愛の狂戦士部隊、見参!!
第五章 血戦 (その5)
「つまらぬ」
ダンスホールの闘いを見ていたノスフェル伯爵は、不愉快そうに吐き捨てた。
「奴らを殺すどころか、人質を殺して動揺を誘うことすらできぬとはな。策を弄してこの様とは、つくづく使えぬ……。マイク=デービスの件といい、あの二人……切り時かも知れぬな」
伯爵の後ろで画面を見ていたクリスは意味がわからず怪訝そうに眉を寄せただけだったが、傍で聞いていたネスティスは驚いて顔を上げた。
「……伯爵様?」
「その時が来たら、ネスティス。うぬの剣で滅ぼしてやるがいい――積年の恨みを晴らすときぞ。くくくくく」
冗談なのか本気なのかわからぬいびつな笑み。
数瞬、声を失って凍りついていたネスティスはしかし、すぐに頭を下げた。
「御意。……御命令とあらば」
―――――――― * * * ――――――――
エントランスホールでは、傭兵部隊が一方的に戦いを進めていた。
シノの取った戦術は、押し寄せる敵を重厚な戦士の隊列で受け止め、背後から司祭たちの『リパルス・アンデッド』で敵を排除するというものだった。戦士や『マス・ホールド』で動きを止められた者たちに『リパルス・アンデッド』の光は無害だ。
それでも滅ぼせぬ敵に関しては、魔法使いの放つ魔法と戦士の剣が襲い掛かる。
盗賊系の軽装戦士は周囲に注意を払い、怪しげな動きを逐一シノに伝える。
ホールの適当な狭さが幸いし、シノの戦術は上手くはまった。黒檀の扉を背に戦えば、敵に後ろから襲われることもない。
やがて、敵の数は目に見えて減ってきた。
シノの心にも余裕が生まれる。
「やれやれ。ひとまずはしのげたかの。これよりは地下で棺探し――あ、いかん」
シノはぺしん、と無毛の頭を叩いて背後の黒檀の扉を見やった。
「地下の地図を受け取っておらなんだ。……まだこの向こうにおるとよいが」
―――――――― * * * ――――――――
ぎゃあぎゃあ喚くジョセフに自殺防止も兼ねて猿轡を噛ませ、扉の前に転がす。気絶したままのオブリッツ監査官も同じようにして並べられた。
「……妙に手馴れているな」
グレイの指摘に、一同は一斉に目を逸らす。
その刹那――明かりが落ちた。
「おわ、なんやなんや」
「光が消えちゃったよ!?」
「気をつけろ、来るぞ」
唸るように声を放つなり、グレイは闇に向かってバスタードソードを振るった。
鋼と鋼を打ち合わせるかのごとき甲高い響き。そして、何かは見えないが、刃に重い手応え。
しかしそれは、何かを斬った手応えではなく、挟み止められた感覚だった。
そのまま、グレイはバスタードソードごと凄まじい力でひねり投げられそうになり、咄嗟に手を放した。
闇の彼方で落ちた剣が金属音を響かせる。
「……なんだ?」
咄嗟に後方へ飛び退りながら、背中に背負った魔刀ライフサッカーの柄に手をかける。
その背中に走る悪寒――背後に殺気。
躱す間もなく巨大な鉄板で殴られたような衝撃を背に受け、グレイは叩きつけられるように倒れ伏した。
―――――――― * * * ――――――――
「暗くて見えない」
と、クリスの漏らした不満を聞き届けたのか、それとも
「伯爵様……」
と呼びかけつつ、再び涙をこぼし始めたネスティスの異常に何か予感を覚えたのか、ノスフェル伯爵は水晶に手をかざし、画面を変えた。
場所はエントランスホール。戦いを終えた傭兵部隊がお互いの傷を癒しつつ、人員確認をしている。
「部下は全部やられちゃったみたいじゃない。……お粗末ね」
「あんなものはいくらでも補充できる」
クリスの嫌味に、伯爵は一切表情を変えずに返した。
