愛の狂戦士部隊、見参!!

【一つ前に戻る】      【目次へ戻る】   【ホーム】



第六章 暁光の決戦(その3)

 これまで一度も光の差したことのないであろう玄室の闇を、青白い魔法の光と揺れる松明の明かりが切り裂く。
 複雑な文様細工を掘り込んだ玄室の壁の奥、一段高くなった祭壇らしき場所に大きな棺。その下に少し小ぶりな棺が二つ並び――その上に白い影が漂っていた。
 その姿を見た途端、ストラウスは呻いた。
「――ネスティス!?」
 ジョセフはおののき、ゴンも目をぱちくりさせる。
 屍衣を思わせる薄手の白いゆったりとした衣を身にまとった女が、伯爵の物らしい祭壇上の棺の上に座り込んでいた。
「何でここにっ!?」
 慌ててゴンが手の平を向け、『リパルスアンデッド』を放つ構えを取る。
「なんだ、貴様たち……なぜここに……」
 泣き濡れた瞳を驚きに見開いていたネスティスの表情がさっと変わり、足元の棺をちらっと見やった。
「――そうか、伯爵様の『土』を! ……く、やらせないっ!!」
 涙を振り払い、素手のまま一行へと文字通り飛び掛かる。
 ストラウスは舌打ちをした。
「ゴン、時間稼ぎ頼む!」
「え……ええっ!?」
 いきなり背中を突かれ、前へ押し出されたゴンは慌てた。
「ジョセフさんはこれ持って! こっち借りるっ!!」
 うろたえるゴンを放置したまま、これまた事態が飲み込めずに目をぱちくりさせているジョセフに鍬を渡し、さっさとその腰から剣を引き抜くストラウス。
「な、なにを――」
「……天の理を統べる日輪の力……クニミ・ラカニノチス・チ……」
 剣を手に、空いた片手で複雑な印を慎重に一つ一つ確かめながら虚空に描く。同時に、ゴンが初めて聞くほど複雑な呪文を一語一語噛み締めるように唱えてゆく。
「……闇を払い夜の眷属を滅する黄金の輝き……ラナキラミ・ミ・ミラノチ・キチン・チノニ……」
「く――『アンチイビル・プロテクト』!」
 迫るネスティスに対して、ゴンは不可視の対魔防御壁を張った。

