愛の狂戦士部隊、見参!!
第六章 暁光の決戦(その5)
それはいつのことだったか。
その光景が夢なのか、かつての記憶なのかも定かではない。
父がこちらに背を向けて、抜き身のライフサッカーを捧げ持つようにして眺めていた。
その刃の描く弧はこの世のものとは思えぬほど異質な優美さで、その色は殺気を凝結させたように鋭く、冷たい。さらに、うっすら蒼い炎が剣身全体を覆い、父親ならずとも見とれてしまうほど美しい。
(親父……それはじーさんの命を奪った元凶だ。そんな物騒な呪いの剣、倉庫かどこかに封印しておくべきだろ。もしくは、誰も使えないように壊してしまうとか)
水の膜を通しているかのような自らの声。
「ああ、そうだな」
背中を向けている父の声が返ってきた。
「確かにこいつは使うべきものじゃない、捨てるか壊すか封印すべきだ。だが……親父の死に様を見て、ちょいと見方が変わった」
一体祖父の死に際に何を見たのか。父の背は微動だにしない。
「こいつは――このライフサッカーは、剣ではない」
(……どう見ても、剣にしか見えないが……)
「剣では"斬"れぬものを"切"る――人の手に余る、どうにもならない状況を文字通り『切り拓く』、そういう道具だ」
(……?)
「お前は、こいつが使い手の命も、斬られる側の命もすすり取る魔刀だとか妖剣の類だと思っているんだろうが……こいつはその程度の代物じゃあない」
(なに言ってんだ親父。現にじーさんは――)
父親は後ろ向きのまま、静かにゆっくりと首を振った。
「こいつが吸い取ったんじゃない。これの使い手が――親父が使ったんだ。おのれの……いや、人の手に余る状況を切り拓く代価としてな」
(わからん……判るように言ってくれ、親父。じーさんは一体何をしたんだ? それで、親父は何を見たんだ?)
「こいつは……グレイ、こいつはな――」
いつの間にか父親は左手に鞘を持っていた。ライフサッカーを右手に捧げ持ったまま、その刃をゆっくりと鞘に収めてゆく。
「こいつは何でも斬るぞ。硬軟剛柔かかわりなく、その気になれば実体のないものですら、な」
(まさか)
「まさに斬ることに特化した代物。剣と呼ぶことすら、いささかの違和感を感じちまう」
刃の付け根まで鞘に納まり、鯉口の鳴る澄んだ音が響いた。
「……こいつは本来、この世にあってはいけない物なのかもしれんなぁ」
父の声が急速に遠のき、風景が闇の帳に落ちてゆく――
―――――――― * * * ――――――――
(……う………………ここ……は………………)
ぬかるみ、粘ついて身体にまとわりつく深い泥沼の底から、グレイは戻って来た気がした。
いや、まだ疲労という泥は身体中にへばりつき、再び沼の底へ引きずり込もうとしている。
全身を包む強い倦怠感。地獄の底にまで落ちてゆきそうな身体の重さ。身体中を巡る血がゼリー状になって、詰まっているかのような感覚。目蓋を開けるのも、指先を動かすことも、息をすることさえ面倒なほど、意欲というものが湧き出てこない。
心にも身体にも、それを動かすエネルギーが明らかに欠乏していた。
だが、皮肉にもそれらの感覚が、グレイに自らの命がまだ燃え尽きていないことを再確認させた。
朦朧とした意識にかかる靄の中、ぼんやりと考える。
(……今、の……は……? …………俺……は…………まだ……生きて…………い……る……)
ふと、涼風が頬を撫でた。
鼻腔に忍び込む独特の香り。それは、朝の匂い。
目蓋に暖かみを感じる。それは、朝日のぬくもり。
(……ああ……)
朝日が氷を溶かすように、目蓋を押さえつけていた力が消えてゆく。
開いた目に見えたのは――朝日。
眩しい。だが、暖かく、元気で、力強い輝き。
そしてそれを遮るように横たわり、その光を弾いている何か。
瞳の焦点が徐々に合い、それが何かわかった。
