愛の狂戦士部隊、見参!!

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第六章 暁光の決戦(その6)

 その光景に、その場にいる者全てが目を奪われていた。
 流れる長い黒髪を揺らめかせた紅の鎧騎士の肩口に、粘つき汚れた腐汁まみれの怪物が吸い付いている。じゅるじゅると、聞いているだけで胸の奥まで汚されそうな音を立てて。
 しかし、その吸いつかれている当の本人は――陶然と、その美しい顔を蕩けさせていた。

 ―――――――― * * * ――――――――

「あ……ああ……」
 うっとりと恍惚の面持ちを浮かべたネスティスの唇から、艶かしい吐息が漏れる。
「……う、れ、し、い……やっ、と…………ああ……」
 はらりと前髪が一筋、顔に滑り落ちる。その頬を伝う新たな雫は、悦びの涙なのか。
「く……くくクく……どコ、で、補充して……きタか、知らヌが…………ヨくぞ、集めた……」
 耳元で響く伯爵の嬉しげな声に、ネスティスは身体が悦びに震えるのを感じていた。
 地下の納骨堂で身にまとった魔力が、全て吸い出されてゆく。それだけではない。身体の隅々に残っていたあらゆる力が、砂地に沁み込む水のように流れ出してゆく。
 紅の鎧が薄れ、屍衣のような白い衣が露わになり、明瞭な意識までもが急速に失われてゆく。
(……ああ…………私が……『私』までもが……流れ出してゆく……。……なのに……心地よい…………ああ……もう……)
 五年の記憶が蘇る――その端からそれが消えてゆくことも、気にならなかった。
(…………伯……爵…………様……)
 かつて、クリスに『私が涙を流すとき、誰かがここを握り締めている』と言ったその部分に湧き出してくる、柔らかな感覚を抱き締めるようにして、ネスティスの意識は闇へと……虚無へと落ちていった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 じゅるじゅると吸い上げる音が、静まり返った謁見の間に響く。
 朝日の光さえ陰るような魔力が伯爵の噛み付いている首筋から立ち昇り、みるみるうちに伯爵の身体が再生してゆく。
 代わりにネスティスの紅の鎧が薄れ、蒸発してゆく。代わりに現れた白い衣から伸びるしなやかな手足が、ぴくっぴくっと震えている。それは悦びの震えのようにも、絶命の震えのようにも見えた。
「………………なにを……」
 最初にうめき声を搾り出したのは、デュランだった。
 目の前の事態を測りかね、思わず後退る。日陰から出てしまったローブの端から白煙が上がった。
「何をしておいでなのですっ、伯爵様ぁぁぁーーーっっ!!!!」
 ネスティスの身体が、床に落ちた。
「くく……何をしているか、だと?」
 笑いながら振り返った伯爵の顔は、見違えるほどに変わっていた。あれほど溢れ返っていた肉汁が消え、半分ぐらいに皮膚が甦っている。その面積も、見ている間に減ってゆく。
 驚いているデュランの顔面を、伯爵の左手がむんずとわしづかみにした。その速さ、先ほどの比ではない。
「うぬらに与えた魔力を……返してもらっておるのよ」
「……は?」
 戸惑っている間に、伯爵はデュランをおのれの方に引き寄せ――その首筋に牙を突き立てた。
「は……が…………お、おやめ……く、ださ……いっ……」
 血をすする下品な音が響き、デュランの身体に痙攣が走り、その姿がみるみる薄れてゆく。
「ごぉっあっ……い、今……力をお返し、し、しては……ぁがっ……私が……消え、て……」
「くくく……ネスティスに比ぶれば、カスのような魔力だが――」
 見る見るうちに伯爵の皮膚が甦りはじめた。
「我が皮膚と衣服の復元程度には使えよう。くくく……」
 デュランの手からこぼれ落ちた霊体の剣が虚空で消え、助けを求めるように伸ばした腕が太陽に焼かれて白煙を上げる。
「……ノ……ス……フェル…………」
 やがて、デュランの姿が気配ごと完全に消え去ると、伯爵は手の甲で口元を拭った。
 その顔に今やゴンの放った『リパルスアンデッド』の影響を感じさせる傷痕はなく、最高級の素材を用いた黒の正装とマントさえ復元している。
「ふぅぅぅぅ〜〜……っ……。くく、まだ……足りぬなぁ」
 伯爵の鋭い眼光が、ストラウスを睨んだ。
 たじろぐストラウスに蔑笑を与え、マントを翻す。その見やる先は――グレイ。

