愛の狂戦士部隊、見参!!
第六章 暁光の決戦(その1)
ミアで愛の狂戦士部隊が戦っているちょうど同じ頃、首都グラドスのモーカリマッカ神殿の聖堂で祈る男の姿があった。
モーカリマッカ教最高司祭アレフルード=シュバイツェン。
恰幅のよい老人の神像の前で胸に手を当てて頭を垂れ、眼を閉じて黙然と何を祈るのか。
ふと、その目が開いた。
「――……ラリオスか」
振り返りもしないアレフの背後で、闇が動いた。
人の形をした闇は、覆面を引き下ろして頷いた。
「潜入捜査の帰りだ。やはり、カグナディス男爵はクロだった。明日の昼にも奴の所有する貿易船が港を出る。行き先はカオス公国だ。積荷は、この近辺のスラムでさらった孤児達――要は奴隷だな」
「わかった。手は打とう」
振り返らないまま、アレフは答えた。再び押し黙る。
「アレフ、例の件だが」
言いながら、ラリオスは手近な長椅子に腰を下ろした。腕と足を組む。
「今のところグラドスに奴の影はない。そっちはどうだ?」
「グラドス近辺――イークエーサ辺りまでは、まだ奴の仕業らしき事件はないようだな」
「その向こうは?」
「ラリオス、無茶を言ってくれるな」
アレフは溜め息を漏らすようにたしなめた。
「私が言伝(ことづて)や親書を頼んだ弟子達や知人は、お前のように足が速いわけでもない。かといって、その全員に貸し与えられるだけの馬を、我が神殿が所有しているわけでもないんだぞ。アルゴス以北の地域など、十日やそこらで返事が戻せるものか」
「馬なら、外の馬小屋に一頭繋いであったな。妙に逞しい馬だったが」
「ああ、ドテチンプラチナ号か」
「……ドテ?」
「あれはゴンが自腹で購入した馬だ。弟子の馬を師匠が勝手に使うわけにはいくまい」
「なるほど。……ところで、宮廷大魔術師殿はグラドスにいなければ、ミアが怪しいと踏んでおられるようだが?」
ラリオスは話を引き戻すと、アレフは頷いた。
「あそこは奴の故郷で、前回には協力者までいたのだ。そう考えるのが普通だな」
「協力者……ブラッドレイとかいう奴か。あいつはまだ健在なのか?」
「ああ。ゴンに手紙を持たせた。途中で失うか、渡し忘れていない限り、あれを読めば何らかの反応があるはずだ」
「あいつらのことだ。どっちもありそうだがな」
「そういえば、監査官から連絡は?」
「デービスの件か? いや、今のところまだ何の連絡もないらしい。昨日か一昨日辺りには現地に着いているはずだが」
ラリオスは少し肩をすくめてみせた。
「デービスとの交渉が長引いているのか、バカ弟子どもが引っ掻き回してご破算にしたのか……定期連絡も入らないものだから、宮廷大魔術師殿も苛々しておられるよ」
「定期連絡も? ……ふむ」
パン、と手を打ち合わせて神像に深々と一礼したアレフは、ようやくラリオスに振り返った。
「ゴンに持たせた手紙だが、返事はゴンに言伝るようしたためておいた。ゴンなら奴の返事がどうであろうと、その重大性を理解できるからな。だから返事があれば監査官を通じて、急ぎこちらへ返事をよこすだろうと踏んでいたのだが……」
「定期連絡もないとなると、返事を返す気があるのかどうかすらわからない、か」
「ああ」
アレフは頷いて、腕を組んだ。右手の拳を口元に当てて考え込む。
「北方領域の監査官、確か名前は……」
「メイジャン=オブリッツ」
「そう。彼は謹厳実直を絵に書いたような男だったと憶えている。そんな男から定期連絡がないのは、確実に何かがあった証左だろう。それだけは間違いない」
「……行くか?」
上目遣いにアレフを見上げるラリオス。
しかし、アレフは首を横に振った。
「いや。客観的な証拠が何一つないのに、無闇に動くわけにはいかん。グラドスを空けさせるのが奴の狙いなのかもしれんのだからな」
