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ウルトラマンメビウス外伝 RAYGA

 第4話 史上最大の逆襲 反逆のロボット怪獣軍団 その2

 憤怒と嫌悪の気配を全身から立ち昇らせ、視線にありったけの殺意を込めて睨むシロウ。
 その視線を無表情なほど醒めた眼差しで受け流すクモイ・タイチ。眠気を催しているかのような半眼――なのに、攻め込める気がしない。
 もういっそこの視線で相手をブチのめせたら、とさえ思う。蹴りも拳も届かぬ以上、もうそれしか手がない。
 永遠に続くかと思うような睨み合い。
 ふと、クモイ・タイチの表情が崩れた。視線がちらりと横に流れる――

 今だ。
 ――シロウはありったけの力を込めて踏み出した。

 躱されるより速く。
 当たらずとも、さっきのように抱えて投げ飛ばすことなど出来ない速さで。
 反撃できないほど強く。
 当たればそのまま庭の生垣を突き抜け、向こうの山まで一緒に飛ぶつもりで。

『砕け散――』
 その視界に、何かが飛び込んできた。クモイ・タイチと自分の間に割り込んだそれは――
『――エ、エミ!?』
 振りかぶった拳は既に助走を始めている。
 突っ込んだ身体は既に速度に乗っている。
 渾身の力を込めたこの一撃。
 拳がかすっても、エミは――
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっ!!!!!!!」
 爆発のような衝撃がオオクマ家を揺らした。
 爆発じみた土煙がオオクマ家の庭に立ち昇った。
 シロウの拳は――止まっていた。クモイ・タイチの顔面の前数ミリの位置で。踏みとどまった左足の下は、深くえぐれるように落ち窪んでいた。
 シロウの全身から、滝のような汗が滴り落ちる。
 焦りと、安堵と、恐怖と、泣きたくなるような気持ち――わけのわからない物が胸の中で大きく激しく渦を巻いている。
 その激しい渦のせいか、呼吸がままならなかった。大きく、激しく肩が波打つ。
「……と……まった……?」
 拳が止まったのが、自分で信じられなかった。
 それ以上に、クモイ・タイチの行動が信じられなかった。
 この男は、自分の拳より速く手を伸ばし、割って入ったエミを押しやったのだ。それによって自分が避けられなくなるにもかかわらず。
「――当たり前だ」
 邪魔っけに拳を押しやられ、シロウはたたらを踏んだ。危うく尻餅をつきそうになり、何とかプライドだけで踏みとどまる。
 クモイ・タイチは、エミの肩に降りかかった土を手で払いながら続けた。
「以前、悪島で見た時より重心が低く保てている。誰に教わったのか、自分で見つけたのかは知らんが……それが出来ていれば、この程度踏みとどまれて当たり前だ。驚くほどのことか」
「え……」
 シロウは思わず、まだ握り続けている拳を見下ろした。次いで、そのまま自分の両足を。
「重心を残しているから、拳に重さを伝えられる。拳を止められる。拳も、蹴りも、手足で打つんじゃない。腰で――重心で打つんだ」
「はぁ……」
 褒められているような気もするが、そのぶっきらぼうな口調はそうでない気もする。地球人の感情表現はよくわからない部分がまだ多い。
 しかし、ともかく。
 シロウはようやく大きく息を吐いた。
 震えるほど握り込んでいた拳が、ようやく緩んで開く。
 エミを殺さなくてよかった。
 それが、今の思いの全てだった。
「それにしても、危ないだろう。急に飛び出すなんて」
 一通りかぶった土を払い落としたエミは、そうたしなめるクモイ・タイチに頭を下げた。
「ごめんなさい。でも、こうするしかなくて」
「?」
 話の流れが見えず、シロウは顔をしかめた。
 クモイ・タイチも同じ思いなのだろう。怪訝そうな顔をしている。
 すると、エミはクモイ・タイチの右手を両手で取り、それにすがるようにして言った。
「あたしを――弟子にして下さい」