ライフサッカー。
力なく転がっている魔刀の刃が光を弾き、瞳を射る。
『……人の手に余る、どうにもならない状況を文字通り『切り拓く』、そういう道具……』
耳の奥に蘇る、父親の言葉。
グレイは理解した。理屈ではなく、感覚として。
(……なる、ほど……)
霧立ち込めたような意識と身体感覚の中、何とか意識の中に道筋を作ってゆく。それはライフサッカーに近い左手へと伸び、やがて人差し指を、芋虫が這うような速度で動かし始めた。
不思議なもので、そうすることによって意識も少しずつ明瞭さを取り戻してゆく。
(…………確、かに……命、と、引き換えに……して、でも……)
中指が加わり、少し力強さを増す。
(……やらなきゃ、ならない…………こと、ってのは、ある……)
さらに残る指が。左手全体で、床をわしづかみするように手を伸ばしてゆく。
(……呪われ、てた、のは…………こいつ……じゃない……)
グレイは、笑っていた。自分でも気づかず、その頬に笑みを浮かべていた。
(……いつも……いつも…………こいつを、使わな、きゃ……ならん……スレイ、グスの、家系、こそ、が……)
全身に残る力と気力の全てを左手に総動員して、ライフサッカーの柄へとじりじりと伸ばしてゆく。
(……悪いな、親父……スレイグス、家は…………俺で終わりのよう……だ……)
グレイの指が、ライフサッカーの柄に触れた。
―――――――― * * * ――――――――
ゴンを背に乗せたまま伯爵の開けた破壊孔から進入したストラウスは、目線を上げて口笛を吹いた。
「……こりゃまた、見事に消し飛んだもんだな。しかし、『リパルスアンデッド』ってそんな効果持ってたっけか?」
屋根が消えていた。『リパルスアンデッド』の光が突き抜けた部分が、まるごと切り取ったかのように文字通り消し飛んでいた。
周囲には瓦礫が散らばっている。石柱の欠片。天井の破片。屋根の瓦の残骸。そして、壁際には大小様々な石の塊がゴロゴロ転がり、山をなしている。
「なあ、ゴンって――」
ストラウスが呼びかけた途端、ゴンはストラウスの背中に倒れ込んだ。
耳元に響くゴンの呻き声に驚くストラウスの右肩口から、異様な物体がでろんとぶら下がる。
それは内側から爆ぜた肉の塊。
「うぉおっ!? ――ゴ、ゴン!?」
慌てて着地し、ゴンを壁際に下ろす。
ゴンは苦しそうに呻いて、両膝を突いた。その右手を見たストラウスの顔色に、嫌悪が走る。
さっき肩口からぶら下がっていたゴンの右腕の惨状は、見間違いではなかった。ばっくり内側から弾けたように割れている。肉も骨すら見えている。
なぜか出血はそれほど激しくはないが、痛みが強いのかゴンの顔色は真っ青だった。
「うっわー……ひどいな、これは。大丈夫――じゃなさそうだな」
ゴンは全身を震わせながら、ゆっくりと首を振った。まるで極寒の地に裸で放り出されたかのような震え方だ。振幅の大きな全身の震えといい、歯の根が噛み合わないことといい、尋常ではない。
「……力、が……入ら、ない……んだ…………ヤバ、い、かも……」
さすがにストラウスも軽口を叩いている状況ではない、と悟った。
「おい、しっかりしろ。……くそ、ちょっとこれはシャレにならんな。早いとこ手当てを」
「ククク……おノが器もわきまエず…………巨大、すぎル……神の力ヲ、御し、よウとした……からよ。グふ、ぐふクク、クくク……」
背後から流れてきた声にストラウスが振り返れば、天井板らしき残骸を押し退け、不気味な人体標本模型が這い出てくるところだった。
いや、違う。皮膚が溶けてめくれ上がり、その下の筋繊維すら剥き出しになり、生きながら腐っているかのようにごぼごぼと身体中で溶けた肉が泡立っているが、それはカイゼル=フォン=ノスフェル伯爵だった。
その全身から滴る濁った粘液は、人で言うリンパ液のようなものか。