「ふむ。困った状況だな。だが、もしミアに奴がいれば……好戦的なバカ弟子どものことだ、放ってはおけまい。戦えば、間違いなく全滅するぞ。それでも?」
片眉を持ち上げて不服を示すラリオスに、アレフは頬を緩めた。
「徹底した現実主義のお前が、仮定の話を持ち出すのか? 珍しいな」
「至らざる弟子をフォローするのも師の役割だろう」
「若いな、ラリオス。……ふふ」
アレフは一回り年上の余裕を見せて、鼻で笑った。
「戦場へ出れば、師弟の関わりなどあってないようなもの。第一、あいつらの実力からいえば、もはや自分たちの生命ぐらい自分で責任を持ってしかるべきだ。逃げ方、引き際は教えてあるのだろう?」
「それはそうだが――憶えてるかな、あのバカども」
「忘れたのも連中の責任。もう連中は雛鳥ではない。立派な若鳥だ。鷲か鷹か……鶏かはわからんがな」
「鶏にしちゃあ、気性が荒いな」
シニカルに唇を歪めるラリオスに、ふと何かを思い出したかのようにアレフは眼を泳がせた。
「いや……鶏もバカにしたものじゃないぞ?」
「なに?」
「うちの鶏小屋に、『ボス』と呼ばれてる鶏がいてな。この前、鶏小屋に侵入したでかい野良猫が半殺しにされていた。獰猛な野良犬ですら、もはやうちの小屋には近づかん。おかげで……近年、自前の鶏料理を食ってない」
「……何の話だ」
ラリオスは呆れ顔で頭を掻いた。
「なんなら俺がやってやろうか?」
銀色に輝く針が手の中に顔を出す。
アレフは苦笑した。
「こらこら、鶏相手に暗殺者を雇ったとあっては、それこそうちの沽券に関わる。死人が出るまで待て」
「……鶏が人を殺すのか」
「遠い国では、勇者だかエルフだかが無数の鶏にたかられて死んだ、とかいう話も聞いたことがあるぞ」
「そんなことで死んだ奴の、どこが勇者なんだ」
「ま、与太話だ。それはともかく――連中の生き死には連中自身で決めることだ。我々が果たすべき責務を放棄してまで介入することではない。しかも、仮定の話だ」
「しかしな……」
まだ不服そうに言葉を捜すラリオスに、アレフは呆れたように溜め息をついた。
「いい加減にしろ、ラリオス。弟子がどうこうより、伯爵と決着をつけたいのがお前の本音だろう」
図星を突かれたラリオスが顔を曇らせる。
アレフの頬に笑みが広がった。
「お前とは長い付き合いだ。それぐらいわからいでか。だが、わきまえろ。デービスの件が決着してないのに、私と宮廷大魔術師と特別警護隊長がガン首揃えて出向くのか? 全権を委任されたオブリッツ監査官の立場はどうなる? 師匠風を吹かすなら尚更のこと、弟子どもの仕事にしゃしゃり出るのはどうなのだ?」
「奴がミアにいれば、そんなことを言っていられる状況じゃなくなるぞ」
「いなければ全てぶち壊しだ」
束の間目を逸らしたラリオスはしかし、すぐにいつもの無表情を取り戻した。
「それで? ならば、俺達はどうする?」
アレフは軽く頷いて、壁の窓まで歩いて行った。窓の外のよろい戸も引き上げる。
冷たい風が吹き込んで来た。東向きの窓の彼方は紺色が徐々に薄まっている。
「夜明けが近いな」
風に乱される金髪を押さえ、流したアレフの呟きにラリオスは小さく息を吐いた。
「何の関係がある」
「夜が明けたら忙しくなる。まずはカグナディス男爵の件を押さえ、孤児を助けないとな。それが最優先だ」
「……そうだな」
「その後でギャリオート師と話し合う。ミアのデービスの件も含めてな。あの人なら、ミアまで我々を連れて『テレポート』の呪文で往復することもできる。必要なら、の話だがな。ま、いずれにせよ――」
アレフは窓の桟に両手を乗せ、大きく夜明けの冷たい空気を吸い込んだ。