 ―――――――― * * * ――――――――

 ライフサッカーにすがりつき、荒い息を繰り返しているグレイ。
 その目は、射し込む朝日の中に横たわる強敵に向けられていた。
「……ネス……ティス……」
 白くゆったりした衣に包まれて横たわる一人の女。その満足そうに脱力しきった女の頬を濡らす涙が、朝日にきらめいている。
「どこを見ておる」
 喜色を含んだ伯爵の声に、グレイの瞳がゆっくりと上を向く。
「……仲間……まで、喰うか…………化け物が」
 深い呼吸の合間に吐き出した言葉に、全身から白煙を噴いている伯爵は頬を緩めた。にんまり笑うその顔は完全に再生し、服さえほとんど復元している。斬り飛ばした右腕も、いつのまにか元に戻っていた。
「笑わせるな、小僧」
 何を思い出したのか、左手の親指で口元を拭う。
「おのが女に手に掛けたうぬも同じであろうが。くくく……」
 ふっと頬笑んで首を振るグレイに、伯爵の表情が曇る。
「なに? なんだ、その――」
 ちらりとグレイの背後で倒れているクリスを見やり、再び顔を戻し――かけて、驚きに目を見開いた。
 クリスが身を起こしていた。寝起きのように頭を振り振り、上体を持ち上げる。
「な……なんだと!? 確かに、うぬは」
「……こいつは、な……」
 グレイの視線が、顔の横にあるライフサッカーの刃へ映る。
「切れぬ、ものさえ……切る…………ならば…………魔力とて……」
 ふと顔をしかめる伯爵。その言葉の意味をよく吟味して――なお疑念の晴れぬ面持ちで見返す。
「この……小娘の中の……わしの魔力だけを切った、というのか? ……いったい、その剣は……」
「あとは……貴様だけだ……」
 両手でライフサッカーの柄を握り、震える膝で身体を無理矢理持ち上げてゆく。
 膝だけではない。全身がそれ以上の活動を拒否するかのように、ぶるぶるがくがくと震えていた。止まらない。
 それでも、グレイはいまや完全に覚醒したクリスを背に、ライフサッカーを構えた。
 大上段から右半身(はんみ)に絞って、顔の横で刃を水平に構え、切っ先を伯爵に向ける。だが、その刃を彩る蒼い炎はしかし、今や吹けば掻き消えそうなほど弱く儚いものと成り果てていた。
 伯爵はにんまり笑った。勝ちを確信した者の笑み。
「そのざまでわしに挑むか。愚かな……その剣、うぬの命を糧としておるのだろうが……わしを斬るだけの命の力は、もはや残ってはおるまい? それこそまさしく蟷螂の鎌――むっ」
 グレイの後ろから進み出て来たクリスの手が、そっとライフサッカーを握るグレイの手に添えられた。空気が破裂したような音を立てて、蒼い炎が噴き出す。
「あたしの命も、使っていいよ。グレイ」
 伯爵を睨みつけるその瞳は、濡れていた。こぼれる雫が、頬を伝い、顎から滴っている。
「……あなただけは許せない」
「ほざくな、小娘。ふふふ、もう一度、絶望の闇に落としてくれ――」
 愉快そうに身体を揺すり、一歩前へ――
 不意に、その視界をストラウスの一団が遮った。
「なにっ!?」
 見間違いではない。同じ姿のストラウスが、ノスフェル伯爵とグレイたちの間に割って入った。
 周囲を見回せば、伯爵はストラウスたちに包囲されていた。その数……十人。
 伯爵を中心に円を描いて疾走する、黒衣の農民――いや、鍬を担いだ魔法使い。
「「「「「「「「「「――こっちだこっちだ」」」」」」」」」」
 大勢のストラウスはいずれも鍬を構え、不敵に笑っていた。そして周囲からはストラウスの足が刻む超高速のリズム。
「「「「「「「「「「ふはははははは、どれが本物か、判るかな」」」」」」」」」」
 一斉に笑ったストラウスは、今度は一人一人違うポーズを取り始めた。