ストラウスはゴンの右手を見た時以上の嫌悪感に顔を引き攣らせ、呻いた。
「伯爵……あれをくらって、まだ……」
目蓋を失った目玉が、ぎょろりと動いてストラウスに視線を定める。
「ぐふフフふ……モーカリマッカ、の……司祭……秘呪文、デ…………神、の力……をォ……借りタ、ヨうだ、が……く、ク…………どう、ヤら……わし、の闇ノ力、が……わずかにィ、上回ッた……ようだなァぁぁ……」
ごぼごぼと噴出音とも漏出音ともつかぬ不明瞭な音が、口らしき顔面下部に開いた大穴から漏れ、そのたびに血の色をした粘液がごぼりと糸を引いて滴り落ちる。足元の床を叩く、粘った音が無気味に響く。
「クク、ククク、ククククく……わしの……勝ちダ……な」
両手で上体を支え、起き上がってゆく。
「な、なにをっ!」
「頼ミ、の魔剣戦士は……倒れ――」
室内をざっと見やったストラウスの目は、すぐに伯爵の後方、瓦礫の間にグレイの姿を認めた。だが、うつぶせたまま微動だにしない。
「ラリオス、の、弟子も、あのザま――」
黒づくめの暗殺者は、壁から射し込む朝日の輪の中で、自らの吐いた血溜まりに突っ伏していた。右腕が微妙におかしな方向へ向いている気がする。
「アレフ、の弟子も、もハや、役立た、ず――」
背後のゴンが呻く。何とか立ち上がろうともがいているようだが、傍から見れば身体を揺すっているだけにしか見えない。
「うぬとテ……魔法が尽キたのであろウ……?」
「なん……のことかな?」
心中で冷や汗をかきながら、顔色を変えない。
「クくク……わシを侮るな、若造……。コの状況で……うヌのような輩が……出し惜シミなどするか……」
ストラウスは唇を噛んだ。
「サあ……魔法の使エぬ魔法使い一人……うヌ一人でなンとする……? く、くク……」
「――待て、伯爵」
ごぼごぼと粘着質で聞き取りにくい哄笑を上げようとしていた伯爵を、不意にストラウスはとどめた。
「何か……忘れている気はしないか」
その真剣な問いに、伯爵の動きがぴたりと止まり、束の間、静寂が訪れる。
やがて、伯爵はぶっきらぼうに答えた。
「……知ラぬな」
「いや、な〜んか忘れてる気がするんだけどな」
「何を……忘れてイようと……事、コこに至リては、些細なこトよ……。――さァて……」
腐った人体標本模型は、ストラウスに背を向けた。
肉塊がぞろりと足を進める。めくれていた足裏の皮膚が床にへばりついて引き剥がされ、そこから新たな粘液がにじみ出る。踏みしめた足の下から、べちゃりというおぞましい粘着音が響いた。
「それ、デ、は……うぬ、ラの血、ヲす……すり……」
陽射しを遮る壁の残骸の陰から踏み出す。たちまち朝の陽射しを浴びた身体から、白煙が上がった。
「我、ガ魔力、を……補ウと、シよう……」
顔面下部に開いた肉色の大穴が、微妙にひしゃげる。溢れてくる肉汁の量からみて、笑っているらしい。
「クク、ク……手始メはァ……」
支えを求めるかのように、虚空に――玉座に向けて両手を伸ばす。
ゴンより酷いその腕は、煮過ぎて溶けかけたシチューの肉のようにどろどろで液状化し、血の色をした肉汁を滴らせている。五本の指はそれぞれ四本と三本になっていた。左手は中指と薬指が引っ付いて四本に。右手は中指と親指が失われて三本に。
「……クリす……ベイアーど…………だ」
玉座の横で倒れ伏している娘の身体が、びくりと震えた。
「くそっ……ええいっ!!」
あまりに不気味な、そしてあまりに異様なその執念に気を呑まれていたストラウスは、その時正気に戻った。
ゴンに背負わせていた鍬を引き抜き、ブンブン振り回して柄を脇に挟み、構えを極める。
「――天才魔法使いストラウス=マーリン! 師匠に代わって成敗してやるっ!!」
顔を捻じ曲げ、ストラウスを見やった肉塊が、再びごぼごぼと肉汁を吐いた。耳障りな粘着音が床を叩く。