ラリオスに劣らず鋭い目つきが一層厳しくなって、仄白んできた夜明けの空を睨む。
「全てはっきりしてからだ。仮定では動けん」
―――――――― * * * ――――――――
ミア。
ノスフェル城。
「……よ、くも……」
ライフサッカーを鞘に収めたグレイの耳に、悲嘆に満ちた女の声が聞こえた。
振り返ると、ネスティスが立ち上がっていた。
今にも倒れ伏しそうなほど前のめりの態勢で、なぜか息を荒げている。長い黒髪はすだれのように落ちかかり、その顔を覆い隠している。その奥から流れてくる悲鳴にも似た呻き声は、吹きすさぶ風の唸りにも似ていた。
そしてその姿――その姿は、最前までの鎧騎士姿とは全くかけ離れたものになっていた。
白く薄い夜着のようなゆったりした衣、透き通っているかのように白い肌。一見した限りでは死者に着せる装束に似ている。
「く……あれでもまだ、消滅せんのか」
グレイはライフサッカーの柄を握り直し、少し前屈みに構えた。
「……よくも…………よくも伯爵様より賜りしものを……私の全てを……」
ネスティスは顔を持ち上げた。人形のようだった端正な美貌が、涙と怒りと悲しみと屈辱で今や鬼の形相に歪んでいる。それは皮肉にも、今までのどの表情より、スペクターの名に相応しい形相に見えた。
「許さない……絶対に」
涙をボロボロこぼしながら呻くように漏らす声は、まさに怨嗟の響き。
震える膝をがつんと殴りつけて踏ん張り直し、抜く構えを見せるグレイ。
「いいだろう。決着をつけてやる。来い、ネスティス」
しかし、ネスティスは大きく後ろへ跳んだ。そのまま壁に溶け込むように姿を消す――声だけが残った。
『待っていろ、決着は必ずつける』
―――――――― * * * ――――――――
「……逃げたか」
殺気が消えるのを感じて、グレイががっくり片膝を着く。
すぐにゴンが支えた。
「グレイ!」
「ああ。すまん。大丈夫だ、大丈夫。……強敵だったんでな。ちょっと気が抜けただけだ」
「ほんとにそれだけ?」
不審げなゴンに、グレイの眼が一瞬虚空を泳ぐ。その表情には疲労の色が濃い。呼吸も先ほどより落ち着いてはいるが、やはり平常より早く、深い。
それでも、グレイは気丈ににんまり笑ってゴンの肩を叩き返した。
「他に何があると――」
「おいおいおいおい、なんやなんやなんや今のんは? 何であないなんできること、隠しとったんや」
空気も読まずに、キーモがやかましく割り込んできた。
その後ろからストラウスも歩いてくる。
「別に隠してたわけじゃない」
グレイは目を閉じ、深く長い深呼吸を繰り返しながら立ち上がった。
「出すタイミングがなかっただけだ。……そうそう使えるものでもないしな」
「次わし、次わし。わしにやらせてんか」
眼をキラキラさせて手を伸ばすキーモ。だが、グレイはさっと引き上げて触れさせもしない。
「……ダメだ。触るな」
「なんでやねん。ええやんけ、減るもんやなし」
「バカ言うな。減るんだよ、確実に――」
言ってから、しまったという表情がよぎった。
「あー……その、あれだ。確実に、こいつの魔力が。これから伯爵とやり合うのに、無駄撃ちされては困る」
いかにも取り繕うような言い方に、ゴンとストラウスは不審そうに顔を見合わせる。
しかし、キーモは引き下がらなかった。
「ちょっとぐらいええやんけ」
「ダメだ」
「そんなこと言わんとぉ――」
「やめとけ、キーモ」
しつこく食い下がるキーモを止めたのは、ストラウスだった。
「持ち主がダメだと言ってるんだ。今は諦めろ。全部事が終わってからにしろ――それならいいだろ、グレイ?」
「あ? ああ……まぁ、それなら……」
「わかったな、キーモ?」