「それこそ、あやつらを皆殺しにしてやればそれはそのまま我が軍勢となろう。闇の軍勢に兵員が尽きるということはない。人の死は、我が軍勢への参加と同義なのだ」
「この………………罰当たり」
顔を嫌悪に歪めての苦し紛れの一言。ノスフェル伯爵の唇の端が、邪まな笑みに歪んだ。
「神を怖れて【転生体】になどなれるものか。そして……そら、罰を受けるのは奴らの方のようだぞ」
クリスは驚いて画面に向かう。新たな動きが始まっていた。
―――――――― * * * ――――――――
「まずは、見事な指揮と褒めておこう」
重い落し戸によって封じられた入り口の上を走る回廊に、緑色の鎧騎士が佇み、拍手をしていた。
走る緊張。シノは即座にもう一度陣を敷き直した。『マス・ホールド』で硬直したままの連中もそのままだ。
緑の騎士は続けた。
「自らに倍する敵を的確な指揮で壊滅させ、その上自らの被害はほぼ無しとは……さすがは数多の英雄英傑を生み出せしレグレッサ。ガルブス=ゲオルグといい、貴殿といい、実に面白い」
「緑の鎧騎士……キーモ指揮官殿の説明にあった、デュランとはお主のことじゃな?」
デュランは満足げに頷いた。
「いかにも。……して、御身の名は?」
「シノ。ユジウス=シノ。秩序と平穏の神コルファス様に仕える司祭よ」
顔の前に指で印を切る。
デュランは剣を抜いた。顔の正面で真っ直ぐ立て、シノに向けて軽く頭を下げる。
剣を下ろしたデュランは、抜き身のまま訊いた。
「ではシノ殿、無駄を承知で一応訊いておこう。その力、ノスフェル伯爵様の下で生かしてみぬか?」
「断る」
シノの即答に、傭兵達は各々頷いた。
「わしらは傭兵。命を預けるに足るものにしか仕えぬ。それは各々人であったり、金であったり、誇りであったりするじゃろうが、一つだけ譲れぬものがある」
「ほう、なんだ?」
「人であることよ。わしらは誰につくのでも、人として自ずから選ぶ。化け物に意思を奪われ、操られるのは御免こうむるわい。少なくともここにおる三十数人は、そういう連中じゃ」
「では、金で雇うということなら構わぬのかな?」
「その仮定は成り立たぬよ、デュラン殿」
「なぜだ?」
「ノスフェルごとき田舎貴族に、わしらを抱えられる甲斐性などあるものかよ」
最後に服の下から鎧を覗かせるようにぶつけた、敵意に満ちた一言。
緑色のヘルムのバイザーの奥で光る輝きが、少し細まった。
「……伯爵様を愚弄するか。今の一言は、さすがに許しがたい」
「事実を言うたまで。そもそも、わしらは戦友をお主らに惨殺されておる。その仇討たずにおめおめ手の平を返せるものか。お主こそ、わしらを愚弄しておるわ」
デュランは、ふと黙り込んだ。
「なるほど。そうであったな。それは我の思い至らぬことであった。失礼した」
再び剣を立て、頭を下げる。
「ともかく、こうなれば我らの間にはもはや戦う以外の選択肢はない。後悔めさるな、シノ殿」
振るった剣先が、ひゅっと空を切る。
「後悔するのはお主の方じゃよ、デュラン。いかに剣の腕が立とうとも、しょせんは一人。三十人の戦上手に勝てる道理などない」
シノの右手が頭上に掲げられる。その手は光を放ち始めていた。
「道理はないか……。くく、貴殿は知るまいが――」
デュランはひらりと回廊からフロアに舞い降りた。
剣を大道芸人のようにくるくると指一本で振り回し、体の周囲を旋回させる。
その動きがぴたりと止まった時、その切っ先は傭兵部隊に向いていた。
「――百年前に滅ぼしたロンウェル王国の近衛騎士団長も、同じことを言ったのだよ」