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

「……は?」
 困惑を極めた表情のクモイ・タイチ。
 エミは口元をきっと引き締めた。
「あたし、あの異星人に襲われた時、腰が抜けて動けませんでした」
「いや、君が動けていようといまいと、あの状況では――」
「そんなことはわかってます!」
 その強い調子に、クモイ・タイチ開きかけていた口を閉じた。
 エミはそのまま続ける。
「でも……次はそうじゃないかもしれないじゃないですか」
「………………?」
「痴漢とか変質者とか、ストーカーとか、世の中に女の子の敵はいっぱいいます! ……あ、や、別に、今そういうのに付きまとわれてるわけじゃないですよ? そんでもって、そんなのとまともにやり合うつもりもないです。でも……この先、ひょっとしたらそういうこともあるかもしれないし、そんな時に腰が抜けて動けない、なんてことにだけはならない程度に強くなりたいんです。いけませんか?」
「わからんでもないが……護身術なら別に俺でなくとも」
「いいえ! クモイさんがいいんです!」
 エミは激しく首を振りたくった。ポニーテールが乱れ舞う。クモイ・タイチの手を握り締める手に力が篭る。その瞳はきらきら輝いている――クモイ・タイチを思わず怯ませるほどに。
「だって、『拳は自分の魂を握り込んで、相手に伝えるために』でしょ? そんなことを直球ド真ん中で言える人、他に知りません。あたしの師匠にはもうクモイさんしか考えられません!!」
「は、はぁ」
「それに――」
 不意にエミの表情が一変した。純真爛漫な運動部系女子高生ではなく、腹に一物ある企み顔。
「あたしを弟子にしてくれたら、もれなくシロウさんがついてきますよ?」
「……なに?」
「はぁ!?」
 クモイ・タイチの顔色が変わり、黙って見ていたシロウも不服めいた声を上げる。
 エミは振り返った。
「なによ。シロウはあたしの弟子なんだから、あたしの師匠はつまり、あんたの師匠でしょ」
「ちょ、ちょっと待て! なんだそれ!? オレはそんな――」
「俺も断る」
「え?」
 驚いて体を戻すエミに、クモイ・タイチは渋い表情で告げた。
「師匠と弟子の関係とは、そんな簡単なものではない。仮に、この場で君を弟子と認めたとしても、あいつの件はまた別だ」
「オレだってごめんこうむるぜ、エミ」
 不服と不満の渦巻く声で、シロウも参戦する。
「こんな奴に――」
 シロウがクモイ・タイチを指差した途端、エミはつかつかっと歩み寄った。そして右手一閃。たちまち、シロウの左頬に赤く手の平が浮かび上がる。
「あたしの師匠を指差すなっ! こんな奴呼ばわりするな!」
 君を弟子にした覚えはまだないが、というクモイ・タイチの呟きは当然のように無視される。
「あたしは身も心も強くなりたい。だから、自分が強いって認めた人の弟子になる。シロウだって、強くなりたいんならその方が――」
「余計なお世話だ、バカ野郎! 誰がそんなことしてくれって頼んだ!?」
 たちまちエミはむっとした表情になった。
「そーよ! 別に頼まれてないわよ! あたしのおせっかいですー! でも、じゃあどうするのよ!」
「どうするって、なにがだよ」
 ぴくぴくっとエミの頬が引き攣る。大きく息を吸い込んだ。