 鍬を振り上げる者、鍬で土を掘り返す真似事をする者、鍬に寄りかかって呑気に鼻を掘る者、横になって頬杖をついている者、膝を抱えて座っている者、右腕を左上方に差し上げて左手を腰の辺りで握り込んだポーズを取る者……。
「馬鹿な。走っているということは……体術による分身の術か!? 魔法使いの分際で!?」
 ノスフェル伯爵は、明らかな焦りをみせた。注意を向けるべき相手を図りかね、右に左に視線が迷う。
「「「「「「「「「「ぬはははははは、驚いたか。とっておきは最後の最後までとっておくものっ!! はーっははははははははは」」」」」」」」」」
 多重音声の笑いが響き渡る。
 しかし。
「……ふん。分身したとて、わしを倒せるわけではあるまい。それに……臭うな」
 あっという間に冷静さを取り戻した伯爵は、委細構わず踏み出した。
「「「「「「「「「「出来ないかどうか、見やがれっ!! うりゃあああああああああっっ!!」」」」」」」」」」
 十人のストラウスが、一斉に鍬を振り上げて襲い掛かる。
「邪魔だっ!!」
 伯爵は左腕を一振りした。
 左方から襲い掛かっていた三人が、その一振りで消えた。
 残り七人の攻撃が次々と伯爵に振り下ろされ――六人分が空を切り、最後の一発、背中からの一撃だけが突き刺さった。
「ぬぅ! ……くく……そういうことか、魔法使いぃっ!!」
 吠えた伯爵は、傍にあった人の背丈ほどの大きな柱の残骸をつかみ取り、足元に叩きつけた。
 砕け散った大小様々の石つぶてが周囲に撒き散らされ、ストラウスの分身を突き抜け、打ち消してゆく。
「ぐぉあっ!!」
 いくつかが本体に当たり、ストラウスは後退を余儀なくされた。
 分身も全て消えた。
 石柱を砕いた名残に立ち込める粉塵が光を擾乱する。その只中に、伯爵は悠然と立っていた。
「ふぅ゛ぅ゛ぅ゛ぅ゛……」
 魔獣の唸りのような呼吸音が大気を震わせ、口元から噴き出した瘴気が粉塵を乱す。
「からくりは読めたぞ、魔法使い。『アルタネイト・シャドウ』かなにかの魔法による分身に、うぬの駿足を掛け合わせ、あたかも体術のように見せかけたか。くく……なかなかに愉快な趣向だった。褒めてつかわす」
 シルエットの伯爵を睨みつけたまま、石つぶてを受けた腹を押さえていたストラウスは、傍らに血の混じった唾を吐いた。鍬を構え直し、口の中で素早く呪文を唱える。
「……アルタネイト・シャドウ」
 再び、数人のストラウスがずらりと出現する。同時にその場でリズムよく足踏みをし、身体を右に左に揺らし始める。
「ほう、まだ使えたか。だが、無駄なことよ」
 粉塵の向こうで笑った伯爵は、再び同じような大きさの巨大な石の塊を片手でつかみ上げた。
「今度は本体もろとも、押し潰して――」
 伯爵の身体に震えが走り、表情が凍りつく。手から石の塊が転げ落ちた。
 腹から、蒼い炎をまといし刃が生えていた。
「……んむ……ぬ、ぐ…………きさ、ま……」
 ゆっくり振り返った伯爵の背後で、刺し貫いていたライフサッカーを引き抜くグレイとクリス。
 もはや顔を上げる力も失ったのか、うつむいたきりのグレイに代わって、クリスが睨みつける。
「やらせない」
 たった一言の、しかし限りない決意を秘めた声。
 伯爵の頬が屈辱に震える。それまで余裕を見せていた表情が、怒りに歪んだ。
「うぬらは……後ろから後ろから……。わしに魔力が戻った以上、もはやうぬらに毛ほどの勝ち目さえないというに……いい加減うっとおしいわあっっ!!!」
 右手でグレイの頭をわしづかみにした。引き抜くように頭上へ持ち上げると同時に、割って入ろうとしたストラウスの幻影数体を左腕の一閃で始末する。
「ふはははは、このまま頭を握り潰してくれ――」
