愛の狂戦士部隊、見参!!

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第三章 襲撃 (その3)

 ゴンは聖堂中央に陣取り、玄関に立つ紳士風の男二人と対峙していた。
 一人は髪の毛の生えぎわがかなり後退しつつあるやや猫背の老人。
 もう一人の紳士の執事を務めているのか、礼服をきっちり着ている。ただ、何が嬉しいのかずっとにやけているため、その礼服に相応しい品格が感じられない。
 だが、ゴンの視界にその老人はほとんど入っていなかった。
 もう一人の紳士――いや、そいつも出で立ちだけだ。
 しっかりと撫で付けられ整えられた銀色の髪、血の気を失ったような白い肌、対照的に浮かび上がる唇の真紅、そして、消炭よりも黒く澱み濁った瞳。
 外見から受ける年の印象は、五十代。一級品の礼装に身を包み、漆黒のマントをまといながら、なお隠し切れないその禍々しく荒々しい気配は、紳士にほど遠い。
 何より、その巨躯。
 立ち上がった熊よりも大きいのではないか、とゴンが感じたのは、その圧倒的な威圧感ゆえか。それとも男の周囲に立ち込める暗黒の瘴気が、揺らぐ陽炎のように男の姿を見紛わせたか。
 このような者が、人間でありえようはずがない。
 ゴンは肌が粟立つのを感じていた。口の中がからからに乾く。心と身体と魂が、危機を告げていた。かつて、これほどの重圧感を受ける相手には出会ったことがない。
 油断なく相手との距離を置く。一人では、多分手に負えない。
「あなたがノスフェル伯爵……だね。でも、昼間に出てくるなんて……ちょっと迂闊じゃない? もしこの雷雲が晴れたらどうするつもりなんだ?」
 自分の精神的優位を保とうと脅したつもりだったが、相手は動じる色を見せなかった。
 執事らしき老人がいやらしい声で笑った。
「きひひひひっ、心配御無用じゃ。この雷雲は晴れませぬゆえ」
「何だって? それはいったい――」
「ゴン、大丈夫か!」
 シュラとキーモが駆けつけた。シュラは黒装束に革鎧をまとい、キーモは腰に長剣を帯びている。
 聖堂に足を踏み入れた途端、二人はぎょっとして足を止めた。その表情が強張っている。二人もマントの男から発される気配に反応したのだ。
「おいおい。なんだ、この威圧感はよ」
「どえらい相手が来よったみたいやな」
 ゆっくりと、油断なく敵を睨みつけながら聖堂の中ほどに立ちすくむゴンの元へたどり着く。
「……これが、【転生体】……」
 ゴンの呟きに、シュラは引き攣った笑みを浮かべた。
「なるほど。ブラッドレイのおっさんの予想は外れたわけか」
「さて、方々」
 げひひひっ、と下品に笑いつつ執事が前に進み出た。
「道をお空け下さるかな? 我が主は、あの娘を迎えにきただけなのじゃからして」
 シュラが怪訝そうに顔をしかめた。
(この声……確か……昨晩兵舎の脇で聞いたじじぃの声か!?)
 革鎧の隙間に手を差し込む。途端に、待っていたかのように執事はにまっと唇を歪めた。
「――と、言ったところで、通すつもりなぞあるまい? きひひひひ……構わぬよ。どうせお前達のような愚かな有象無象がいることも想定の範囲内。殺して差し上げれば、主(あるじ)のお力、恐ろしさも轟き渡ることじゃろう」
 笑いながら目を見開く。衣服が内側から何やら怪しく蠢く。まるで巨大な蟲が蠢いているかのように。
 執事の姿が変わりはじめた。鼻と口が大きく突き出し、両耳の方へ唇が大きく裂けてゆく。のこぎりのような歯の並ぶ口から、粘着質なよだれが滴り、長く赤い舌が伸びていやらしそうな動きで、獣毛に覆われた口のまわりを舌なめずりする。
 やがて身につけていた服が内側から弾け飛ぶように破れた。露出した肌に長く太い毛が生えている。爪が伸び、太い尾が生え、踵が長く後ろに伸びて、まるで人間とは膝関節が逆に曲がっているような形状の脚に変わる。
「お……狼男!?」
 ゴンが叫ぶ。執事は完全に変身していた。体中を覆う剛毛、太く逞しい尾、裂けた口、尖った耳、鋭く並んだ牙――それはまごうことなき、狼男。
 執事は一声、吼えた。
 あまりの声量に聖堂全体が振動し、ぱらぱらと天井から建材のかけらが落ちてくる。三人は顔を歪め、耳を塞いでその咆哮を凌いだ。
(……こいつ、このパワー…………昨日の狼男傭兵も、そもそもはこいつが元凶か!)