―――――――― * * * ――――――――
倒れ伏したグレイの背中で、再び弾ける戟音。
しかし、グレイの身体に衝撃は届かなかった。
音を発したのはキーモの槍の穂先だった。
「――残念やったな。わしには見えとるんや」
暗視能力を持つエルフの眼には、今の状況が見えていた。
とはいえ、昼間と同じように見えるわけではない。
キーモに見えているのは、満月の光が差し込んできている程度の明るさの中、グレイの背中に牙を突き立てようとしていた子牛ほどもある巨大な獣の口に、槍の穂先が咥え止められている、というものだった。
威嚇の唸りに闇が震える。
その獣の姿は暗いのではっきりとはしないが、狼か山犬のように見える。
『……ちぃ、エルフかっ』
妙に性的な興奮を誘うハスキーな声が、口を動かせぬ獣から発せられた。
「甘かったのぅ。おのれのちんけな策も、ワシのおかげ――でぇぇっ!!」
グレイが味わったのと同じ、背中から鉄板で殴られるような衝撃を受け、キーモも床に突っ伏した。
その間に、口から槍の穂先を放した獣は大きく飛び退がった。
「クソ、なんや今のは――」
「すまん、助かった」
頭を撫でながら起き上がるキーモ、そして明後日の方向へ礼を言いつつ身体を起こすグレイ。
その頭上で――
「ラリオス暗殺術鋼糸殺法、縛の奥義その七の崩し――堕天・片羽!」
音もなく跳び上がっていたシュラの叫びが闇を貫いた。
ネズミの鳴き声のような悲鳴が響き、重たげな羽音が響き渡る。
『ちょ、なんでわたくしの位置が――』
「暗殺者の気配探知を舐めんな! ド素人がっ!」
何も見えない中、闇を縛る銀線を引き絞る。
『……く……っ!!』
次の瞬間、綿入りの袋を殴ったような音がした。
手応えを失ったシュラが、銀線を回収しつつフロアに着地した。
唯一状況を見ていたキーモが皆にわかるように声を出す。
「シュラが捕まえとったでかい蝙蝠が消えよった。……霧になったみたいや」
『――やるわね』
どこからともなく甲高い少女の声が闇に響く。
『まさか、ナーレムお姉様とわたくしの必殺コンビネーションを破るなんてね――でも、もう同じ手は食わないわよ』
言葉の端々に怒りがにじんでいる。
「そういうことを言う奴ほど同じ手に引っかかるんだよ」
シュラの声が響いた。
「暗闇での不意討ちも通じなかったのに、この後が何とかなると思ってる辺りが間抜けだな」
言葉に詰まる気配が伝わる。
「それより、ストラウス。明かりはまだかよ」
「う〜ん。さっきからやってるんだが……これは多分、火を消したんじゃなくて魔法の類――しかもどうやら俺の知らないタイプの闇を展開する魔法らしい。普通のものなら光の魔法『フラッシュ・ライト』で打ち消せるはずなんだが……」
その後はぶちぶち何事か聞き取れないことを呟く。
『ほほほ、無駄なことよ』
勝ち誇るようにナーレムの声が響いた。
『この闇は、正義と勇気を司るエイドル神の司祭だけが使うことのできる秘呪文、『ホープフルシャイン』を逆転させた『デスパレイトダーク』。系統違いの魔法使いごときに解くことは出来ないわ』
「あー、神様の力か。確かにそりゃ俺の魔法ではどうにも出来んな」
ストラウスがお手上げ気味にため息をつく。
「つーか、何でヴァンパイアが正義と勇気の神やねん。ほんで神様もなんで手ぇ貸すねん」
キーモのわかりやすい疑問に答えるのはゴンの声。
「まあ、手を貸してるのはエイドルじゃないと思うけどね。主な天の神には、それに対応する魔の神がいる。炎の神ゲラルディーに対する、魔炎の守護神レミニスみたいに。天の神を信仰していた者が堕ちると、魔の神が手を貸す。彼女の場合もそうなんじゃないかな。エイドル神の対になる魔の神がなんだったのか、忘れたけど」