「ストラウス、腕だっ!!」
「なに!?」
 突如響いたシュラの声に、伯爵の表情が硬張る。
 消え残っていた数人のストラウスが、グレイをつかみ挙げた右腕に殺到した。一斉に鍬を振り上げ、一斉に右腕に向けて鍬を振り下ろす。
「――しゃらくさいっ!!」
 伯爵はつかんだグレイを振り回した。ストラウスの幻影が、振り回されたグレイの体当たりを受けて一斉に掻き消され――
 グレイがすっぽ抜けた。そのグレイを偶然空中で受け止めたストラウスが、伯爵の足元に落ちる。
 伯爵はその時、二人を見ていなかった。
 吊り上がり、血走った伯爵の眼が睨んでいたのは、両膝立ちのシュラ。その左手から伸びた一筋の糸は、伯爵の右手親指に絡みついていた。
「ぬうう……うぬもかぁぁぁ〜〜〜〜っっ!」
 シュラは血まみれの唇を歪めて笑っていた。
「ここまで来たんだ。誰も死なせねえで終りにしようぜ、伯爵」
「ほざくな、死にぞこな――」
「――魔を退け、闇を払う聖なる輝きよ!」
「ぬ!?」
 唐突に響き渡った呪文の詠唱に、伯爵は思わず部屋の入り口を見やる。
「邪悪なる者に神の御裁(みさば)きの痛みを! ホーリー・ストライク!!」
 ストラウスたちよりさらに遥か後方――謁見の間の入り口から、白い閃光弾が飛んだ。
 振り返った拍子にそれをまともに顔面に浴びた伯爵は、仰け反った。
「ぐぅうううううっっ……グ、く……」
 一際濃い白煙たなびく顔面を押さえた手の指の間から、ぎょろりと血走った目が睨む。
 グレイを支えて立ち上がったストラウスも、振り返った。今のは司祭の使う呪文だ。だが、ゴンは呪文など唱えられる状態ではない。
「……どういう、つもりだ…………ブラッドレイィッッ!!
 しゅうしゅうと肉が焼ける音。手の隙間から、再び滴り落ち始める血の色の肉汁。床を叩く粘液。
 謁見の間の入り口には、禿げ上がったおっさんの姿があった。右手の中指と人差し指を揃えて伯爵に向けている。
 だが、なぜそこにブラッドレイがいるのか、ストラウスには理解できない。ブラッドレイは伯爵側ではないのか。
「ど、どういうつもりも、こういうつもりも……」
 言い返す声こそ居丈高だが、ブラッドレイの表情は酷く蒼ざめ、足もがくがく震わせている。
「私がお前の言うことを素直に聞いていたのは、ひとえにそれがミアの人々のためになると信じていたからだ。それを間違っていたとは思わんし――」
 ブラッドレイはちらりとストラウスとゴンを見やってから、続けた。
「お前だってそれを理解して、私を利用していたのだろう」
「……………………」
「だが、状況は変わった。今のお前ならば……」
 言葉尻を濁し、一つ唾を飲み込んで室内に踏み込んでくる。
 じっとブラッドレイを見ていた伯爵は――笑った。
「……ぐふ……ぐふふ、くく、くくくくく……救いがたき日和見主義者め……。そんなことだから……うぬは……グラドスを追われる羽目になるのだ……」
 ブラッドレイの顔が歪む。古傷をえぐられたように。
「よかろう……。うぬにわしを滅ぼせると思うなら、やってみよ。くく……くくクくくく」
 怒りのゆえか、噴き出した漆黒の瘴気が伯爵を包み始める。太陽がもたらす白色の煙と混ざり合って凄いことになっている。
 その迫力にブラッドレイは息を呑み、救いを求めるように左右を見やった。
 しかし、すぐに犬が水気を弾き飛ばすような勢いで首を振って、口を真一文字に引き結んだ。意を決して指先をもう一度伯爵に定め直す。
「ミ、ミアは私が救うっ! 彼らでも、誰でもなく、この私がだっ!! ……神よ! モーカリマッカよ!! 私に力を! 穢れし者を祓い、天に背きし者に裁きを下す力を与えたまえ!!」