「なにがおかしいっ!!」
「魔法使イ、の、分際デ……小賢しい……」
「うるさい、肉塊の分際で。そのなりなら、あと一撃と見たっ!! ――とおおおりゃああああああっっっ!!!!」
振り下ろした鍬の刃をしかし、伯爵は避けなかった。避けられなかったのか、避けなかったのか。
新たな肉汁と血らしきものを撒き散らして左肩に突き刺さった鍬の柄を、伯爵の右手がゆっくりつかんだ。
「ナル、ほど。……たダの、鍬では、なイか……。だが……」
「うぞ!? 一発じゃ足りないのか!? こいつ、放せっ――うぃっ!?」
鍬が引きほどけない。伯爵はその姿から想像できる以上の力をまだ持っていた。
そのまま、紙屑を屑箱にでも捨てるような気軽さで、黒衣の魔法使いを背後に放り投げる。
「……ウぬ、とは……後、で……遊ンで、やるわ」
―――――――― * * * ――――――――
(……来い)
地鳴りを思わせる重く深い声が、頭の内で鳴り響く。
(来い……クリス=ベイアード…………我が下に……我が糧となれ……)
抗えぬ誘惑に満ちた声。甘き痛みの疼きを思わせる魂の浸染。
(うぬが……血ィ……全て、吸い……尽くさ、ば…………我が、身の爛れ……ぐらい、は……)
その声に意志を委ねることこそ、至上の快楽。
(……………………ぃゃ……)
(来る……のだ…………クリス……ベイ、アード……)
名を呼ばれる。それは魂を蕩かす、恍惚の悦楽。
(…………ぃやだぁ……)
(……我が下へ……来い……)
逆らうべき理由など何もな――
(……やだ……)
(……抗うな……我が糧となれ……)
何も――
(いや……)
(クリス……ベイアード……)
何――
(いや……っ!)
な――……ぁ……。
(……いや、いやいやいやっ、いやぁぁぁぁぁっ!!)
黒く塗り潰された意識を切り裂く刃は、おのれの叫び。
それは、グレイの持つ家宝の刃の色をきらめかせ、邪悪な囁きを斬り断つ。
しかし、すぐにその痕跡は黒く塗り潰された。
(……抵抗は、無駄だ……我が糧となるのが、うぬの運命……)
再び闇に走る閃光。
(いやよっ……あたしの運命は……グレイと幸せに/今すぐにあなたの下へ……)
(そうだ……来い……我が下へ……)
(……あなたの……あなた……? グレイと……/ ノスフェル伯爵様……)
切り裂いた闇が再び溶けて渦を巻き、光を引きずり込むように塗り潰してゆく。
(……違う/違う……あたしのあなたは……ノスフェル伯爵様/グレイだわ……)
二つの自分がお互いの思考を責め、クリスの心を掻き回す。
(そうだ……うぬの主は……このわしだ……)
(……違うっ! 違う 違うっ!! そうじゃないっ!! 助けて……/今すぐお傍に……)
闇の中に沈む一粒の光は、抗いながらも再び濃度を増した闇に飲み込まれて行く……。
―――――――― * * * ――――――――
「……来いィ……クリ、す、ベいア、ぁド…………我が、糧、とな、れ……」
呪詛のように呻きながら、ナメクジのようにヌメヌメの肉汁の跡を残しつつ玉座へと進む伯爵。
その声に玉座の傍で倒れていたクリスが反応した。
無表情なまま立ち上がる――しかし、どことなくぎこちない。
そのぎこちなさは、玉座の肘掛につかまって立ち上がり、一歩踏み出したところで顕著になった。
よたよた前に出ようとした身体が、がくんと止まった。
その横顔を照らす太陽の光。
朝日ではない。玉座に突き刺さった剣が放つ太陽の輝きだったが、虚ろな無表情が崩れた。左側の顔に苦悶が浮かび上がる。
「……う、うう……」
身体をがくがく揺らめかせ、何事かを呟くクリスに、ノスフェル伯爵の目玉がぎょろりと動いた。
「どゥ……した、我が糧、ヨ…………来い……我が下へ……」
「い……いや…………今すぐ……お傍へ……伯爵様…………助けて……いや……」