「難儀やのう。ほんで、対策はないんかい。神様の力やったら、お前の出番と違うんか」
「属性が違うからね、それにエイドル神クラスの力を打ち消す力はモーカリマッカ様にはないんだ。一応天に属してるけど、立場的には中立だから」
ち、と舌打ちを漏らしたのは耳をそばだてていたシュラ。
「じゃあ当分このままか」
「いや、闇は晴れなくても戦う方法はあるよ」
シュラとキーモの肩が背後から叩かれた。
―――――――― * * * ――――――――
「バ、バカな……」
シノが呻く。
十名以上の戦士が一瞬にして殺された。
デュランによってではない。デュランが今しも先頭の戦士と打ち合わんとした刹那、床をぶち破って出現した巨大な黒鎧の騎士の巨大戦斧の一振りでだ。
「ぐふ、ぐふふふ……なんじゃ、たわいのない」
濁った泥沼から立ち昇るガスのように澱み濁った笑い声が無気味に響く。
身の丈3m近い黒い鎧。その巨躯に相応しき怪力。その威容に傭兵たちの気勢が削がれた。ざわつきもしない。ただ唖然としている。
「……マルムーク」
邪魔をされた形のデュランは、眼前に立ちはだかる黒い壁に向かってやるせなさそうに首を左右に振った。
「なにゆえ、貴殿は我が楽しみの邪魔をする。傭兵三十人斬り……せっかく久々の面白き趣向と思うたものを」
「ぐげげげげ。こやつらをアリのように捻り潰す楽しみ、貴様だけに独り占めさせんぞ」
「それでは意味がない。こやつらは仲間に――」
「知らぬわ」
マルムークは一方的に話を打ち切ると、戦斧を振り上げた。
「わしは生者の命を奪えればそれでよいのだっ!! ぐふぁふぁふぁふぁふぁふぁ」
「――傭兵部隊、迎撃!!」
シノの叫びに応じて傭兵部隊は正気を取り戻し、迎撃態勢をとろうとした。
しかし、一撃。
長く伸びすぎた雑草を大鎌で刈り取るように、『マス・ホールド』で硬直している傀儡(くぐつ)ごと前衛は文字通り真っ二つにされた。
傭兵部隊は恐慌に陥った。そしてその恐慌の間を縫って、デュランも走った。
―――――――― * * * ――――――――
画面上で繰り広げられる殺戮劇。
蒼ざめて声を失い、顔を背けることも出来ず震えているクリス。
ただ溢れる涙を流すに任せ、何かをこらえて唇を噛み締めているネスティス。
そして、ここへ来てようやく溜飲を下げたように、ニヤニヤと笑みを浮かべているノスフェル伯爵。
「面白くなってきたではないか。くくく……クリス=ベイアード、よく見ておくがよい。あれが、貴様の思い人と間抜けな弟子どもの最期の姿なのだからな」
―――――――― * * * ――――――――
「上方三十度、シュラは一時の方向。キーモからは七時の方向」
耳を打つゴンの密やかな声。
二人は即座に行動に移った。
キーモは慌てて肩から長弓を下ろし、シュラも銀の糸を引き出す。
闇の彼方から響く少女の恨み声。
『人間の分際でわたくしたちを間抜け呼ばわりなんて、身のほど知らずも甚だしい。お前たちなんか、ズタズタのギッタギタの――あら? 何を』
矢をつがえたまま、振り返ると同時に放つキーモ。
同時に一動作でシュラも銀の糸を飛ばす。シュラの一時方向は、キーモの七時方向。
二つの殺意は、回廊の隅からフロアを見下ろしていた少女に襲い掛かった。
『え? ……きゃっ!!』
矢じりが壁に弾かれる音と、銀線が壁を穿つわずかな音が響き、自分が狙われたことを知ったノルスは打って変わった年相応の悲鳴を上げた。
『なんですって?』
ナーレムの声にも狼狽が現われていた。