 ―――――――― * * * ――――――――

 伯爵の注意は今、ブラッドレイに向いている。
 その隙に立ち上がったシュラは、ふらついて背後にあった石柱の残骸にぶち当たった。
「ぬ、ぐ……っ!!」
 右腕に走った激しい痛みに顔を歪めた。間違いなく折れている。
 その痛みはある程度無視できる。だが、体内の異常を示す重みは無視できない。みぞおちの下辺りに、重い石でも抱いているかのような感覚がある。
(やべえな……折れた肋骨でも刺さってんのか、それとも内臓がイカレたか)
 自分の命の時限を見切りながら、なおその頬には笑みがこぼれる。
(身体はガタガタ、糸も残り少ない、おまけに助けなきゃならんのがあのくそじじいだってか……)
 音も立てずに立ち上がり、少し身体を動かして許容範囲を確かめる。
 それから左手に巻きつけた銀の糸を口でくわえ、引き伸ばした。糸がきゅいぃぃ……と異質な音をたてる。
(……余計なことは考えるな。仕事だ。仕事をしろ。俺にしか出来ない仕事を。きっちりと、そつなく、完璧に)
 短く一息吐いて、シュラは床を蹴った。
 的は伯爵の背中。この距離、あのでかさなら目隠ししていても当てられる。
「ラリオス暗殺術、鋼糸殺法・斬の奥義――その五・睨頭弄刃っ!!」
 殺意の刃と化した銀の糸が、伯爵の首に絡みついた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 伯爵がブラッドレイに気を取られた隙に、シュラに襲われている。
 その間に、ストラウスはグレイを伯爵から引き離した。そこへクリスも合流する。
「グレイっ! 頑張って! あと少しだからっ! あと少しで、全部終わる――」
 もう握り返す力もないグレイの左手を握り、泣きそうな顔で必死に叫ぶクリス。
「……ダメだ」
 ストラウスは首を横に振った。痛々しげな表情をグレイに落とす。
「もう、グレイに戦う力はない。……たとえ奇跡が起こってそいつを握れたとしても、伯爵を斬ることは出来ない。躱される」
「そんな……。……当たれば……当たりさえすれば」
 唇を噛み締めて、無念そうに呟くクリス。その両手は握り締めたグレイの左手を、元気付けるように何度も何度も撫でさすっていた。
「それにしても、この剣、一体何なんだ?」
 ストラウスの視線は、意識を失ってもなお右手に手放さない魔刀に落ちていた。
「下での戦いの時から見てるけど、使えば使うほどグレイが弱っていく。まるで、命を喰っているみたいな……」
「そうよ」
 きっとクリスはストラウスを見やった。
「これは、グレイの家に代々伝わる家宝。自分の命を炎に変えて斬るんだって言ってた。……グレイのお父さんも、お祖父さんもこれに命を吸い取られて、死んだって……」
「なるほど……。じゃあ、余計に使えないな」
 ストラウスは唇を噛んだ。
「もし、さらなる奇跡が起きて斬れたとしても……おそらく、その瞬間グレイの命は失われるぞ。伯爵を倒すには、どう考えたって命の力が足りない。コップの水では……火事は消せない」
「そんな……」
 クリスは絶句した。どうしていいかわからず、グレイの顔を包むように撫でる。
 ストラウスは憎々しげに伯爵を見やる。奥歯が、ぎりりと音を立てる。
「くそ……さすが【転生体】というべきか……。あと一歩なのに……なんて遠い……」
「何とか……何とかできないの!?」
「今、考えてる」
 そう言う表情に宿る苦悶が、状況の難しさを如実に物語っている。
「あのおっさんが頑張ってくれれば……」
 二人の視線が、ブラッドレイと伯爵に向いた。
 ブラッドレイは、シュラの横槍だか援護だかをうまく利用して、矢継ぎ早に神聖魔法を唱え、伯爵にダメージを与えている。衣服は再びぼろぼろになり、身体のあちこちから粘液が滴り始めているのは、伯爵が回復した魔力の欠乏を意味していると見ていいだろう。
 だが、致命的な一撃には程遠い。
 それがわかっているのか、伯爵の方にも余裕がある。一歩一歩相手に威圧を与えるように迫り、ブラッドレイを確実に追い詰めている。
「あれじゃあ、長くは保たないな。……くそ、せめて俺達にこの剣が使えれば……」
「……あたしが、やる」
 覚悟を決めて頷いたクリスは、ライフサッカーを握るグレイの指を引き剥がしにかかった。
 その肩を、ストラウスは押さえた。いたわるように、ゆっくり首を振る。
「無駄だ。こう見えて、こいつは重いんだ。君程度の身体じゃあ振り回すのは無理――」
「振り回す? そんなの必要ないわよっ!」
 肩に置かれた手を、強く振り払う。
「あの化け物を刺せればいいっ! これを抱えて、あいつにぶつかっていけば――え?」
 ヒステリックに叫んでいたクリスが不意に驚いて、手元に目を落とした。
 ストラウスもつられて目を落とす。
 グレイの左手が、ライフサッカーからグレイの右手の指を引き剥がそうとしていたクリスの手に置かれていた。
「……グレイ……?」
 薄く目を開けた戦士は、弱々しい笑みを浮かべて、少しだけ左右に首を振った。
「……これは……うちの、家宝だ…………勝手に……触るな……」
「でも!」
「そうだ、グレイ。今のあなたじゃ、奴には……」
「……それでも……こいつ、しか…………ない……。……奴の、呪縛……から……クリスを……救う、には……。……頼む、マー、リン」
 優しい瞳でクリスを見やる。
 その途端、クリスは堰を切ったように涙をぼろぼろこぼしながら何度も頷いた。そして、唇を噛んで迷うストラウスをすがるような目で見る。
「お願い……グレイの言うとおりにして。グレイがダメなら……その時はあたしが」
「ええい、揃いも揃って……くっそ、知らないぞ」
 顔を苦渋に歪めながらも、ストラウスはグレイに肩を貸して立ち上がらせた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 ストラウスが背中を向けている。
 グレイがその肩を借りて、立ち上がっている。
 その傍に寄り添う娘。
 誰も気づいていない。
 瓦礫の下にいる者に。
 その時を待つ虎の眼差しに。