 シュラが鋼の糸を引き出している間に、気持ちよさげに首を回して狼男が笑った。
「ぐふふふあーーははははは。さあ、せいぜい抵抗してみるがよいわ。貴様らのはらわた、貪り食ってくれる」
 狼男はけだものの顔でいやらしく、にひひと笑うや、いきなり跳んだ。
 信じがたい跳躍。天井に逆様で着地して、ぎろりと獲物を品定めしつつ宙に舞う。
「我が名はノスフェル伯爵様の執事、ジンジ=ロゲ。冥土の土産に覚えてゆけぃ!」
「――いるかっ! そんなクソつまらねえもん!!」
 シュラが右手を力一杯後ろへ引いた。その瞬間、飛びかかったロゲの体が宙で止まった。
 シュラを除く全員の目が見開かれた。クモの巣に囚われた獲物のごとく、空中で無様に身じろぎする狼男。
「な、何じゃこれは!? か、体が、体が動かん!」
「ふん。吸血鬼に噛まれた娘がいるのに、何の罠も仕掛けずにいたと思うか」
 シュラは薄笑いを浮かべてロゲを嘲った。
「あらかじめ聖堂内に張り巡らしておいた鋼糸に、新たな鋼糸を引っ掛けて引くだけで、迂闊に踏み込んだ者を鋼糸で絡めとり、その動きを封じる……これぞラリオス暗殺術、鋼糸殺法、条の奥義その三――天宙縛(てんちゅうばく)」
 その言葉に、それまで無言でただ笑っていたノスフェル伯爵の気配が揺れた。
「なんだと……? 小僧。貴様、今、なんと言った」
 コントラバスを十ほど並べて一斉に響かせたような重低音の声。圧倒的な気配に生じる揺らぎ。
 シュラだけでなく、ゴン、キーモも怪訝そうな顔をした。
「ラリオス暗殺術、鋼糸殺法、条の奥義その三、天宙縛。……知っているのか?」
 伯爵が目を剥いて笑った。嬉しそうに。
「くくくくく、そうか、貴様……ラリオスの弟子か。ならばロゲごときでは相手にならぬな。ロゲ、下がれ」
「遅かったな。この奥義にかかった時点でこいつは死んでる」
 ふっと唇を歪めて、シュラは親指で手の中の鋼糸を弾いた。
 ロゲの体に、見えない糸が一斉に食い込む。その次の瞬間には、悲鳴を上げる間もなくロゲの体はこま切れになって空中にばらまかれていた。
 聖堂の中に、聞くも無残な粘着音を立てて、無数の肉片と血の雨が撒き散らされる。
 シュラは無造作に鋼糸についた血と肉片を振り落とし、しゅるりと糸を回収した。
「……天宙縛からの変化、天宙破(てんちゅうは)。いかに満月が近い時期の狼男といえど、真昼間にミンチにされては再生できまい」
 降りかかってきた執事の肉片をマントで払い落とした伯爵は、しかし不敵に笑っていた。
「くっくっく、ラリオスは長い針を使うのが得意だったが……貴様は糸が得意というわけか。ふふん、子弟そろって曲芸師め」
「てめーも細切れにしてやるぜ、吸血鬼野郎!!」
 立ちはだかる重圧をはねのけ、シュラは右腕を左へと振った。きらめく糸が伯爵に巻きつく。
「ラリオス暗殺術、鋼糸殺法、条の奥義その一、棒縛」
 一瞬にして伯爵の身体が見えない糸でぐるぐる巻きになった。
 左に引いた右腕を力一杯引き絞りながら、シュラが憎々しげに呻いた。
「くそったれ。……てめえが先に踏み込んで来ていれば、天宙縛には貴様がかかっていたものを。忠実な部下にあの世で礼を言うんだな!」
「愚か者め」
 唐突に、ノスフェル伯爵の姿がぼやけた。赤い霧が噴きだす。
「逃がすかっ!」
 シュラが体ごと反転して糸を引き絞る。鋼糸の抵抗が消え、勝利の笑みの浮かんだ顔に向かって、キーモが叫んだ。
「シュラ、上や!」
 上からの質量を感じて、咄嗟に身をかわす。たった今までシュラの顔があったところを伯爵の蹴りが空を裂いて通り過ぎた。
 そう、まさに空を裂く蹴り。裂かれた空気がシュラの横っ面を張り飛ばした。
「ぐぅっ!!」
 踏ん張りきれず、側転で体勢を立て直したシュラは、驚きを隠しもしなかった。
「……ば、馬鹿な、なんだ今のは!? それに……基本的な技とはいえ、どうやってあの『棒縛』から逃れた!?」
 キーモをちらりと見やる。だが、キーモもゴンも信じられないという顔をするだけだった。
「ヴァンパイアは霧に変化できる。そんな基本的なことも、教えられてはおらんのか」