苦悶と喜悦、くるくる変わる表情。
伯爵は苛立たしげに呻いて、口から肉汁を吐いた。
―――――――― * * * ――――――――
「いてててて……くそ、馬鹿力め」
ストラウスはぼやきながら身を起こした。
「……太陽の……光、だ……」
「は?」
そのまま消えてゆきそうな囁きめいた声に顔を向ける。すぐ傍に、へたり込んだまま肩を瓦礫に預けたゴンがいた。顔中に脂汗を浮かべながらも、必死で伝えようとしている。
「クリス、だ……。彼、女に……朝日を…………もしか、したら……ナーレムの時、みたいに……」
ストラウスが玉座の方を見やると、玉座の肘掛につかまったクリスがおかしな動きをしていた。
行こうとする動きとその場にとどまろうとする動きが同時に起き、ソンビのような不自然で機械じみた動きになっている。よく見れば、玉座に突き刺さったジョセフの剣が放つ太陽の光に曝された上体で肘掛につかまり、光から隠れている足が踏み出そうとしていた。
「なんだ……? ――いや、問題はそっちじゃない。クリスがやられる前に……っとっと」
立ち上がろうとしたストラウスは、引き戻された。後ろを見やれば、鍬が瓦礫に挟まっている。
顔が引き攣った。
「この……っ!! こんな時にっ!!」
玉座を据えた壇の下までたどり着いた伯爵が、腕を伸ばす。玉座から放たれる太陽光で白煙が上がっている。
ストラウスは迷った。鍬なしでは一撃すら与えられない。だが、鍬を引き抜いていては間に合いそうにない。第一、どうやって彼女に朝日を浴びせればよいのだろう。壁を崩すか、彼女を日向に引っ張り出すか――視界の隅を妙なものがよぎった。
朝日の黄金色と、影が生み出すコントラストに染まった世界の中で唯一の色、青。
グレイが……倒れ伏したままのグレイが、いつのまにか魔刀を握っていた。その刃に青い炎がちらちらとゆれている。
ストラウスは咄嗟に決断した。
「くらぁっ!! グレイっっ、立てええーーーーーーーっっ!!」
ストラウスの叫びに、伯爵がうるさげに振り返る。
「てめ、体力だけがとりえのくせにいつまで寝てるつもりだっ、このバカ戦士っ!! 自分の女一人守れねーのか、甲斐性なしっ!! よーく見ろ! クリスだって戦っているんだぞっ!! 男で、しかも年上なのに、そのざまで恥ずかしくないのかっ、役立たず! このままだとクリスが、また噛まれちまうぞっ!! 今度噛まれたら、クリスは完全な化け物だっ!! それでも……それでも、いいのかあああぁぁーーーーーーっっっ!!!!」
「……愚か、ナ…………戦士は、もハや……立てヌ……ワ」
筋繊維剥き出しの頬を不気味に蠢かして嗤い、伯爵は再びクリスに腕を伸ばした。
「クリス……ベイアぁド…………さア……来る、のだ……」
「……伯……爵……さ、ま……」
伯爵の魔力に、クリスを冒す闇の魔力が呼応したか、クリスの表情から苦悶が消えていた。上体と下半身の相反が失われ、伯爵の差し伸ばした腕に自らを投げ出し――
「うわああああああああああああああっっっっっ!!!!!!!」
蒼炎が虚空を灼き裂く鈍い音が轟き、伯爵の右腕が宙を舞う。
「ぬぐおおおおおおっっっ!?」
腕を失い、粘液を撒き散らしながら仰け反る伯爵。
その眼前に前に、グレイが立ちはだかっていた。
たたらを踏んで二、三歩後退した伯爵は、肉汁を撒き散らしながらも何とか踏ん張り、姿勢を保った。
その後方で、右腕が粘着質な音を立てて床に転がる。
「はあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……っ! はあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……っ!」