 ―――――――― * * * ――――――――

「炎の剣か。いかほど伸びようとも、こけおどしよ。当たらねば意味は――」
 くく、と伯爵が頬に笑みを刻んだ刹那。
「――蛇牙波槍ーーっ!!」
 シュラの叫びとともに、死角から幾条もの銀のきらめきがうねりながら伯爵に襲い掛かった。
 しかし、火花を飛び散らせて何かが弾けた音とともに、銀糸は全て弾き飛ばされた。
「!? ――ならばっ……点の奥義その七、螺穿槍(らせんそう)っ!!」
 今度は別の死角方向から、束ねて渦巻く槍の穂先と化した銀糸が、伯爵の心臓を目掛けて伸びる。
 それも再び弾き返された。
 シュラの横槍で飛び込む機を失い、構えたままのグレイの表情も曇る。
「無駄だ無駄だ」
 嘲笑。しかし、シュラは諦めなかった。
「三日月! 日輪! 旋舞! 流雲!」
 銀の糸が次々と様々な形、様々な方法の刃となって襲い掛かる――ことごとく弾かれる。
「ぬぅううああああっっっ!! くらえっ、斬の最高奥義・斬方極羽陣!!!」
 最後にはシュラ自らが姿を現わし、その持ちうる体技の全てをつぎ込んで、目にも止まらぬ早業の斬糸を無数に叩き込んだ。
 だが、その全ては弾かれた。
 並の敵なら、霧と同じほどの細かい粒子の肉片に変えるはずの最高奥義ですら、一筋の傷もつけられてはいない。
 叩きつけられた斬糸の束の下で一瞬、仄かに光り、浮かび上がる魔法陣らしきもの。それが、伯爵の衣服を乱すことすら阻んでいた。
「………………っっ!?!」
 肉体の持つ防御力の高さなどとは異質の、何らかの防御手段か――とシュラが理解した時、伯爵の手の平が空中にいるシュラに向けられていた。
「しまっ――」
「軽いわ」
 まるで全速力で鋼の壁にぶつかったかのような衝撃に襲われ、シュラは軽々と吹っ飛んだ。そのまま、苦鳴を残す間もなく再び壁に叩きつけられる。
 その威力を示すように、シュラはしばらく壁に張りついていた後、力尽きたように床へと落ちた。倒れ伏すシュラの周囲に、衝撃で割れた壁から剥がれた小さな石の欠片がぱらぱらと落ちてくる。
 グレイは見ていた。伯爵の手の平から何か黒っぽい力場のようなものが飛んだのを。
「愚か者め」
 伯爵は這いつくばったまま、かろうじて動くシュラに向かって吐き捨てた。
「ここをどこと思うておる。今がいつと思うておる。わしを誰と思うておる。夜を統べし帝王――時にロード、時にグレーターの名を戴く暗黒の支配者・【転生体】ヴァンパイアのノスフェル伯爵の居城にして、明け方近いとはいえ未だ闇の力満ちたる夜ぞ。昼日中の軽い手合わせで我が力の全てを測れたとでも思うたか」
 グレイにも視線を飛ばして制しながら、右手を握り込んだ。
「夜ということで活性化した魔力に加え、この城に蓄えし魔力の流入を受けているわしの身体は、数々の防御魔法に守られておる。うぬら人間では、一秒とて保つのが難しいほどの規模でな。例え炎の剣でも、聖なる神の加護を得た剣でも、今のわしを傷つけるのは難しい。まして、銀程度では。くっくっく……そも、かすりすらせぬわ」
(……それ、で……双蜘陣、が、あんな……簡単、に…………届いて……さえ…………いなかった……の、か……くそ……)
 じりじりと足掻くように握り込まれてゆくシュラの拳を見下ろしていたノスフェル伯爵は、ふと虚空に視線を走らせ、懐かしげに微笑んだ。
「……十年前、わしを退けたうぬの師匠ラリオスはまさしく『暗殺者』であった。今だから言えることだが、わしもあの時ばかりは肝を冷やしたものよ。あやつの蹴りは重く、あやつの技は深く、そしてあやつは強かった」
 ノスフェル伯爵の昔語りに、シュラは呻いて顔を上げた。冷たい――いや、侮蔑と嘲笑の視線がシュラを見下ろしていた。
「だが、うぬは曲芸師程度。状況を見定める目も、技の切れも、十年前の奴にすら遠く及ばぬわ。何より、うぬの技は派手だが、どれも軽い――基本が出来ておらぬ証しよ。雑魚は刻めようが、わしには通じぬ」
 声が出ないのか、出さないのか。シュラは顔を屈辱に歪めながら、より力いっぱい拳を握り締めた。
「未熟者の分際でわしに挑むなどとは、愚かを通り越して滑稽よな。ククク……うぬを見れば、今のラリオスの実力もたかが知れるわ。もはや、奴とて恐るるに足らぬな」
 覆面の下から、血が滲む。叩きつけられたときに口の中を切ったのか、もっと奥から溢れてきたのか、それとも――それとも、自らの歯で自らの唇を噛み破ったのか。
「……いい気に、なんなよ……化け物野郎……」
 かすれ声を搾り出しながら、両腕で上体を起こす。
「今も、昔も……『暗殺者』を舐めたのが、てめえの……敗、因……」
 瞳から光が失せ、そのまま前のめりに崩れ落ちる。
 勝利を確信した伯爵の心底愉快げな哄笑が、広間を揺るがすように響き渡った。