 ―――――――― * * * ――――――――

「心臓だ」
 十人のストラウスが、グレイとクリスを護るようにその周囲に展開しつつ呟いた。
 その眼は二人を見てはいない。シュラと、ブラッドレイの戦いぶりだけに注がれている。
「僕が――いや、僕らが囮になって奴の視界を奪う。その隙に、奴の心臓を突け。それしか、勝ち目はない」
 ふらふらのグレイに代わって、クリスがうん、うんと頷く。何度も。何度も。
「……………………」
「あ?」
 グレイが何かを呟いている。しかし、その声がしっかり聞こえない。
 耳を澄ますと、ただクリスの名前を呼んでいるだけだった。
「グレイ……」
 何かを堪えるように目を閉じるクリス。
 ストラウスは一つ頷いて――戦場へと踊りだした。

 ―――――――― * * * ――――――――

「ホーリー・ストライク!!」
「ぬぐっ!!」
 シュラの放った銀の糸が伯爵の顔を打った拍子に、その背中で白い閃光弾が炸裂した。
 振り返った視線の先に、蒼ざめたブラッドレイ。空いた手でゴンの右手に回復魔法をかけている。
……ブラッドレイィ……
 化け物の本性を剥き出しに、牙を剥いて怒るノスフェル伯爵。
 ブラッドレイは弱々しく首を振った。
「ノスフェル……お前は……もう、ここにいてはいかんのだ。頼む、もう、ミアの人々を解放してくれ!」
「頼む……? それが人に物を頼む態度か……くく」
 口元だけ笑ってはいるが、その全身から発する怒気は隠しようもない。
「よかろう……ミアの住民全て、皆殺しにしてくれる。うぬの望み通り、生の苦痛から解き放ってくれようぞ」
「そ、そういう意味では――」
「問答は時間の無駄だっ、クソ坊主っっ!!」
「「「「「「「「「「そういうことっ!! ここまで来たらやるのみっ!!」」」」」」」」」」
 シュラが、そして十人のストラウスが踊りかかる。
愚か者がっ! うぬらごときに斃(たお)される、このわしかああぁぁっ!!
「ぐわ」
「おひゃお」
 伯爵の腕の一振りで、二人は叩き落とされた。さっきまでとは違う。何か見えない力場のようなものが、伯爵の動きの軌跡に発生している。
「く……そっ……たれぇっ!!」
「……にゃろう」
 二人はすぐに身を翻し、立ち上がった。たちまち、その表情が驚愕に硬張る。
 伯爵は両手を大きく空に向けていた。その間の虚空に、目に見えるほどの魔力が集まってゆく。
 それは漆黒の稲妻をまといし暗黒の孔。
「……もうよい。いささか魔力を使うが……うぬらまとめて――この部屋ごと消し飛べいっ!!」
 叫ぶ伯爵の頬の皮膚が再びずるりと剥げ落ち、見る見る生気を失って行く。
 頭上に集めた魔力の塊は、あっという間に大きくなって――
「今しかないっ!!」
 ストラウスの瞳が輝いた。
「――イリュージョン・フォース!! 喰らえ、必殺の波涛!!!」
 突然、ストラウスが閃光を発した。
 津波が起きた。
 轟然と逆巻く波涛が白く煙るほどの大量の水の塊が、壁となって押し寄せてくる。
「ぬ……ぬおおおおおっ!!!???」
 ヴァンパイアは流水を渡れない。民家ぐらい簡単に押し潰してしまうほどの水量と勢いに、思わず伯爵はたじろいだ。
 それがありえない光景――つまり、幻影と気づくまでの僅かな隙。その隙をシュラが突いた。
 残る全ての銀の糸を引き出して、伯爵の周囲をデタラメに走り回り、跳び回り、とにかくがんじがらめにする。さらに伯爵の背後へ回り込んで、羽交い締めに極める。折れた右腕の痛みなど、噛み潰す。
「これならっ、そのでかいのも撃てまいっ!!」
 さらにストラウスも伯爵の懐へ飛び込んで来た。鍬の刃を振り上げ、その胸に突き刺す。
 だが、ノスフェル伯爵は不敵に笑っていた。両手を頭上に掲げた姿勢に固定され、胸に鍬の刃を埋めたまま。
「ククク……この程度の縛めでわしを封じたつもりか? 非力なうぬらが何人集まろうと、何をしようと――」
 ふと伯爵の動きが止まった。
 その眼は、押し寄せる水の幻影を突き破って現われたグレイとクリスに向けられていた。
 ライフサッカーを握るグレイの手を包むクリス。その蒼い炎に彩られた切っ先は、真っ直ぐ伯爵に向かって突き出される。
「――ぬううっ!? うぬらあああっ!!」