ちぇ、と唇を尖らせて目を逸らす。そんなキーモの肩をぽんぽんと叩いて、ストラウスはグレイと向い合った。
「とりあえず幹部連中はやったな。ご苦労さん」
「緑のがまだだ。シュラが戻ってない」
「――俺がどうかしたか?」
買い物から帰ってきたかのような気軽さで、シュラがダンスホールから入って来た。
「いやー、糸を撒き過ぎてな。回収するのが大変で大変でよぉ」
腹立たしそうに戦場を振り返るシュラ。
「何とか倒したみたいだな?」
ストラウスの問いに、シュラは顔を戻してバツ悪そうに頬を緩めた。
「ああ。だが、やっぱ暗殺者は相手の実体があってなんぼだな。アレフ師匠にもらってた聖水、全部使い切っちまったぜ」
「なんだ、そっちもか。こっちもゴンの回復魔法と、俺の攻撃魔法が切れた」
さほど大したこともなさそうにストラウスは言ったが、シュラとグレイは露骨に顔をしかめ、同時に声を挙げた。
「「おいおい、それで勝算あるのか?」」
―――――――― * * * ――――――――
小さな溜め息にしじまが揺れる。
「ネスティスまでも敗れたか。ふむ、予想以上だな」
右腕に脱力して胸に顔を埋めたままのクリスを抱え、ノスフェル伯爵は腰を上げた。
「いや……あやつらが予想外に使えなんだということか。面倒なことだ」
そう呟きながらも、その口調に言葉ほどの落ち込みは感じられない。
左手をかざして水晶の輝きを消し、クリスを抱えたまま部屋の扉へと向かう。
その時、波間から浮かび上がってくるかのように、白装束の女が床を抜けて現われた。
両膝、両手をつき、深々と頭を下げている。
「――ノスフェル伯爵様」
ノスフェルは応えず、ただ道に転がっている邪魔な石でも見るかのような目で見下ろしていた。
「申し訳ございません。伯爵様から賜りし剣も、魔力も――」
そこに部下などいないかのように踏み出した足先に、ネスティスは蹴り上げられた。のけぞった姿勢のまま、軽々と吹っ飛ばされ壁の向こうに消える。
「……お待ちください、伯爵様!」
壁を通り抜け、再びノスフェルの足元に身を投げ出すようにしてひれ伏すネスティス。
「お怒りは重々承知いたしております。ですが、伝えなければならないことが――」
「黙れ」
怒りではなく、ただ面倒臭げに。
「役立たずの口から出るものが、今さら何の役に立つ。もはやうぬに用はない。失せよ」
「伯爵様!!」
「失せよ」
氷より冷たい声が、無限の重量を伴ってネスティスの背に落ちかかる。
ネスティスは唇を噛んで、無念に眉をたわめた。両の瞳からこぼれ落ちているのが無念の涙なのか、いつもの涙なのか、自分でも判別がつかない。
実体のない涙は、滴り落ちた床を濡らすこともなく消えてゆく。
ネスティスは額を床にこすりつけるほど頭を下げた。
「……お願いです、伯爵様。まだ消え残る我が身に、今一度の猶予を。敗残のこの身、お傍に置いてくださいとは申しませぬ。もはや我が言葉に価値無しとおっしゃられるなら、何も申しません。ただ……ただ、御身を護る亡霊騎士として、最後のご奉公の機会だけをお許し下さい。一振り……そう、ただ一振りの剣を下されば……」
「――剣だと?」
ネスティスを無視して歩み去ろうとしていたノスフェル伯爵は、ぴたりと足を止めた。その口調に混じる嘲弄と蔑笑の響き。
「くっくっく……今の貴様に、剣が持てるのか?」
「もちろんでございます!」
なぜか嗤う伯爵を訝しみながらも、跳ね起きたネスティスは大きく頷く。
「剣さえ賜りましたれば、もはや手段は選びませぬ。一人でも多く、奴らを道連れに」
すると、伯爵は胸のポケットからハンカチを取り出し、その場に落とした。
「拾え」
「は……はいっ!」