『どういうこと!? 何をしているの、司祭!?』
しかし、ゴンはその声に答えず、矢継ぎ早に指示を出した。
「フロアに下りた。小さい。ノルスだね。二人とも十時の方向、高さは水平、しゃがんでる」
ゴンの指示通りに、次の矢と銀の糸が襲い掛かる。
「――外れた。壁際を左手へ移動中」
第三撃はスカートのフリルを撃ち抜いた。
「きゃああっ!!」
お尻を押さえて飛び上がったノルスは、四つん這いで片隅に積まれているテーブルの陰に逃げ込んだ。
―――――――― * * * ――――――――
「ちょっとぉ、なんなのよ。なんでこっちの位置がここまで正確に……」
横倒しにされた丸テーブルの陰でほっと一息ついた刹那。
耳元でかつ、という何か針が刺さるような音がした。
同時に頬に鋭い痛みが走る。顔を動かさず目だけでそちらをうかがうと、銀線が突き立っていた。頬の痛みはそれがかすめて切られたせいだった。
慌てて足をばたばたさせ、奥へと後退さった。
「な……何で陰にまで!? お姉様、助けてぇ!」
シュラの声が、不気味に響く。
『――暗殺者が操る糸を、そんじょそこらの武器と同じに考えるなよ? どこにいようと追い詰め、お前の心臓を貫く』
―――――――― * * * ――――――――
「シュラ、6時方向。でかい蝙蝠が下りてくる」
ゴンの指示に、シュラが叫ぶ。
「見えてるんなら離れてろ――ラリオス暗殺術鋼糸殺法、防御術その九・旋嵐!!」
銀の糸が渦を巻きながら頭の先から足先まで防御する。
その表面に、なにか重いものがぶつかった。銀線に微妙な加減を加え、その衝撃を逃がして弾き飛ばす。
『きゃあっ!!』
ナーレムの悲鳴――そこへ、キーモが矢を放つ。肉を穿つ確かな手応え。
『ぐぅっ!!』
最後に気配を感じたグレイが斬りかかる。
闇を切り裂く蒼き閃光。青白い炎をまとった刀が走る――しかし、その一撃は空を切った。
「消えた。また、霧になったみたいだ」
ゴンの言葉に、グレイは舌打ちをした。
「くそ、せめて見えれば。……しかし、それにしてもゴン司祭はどうやって奴らを見つけているんだ?」
「生命探知の魔法ってのがあってね」
グレイには見えないが、ゴンは緑色の光を放つ自分の目頭を指先で叩いていた。
「みんなは正の生命力が働いてるから赤く光って見えるんだけど、奴らは負の生命力が働いているから僕には青白く光って見える――」
『つまり、まずお前か』
「ゴン、後ろやっ!!」
背後で聞こえたナーレムに続いて聞こえたキーモの声。皮肉にもその声がゴンの動きをワンテンポ遅らせてしまった。
振り向いたゴンの視界に、生命探知の魔法で人型の青白い炎に見えるナーレムが飛び込んできた。
次の瞬間、ハンマーで金属板を殴ったかのような鈍い音が響いた。
続けて、鎧ごと壁に叩きつけられる派手で騒々しい音が。
投げ捨てられた人形のように軽々と吹っ飛ばされたゴンが、上下逆様になって扉脇の壁に磔られていた。
「お……ぐ……」
ずるずると崩れ落ちながら呻く。その鎧の胸は拳の形にへこみ、叩きつけられた壁には蜘蛛の巣状にひびが入っていた。
(……やら、れた……ぐ……)
体はまるでばらばらになったかのように、ぴくりとも動かせない。壁に叩きつけられた背中から、体の前面に向かってじわじわと衝撃の余韻が広がり、今にも体中の血が全身の穴という穴から噴き出しそうな圧迫感となって内部から責め苛む。
口の中にも血の味が広がり、目を閉じていても世界が回る感覚が襲い来ている。
(みんな……気をつけ……)
―――――――― * * * ――――――――