 ライフサッカーを支えるグレイを、クリスが誘導する。危なげな足取りで、よたよたと迫り来る二人三脚。
 シュラがノスフェルの耳元で嘲う。
「あの二人のっ、ケーキ入刀だっ! 大人しくしてろよ、化け物っっ!!」
こざかしいいいいいいいいわあああああああああっっっっ!!!!
 吠えたノスフェル伯爵の瞳が、血の赤に輝く。
 その瞬間、クリスはびくんと身体を震わせた。
 足が止まる。
 誘導を失ったグレイがつんのめる。
「……くくく、その娘……闇の魔力を除いたといえど、我が牙の刻印が首筋についておるわっ! それがある限り、わしの支配から逃れることは――」
 グレイが倒れてゆく。クリスに手を包まれているために、身体を仰向けに翻しつつ。身体の動かぬクリスは絶望を宿した瞳を見開きつつ、その姿を追う――
 だが、シュラとストラウスは二人を見ていなかった。伯爵だけに見える大洪水の向こうに潜む、ただ一人無傷の男にその注意は向けられていた。
「――今だっ、クソ坊主っ!!」
「ブラッドレイさん!! 自分の全てを賭けて、あんたのミアへの思いを全て――叩きつけろっ!! ゴンみたいにっ!!」
 伯爵はシュラとストラウスの叫びにぎょっとして、理解した。グレイたちでさえ囮に過ぎなかったことを。真打ちは――
 しかし、突然主役に祭り上げられたブラッドレイも驚いていた。
「ゴ、ゴン司祭みたいにとは……?」
「……モーカリマッカの……秘呪文を、今こそっ!!」
 ブラッドレイの回復魔法によって、わずかに元気を取り戻したゴン。その必死の叫びに、ブラッドレイはぎょっとする。
「秘呪文、じゃと……まさか、君はあれを使ったのか!? それでこんな……」
「いいから早くっ!! 今の、この機会を逃すな、ブラッドレイイイイイイイっっっっ!!!!!」
 ゴンの悲鳴じみた声に後押しされるように、引き攣った顔をノスフェル伯爵に向けるブラッドレイ。
 伯爵はクリスを解放し、ブラッドレイに赤い瞳を向けた。
……やらせはせぬわっ!!! 固まれ、生臭坊主めっ!!! そして、そのまま塵と消えよっ!!
 身体をぶるんと一振りして、シュラとストラウスを力任せに弾き飛ばし、頭上の魔力球をブラッドレイ目掛けて投げつける。
「――恨むぞ、ゴン司祭っ!!」
 一声喚いて、ブラッドレイは虚空に印を切った。
「マイドーマイドーモーカリマッカー!! オーキニオーキニボチボチデンナー!!」
 迫り来る魔力球を睨み、右手を顔の前で握り締める。
「我が神モーカリマッカにお願い申し上げるっ!! 我が財貨の全てを捧げまする!! 我が眼前の敵を、駆逐したまえぇぇっっっ!!」
黙れ黙れ黙れ、神にすがらねば民を守ることすらできぬうぬごときに、覇王となるべきこのわしを斃(たお)せようはずがあるまいっ!! ぐはははははは、失せよ、ブラッドレイ!! 神の力ごと消えるがいいっ!!
 倒れゆくグレイを抱き締めようと手を伸ばすクリスの頭上に、魔力球が差し掛かる。
 その二人を守ろうと、ストラウスが身を起こし、床を蹴る。
 シュラが無駄と知りつつ、伯爵の身体を縛める銀糸を引き絞る。
 ブラッドレイの白く輝く右手が伯爵へ――その姿を隠す魔力球に向けられる。
「――討ち果たせ、神の敵っ!! ホーリー・ストライクっ!!
 広げた右手の掌から先ほどとは比べ物にならない白光が溢れ出した。ゴンの放った『リパルス・アンデッド』とも違う純白の輝きを放つそれは、暗黒の魔力球と真正面から衝突した。
 正反対のエネルギーが相殺しあい、余剰のエネルギーが豪風と稲妻を生む。
 ブラッドレイが謁見の間の扉から外まで吹っ飛ばされ、ゴンが残骸に押し付けられ、ストラウスが床を転がり、飛ばされたシュラが玉座の背もたれをへし折る。
 伯爵自身ですら、あまりの閃光と強風にマントを顔の前に翻して、その影響を遮った。視界とともに。
 唯一、ライフサッカーのみがその異変を切り裂いていたことも知らず。
 クリスの命の力がライフサッカーを通じてグレイに与えられたのか――グレイは立ち上がった。
 ほとんど光を失ってもなお、狙うはマントの向こうの伯爵。
 クリスもグレイを見やることもなかった。マントを見据えたまま右手でグレイの肩を抱き、左手でライフサッカーを支える。
 ともに最期の一撃を――