意味は不明だったが、とにかく主の言う通りにハンカチを――伸ばした手がハンカチをすり抜けた。
「……え?」
つかみ直そうと奮闘するも、両手はただ虚しく空を切る。
「な……なぜっ!? どうして――」
「うぬがバンシーだからよ」
ネスティスの目の前で、ノスフェル伯爵は自らの手でハンカチを拾い上げ、胸のポケットにねじ込んだ。
「バン……シー……?」
見上げるネスティスはきょとんとしていた。
「ふん、まだわかっておらなんだか。最後までその鈍さはどうにもならなんだな」
ようやくネスティスをまともに見たノスフェル伯爵の笑みは、悪意に歪んでいた。
ぬぅっと手を伸ばし、呆然としているネスティスのおとがいをつかんで軽々と持ち上げ、壁に押し付ける。
「闇の魔力によりわしはうぬを触れる。だが、うぬはわしを触れぬ。いや、それどころかうぬは現世にあるあらゆる物を触ることあたわぬ。そのざまで、どう戦うのだ?」
「どうして……? どうして、こんなことに……」
「うぬが泣き女、バンシーだからだと申しておろう」
「バンシー…………それは……なんなのです?」
「ものの書物には、戦場で男を失った女どもの悲嘆の念が集まり生まれた、死の予兆などと書かれておるな」
「予……兆…………?」
「前触れよ。雨の直前に蛙が泣く、地震の先触れに動物が消える、沈没の寸前に鼠が逃げ出す。それらと同じように大勢のものの死に先立って現われる、ただの『現象』だということだ」
「現象……私が…………ただの…………スペクターどころか……アンデッドですらない……ただの……現象」
呆然と呟く唇。涙に濡れ光る瞳が虚空を彷徨う。
「語り部によっては、精霊に近き存在などとも言っておるが……まあ、どうでもよい。わしに言わせれば、死者の傍らですすり泣くことしかできぬ幻、蜃気楼よ。くくく、いかに部下を失ったとて、幻に助けを求めるほどわしは落ちぶれてはおらぬわ」
「し、しかし……ついさっきまで、私は確かに伯爵様から賜りし剣で――」
「愚か者め」
両手を差し出してノスフェル伯爵の頬を包むように触れようとした刹那、ノスフェルは腕を振るい、ネスティスを投げ出した。
さっきまでノスフェルが座っていた椅子を透過して、その向こうで床に這いつくばる。
「うぬの鎧も、うぬが剣を持つだけの存在の力を得たのも全ては我が魔力ゆえ。そのことさえ気づいておらなんだか」
ノスフェルは嗤いながら、右腕に抱えたクリスをぐいっと突き出した。
意識を失った娘は、ぐったりと上体をのけぞらせた。首筋に空いた痕から流れる二筋の血。頬には閉じられた瞳から伝った涙の痕が、濡れ光っている。
「この女はうぬが一人で何かを考え、学んだようなことを言っておったが、結局うぬは何も学んではおらなんだ。そういうことだ、しょせん小娘の見識などその程度よ」
「そんな……」
打ちひしがれ、がっくり首を折るネスティス。その頭上で、伯爵の哄笑が響く。
「くくく、じきにうぬにこびりついておる我が魔力は全て霧散する。その残りの魔力にて今、こうして話も出来てはおるが……いずれうぬは元の泣くだけの存在へと戻る。意識も記憶も全て失ってな」
「わ……私の…………『私』が……無くなる……? そんな……そんな……」
虚ろな眼差しがあてども無く虚空をうつろう。それは助けを求める弱者の眼。
「気にすることなどあるまい。元よりお前には無かったもの。失くしたところで元に戻るだけのことであろうが」
「……なぜ……なぜですか…………」
枝垂れた黒髪の間から漏れ出てきた問いに、ノスフェル伯爵の哄笑が止んだ。
問いの意味を飲み込めず、顔をしかめる。
「? なぜ、だと?」
「なぜ……伯爵様は……私を、バンシーなどをスペクターナイトに……」
