った?」
「どっちって……大師匠、それ結構使い古されてますよ。アレでしょ? 両手があってこそ鳴るってことでしょ?」
「そう。そのとおり。さて、ではこちらのエミちゃん、」
 と言って、右手を見やる。
「こっちのタイチ、」
 左手を見やる。
 それを再び、顔の目の前で打ち鳴らす。
「さぁて、この師弟……どっちが鳴ったのかのぅ?」
「……いや、意味わかんないです。クモイ師匠の考え方がどうって話が、何でそんな話に」
 困惑しきりのエミに、イリエはからからと笑った。
「そうかそうか。まだ、エミちゃんには少し早かったかのぅ」
「はぁ」
「では、これはエミちゃんの宿題にしておこうかのぅ。この合宿中にわかればいいんじゃがの」
 からからと笑い、再び箸を取って食事を再開する。
 エミも首を傾げたものの、それ以上追求せずに食事を続けた。

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

 同時刻。柔道場。
 布団に寝ているシロウ。その横に座り、団扇で緩やかに扇いでいるユミ。
 電気を消しているため、明かりは窓から差し込む月明かりだけ。
「……う……誰、だ?」
 目覚めたシロウの言葉に、ユミの手が止まる。
「シロウさん? 大丈夫ですか?」
「ユミ、か。……なんだ? オレ、どうなって……」
「クモイさんが酷いことして、シロウさん、意識を失ったんです」
「ああ……そうか」
 横たわったまま、前髪をかき上げるような仕種で動きを止めたシロウは、それきり黙り込んでしまった。
 やがて、沈黙に耐え切れなくなったユミから口を開いた。
「あの、シロウさん。もう、やめませんか?」
「………………なんで……………………お前が言うんだ?」
「だって…………見てられない……です。シロウさんだって、こんなことしたくてやってるわけじゃないんでしょ? あ、エミちゃんならわたしが説得して――」
「いや、いい」
「え、でも」
「……なあ、ユミ」
「はい」
「オレ、ウルトラ族の宇宙人なんだよ」
 ユミはきょとんとした。なぜ今さらそんな告白をするのか。
「は、はい。知ってます」
「本当の姿で戦えば、地球人なんか相手にならねえんだ」
「そう……ですね。おっきいですもんね」
「でも、みんなオレを弱いって言うんだぜ。……なんでなんだ?」
 暗がりだからこそ、明らかになるものがある。
 ユミには、シロウの声が震えているように感じられた。
「本気になりゃあ、地球人が一生懸命作ったビルだってなんだって簡単にぶっ壊せるのに、オレは弱いって……お前一人死なせちまうほど弱いって……オレは…………なんで……………………こんなに弱いのかなぁ……」
「……………………弱くてもいいです」
 ユミは団扇を置き、前髪をかき上げたままのシロウの手を両手でそっと握った。
「わたしとエミちゃんを守るために命懸けで戦ってくれたシロウさんの背中、わたしは忘れてません。シロウさんはわたし達のために命を懸けてくれた。それが、それだけが、わたしにとって大事なこと。強いとか、弱いとか……関係ありません。たとえシロウさんがある日突然地球人の敵になっちゃっても、わたしは……最後までシロウさんの味方です」
 暗がりは都合よく隠してくれる。ユミの両頬を流れ落ちる雫を。
「ユミ……」
「それに、弱くてもいいじゃないですか。弱いなら弱いなりに、これから強くなればいいんです。それならわたし、強くなっていくシロウさんが見てみたいです」
「……………………」
「わたしも、弱いから……シロウさんの気持ち、よくわかります」
 シロウの手を握る両手に少し力がこもる。
「わたしも……エミちゃんみたいに強くないから、エミちゃんみたいに強くなりたくって。ずっとエミちゃんを羨ましく思って、憧れてました。でも、気持ちのどこかでわたしはエミちゃんじゃないから、エミちゃんにはなれないって諦めてたんです。だから、多分……水泳でも、思ったほどタイムが伸びなくて……エミちゃんに迷惑かけちゃって…………なのに、それでもエミちゃんは友達でいてくれて……それが心苦しくて……わたし、わたし……」
 握り締めたシロウの手に、隠しきれなくなった滴がポツリポツリと落ちる。
 シロウは身を起こした。
 それを待っていたように、ユミは抱きついた。肩に顔を埋めて泣きじゃくる。
「ごめ、ごめんなさい、シロウさん。わたし…………わたし、ごめんなさい。今から酷いこと言います」
「あん?」
「強くなって、シロウさん。……そしたら、わたしも、って思える気がするんです。ごめんなさい、自分勝手なこと言ってるのはわかってます。今日あんな酷い目に遭わされたのに……でも、でも――」
 そこから先はもう言葉が出てこなかった。嗚咽だけが暗がりに揺れる。
 シロウはそんなユミの頭を軽く撫でていた。
 そして――
「わかった」
 その一言で、ユミはがばっと身体を離した。
「……え? シロウさん?」
 シロウは大きく、深く息をついた。胸の中に溜まった全ての澱みを吐き出すかのように。
「なんつーかよ。お前に言われてよー……なんか、こう……ちょっと楽ンなった」
「シロウさん……」
 シロウは照れ隠しか、もしゃもしゃと自分の髪を掻き回した。
「わかるぜ、ユミの気持ち。そーだよな。これだけ負け続けて、その上色んな迷惑までかけちまってるのに、それを何にも言わないんだよ。クモイの奴以外よ。なんか、悔しいよな。お前やるなって、言わせてみてえよな」
「はい……。はい」
「それに……オレだってこのまま負けっぱなしはイヤだ。少なくともクモイとジャックの鼻は明かしてやりたい。だからユミ、約束してやる。強くなってやる。そのかわり、ユミもオレと約束しろ。エミにやるな、って言わせてみせろ」
「……は……ハイ!!」
 ユミは暗がりの中、満面を喜色で彩った。
「それともう一つ、覚えとけ」
「はい?」
「もう、オレの前でそんな泣き方すんな。……なんか……胸が痛いっつーか。苦しいっつーか。とにかく、なんかもやもやして気色悪いからよ」
 暗がりで顔なんか良く見えていないにもかかわらず、シロウはぷいっと横を向いてしまう。
 ユミはその時になって、ようやく自分がひどい泣き顔になっていたことに思い至った。赤面したユミは、慌てて掛け布団代わりのタオルケットを剥ぎ取り、顔を埋める。
 それを見たシロウはまた泣かせたかと慌てた。
「ちょ……ユミ、だからお前泣くなって。ああ、またかーちゃんに怒られる……」
 顔を上げるのも恥ずかしく、ユミはただ「違います」という意思の表示のために、タオルケットごと顔を左右に振り続けた。