 ―――――――― * * * ――――――――

 真っ直ぐ突っ込んできたネスティスは、ゴンの張った魔法の対魔防御力場をすり抜けた。
「なんでっ!?」
 動転したゴンの首にネスティスの両手が伸び――すり抜けた。
「……え?」
 ゴンが驚くと同時に、ネスティスがしまったという表情を浮かべ、自分の両手を見る。
 悔しげに呻いたネスティスは、そのまますぐに後方へ飛び退き、再び祭壇上の棺の上に戻った。
「やはり魔力が……くぅ、どうすれば……」
 策を求めて、周囲を見回す。しかし、物体に触れられない以上、策などあろうはずもなかった。
 首を捻っていたゴンは、ちらっと背後のストラウスを見やった。一心に呪文の詠唱を続けており、状況の説明や推測を聞き出せる状況にはない。
 覚悟を決めて玄室の中へと踏み込んだモーカリマッカの司祭は、懐からモーカリマッカの紋章を象った聖印を取り出して、高々と掲げた。
「さあ、闇に巣食う魔物どもよ! 汝のいるべき闇へと帰るがいい!!」
「――うるさいっ! お前達さえ来なければ、ここは永遠の闇の中に沈んでいたのだっ!!」
「あ、そういやそうか。……ごめん」
 ネスティスの鋭い指摘に、ゴンは思わず頷いた――ものの、すぐに首を振って思い直した。
「いやいや、そうじゃなくてっ! とにかく、なんで君がそこにいるのか知らないけど、もう抵抗する力も残ってないなら、無駄な抵抗はやめて――」
「うるさいっ!」
 再びの一喝に、首をすくめるモーカリマッカの司祭。
 睨み付けるネスティスの形相は、凄絶の一言に尽きた。苦悩と悲愴、怒りと戸惑い、焦燥と高揚、それに決意と覚悟がごちゃ混ぜになったその面持ちは、ゴンから言葉を奪う。
「私は、絶対に退かない。……たとえこの身が消ゆるとも……たとえこの記憶が失わるるとも……そして、伯爵様から見放されたとても…………関係ないっ! 私は、"私"を与えて下さった伯爵様に、最期まで忠誠を尽くすのみっ!」
 三つの棺の前に立ちはだかり、両手を広げてかばう。その面持ちから、発する気配から、苦悩や戸惑いが消えてゆく。
「そうとも。それが……そうであることだけが"私"だ! 私はこの在り方しか知らないっ! これ以外を知りたいとも思わぬっ! だから、お前たちなどに、伯爵様方の大事な棺を触れさせはしないっ!!」
 飛び散る涙がきらめく。
「ネス……ティス……」
「……頼む!」
 ひとたび閉じた瞳を見開き、虚空に吼える。
「神でも、魔神でも……その他のなんであろうと構わない。なんでもいいから私に、もう一度だけ力を――こいつらを始末できる力を! それさえ叶えば、私は消えても構わないっ! お願いだっ!! 誰かっ――力をっ!!」
「――ゴンっ!」
 ストラウスが一瞬、呪文の詠唱を中断して注意を喚起した理由を、ゴンも理解していた。
 異様な雰囲気がネスティスの周囲に渦巻いている。しかし、それがなんなのか判らない。
 ゴンは顔をしかめて右のこめかみに手をやった。
「……『イビル・シーク』。――うわ眩しッ!!」
 思わず顔を背けた。緑色に輝く瞳で見た光景は凄まじいものだった。