「あたしが教えるまで泳ぐどころか浮かべもしなかったくせに! 電車の乗り方は!? バスの乗り方は!? 乗り物の違いを教えたのは誰!? 学校のこととか、お金の使い方とか、世の中のこととか、弟子と師匠のこととか、その他いっぱいいっぱい、なぁんにも知らなかったくせに! 地球に来てからこっち、あんた自分で何か学んだことある!? 出来ないことを出来るようにしようとしたことある!? ないでしょ!? あるって言うんなら、今! ここで! 全部言ってみなさいよ!」
 ヒステリックにまくし立てるエミの顔は真っ赤に染まっていた。その怒りっぷりに、シロウはたじろいで何も応えられない。
「悔しいんでしょ!? 負けて、悔しいんでしょ!? 次こそは勝ちたいんでしょ!? 違うの!? そのくせ何にもしないし、何にも思いつかないんでしょ!? だったら黙ってこの流れに乗っちゃえばいいのよ! せっかく師匠のあたしがそうなれるようにしてるんだから、弟子は黙って従いなさいよ! いい!? あんたが嫌ってようとなんだろうと、この人は凄い人なんだからね!? あんたが手も足も出せなかったあの異星人を倒しちゃったんだよ!? まず、それを認めなさいよ! あんたは負けて、この人は勝ったの! 負け犬がギャンギャン吠えてごねてるの、それって、かっこ悪いって思わないわけ!?」
 答えられず、唇を噛んでうつむくシロウ。
 ひとしきりわめいて少し落ち着いたか、エミは腕を組んでふん、と鼻を鳴らした。
「いい、シロウ。ここが分かれ目よ」
 シロウの怪訝そうな目が上目遣いにエミを見やる。
「……何の?」
「あたしとシロウ、この先も師匠と弟子でいられるか」
「え……いや、おい。けど」
 困惑と混乱のきわみで言葉を上手く紡げないシロウに、エミは悲しげな顔を向ける。
「『師匠』って……シロウは遊びのつもりで言ったのかもしれないけど、あたしは嬉しかった。だから、例えシロウがごっこ遊びだと思っていても、あたしは本気で師匠のつもりだった。でも、こっから先はもうごっこ遊びじゃ済ませない」
「だから、なんでそんな話になるんだよ! 別にオレが何をどうするか、お前に背負わせた覚えは――」
「それが師匠って呼ばれるってことでしょお!」
 エミの叫びの語尾が震えた。きゅっと唇を噛み、少し気持ちをこらえてから続ける。
「少なくともあたしは本気だった。……あんたも知っているとおり、あたしは今回、目標にたどり着けなかった。負けた。正直、いまだに心もプライドもズタズタだし、あんな事件に巻き込まれるしで、結構精神的に追い込まれてる。けど……」
 何かを吹っ切ろうとするかのように、首を激しく左右に振りたくった。
「諦めてない! 諦めない!! 次こそ勝つために、今ここでグダグダ言ってる時間はないのよ。あたしは立ち上がる。この負けを認めて。もっと、もっともっと強くなるために。弟子のあんたがいるから余計に、がんばる。同じように負けたあんたに、師匠としてどうやって立ち上がるかを見せつけるために、あたしはここで泣いてる場合じゃない。寝てる場合じゃないのよ」
 そう語りつつ、エミの両瞳には光るものが溢れつつあった。
「だから、シロウがあたしの作ったこの機会を受け入れられないって言うなら……もうあんたとはおんなじ道は行けない。シロウはシロウの道を行くといい。あたしはあたしの道を行く。これからも日常的に顔は合わせるでしょう……けど、二度と師匠なんて呼ばないで。あたしも、呼び捨てじゃなくて、さん付けに戻す」
 それきり、オオクマ家の庭から人の声が絶えた。
 セミの鳴き声だけがしゃわしゃわと響き、じりじりと焼けつく陽射しが降り注いでいた。