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

 午後9時。
 入浴も終え、寝る前の活動をめいめいに行おうとしているところへ、イリエが顔を出した。
「ほい、わしはちょっと出かけて来るでな」
「大師匠、どちらへ?」
 夏休みの宿題から顔を上げたエミの問いに、イリエはにんまり笑った。
「野暮なこと聞くでないわい。――カズヤ君、後は頼むぞい」
「はい」
 なにやら荷物から取り出していたカズヤが頷くと、イリエは頷き返してそのまま姿を消した。
「じゃー、シロウ君。特別講義しようか」
「あ?」
 唐突に話題を振られ、腕枕で横になっていたシロウは怪訝な顔をした。不満げに身体を起こし、あぐらをかく。
「なんだ、夜はカズヤが師匠かよ。けどお前、ケンカはしたことないって言ってなかったか?」
「実戦経験は無いよ。したくもないし。けどまあ、ケンカとか戦いってのは、身体を動かすばかりが能じゃない。頭を使わないとね」
「ああん?」
 面倒臭そうに顔を歪めるシロウ。エミとユミも話の成り行きがわからず、顔を見合わせた。
「イリエさんいわく、シロウに圧倒的に足りないのもボクと同じく、経験だそうだ。経験が無いから、ピンチに陥った時にどうしていいかわからなくなって動きが止まる」
「ああ、そっか」
 不意にエミが手を打ち合わせた。
「クモイ師匠の稽古って、そういうことなんだ。大師匠が技を教えて、午後の稽古でそれを実戦として試す。……でも、実戦でないと経験は積めないんじゃないの? 何でヤマグチさんなの?」
「世の中、実戦経験が全てだと思ったら大間違いだよ、エミちゃん、シロウ」
 ふっふっふ、となぜか企み顔で笑うカズヤ。
 名指しされた二人は思わず顔を見合わせていた。
「君たちのように身体が出来ているからこそ、出来る無茶振りってものがあるのさ。最初にこれをイリエさんから言われた時には、ボクだってあの人の正気を疑ったよ」
「なになに? なんなの?」
「なんか……ヤマグチさん、とっても怪しいです……」
「だからもったいぶらずに早く言えって。なんでこう――」
「くっくっく、洗脳教育と呼ぶなら呼ぶがいいさ――見よ、珠玉のヤマグチ・カズヤセレクションを!!」
 先ほど荷物から取り出していたものを、高々と掲げる。
「ああっ!? そ、それは――!!」
 エミ、シロウだけでなく、ユミまでがそこに示されたそれに、目を見張った。