 邪悪な気配が強すぎて、緑色の光に埋もれた棺桶の輪郭さえ見えない。
「ひゃー……これはまた凄い魔力でガードされて――ちょっと……え? ええ!?」
 緑色の光が、うねる大蛇のようにネスティスに絡みついてゆく。
「なんだよ! なにこれ!? 何が起きてるのさ!? どっかの魔神が手でも貸したの!? それとも――」
 人に過ぎぬ身に、奇跡の訳など正確に把握できようはずもない。
 ゴンが焦っている間に、ネスティスの身体を紅き鎧が再び覆い始めていた。
 さらに、手前の二つの棺桶からも靄のようなものが立ち昇り、やがて屍衣をまとった女性の姿が――
「ナーレム!? ノルスまで!?」
 ゴンの表情からさっと血の気が引く。
 薄手の白い屍衣をまとった二人は、わずかに透けて頼りなげだった。その顔色は、上で戦っていたときよりさらに血の気がない。
 倦み疲れきってどんより落ち窪んだナーレムの凄絶な面差し――長いほつれ毛が一房、どす黒い唇にひっかかっている。
(……来た……のね…………ああ……)
 哀しげに眉をたわませ、ナーレムの口が動く。耳に届くのは声ともいえぬ声。
(許さない)
 呪詛のごとき、低い唸りを発したのはノルス。
 その豪奢な金髪は煤でもかぶったようにくすんでいた。軽く波打つその前髪が、水から上がったばかりのように俯いた顔を覆い隠している。
(どうしても、わたくしたちを滅ぼそうというのね……許さないわ)
 ノルスが少し顔を上げた。くすんだ金色の前髪の奥で、飢えた獣のような凶悪な瞳が鈍く光った。もはや快活な少女の面影はなく、牙を剥いてにぃ、と笑うその形相こそ、スペクターそのもの。
(あんたたちなんかにやられるもんですかっ! 反対にその命、いただいてあげるんだからっ!)
「ちょっとちょっと、これ、やばいんじゃ……!!」
 顔を引き攣らせて振り返るゴン。
 ジョセフもうろたえた様子で、幽霊じみた姿のノルスとナーレムと傍らの魔法使いとを交互に何度も見比べる。
 ストラウスの呪文詠唱は続いていた。その表情はいつになく真剣そのもの。
 やがて、ネスティスの鎧が完成した。
 再び赤い鎧に包まれた自分の身体を見下ろしたネスティスは、嬉しそうに勝利を確信した笑みを浮かべた。
「――伯爵様の魔力……ああ、再び感じられようとは……。これなら……くく、ひ弱な魔法使いと素手の司祭ごとき、これで充分っ!」
 両拳を握り締め、その手の中に霊体の剣を作り出す。
 たちまち精悍無情な騎士の顔に戻ったネスティスは、きっとモーカリマッカの司祭を睨みつけた。
「消えろ、ここからっ!! 死ね、身体中の血をぶちまけ――」
 剣を振りかざし、ゴンへと襲い掛かる。喜色を満面に浮かべ、黒髪をなびかせて。ノルスもその後に続く。
 これしかない、とばかりに手のひらを向けるゴン。
「くそ――去れ、悪霊よ!! 夜の下僕共よ! リパルス……」
 その刹那。ストラウスの呪文詠唱が終焉を迎えた。
「――イキリス・エスタ・エンケ……全員目を閉じろっ! ソーラー・フラッシュ!!」
 瞬間、放たれた太陽の輝きが、玄室の闇と影を駆逐した。