「うぬをスペクターナイトに仕立てた理由か。それならば、二つある」
返らぬと思いながら絞りだした問いに、思いがけず返って来た答。一縷の希望にすがるように、ネスティスは顔を挙げ、両手を差し出した。
「それは……?」
「ふふん。『ものの試し』と、『暇潰し』よ」
打ちのめされて表情さえ失うネスティスに、追い討ちをかけるように非情な嗤笑が降りそそいだ。
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「――そこが、俺の怪しいと睨んでる場所だ。頼むぞ」
「わかった」
シュラの手から、ストラウスに地下通路の地図が手渡された。
頷いてそれを懐にしまうストラウス。
一行はダンスホールの中央で円座を作って作戦会議を開いていた。
「とにかく、ここからの作戦の肝はそれぞれ一つずつだ。そっちはなるべく時間を稼ぐ。こっちはなるべく早く片づける。時間との勝負みたいに聞こえるが、一つだけ明るい材料がある」
「なんだ?」
訝しげに顔をしかめるシュラに、ストラウスはガラスの砕け散った窓の外を指で示した。
稜線と黒雲の合間――東の空が明け白んできている。
「太陽が射せば、こちらが有利だ」
「でも、あいつは黒雲でこの上空を覆ってるよ?」
ゴンの言葉に、ストラウスは首を振った。
「横から射す太陽を、どうやって黒雲で遮る? そこまでの範囲はカバーできないから、東の空が白んでいるのも見えるんだろ?」
「あ、そうか」
「それに、もし無理に範囲を広げたとしたら、それだけ魔力を消費することになる。戦いやすくなる」
「……だったら太陽が射してきた途端、逃げるんじゃないか? 棺に」
シュラの指摘に、ストラウスは頷いた。
「そうだ。だから、俺とゴンは急いで棺の浄化をする必要がある。奴が逃げ込めないように。そっちは俺達のところへ奴が来ないよう、引きつけておいてもらわないといけない」
「せやけど、それもちょいしんどいなぁ」
それまで聞くだけだったキーモが気乗りしなさそうに口を挟んだ。
「みんなで棺を浄化してから行ってもええんとちゃうんか?」
「全員でそっちへ行けば、奴もそこへ来るだろう。地下で奴と戦うとなると、今言った有利さがなくなる。その上、基本的にこっちは光がないと戦えないのに、向こうは素で戦える。光を制されたら、終わりだ」
「せやけどやな」
「二班に分ける理由はもう一つある。もし、伯爵が――ありえない話だと思うが、棺の方で待っていた場合、死ぬのは俺達二人で済む」
ゴンがぎょっとした顔になった。キーモ、シュラも顔に硬張りが走る。
グレイは片膝を立てて肘を置き、水平にした腕に額を乗せて俯いているので、表情が読めなかった。反対側の肩にはライフサッカーを立てかけている。
「俺達が棺に到着する前に、多分伯爵がいるであろう大広間に三人が到着するだろう。そこに奴の姿がなければ……俺達は罠に嵌ったってことだ。即座に引き返して、逃げろ」
「なんやて!?」
キーモの声に起こされたように、グレイが俯いたまま視線だけをストラウスに向けた。
「草原船で入港したこっち側の町があっただろう? セリエスだ。あそこの魔法使いギルドが、うちの師匠と直通の連絡窓口になってる。ホントは監査官が師匠と定期連絡を取るために使うはずだったんだけど、師匠の名前を出せば話は通る。そこへ行って師匠たちを呼べ」
たちまち、シュラとキーモは首を絞められたような顔つきになった。
心中を察して、ストラウスは間髪入れず続けた。
「いいか、面子にこだわってる場合じゃない。これは知恵比べだ。奴を出し抜くか、俺達が出し抜かれるか。策は先々(さきざき)を押さえてこそ意味がある。勝負は勝ってこそ意味がある。勝つための最善の手を選べ」