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

「そこまで言われては、断れんな」
 沈黙を破ったのは、クモイ・タイチの重いため息だった。涙目で振り向いたエミに、諦め顔で微笑む。
「しかし、君は本当に女子高生か? 俺の高校時代より、よっぽど男前じゃないか。――おい、レイガ。いや」
 シロウに話を振ろうとしたクモイ・タイチは、首を振って言い直した。
「オオクマ・シロウ。地球に不慣れな貴様に教えておいてやるが、これほどの逸材は他にそうはいない。この男気に応えられないようなら――」
「だから負けを認めて、貴様に教えを請えってか?」
 敵を目前にした犬のように全身から怒気を放つシロウ。目元がぴくぴくと引き攣る。
「俺である必要は無い」
「あ?」
「ウルトラ族である貴様に戦い方を教えてくれる者なら、もう一人いるだろう。適任が。もっとも、師匠というより先輩というべきだろうが」
「………………」
 たちまちシロウの表情が苦渋に歪んだ。
 そのまま歯を食いしばったような顔つきで、しばし黙り込む。
 エミにはわからない葛藤と懊悩がシロウの中で渦を巻いている。
「……エミ」
 しばらくして絞り出した声は、ひどく落ち着いていた。
「いやさ、師匠。オレ、やっぱ、こいつには頭を下げたくねえよ。こんなやつに教えてもらう気持ちになんか、絶対になれねえ。オレは、オレのやり方で強くなる。なってみせる」
 エミの頬を、一筋涙が伝い落ちた。
 一瞬の硬直の後、無理やりに痛々しい笑顔を浮かべる。
「……ああ、そう。それがシロウ……さんの決めたことなら。あたしはもう何も――」
「そもそもよぉ、教えてもらうとか、学ぶとか、がらじゃねえんだよ。……エミ師匠以外からはよ。だからよー」
 ぽりぽり頭を掻いていたシロウの目が、ぎらりとクモイ・タイチを睨んだ。
「こいつからは奪い取ってやる」
「……え?」
「なるほど。ものは言いようだな?」
 皮肉めいた笑みを浮かべるクモイ・タイチ。
 シロウは大股で近づき、額がつきそうなほど顔を寄せた。シロウの方がやや背丈が低いため、自然と上目遣いになる。
「うるせえ。見てろ、てめえの全部、根こそぎ奪い取って倍返ししてやる。そんときになって吠え面かくなよ、地球人」
「面白い。……俺が懸けてきた十数年、奪えるものならやってみろ、宇宙人」
 数cmの距離で向かい合う二対の瞳の間で、殺気という名の見えざる火花が弾け飛ぶ。
「言っておくが、俺は身の程知らずの挑戦者に手心を加えてやれるほど、老成してない。全力で叩き潰す」
「は! ぶっ潰すのはこっちだ! ローセーだかコーコーセーだか知らねーが、意地でもてめえを師匠とは呼ばねえ!」
「ああ。俺だってそんな気色の悪い呼び方はごめんだ。好きに呼べ。気が向いたら答えてやる」
「そうかい。早速お互い気が合わないことだけは確認できたらしいな。めでたいじぇねえか。……んじゃまあ、このまま続き、やるか!?」
「そうだな。――あ、いや。それどころではないな」
「ああん?」
 クモイ・タイチがすっと身を引くのと、シロウの後頭部に拳骨が叩き込まれたのはほぼ同時だった。
 まったく予想外の攻撃に、後頭部を押さえてうずくまるシロウ。
「――……ってぇな! なんだよ!? ……よ?」

 振り返った視界に立ちはだかるは、怒りに目尻を吊り上げたシノブ。

 たちまちシロウの顔色が興奮の赤から、恐怖の青へと変わった。全身がわなわなと震えだす。
「かー……ちゃん? え? なに? なに怒ってんの……?」
 シノブは何もいわず、ただエミの方に顎をしゃくった――真っ赤に晴らした目元を拭っている少女を。
 その光景だけで、シロウは全てを理解した。
「……あ、いや。あの、かーちゃん、これは……その」
 シノブの口元がにんまり持ち上がる。
「問答無用、だよ」
「かーちゃん、ごめ――」
 シロウの脳天に下った天誅の音は、居間で麦茶をコップに注ぎ直していたユミにまで聞こえるほどだった。