 ―――――――― * * * ――――――――

 哄笑のあまり、伯爵の警戒がわずかに緩んだ刹那――グレイは身を捨てた。
 乾坤一擲、一刀両断。
「くく、愚かな。何を見て――」
 伯爵はかわしもせず、突っ立ったままそれを受けた。
 びき、という硬質のガラスがひび割れたような音が響いたかと思うと、そのまま伯爵の左脇腹から四分の一ほどが切り裂かれた。傷から蒸気のような白い煙が立ち昇る。
「ぬ、ぐ!? ――ばかなっ!?」
 目に見えて怯んだノスフェル伯爵は、床の石材を踏み割って大きく後ろに飛び退っていた。
 グレイは追いきれず、再び刀身を大きく後ろに引いた構えに戻った。全身で大きく呼吸を繰り返す。
「――ぬぅぅ……」
 ノスフェルは舌打ちをして、斬られた脇腹を右手で撫でてみた。
 肉が灼き削がれていた。復元は始まっているが、妙に鈍い。
 もう一度傷口を撫で、魔力を注ぎ込んで瞬時に治す。
 肉体の傷は消えても、心に刻まれた傷はそう容易く消えない。屈辱に頬が引き攣った。
 元より頑健な肉体に加えて、魔法による防御まで施しておいたのに、なぜあの奇妙な炎の剣の刃はこの肉体を傷つけられたのか。
 なぜあの剣で斬られた傷口の復元が遅いのか――いや、そちらの答は出ていた。
 斬られた瞬間に感じた異様な感覚。
 おのれの核となる部分から、力の根源からその一部を奪い去られる感覚。それはまさしく、自分が哀れな獲物にするのと同じ事をされた感覚だった。
(間違いない……今の一撃、この傷。わしの魔力を……奪いおった)
 高揚していた心が冷えてゆく。
 冷や汗めいたものが、背中を伝う。
(片刃の剣とはまた珍しいと思うてはおったが……よもや正の生命力――奴の命を刃と化して斬る剣とは……おのれ、よりにもよって)
 死したる生物から甦りしアンデッドを動かすは、闇に属する負の力。
 自然の理に則ってこの世に生まれたる生命の力は、光に属する正の力。
 その二つがぶつかれば、氷の塊に炎の塊がぶつかるようなもので、お互いに同量が消滅する。
 だが、正の生命力を武器として扱えるのは、ほんのわずかな者に限られる。わずかなエネルギー生命体と、拳法家の中でも"気"を操れる達人級の腕前の者のみ――と、ものの書物に載っていたのを読んだことがある。
 普通ならば出会う確率などほぼないに等しい天敵が、いかなる巡り合わせか今、目の前に存在する。舌打ちの一つも漏らしたくなる状況だった。
(……とはいえ、これ以上斬られなければいいわけだが……。いや、まだ腑に落ちんな)
 少し落ち着きを取り戻し、表情を引き締めたノスフェル伯爵は、蒼い炎を吐く剣とそれを持つ戦士を見やった。
(なぜ……防御魔法が切り裂かれた? 物理・魔法・神聖……全ての事態に対処する防御を施しておいた。正の生命力であっても、光に属する以上はいずれかで弾かれるはず。あの剣……生命力を炎に換える以外に、まだ何か秘めたる力があるのか)
 迷いと戸惑いから生まれた逡巡が、グレイに踏み込む機を与えた。
 体を捻って自らの後ろに剣を隠した構えのまま、飛び込んでくる。剣筋が読めない。
「ぬぅっ! 小賢しいっ!!」
 呪文詠唱無しに、瞬時に張った幾重もの魔法防壁。
 しかし、それは最前と同じように、硬い音をたてて一瞬で斬り裂かれた。幾重もの防壁が、一撃で。
 残るは持ち前の体捌きのみ。かろうじて躱した切っ先は、マントを切り裂いた。
 伯爵の表情が再び硬張った。
(また、かっ!)
 グレイの攻めが続く。一時の遅滞もなく、命の息吹を炎に換えて、魔刀を振るって振るって振るいまくる。
 受けるわけにも、弾くわけにもいかず、対処に迷っている間に蒼き炎が衣服や肌を焼いてゆく。復元が追いつかない。
「ええい、仕切り直しだ!!」
 壁際に追い込まれそうになった伯爵は、赤い霧に姿を変じ――グレイは霧の塊を構わず斬り裂いた。
「……っ!! ぐああああああああああああああっっ!!!」
 霧が悲鳴をあげた。
 グレイを避け、風に吹き寄せられるように広間の中央へと集まった赤い霧は、片膝をついた伯爵の姿に戻る。その胸に、右肩から左腰へとざっくり刀傷が走っていた。
 伯爵は白い顔をさらに白く蒼ざめさせて、目を剥いた。
「――ば、バカな……っ!! き、霧を……実体なき物すら、斬るというのかっ! その剣はいったい……!?」
 魔刀を振りかざしてかけてくるグレイに、頬を引き攣らせるノスフェル伯爵。その表情には、十年ぶりの怖れと、焦りが宿っていた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 影が疾る。
 誰にも気づかれぬ、ささやかな動きで。
 動揺している伯爵も、ここを先途と攻め立てるグレイも、そして倒れたまま動かぬキーモにすら、感じられないほどの気配の揺らぎだけを残して。
 影は気配も足音も殺したまま、柱から柱へ、影から影へと走る。
 その後に、銀の光がかすかに流れた。
 東側の窓から見える空は、かなり明るく染まりつつあった。
 夜明けは近い。