 その時。

 クリスとグレイ、二人の後方の瓦礫を跳ね飛ばし、何者かが飛び出した。
 その姿、気配に気づいた者は、皆無。
 吹き荒れる風と、弾ける火花が全ての音を掻き消していた。本当ならばやかましいはずの鎧の音さえ。
 クリスが気づいたのは、いきなり背後から突き飛ばされてつんのめった時だった。
 倒れ込みながら振り返れば、信じがたい光景が映った。
 エルフが――ボコボコにへこんだ黄金色の鎧に身を包んだエルフが、あろうことかその手にライフサッカーを奪い取っていた。そのうえ、グレイの腰を踏んづけていた。
 吹き散らされる金の髪、その頬に刻まれた邪悪な笑み。ある意味、伯爵よりたちの悪さが現われている。
 見ている間にエルフはクリスの腰、グレイの背中、肩、頭を踏み台にして空中に跳び上がった。
 空中で一回転して、ライフサッカーを大上段に振りかぶる。その刃から噴き出す炎はもはや蒼というより、白。炎というより、まさに刃。
「ひゃーははははは、おいしいとこはもろたああああっっっ、わしがっ、ヒーローやああああああああっっ!!!」
「……なにっ!?」
 ノスフェル伯爵が、スラム訛りのだみ声に気づいてマントの陰から顔を出した時には遅かった。
 伸びた白炎が蒼天を衝き、大上段から落ちかかる。
「脳天っ、唐・竹・割りいいぃぃぃぃぃぃっっっっ!!!!!」
「ぬ……ぬおおおおおおおおおおおっっっっ!!??」
 炎の刃は伯爵の脳天には落ちず、左肩から入って心臓を真っ二つに断ち割り、股へと抜けた。
 斬られた伯爵は、しばらく動かなかった。
 何が起きたのか理解できず、状況を把握しようと瞳が忙しくおのれの身体と目の前のエルフを交互に見やる。
「……馬、鹿……な……」
 ようやくその一言を絞りだした刹那、それを合図にしたように斬られた部分からライフサッカーと同じ白の炎が噴き出した。
「お……ごおおおおおおっっっ!! わしの……わしの魔力が……っ!!」
 全身を大きな痙攣に震わせ、後退る。
 口から吐き出した血塊がそのまま漆黒の魔力の塊と化して、蒸発する。傷口から吹き出す血飛沫はほとんど油のようなもので、白炎の燃料になっているとしか思えない。
 伯爵の手が、その傷口を両側から押さえ広がってゆくのを抑える。
「こ、こんな…………理不尽な……話があるか……このわしが…………限り無き強者たるこのわしが……レグレッサの新たなる覇者たるわしが……なぜ、こやつらに……こやつら、ごときに……ぐおっ……ぐおおぉぉぉ……」
 いかなる苦痛に襲われているのか。身をよじり、一時たりとも休むことなく表情を歪め続ける。
 切り口から、指先から、足元から凄まじい勢いで白煙が立ち昇り、伯爵は灰に変わりつつあった。
「はっはっは、アホちゃうか。簡単な話やんけ」
 刃を振り下ろした決めのポーズを極めていたキーモが立ち上がった。ライフサッカーを使った割には元気な顔で、刃の峰を肩へ載せる。
「おのれはそうやなかった、それだけのことや。そんなこともわからんのかい。案外頭悪いのう、お前。そんなことやから、わしが隠れとんのも気ぃつかんのや。かかか、大仰なこと抜かしとったわりに、ほんま間抜けな話やで」
 伯爵の表情がこれ以上ないほどの屈辱に引き攣った。
「……こ……か……く……お、の、れ…………うぬ、ごとき……下賎の、輩に…………肯ん、ぜぬ……このような…………わしが……消える……など……あ、り……え…………」
 苦悶と屈辱に歪んだ顔が、キーモに向かって差し伸ばした指先が、よろめいて踏みだした足が、灰となって崩れ落ちる。
 その執念に気圧され、キーモはライフサッカーを肩に担いだまま二、三歩後退った。
「く、ぬ……ええい、往生際悪いんじゃ。さっさと逝にさらせっ!!」
 ライフサッカーの剣閃が水平に走り、伯爵の分厚い胸板を真っ二つに薙いだ。その斬撃は、心臓を十字に切り裂いていた。
 伯爵はその瞬間、雷に打たれたかのように大口を空けて天を見上げた。
 そしてそのまま灰の彫像と化し―― 一瞬の間を置いて崩れ落ちた。
「……三途の川で顔洗って、出直して来いや」
 キーモの決めゼリフと灰の山を、朝の爽やかな風が吹き散らした。

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 戦いは、終わった。
 黒雲などひとかけらも残っていない青空に、鳶の軽やかな鳴き声が響いていた。


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