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

「……ごめんなさい。約束破って本当に申し訳ありませんです」
 縁側できちんと膝を揃えて座るシロウ。うなだれたその頭頂に膨れ上がる巨大なこぶを、後ろで膝立ちのユミが痛々しそうに、優しく撫でている。
 シロウの前にはエミ、シノブ、クモイ・タイチが並んで立っていた。
「まったく。女の子を泣かすんじゃないって、あれほど言っただろう」
「あ、あのおばさん、これはあたしが勝手に」
「勝手でも何でも、この子が原因なんだから。ほんと、何べん言わせるんだかね」
「………………」
 さっきまでのクモイ・タイチとの睨み合いの気迫はどこへやら、完全にしゅんとして落ち込んでしまっているシロウ。
 クモイ・タイチは呆れたようにため息を一つ漏らす。
 エミは場を和ませようと、パンパンと拍手を打った。
「ま、まあこれで晴れてシロウさん……じゃなかった、シロウも正式にあたしの弟子ってことで。なんだかんだ気持ち的にあるかも知んないけど、クモイ師匠のことは、ん〜……師匠の師匠だから大師匠? って呼ぶこと! これ、師匠命令だからね!」
「ああ〜?」
 心底嫌そうな表情のシロウ。
「それはくすぐったいというか……嫌だな」
 クモイ・タイチもキライな食材を前にした小学生のような顔つきをしている。
「なら、わしはさしずめ……超師匠かの」
 誰もが予想だにしなかったその声は、シロウの隣にいつの間にか座っていた老人のもの。
 シロウのためにユミが入れておいた麦茶を勝手に飲みながら、呑気に笑っている。
「あら、イリエさん」
 シノブはさほど驚いた様子もなく、老人の名を呼んだ。
 ようやくエミも気づく。
「あ、ほんとだ。イリエのおじいちゃんだ。一体いつからいたの?」
「さっきからいましたよ?」
 不思議そうに言うユミに、全員の視線が集まる。
「おばさんがお風呂沸かしに行って、エミちゃんが庭に出てった時に、庭のあっちからすーっと入ってきて。そのままここに座って、ずっとエミちゃんとクモイさんとシロウさんのやりとりを見てました」
 ユミに集まった視線は再びイリエに集まる。
 ふと、シノブを押しのけてクモイ・タイチが歩み出た。
「あの、イリエ……って、もしかしてイリエ師範? ですか?」
「ほっほっほ、ひさしいのぅ。元気で何よりじゃ。のぉ、タイチよ」
 にこやかに微笑みこぼす好々爺に、クモイ・タイチはたちまち背筋をしゃんと伸ばして頭を下げた。
「ああ、やっぱり。これは、師範。ご無沙汰しております――あ」
 何かに気づいて頭を上げる。
「ひょっとして、こいつに重心の使い方を教えたのは」
「うむ。いかにも、わしじゃよ」
「さもありなん」
 苦笑しているクモイ・タイチに、エミが不思議そうな目を向ける。
「クモイ師匠、イリエのおじいちゃんと知り合いなんですか?」
「ああ。俺の柔道の先生だ」
「えー! ってことは、師匠の師匠!? イリエのおじーちゃんて、そんなスゴイ人だったの?」
「俺が教わっていた当時、師範は既に柔道七段だった」
「七……って、スゴイ! 達人じゃない! そりゃーまさに『超師匠』だ」
「いやいや」
 イリエはまんざらでもない表情で笑いながら首を振る。
「わしは柔道一本、それもタイチがエミちゃんぐらいまでの付き合いじゃ。タイチは他にも色々武術をやっとったからの」
「あの頃はお世話になりました。……その後は、不義理をいたしております」
「よいよい。活躍はテレビなんかで見とるでな。しかし、あのタイチが人様のために戦おうとは……成長したのぅ」
「いや、お恥ずかしい。……この道に進んでから、自分の至らなさと師範の大きさを痛感する日々です。あの頃は本当に失礼しました」
「若気の至りも過ぎ去れば良き思い出。その意味では、これも実に良き出会い。チカヨシさんちの孫娘、オオクマさんちの息子ともども、よぉく面倒見てやらねばな」
「は、師範に言われると汗顔の至り。まったく返す言葉も――」
「津川浦に行くか」
「は?」
 頭を下げていたクモイ・タイチは唐突な話題転換についていけず、思わず聞き返していた。
 代わって口を挟んだのはエミだった。
「津川浦って、あの海水浴場のある?」
「あの近くで知り合いが道場を開いておってな。タイチも覚えておるじゃろ?」