 ―――――――― * * * ――――――――

 ジョセフの剣に宿った太陽の光は、ストラウスの杖に宿った魔法の青い輝きや、松明の明かりなどとは比べ物にならない鋭さと、圧倒的な光量で闇を塗り潰した。
 ゴンに襲い掛かっていたネスティスの勝利の確信を、その赤い鎧ごと打ち砕き――
 その背後から飛び込んできていたノルスの笑みをこわばらせ――
 自らの棺に腰を下ろしたままだったナーレムの頬に、微笑を浮かべさせ――
 伯爵の棺に蓄えられていた魔力を、砂の城を洗う波のごとくに霧散させてゆく――

「残念、時間切れだっ! ネスティス!! この光は、闇の魔力を打ち払うっ!!」
 輝く剣を高々と掲げたストラウスが朗々と叫ぶ。
「――くっ!!」
 見る間にひび割れ、剥がれ、粉微塵になって虚空に溶けてゆく鎧を抱き締めるようにして、ネスティスは床に飛び込んだ。捨て台詞を残す間もなく。自らの体から失われゆく魔力を、一滴でも隠し残そうとするかのように。
 ネスティスという盾を失ったノルスは、まともに太陽光を浴びた。
(あ……ああああっっ!! あああああああああああああーーーーーーーーっっっ!!!)
 突風に煽られたかのように押し戻された少女の姿が薄れ、光に溶けてゆく。風に吹き流される砂絵のように。
(い……いやよっ!! 滅びたくないっ! せっかく、せっかく誰にも負けない力を手に入れたのに――いやあああっっ!! 助けて、お姉様ぁぁぁっっ!!)
 空中を泳ぐようにもがき、ナーレムへと飛び込んでゆく。
 ナーレムは哀しげな微笑をたたえて両手を差し伸べ、それを迎えた。
(――ノルス、哀れな娘……)
 抱きしめた胸の中で、少女の輪郭がぼやけ、消えてゆく。
 ナーレム自身も足の先から、消えてゆく。ふと、その瞳がゴンを見た。
(モーカリマッカの司祭…………この子のために、祈りを……お願い。あたしはいいから……)
 その眼差しに呑まれるように思わずゴンが頷くと、ナーレムは礼を言うかのように目を伏せ、消え行く娘を抱き締めた――母が子を抱き締めるように。
 そして、ノルスは消えた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 ナーレムの腕の間をすり抜けるように、ノルスの魂の粒子のようなものが流れてゆく。
(……消えはしたけど、まだ"土"が残っているわ……)
 ノルスを抱き締めた姿のまま呟く。
 ゴンの眼差しは、彼女の腰掛けている棺に落ちた。
(これを完全に浄化しないと……あの子はまた、何年後か、何十年後かに甦る……お願い……)
「……どうして?」
 太陽光を遮るように立ちはだかったゴンは、思わず訊いていた。
「どうして、そんなに……僕らに協力するようなことを……今更」
(今のあたしに戦う力はない……ここにたどり着けた時点で、あなた達の勝ち。それに……あなたは優しいから)
 ナーレムは目を伏せたまま、鼻歌でも歌うかのように密やかに話す。その姿は、もう腰の辺りまで消えていた。
「ナーレム……?」
 ゴンは怪訝そうに顔をしかめていた。
 顔を上げたナーレムは、嬉しそうに微笑っていた。春の陽射しを喜ぶ女の微笑み。
(太陽の光が……最後の力を与えてくれた…………穢れた肉体を失った、あたしの本当の魂に……力を)
「本当の魂……何を言ってるのさ?」
(伯爵に汚される前の……あたし自身の生まれたままの魂……圧倒的に塗り潰された闇の中で……一粒だけ残しておいた…………最後まで残しておいた……ひとかけら)