グレイは体力の限界まで走りきったかのように、全身で大きく息を繰り返しつつ、魔刀ライフサッカーの切っ先を再び大上段に振り上げた。
その表情は苦悶に満ち、顔色は土気色。しかし、その瞳に燃え盛る炎は、伯爵を威圧するほどに激しい。そして、その炎と同じ青く激しい炎を、ライフサッカーは刀身から噴いていた。
「こいつは……っ、俺の、女だ……っ!! 汚い手で……触るんじゃねえーーーーーーーーーーっっっっ!!!!!」
「ぬ……ヌうぅ……っ!!」
その気迫に、ノスフェル伯爵はたじろいだ。死にかけの男のものとは思えない。
「――グレイっ!! 太陽だっ!!」
ようやく鍬を引き抜いたストラウスが、鍬を振り上げ、伯爵に突進しながら叫ぶ。
「そいつで壁を斬れっ!! 太陽の光でクリスが正気に戻る……かもしれないっ!!」
「承知っ!! ……ライフサッカー!! 斬れええええええええっっっっっ!!!!!!」
手首を返して刃を返す。
目前の伯爵ごと全てを切り裂けとばかりに、長く細く限界まで炎を伸ばして右から左へ一閃――
石柱の残骸も、窓も、破れ残っていたカーテンも、壁に飾ってあった紋章入りの盾も、風景画の収められた額も、そしてもちろん分厚い石の壁も全て切り裂いて走る蒼き炎。
迫る破邪の蒼炎刃――伯爵のただれた顔に、明らかな動揺が走る。
だが、その刃は届かなかった。背後から迫っていたストラウスの鍬の刃も。
グレイの前には紅い鎧の人影が、ストラウスの前には緑のフード付きローブを翻した人影が、それぞれ立ちはだかっていた。二体とも床を透過して唐突に飛び出してきたため、グレイもストラウスも対処できなかった。
「貴様は――」
ライフサッカーを握る腕を、内側から両手で押しとどめられたグレイが呻く。
伯爵を挟んで反対側では、剣で鍬の歯を受け止められたストラウスも顔を引き攣らせていた。
「緑って……。まさか――」
緑のフードから覗く口元が、にんまり歪んだ。
「我が名はデュラン。くく……あの暗殺者の手にかかり、滅びたと思われたかな?」
ローブの騎士デュランは、剣を一振りした。
ストラウスは咄嗟に飛び退がる。
「ククク……いささか騎士道には反する振る舞いではあるが……たばからせてもらった。主を守ることこそ我が騎士道の要なれば、な」
「……文字通り、往生際が悪いって奴だな」
ストラウスは鍬を旋回させると、腰の高さで構えた。
―――――――― * * * ――――――――
「ネス……ティス……」
足元の床から飛び出してきた、ボロボロの紅い鎧。
それを身にまとった女の涙に濡れた眼差しは、グレイと同じだった。お互いに引けぬ訳を背負った瞳が火花を散らす。
「やらせはしない……例えこの身が…………伯爵様に見捨てられし身だとしても……っ!! 我が忠誠に揺るぎはないっ!!」
睨み合う二人の耳に、石壁の軋む音が聞こえて来た。
みるみるうちに壁に亀裂が入り、壊れてゆく。朝日の光が差し込んでくる。
身体から白煙が上がるのを感じて、ネスティスは瓦礫の影まで飛び退った。伯爵を背に護ってグレイを睨む。
「……く……剣を作る魔力の余剰さえあれば、今の隙一撃で済んだものを……」
一方のグレイも、力尽きたように片膝をついていた。その肩は大きく上下し、その息はひゅうひゅうと死にかけの病人のように鳴っている。
ライフサッカーの炎もほとんど掻き消えていた。
ネスティスは眼を細めて微笑んだ。
「まあいい、そちらも限界のようだな……。……さぁ、クリス殿。こちらへ。そやつの剣を取り上げて――」
手を差し伸べる。だが、クリスは動かなかった。
差し込む太陽と玉座の剣が発する光の中に立ち、わなわなと震えている。
「あ……あたしは…………あたしは……」
瞳の奥に小さな火が灯る。
その眼差しが自分の前で片膝を突き、剣を杖代わりにようやく身体を支えている男の背に落ちた。