「はい、もちろん。ノムラ道場ですね」
「ちょうど今時分は長期の出稽古で道場自体は空いておるはず。そこを借りて、合宿でもどうじゃな?」
「はい! 私、行きます!」
 誰よりも速く手を挙げて答えたのは、シロウの後ろの娘だった。その目がさっきのエミのようにきらきら輝いている。
「……ユミ?」
 エミが怪訝そうに顔をしかめる。
「行く! 行くったら行くの! 海だよ、エミちゃん! 海!」
「あー……なるほど、狙いはそっちか」
 苦笑いを浮かべるエミ。
「でも、ユミ。遊びに行くんじゃないから」
「遊び、いいじゃないか」
 意外な助け舟はクモイ・タイチ。冗談や思いやりで言ったのではないらしく、真剣な面持ちだった。
「え? 師匠、でも……」
「修行も大事だが、高校生の夏休みを満喫するのも大事なことだ。遊ぶことは決して無駄ではないし、そういう時間が器を広げる。人間の器をな」
「器、ですか」
 二人のやり取りを聞いていたイリエ老人もうんうん頷いた。
「笑顔を知らんもんは笑顔を守れん。楽しい時間を知らんもんは、その大事な時間を理解できん。器とはつまるところ、そういうことじゃの」
「……なるほど。さすが大師匠。ウンチクがありますねぇ」
 真面目な面持ちで深く頷くエミ。
 だが、すぐにユミの突っ込みが入る。
「エミちゃん、それたぶん『含蓄(がんちく)』じゃないかな」
「う……。ち、ちくは合ってるもん! なんか、字もおんなじ感じだったと思うし!」
「夏休みの宿題も持ってった方が良さそうだね。……まだやってないでしょ?」
「………………うん」
 恥ずかしげにうつむいて頷くエミ。
 そこで、クモイ・タイチが手を打った。
「では、津川浦での合宿に二人も参加するということでいいな。それでは師範、道場の手配はお願いしても?」
「うむ、任せておけ。そうじゃの……明後日ぐらいでええかの。タイチ、お主仕事は?」
「ご心配なく」
 笑顔で頷くクモイ・タイチ。
 イリエ老人は横に置いていた杖を持って立ち上がった。
「よっこらしょ、と。……それでは、早速連絡を取ってくるかの」
「では、私もこれにて失礼を。――オオクマさん、お騒がせしました」
 クモイ・タイチもシノブ達に頭を下げる。
「じゃあ、私たちも……いこっか?」
「そうね」
 エミ、ユミはイリエとクモイ・タイチに頭を下げ返し、最後にシノブに頭を下げた。
「おばさん、お邪魔しました!」
「ご馳走様でした。また来ます。……シロウさん、じゃあ明後日ね」
「二人とも、気をつけて帰りなさいよ」
「「はぁい」」
 元気のいい返事を残し、家の中へ入った二人は、居間に置いていたそれぞれの荷物を抱えるとそのまま玄関へと走って行った。
 クモイ・タイチは自分の靴に履き替えるため、その後を追うようにして玄関へ向かう。
「さて、と」
 ただ一人残ったシロウを、見下ろすシノブ。
 まだ何か納得しきれていない面持ちで唇を尖らせているシロウの背中を、ぽんと軽く叩いた。
「ほれ、シロウ。風呂が用意できてるから入ってきな」

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

 そんなわけでやってきた津川浦。
 ちなみに、カズヤを呼んだのはイリエである。
 表向き虫除けと荷物持ちということだったが、ケンカの経験もないカズヤをこの合宿に呼んだ本当の理由は、後々明らかとなる。

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

 太陽が真っ赤に染まる頃、海水浴場から少し離れた山の中に立つ道場へ戻ってきた四人を、バーベキューの香ばしい匂いが出迎えた。
 道場の庭にバーベキューセットとテーブル、パイプ椅子を並べて、舌鼓を打つ。
 豪勢な食事に、合宿とは思えぬ楽しい時間。
 食事の後は花火。
 初めての経験に、はしゃぐシロウ。それに輪をかけてはっちゃける女子高生二人。
 周囲に気を遣わずに済む環境のため、エミ、ユミ、シロウ、カズヤは大いにはしゃぎ回った。
 そして、そんな様子を肴に酒を酌み交わす大人二人。
 日本の夏の夜が更けてゆく。
 夜空には天の川が横たわり、いくつもの流れ星がよぎって消えた。


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