「ゴン! おんどりゃあ、いてもた――」
叫んで矢をつがえたキーモに向かい、ナーレムが走る。走りながらその姿は四つん這いになり、巨大な獣の姿に変わってゆく。
至近距離で矢を受けながら、獣はそれをものともせずキーモの喉笛を狙った。
かろうじて体をそらす。喉は守ったがぶつん、と音がして弓の弦が千切れ飛んだ。
転がって、槍を拾い上げ構えるキーモ。
獣は再び暗がりの中へと消えた。霧に姿を変えたのか、視界から完全に消える。
「キーモ、大丈夫か!?」
シュラの声に、キーモは苦々しく答える。
「また消えおった。……くそ、弓がやられてもうた」
「ゴンはどうだ?」
「わからん。そこまではっきり見えてるわけやない」
「ちぃ……」
『うふふふふ……先ほどまでの余裕はどこへ行ったのかしら?』
嫌味ったらしいナーレムの声が闇に響く。
『闇より襲い来る敵の真の恐ろしさ、思い知るがいいわ。ノルス、出ていらっしゃい。やるわよ』
『はい、お姉様!』
いかにも嬉しそうなノルスの声。
『わたくし達を甘く見た報い、その身に刻んであげるわっ!』
「ざけんな、ガキがっ!!」
叫んだシュラに何かが襲い掛かった。
生命の息吹も邪悪な意思も感じられない何かが、物凄い勢いで迫ってくる。
「シュラっ! テーブルやっ!」
「どぉわっ!!」
シュラは横っ飛びに転がった。たった今立っていた場所を大きな何かが空気を押しのけて飛び去り、背後の壁に叩きつけられた。
身を起こして反撃に転じる前に、第二弾。躱した先へ第三弾と続け様にテーブルが飛んでくる。
見通しの利かない闇の中、シュラは紙一重で躱し続ける。しかし、反撃の暇がない。
躱すたびに押し退けられる空気が、風となってシュラの頬を打つ。感覚的にいってどうも天板をこちらに向けて投げているらしい。
それでこの広いダンスホールの端から端まで届いているのだから、尋常な腕力ではない。まともに当たれば『人間のしイカ』になりかねない。
「……んなろー、バカ力がっ」
苦し紛れに放った銀糸も、テーブルの天板に突き当たってノルスには届かない。
『死ね死ね死ね死ね死ね死ねっ、あーはははははは、死んじゃえ死んじゃえ! あんたなんか潰れて死んじゃえっ!』
キチガイじみた笑い声が闇に響いた。
―――――――― * * * ――――――――
どこからともなく飛んでくる無数の(本来の用途から離れた使い方をされている)凶器を床に伏せてやり過ごすグレイは、歯噛みをしていた。
この状況では動きようがない。ノルスの放つテーブル、それを躱し続けているらしきシュラの気配、キーモの気配が場を乱し、敵の動きを探るどころではない。
とりあえず自分の周囲半径2mほどの気配を探ることに集中していると、背後から何者かが近づいてきた。
ノルスはテーブルを投げているし、ナーレムはキーモと取っ組み合いをしているような声が聞こえてきている。ならば、この気配は……。
ぽんとグレイの肩を叩いたその気配は、密かに囁いた。
「グレイ、今から闇を解く。まずは、テーブルを斬って奴らの度肝を抜け」
自信に満ちたストラウスの声に、グレイは驚きながらも頷いた。
―――――――― * * * ――――――――
『次はお前よ……』
耳元で囁かれたキーモは、思わずへなへなと膝が砕けそうになった。
何か男として大事なものが股間の辺りから抜けて行きそうになった。
そして、その一瞬の隙が命取りになった。
喉をするりと巻く冷ややかな感触――咄嗟に顎を引き、首をすくめる。女の細腕が、キーモの口を塞ぐ形になった。
「んぐ、くっく!」
耳の後ろで舌打ちが漏れた。