 胸の辺りまで侵食が及び始めた。全体的に輪郭も失われつつある。
(……そのひとかけら……エイドルの司祭ナーレム=ホルシードの心を……あなたにあげるわ。若い司祭さん……)
 胸を押さえるような所作から、消えかけた両手をゴンに伸ばす。
(お名前は……?)
 少し小首を傾げて微笑むその顔に、もう吸血鬼の時の陰影は微塵もない。
 ゴンは自然と背筋を伸ばし、威儀を正していた。
「ゴン……です。モーカリマッカの最高司祭アレフルード=シュバイツェンの弟子、ゴンです」
(ゴン――力強い名前……。あなたに……勝利の、祝福が、あります……よう……に…………)
 ゴンを抱き締めようとしたのか、それとも祝福の口付けでも与えてくれようとしたのか――立ち上がったナーレムはしかし、ゴンの身体を透過して消え去った。
(……エイドルの……祝福を……)
 最期に残ったその響きは果たして声だったのか、それともゴンだけに聞こえた想いだったのか。
 ゴンは動けぬまま、ナーレムの姿の消えた棺を見下ろしていた。
「………………ナーレム……ホルシード……さん」
 勝利。
 けれど、少年の心に理由の見当たらないやりきれなさを残して――……。
「――えーいくそ、ネスティスを逃したか。案外往生際が悪いな、あの女」
 物思いにふけりかかっていたゴンを引き戻す、凄まじく現実的な声。
 ゴンが振り返ると、ストラウスはジョセフに剣を持たせ、自分は取り戻した鍬を握ってずかずかと玄室の中へ踏み込んできていた。
「ストラウス……」
「ゴン、さっきの『イビル・シーク』はまだ効果時間内だよな? 伯爵の棺はどんな具合だ? いけそうか?」
「いや、だからさ。あのナーレムって人、本当は……」
 ゴンの声を遮って木の板が叩き破られる音が響き渡り、ゴンは思わずびくっと身体を震わせた。
 見れば、ストラウスが鍬の先をノルスの棺の蓋に突き立てていた。決して目標を見失わない鋭い眼差しが、ゴンの細い目を射抜く。
「――時間がないんだ。シュラたちを殺す気か」
 力任せに鍬を引っ張って棺の蓋を引き剥がすストラウス。
 露わになった棺の中――赤いビロウド張りの内装に不似合いな、湿った黒土が敷き詰められている――から、たちまち白煙が上がり始めた。
「ジョセフさんはそのまま、剣を掲げて待機していてください。――ゴン!」
「あ、ああ。そうだね」
 確かに今は、物思いにふけっている時ではない。
 気を取り直して、ゴンは『イビル・シーク』で伯爵の棺を見た。
 邪悪な闇の魔力を示す緑色の光はかなり薄れていた。見ている間にもどんどん薄れている。
「……大丈夫じゃないかな。もうすぐ棺の外で護っている部分の魔力は消えると思う」
「ふっふっふ、伯爵もまさかここに日の光が当たることがあろうとは思うまい。ざまあみろ」
 楽しげに含み笑いながら、ストラウスはノルスの棺の側板を次々打ち壊した。こぼれ出た黒土から立ち昇る白煙と、何かが焼け焦げているかのような音。
 ストラウスがその黒土を手馴れた鍬さばきで床に広げてゆくと、見ていたジョセフが感心した声を上げた。
「へー……鍬の使い方も堂に入ってるね、マーリン君。僕より上手いかも。ただの魔法使いじゃないんだ」
「当たり前です。そうでなきゃ、関所で職業欄に農業技術伝道師なんて書いたりしません。そもそも、ミアの土というのはですね……」
 いい気になってストラウスがとうとうと土と鍬さばきについて説明している間に、ゴンはナーレムの棺の蓋を引き剥がした。