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

 夜の津川浦。
 昼間、仁王立ちしていた岩の上にクモイ・タイチは座り込んでいた。その手には携帯電話が握られている。
「……ああ。こちらにはなにも問題はない。隊長は……そうか。他のみんなは………………そうか。ああ、そうだ。もう少し、黙っていてくれ。すまんな。埋め合わせはいずれ。……なに? いや、知っている。大変なようだな。うん? ああ……それは俺が判断することじゃない。ああ。それじゃ」
 通話を切って、パタンと携帯を閉じる。ため息が漏れた。
「――仕事の連絡かの」
 ジャージのポケットに携帯を突っ込んでいたクモイ・タイチは、声のした岩の下に目を向けた。
 そこにはイリエがいた。
「師範」
 すぐに岩の下へ飛び降りる。
 イリエは二つの茶碗と一升瓶を差し上げてみせ、夜空に顔を向けた。
「今夜はいい月が出ておる。月見酒につき合え」
「……は」
 二人は閉店した海の家の脇に置かれた安っぽいベンチに場所を移した。
 茶碗にそれぞれ酒を注ぎ、あおり呑む。
 穏やかに打ち寄せる波の音だけが、終わることなく漂っている。
「さて、タイチ。早速じゃが、あれはいかんのぅ」
 イリエの切り出しに、クモイ・タイチの顔が曇る。
「やりすぎたとは……思っていません。追い詰められてこそ、初めて表に出るものもあるはず。それに――」
「勘違いしとるの。稽古のことではないわい」
「は?」
「夕食じゃよ。ワシとエミちゃん、二人で食べた。さびしかったの〜。思うところはあったにせよ、身体に問題があったわけではなかろう。きちんと食事は皆揃って食べねばの。会話こそ、最上の調味料じゃからして」
「はぁ……失礼しました」
「稽古のことはよい。お主はお主なりのやり方でやればの。それが指導者というもの。ワシは何も言わん」
「ありがとうございます、師範」
「それにの」
 イリエの口調に笑みが混じる。
「弟子は師匠の思惑をなかなか理解できんものじゃよ。今も昔も、な」
 クモイ・タイチは苦笑を浮かべた。
「は……身に沁みます」
「お主の思いも、あの子たちがわかるには時が要る。それもまた、指導者の持たねばならぬ覚悟。焦るなよ、タイチ」
「は……。いや、むしろ――私の方が」
「ほう?」
「チカヨシに……諌められました。こんな酷いことをする人に、地球を守って欲しくないと……似たようなことを、オオクマに言ったばかりだというのに」
 クモイ・タイチの沈む口調を吹き飛ばすように、イリエはからからと笑い声を上げる。
「かっかっか。お主のことじゃから、いい加減な覚悟のやつに地球を守られたくないとか、そんなことを言ったのじゃな?」
「さすが師範、お見通しですか」
「かっかっか、堅苦しいところは全然変わらんのぅ。じゃが……それとこれとは話が違う。指導者としての非情は持たねばならぬもの。エミちゃんがなんと言おうと、そこを曲げるでないぞ」
「……よいのですか?」
 意外そうな顔つきのクモイ・タイチにイリエは頷いた。
「それで引き出すことが出来ると思ったのじゃろう? シロウちゃんの本気を」
「はい」
「ならば、それでよい。お主がお主の思うところを信じずして、なぜに弟子を導くことが出来ようか。弟子から学ぶこともあろう。じゃが、最後はお主自身じゃ。自分自身を信じられぬ師匠が、弟子に自分の力を信じろと言えるか? 言えたとして、その言葉に力はあるか?」
「そう……ですね」
「師匠が揺らげば、弟子も揺れる。指導者になるということの難しさは、まさにそこよ。年を経て、自らの過ちに気づいた時、取り返しがつかん。かといって若ければ若いだけ、迷い、惑うことばかりでなかなか筋を通せぬ。ともすれば弟子は、なにを信じればよいのか、わからなくなってしまう。正直……まだタイチにこの道は早いと思うておる」
「師範……」