『……ち、このまま首をねじ切ってやるつもりだったのに。勘のいい』
鎧の襟部分がメシメシと嫌な音を立てている。
ナーレムは暴れるキーモの左腕を空いている左手でつかみ、後ろ手に極めた。キーモの右手はこれ以上の締め上げを防ぐべく、口を塞いでいるナーレムの右手首をつかんでいる。
「むぐ、うぐうぐうんぐげがんあっ」
『なに言ってんのか、わかんないわよ』
ごり。
『ひ……――』
……ヴァンパイアは普通の武器では傷つかない。彼らを倒そうと思ったら、銀の武器か魔法による強化を受けた武器が必要となる。
これは武器に限らない。素手でも同じで、要するに普通の人間の拳ではヴァンパイアを傷つけることは出来ない。ラリオスのように拳と技を一つの魔法武器と同じぐらいにまで極限まで鍛え上げれば話は別になってくるが。
しかし、キーモの噛み付きは決してそんな水準の攻撃力にはない。
だから、右腕に走った異様な感覚にナーレムが思わず拘束を解いてしまったのは、決して痛みが走ったからではない。まして食い千切られる怖れからでもない。
下衆な男の汚らしい唾液にまみれた口が肌に触れた、その嫌悪感から思わず放してしまったのだ。
『な……何てことすんのよ、このエロエルフ!!』
「――へ、腕ぐらいでガタガタ言うなやっ! 次はその乳舐めたろかいっ!!」
くびきから解き放たれたキーモは、槍を拾い上げて穂先を突き出した。
『きぃぃ、あたしの乳を舐めていいのは伯爵様だけよっ! 口にするのも畏れ多い、おぞましいっ!!』
スカートの裾をかき上げて右腕にこびりついた唾液を拭ったナーレムは、軽やかに穂先を躱し、キーモに襲い掛かろうとした。
『今その喉かっさばいて、よく回る舌を引きずり――』
その刹那――ダンスホールに明かりが点き、ナーレムの動きが凍りついた。
―――――――― * * * ――――――――
「去れ! 悪霊よ! 夜の下僕共よ! リパルス・アンデッド!」
突き出された手から放たれる閃光。
すれ違う一陣の緑風。
そのまま、シノは凍りついたように動きを止めた。
「……く……ばか、な……」
口許から、血が溢れる。脇腹からも勢いよく。
その場に立つ人影は既に三つ。シノ、デュラン、マルムーク。
その他の者達は、既に人であったものの姿となってフロア中に飛び散っている。
エントランスホールは文字通りの血の海に沈んでいた。
「――数は力だ」
デュランが抑揚のない声で呟くように言った。
「だが、全てを凌駕する力ではない。たった一騎の前にもろくも崩れ去ることはある。技も力に、力も技に負けることはある」
振り返ると同時に、シノはがっくり片膝をついた。全身をがくがく震わせながら、倒れ伏すのをかろうじてこらえる。
「シノ殿、貴殿の敗因はただ一つ。敵の実力を見誤り、この死地へと赴いたこと。もう少し慎重であったなら、我らも危うかったであろうにな――本当に……貴殿のような賢明な者が、何ゆえそのような愚かな選択を」
「愚か……?」
シノはにぃ、と笑った。血にまみれた口許を愉快げに歪めて。
「戦地に向かうが愚かというのであれば、傭兵稼業などやってはおらぬよ。わしも……こやつらも」
ぼたぼたと押さえた右脇腹から尋常でない量の血が滴り、白い司祭服が真っ赤に染まってゆく。
「我らが選びし指揮官が、迷わず踏み込んだのだ。兵卒は従うが務め。唯一の誤算は、お主らの存在だったが……」
「……だったが?」
声色を曇らせたデュランに答えず、シノは両手を挙げた。その表情は不思議に微笑んでいる。
その先にはすでに息絶えた者達を更なる細切れにする作業に没頭しているマルムークの姿があった。