 ―――――――― * * * ――――――――

「ぬうぅぅ……いい気になるな、下郎がっ!!」
 駆け引きも何もなく、ただ剣を振り上げて突進してくる戦士に対し、伯爵は手の平を向けた。
 先ほどシュラを吹っ飛ばした魔力の塊を放つ。
 しかし、それさえも戦士の持つ炎の刃は切り裂いた。
 一声唸って、ノスフェル伯爵は床を蹴った。後方へと飛び退りながら、魔力弾を連続して放つ。
「ずぇいっ!!」
 気合一閃、次々と放たれる魔力弾を斬り捨て、怯むことなく突き進む。
 ノスフェルの瞳が光った。
「止まれぃっ!!」
 その刹那、グレイは背を向けていた。
「な――」
 命のやり取りの最中に背を向ける。
 ノスフェルはその信じがたい行動に思わず呆気に取られ、動きが鈍った。
「……その技は、既に見たっ!!」
 グレイが体を捻ってこちらに向き直りながら、踏み込んでくる。当然、蒼い炎の尾を引いて刃が水平に走る。
 慌てて身を退くノスフェル――しかし、失念していた。刃の長さが炎の分だけ伸びていることを。
 胸を真横に切り裂く蒼炎の刃。再び奪われる力。伯爵の表情が歪んだ。
「ぐうっ……ぬうううう……っ!! くわああああっっ!!!」
 ごう、と口から漆黒の炎が噴き出した。まともに浴びたグレイが吹っ飛ぶ――しかし、蒼炎で切り裂かれた分威力を削がれ、三mほど押し戻しただけだった。まだ、一足で間合いに入れる。
 果たして、グレイはまだ消え残る黒炎を振り払うようにして、再び踏み込んだ。
「まだ、来るかっ!!」
 知らず、心に兆した恐れを口にして霧に変化する。
 今度は剣筋を読み切って、触れぬように霧を分け、グレイの背後に回りこむや元の姿に戻る。
 振り返りざまに振るってきたグレイの一撃を、伏せるほどに身を屈めて躱し、両手を向ける。
「――吹き飛べぃ、戦士っ!!」
 態勢が泳いだままのグレイに躱すすべはなかった。圧縮された闇の魔力の塊が――
「!?」 
 瞬間、両腕が横へ動いた。伯爵の意思を無視して、勝手に。
 グレイを襲うはずだった巨大な魔力塊は、石柱の一つを打ち砕き、そのまま壁にぶつかって分厚い石材を粉砕し、ぶち抜いた。暁光に灼ける空が露わになる。
「バカな、なにが――」
 疑問を解く間もなく、蒼炎の刃が迫り来る。
 最大級の危険にカイゼル=フォン=ノスフェルの表情が壊れた。身も蓋もなく顔を引き攣らせ、両手腕を交差させて身体を護ろうとする。
「ぬおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおーーーーーーっっっ………………お?」
 予想していた斬撃はこなかった。
 グレイは倒れていた。
 受身も取れずに突っ伏していた。床に叩きつけられた鎧が派手な音をたて、その手から剣が転げ落ちる。蒼い炎は消えていた。
 そのままぴくりとも動かない。まるで息絶えたかのように。
 しかし、そうではないことは伯爵の眼に映っていた。命の炎が、まだわずかだが戦士の中で燃えている。
「な……何が…………何が起き――う、お?」
 いきなり視界がグラつき、思わず伯爵も崩れ落ちるように片膝をついていた。



【次へ】
    【目次へ戻る】    【ホーム】