「じゃが、これもお主が自ら選んで踏み出した道。かつてお主に道を示した一人の先達として、嬉しくもあり、誇らしくもある。この一時だけのことだとしてもな。それゆえ、こうして口はぼったい説教をしてしまうのじゃが。ま、こんなお小言は話半分で聞いておくがよい。大事なのは今言うた通り、自分じゃぞ」
「は……胸に刻んでおきます」
「なぁに、多少のことはワシがフォローしてやるわい。年を取るというのは、そういうことにも長けるということでな。……お主一人で背負うでない」
「ありがとうございます」
 イリエは一升瓶をつかんで、クモイ・タイチの茶碗に酒を注いだ。
「ほれ、お主からもなんか話を振らんか。このままでは小言ばかりが続くぞ。小言を肴の酒など、美味くはなかろう」
「はあ……」
 うながされ、茶碗の水面に映る半月を見つめつつ、少し考え込むクモイ・タイチ。
 ふと、思い出したように顔を上げた。
「そういえば、オオクマのことですが」
「シロウちゃんか。どうした?」
「昼間に仰っていた、あいつの特殊な力というのは――無尽蔵の体力なのですか?」
 笑いながら茶碗を煽ろうとしていたイリエの動きが止まった。
「ふむ。なぜそう思うのじゃ?」
「今日の稽古、正直あの二人を体力的にとことんまで追い込んで終わらせてやろうと思っていました。しかし……最後まであいつの体力は衰えるように見えなかった」
「……見とらんのう」
 イリエは不満げに漏らして、茶碗を一舐めした。
「は?」
「確かに、シロウちゃんの体力は地球人よりはある。じゃが、無尽蔵というほどでもないわい。そもそも、オオクマ家で一戦交えた時と比べて、どうじゃった?」
「あの時との違い……?」
 しばし考え込むクモイ・タイチ。今日一日の修行を思い返してみる。
 それでも、首を振った。
「あの時に比べて、息の上がりが遅くなったのは確かですが、それ以外ではなにが変わったとは……」
「では、あれからそう時が経っておらぬのに、シロウちゃんはどうやってそんな体力を得たのかのう」
「そういえば……妙ですね」
「やれやれ。おかしなことがあるなら、それを解き明かすがお主の修行ぞ。これはお主の宿題というところじゃの」
「はい」
「死に物狂いでやれ」
 茶碗に手酌で酒を注ぎながら、イリエがぽろりと漏らした一言に、クモイ・タイチの表情がさっと変わる。
「師範……。はい」
「こんな調子で、ワシは皆に宿題を出しておる。これがワシのやり方じゃ。お主とて例外ではないぞ? ま、せいぜい合宿の終わりにお主だけ宿題が解けなんだ、ということのないようにのぅ」
「肝に銘じます」
「とはいえ、お主の面目を潰すのは誰にとってもためにならんからのぅ。少しヒントを与えておこうかの。お主だけ、特別じゃぞ?」
 茶碗をぐいっと一息に飲み干し、月に向かって酒臭い吐息を気持ちよさげに吹きかける。
「ヒントですか? なんです?」
「男子三日会わざれば剋目して見よ、と言うが……シロウちゃん一日会わざれば剋目して見よ、じゃの」
「……は?」
「わからぬか。じゃから最初に言ったじゃろう。師匠の言うことは、弟子に伝わるまで時間がかかると。まあ、明日を楽しみにしておれ」
 ひどく悪戯坊主な笑いを浮かべるイリエに、クモイ・タイチは首を傾げた。

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

 午後9時半。
 リビングルームに引きこもったシロウとカズヤ。
 夏休みの宿題をするために残ったエミとユミのうち、ユミが席を立った。
 気分転換ついでに、二人にお茶を出すという。多分、用意して無いと思うから、と笑うユミの笑顔は、その夜それが最後となった。

 午後9時45分。
 戻らぬユミを訝しげに思ったエミが、気分転換と自分に言い訳して席を立つ。
 リビングルームへ向かったエミもまた、その夜二度と道場へは戻らなかった。


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