その視線の意味を理解し、ネスティスは哀しげに表情を歪めた。
「……く…………あなたなら……私亡き後の伯爵様をお委ねできると……」
残念そうに小さく首を振ったネスティスは、思い切るようにもう一度大きく首を振った。
少し顔を横に向け、背後の伯爵を見やる。
「……伯爵様、致し方ありませぬ。ここは私とデュランで。伯爵様は一旦お退き下さい」
「左様、ここで戦うは我らに不利」
ストラウスに備えて剣を構えているデュランも、伯爵周辺に残る瓦礫の影から飛び出すことが出来ずにいた。
「ひとまずここは奴らを蹴散らし、地下迷宮に身を潜めるが良策かと」
「ぬゥぅ……」
肯定の呻きか、それとも苦悶の呻きか――その呻きに、グレイが決意を秘めた顔を上げた。
―――――――― * * * ――――――――
「う……うう……」
頭を抱えてうずくまるクリス。その横顔は苦悶に歪んでいた。
(……クリ……イアード…………来る……だ……我が……へ……)
「い、いや……いや……いや……」
頭の中に響いてくる重低音の呼びかけを、首を振ってこらえる。
もう少し、あと少し、我慢していれば闇は晴れる――クリスは感じていた。少しずつ、少しずつ、まるで氷が溶けてゆくみたいに、太陽の輝きが魂を塗り固めた絶望の闇と魔力を溶かしてゆくのを。
(……来い……クリス…………が……とへ……)
頭の中に響く呼びかけも、少しずつ弱まっている。
「あたし…………いや……あたしは……グレイが……グレ、イ……?」
瞳から濁りが消え、焦点が合ってゆく。
正気に戻ったその目に映ったのは、ライフサッカーを振り上げたグレイの姿だった。
太陽の光をきらめき弾いて落ちかかる銀の刃。
「――クリスッ!!」
その呼びかけだけで充分だった。正気でグレイの声を、自分の名前を、それだけを念じて呼ぶ声を聞けただけで満足だった。
瞳と瞳で見つめ合い、流れる永遠の一瞬。
(グレイになら……いいや……)
笑みを浮かべて頷いたクリスの左の肩口から右の腰へと、ライフサッカーが斬り抜けた。
―――――――― * * * ――――――――
斬り伏せられ、グレイの足元に倒れ込むクリス。
同時にグレイも両膝をついた。ライフサッカーの切っ先を床に立て、それにすがりつく。
「グレイ!?!」
「なんと……!!」
「き、貴様……何をっ!? クリス殿は……っ、貴様のコンヤクシャではないのかっ!!」
驚愕するストラウス、デュラン、ネスティスをよそに、伯爵の血走った目玉が、ぎょろりと動いた。
「……ックック……よい、手ダ……確か、に……死ネ、ば……そレ以上は……冒せ、ぬ……」
ずるり、と倒れこむようにグレイは膝でいざりながら体を翻し、ネスティス、そしてその背後の伯爵と対峙した。
奇しくも、ストラウスとネスティスは同時に顔をしかめた。
グレイの目はまだ戦う意志に満ちている。しかし、クリスを斬った後悔も、哀しみも浮かんではいない。
「……ネス、ティス…………見よ……こレが……人間、どもノ……イう……愛の姿だ……。クク……愉快、ヨな…………実、に不可、解……」
嘲笑う伯爵を背に、ネスティスは何も答えなかった。
ライフサッカーにすがって荒い息を繰り返すグレイと、その背後に倒れ伏したクリスを涙あふるる瞳で見つめ続ける。まるで二人の悲劇を嘆いているかのように。
「……だガ、おか、げ……で、よイ手、を……閃イ、たわ……」
言うなり、伯爵の左手が伸びた。目の前で無防備な背中をさらしている、赤の騎士へ。
気配を感じて振り返ろうとしたネスティスの、流れる黒髪の頭をねばついた粘液まみれの手がわしづかみにした。
「伯爵、様……?」
「我が、魔力の……回復ハ……何も、敵ノ血、を……すスるだけ、では……なイ……」
「え……?」
戸惑っている間に、伯爵はネスティスをおのれに引き寄せ――その首筋に牙を突き立てた。