真剣な眼差しで、一堂を見回すストラウス。
ふっとシュラが薄笑んだ。
「やれやれ、うちの師匠みたいなこと言いやがる」
「せやけど、わしらが全滅したらどないすんねん?」
「もちろん、俺達が逃げる。棺を浄化されて魔力の蓄えを失い、太陽が射していれば奴も追っては来れまいしな」
「……俺は逃げんぞ」
低く重々しい声――それまで一言も話さなかったグレイの言葉に、一同は口をつぐんだ。
「逃げるくらいなら――」
「わかってる」
グレイの言葉を遮ったストラウスは、頷いて続けた。
「そう言うだろうということも想定済みだ。もしそういう事態になった場合、グレイはキーモとシュラを逃がすことに全力を傾けてくれ」
「ちょっと、ストラウス!」
「承知した」
ゴンの抗議の声を無視して、グレイが応える。
「グレイ!」
「ともかく、今はこうして話している時間も惜しい」
ストラウスは立ち上がって、膝と尻をはたきながら、もう一度一堂を見回した。
「そっちは出来るだけ早く奴の前に行って、出来るだけ長く奴を引きつけること。俺達は出来るだけ早く棺を見つけてそれを浄化し、できるだけ早くそっちへ合流すること。裏目が出たら、逃げる。以上で作戦了解?」
「了解」
シュラが身軽に立ち上がる。
「しゃーないのう……これだけっちゅーんが心許ないけどのぅ」
キーモが渋々立ち上がる。その手に握るのは中ほどで斬り断たれた槍。後は首から下げたメリケンサックと腰に差した長剣。
笑いながらゴンも立ち上がった。
「キーモの場合、武器がいくらあっても意味ないんじゃない? どうせ腕は二本しかないんだし」
最後に、無言のままグレイが立ち上がり――よろめいた。
慌てて支えようとしたゴンを、手を突き出して制する。
「……無用だ」
「大分疲れてるみたいだな。ま、これからクリスを救い出すナイト様を演じようってんだ。ここでへたってんじゃねえぞ」
グレイの奮闘を知らぬシュラが、意地悪げに嗤う。顔を上げたグレイも、頬に笑みを刻んでみせた。
「ああ、そうだな」
疲労の色が濃く、笑みが痛々しいほどだったが誰もそれ以上何も言わなかった。
「それじゃ、作戦開始だ。――いくぞ、ゴン」
ストラウスの掛け声とともに、愛の狂戦士部隊は二手に分かれた。
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「ものの……試し……? 暇……潰し……?」
「そうよ」
尊大極まりない得意げな笑み。左拳を握り締める。
「うぬのような存在にさえ、仮初めの力を与えることができるか否か……我が身に宿りし魔力のほどを試すのにうぬはうってつけだった。そして、そのようなことを思いつくほどに、うぬと会った当時のわしは暇を持て余しておった。それだけのことだ」
「つまり……私は…………伯爵様にとって……私は……」
「ただの実験……いや、余興の代物。それ以上でも以下でもない。使えるならば置いてもおこうが……あの程度の輩に後れを取るようでは、この先、話にならぬ」
もはや声を出すことも出来ず、腕で状態を支えていることも出来ず、がっくり肩を落として崩れ落ちてゆくネスティス。その身体はそのままずぶずぶと床に沈みこんでゆく。
「我が配下に役立たずは必要ない。目障りだ」
言いながら、マントを翻してネスティスに背を向ける。
「――だが、うぬを使っての実験は我が魔力の可能性を広げた。そして、今うぬが胸を満たしておる絶望……それが、わしに力を与える。それに免じて、我が手では消滅させぬ。わしが戻ってくるまでにせいぜい気の済むまで絶望し、どこへなりと失せるがいい」
嗤い、吐き捨てて――伯爵はクリスごと黒い霧と化し闇に溶けた。