シノの目論見に感づいて、はっとしたデュランは叫んだ。
「――マルムーク、躱せっ!!」
声に気づいてマルムークが振り返るのと、シノの両手から閃光が迸るのは同時だった。
「……『コルファスの平穏』」
あらゆる猛るものを治める神の力がマルムークを包んだ。
突風を受けた霧のように、その全身から魔の瘴気が吹き散らされる。
お得意の雄叫びも残さず、マルムークは――否、マルムークの鎧は崩れ落ちた。
―――――――― * * * ――――――――
マルムークのあまりに呆気ない最期を前に、ネスティスは唖然としていた。相変わらずその頬は滂沱と溢れる涙に濡れている。
ノスフェル伯爵は部下の最期にもかかわらず、不敵に笑っていた。
「……なるほど、あれが『コルファスの平穏』か」
「伯爵様?」
ネスティスの呼びかけに、伯爵は視線だけをよこした。
「全ての事象を平穏――つまり、起伏のない平坦な状態に戻してしまう、コルファスを信仰する司祭だけが使える秘呪文だ。あれそのものも退魔の力はないが、憤怒と憎悪が存在の源であるマルムークにとっては厄介な秘呪文だな。あのシノという坊主、なかなか相手を見ておる」
「しかし、マルムークほどの者がたった一撃で……」
「何を見ておる」
伯爵の視線は、再び画面に戻った。
「マルムークは滅ぼされたわけではないわ。……あの坊主、マルムークの殺戮によってあの場の平坦が底上げされておったことには、とうとう気づかなんだようだな」
「底上げ……?」
「言ったであろう。あの秘呪文は浄化の術ではない。床に壁にこびりついた血が、肉が怨念を発し、瘴気となって渦巻いておるあの場所で、突出した瘴気をまとっていたマルムークがその突出している分を消し飛ばされただけのこと。貴様らスペクターは核さえ失わねば、滅びはせん――見よ」
伯爵の促しに応じて画面を見やる。
エントランスホールでは、伯爵の言葉通り異常がおきつつあった。
―――――――― * * * ――――――――
血の海から立ち昇る煤煙のごとき瘴気が、渦を巻いてマルムークの鎧に集まる。
失われていた邪悪の気配がたちまちよみがえり、ばらばらになった鎧の各パーツがそれぞれ蠢きだす。
自力でゴリゴリ動き出し、胴部に次々と合流してゆく。
最後に角つきの兜を頭に乗せ、その奥で濁った黄色の輝きを閃かせてマルムークは復活した。
「ぐふぁああああああああああ……」
口の部分から、黒い瘴気がドラゴンブレスのように噴き出す。
握り締めた戦斧を振り回し、吼える。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!!!」
「……一時はどうなることかと思ったが……」
デュランは少し肩透かしを食らったように、息をついた。ちらりとシノを見やる。
コルファスの司祭は突っ伏していた。生命の輝きはもう見えない。
「最期の一撃も無駄であったか。……哀れな――」
その眼前でシノの遺体が吹っ飛んだ。
マルムークが蹴っ飛ばしたのだとわかったのは、シノの遺体が黒檀の扉に叩きつけられた後だった。
「な……」
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!!!」
勝ち誇るように自分の胸を叩くマルムーク。銅鑼でも殴り倒しているような轟音が轟く。
明らかに異常だった。
まるで、初めて会ったときのように意思も何もなく、ただ殺戮と破壊を求めて暴走しているようにしか見えない。
「マルムーク殿?」
呼びかけたものの、返事はなく――マルムークは戦斧を振り上げて黒檀の扉へと突進した。