 立ち昇る赤い霧が伯爵の身体をぼんやり霞ませていた。そのあやふやな境界があっという間にはっきりと固定化する。
 ノスフェル伯爵は重く長いため息をついた。
「もう充分だ。貴様らごとき、わしが手を下すまでもない。怖れ、怯え、そして我が恐怖を伝えるがよい。師匠どもにな」
 伯爵がシュラを嘲笑して奥へ歩き出そうとした時、ゴンが叫んだ。
「去れ! 悪霊よ! 夜の下僕共よ!」
「む?」
 伯爵の表情に一瞬、強張りが走る。闇の住人である彼が、いくら頑張っても克服できないものがある。神の力もその一つ。
 ゴンは掌底を合わせて、伯爵の方へ突き出しながら最後の一言を叫んだ。
「リパルスアンデッド!」
 突き出した両掌からまばゆい光が溢れる。その光は伯爵を直撃した。
 声無き叫びをあげながら、ノスフェル伯爵は光の中に消えた――かのように見えたが、光が収まったとき、彼はマントで顔を隠しているだけで平然と立っていた。淫靡な笑いを口元に浮かべる。
「……なんだそれは。貴様の信仰心はその程度か」
「な……くそ、このっ!!」
 ゴンはモーニングスターを振りかざして襲いかかった。その間に、キーモはマジックアローを呼べるだけ呼び出す。
 伯爵は右の人差し指一本で、ゴンの振りかざしたモーニングスターの鉄球部分を受け止めた。
 ゴンの目が驚きに見開かれる。その目前で鉄球は粉々になって崩れ去った。
 呆然としているゴンの司祭服に描かれた紋章に気づき、ふと伯爵は眉根を寄せた。
「ほう、貴様もモーカリマッカの司祭か。確かブラッドレイに弟子はおらなんだはず……ふむ……ラリオスの弟子と一緒にいるということは、貴様はアレフの弟子か」
「行け、光の矢よ! 我の敵を貫け!」
 避ける間はなかった。六本の光の矢は全弾伯爵に命中した――が、全身に確かに突き刺さったにもかかわらず、伯爵はわずかによろめいただけだった。
 キーモは伯爵が全ての光の矢を受けても倒れないのを見て、手早く次の呪文を唱えた。
「月に輝く蜘蛛の糸、日に輝く蚕の糸、星に輝く魔法の糸! 巻きつけ、我が糸! ストラングル・ウェブ!」
 粘着質の糸が、キーモの突き出した両手から噴き出し、伯爵を包み込む。
 彼が完全に白い繭と化した時、キーモは既に次の呪文に入っていた。
「自然に息づく大いなる力よ、わが手の中に雷の力を! 食らえ! ライトニング・ストライク!」
 キーモの指先から放たれた電光は、魔法の糸でがんじがらめにされた伯爵を貫き、そのまま派手な音を立てて入口脇の壁を砕いた。一方、白い繭の電光の突入孔と、突破孔はそれぞれ黒く炭化し、白い煙を噴いている。
 三発もの魔法を間断なく打ち続け、キーモは肩で息をしていた。
「さ、さすがにこれだけやりゃあ、こいつも参るやろ……」
 ぶち。
 不吉な音がキーモの耳に響いた。
 ぶちぶち。ぶち。
 キーモの顔が蒼白になる。
 ぶぶぶぶちぶち、ぶちち!
 金魚のように口をパクパクさせて、声にならない声をあげる。
 あっという間に繭が破れ、中から、腹の部分だけ丸く穴の開いた燕尾服を着たノスフェル伯爵が、相変わらずの淫靡な笑みを浮かべて出てきた。
「それで、終わりか」
「お、おんどれ、一体どれだけパワーあるんじゃ、ばけもんが……」
 ストラングル・ウェブの糸は人の三倍はあろうかという身長の巨人でさえ捕獲できる、と言われるほど強靭である。その糸を瞬く間に破ったということは、この魔人が巨人を遥かに超えるパワーを有することを示していた。
 伯爵はその問いを鼻で笑い捨て、奥へ足を向けた。
 その時、奥の通路からグレイが飛び出した。
「何ださっきから、こっちは取り込み中――……む――何だ、お前は?」
 目の前に立つ、黒い存在がクリスの災難の元凶とも知らない彼は、どう対処すべきか躊躇した。
「グレイ、そいつがクリスを噛んだ奴だ! クリスを連れて行くつもりだ!」
 ゴンの叫びに、グレイは一瞬戸惑った。しかし、その意味を理解するや否や、腰のバスタードソードを抜き放った。
「死ねぇっ!!」
「むんっ!」
 伯爵は咄嗟にその剣身を右腕の肘で挟み、受け止めた。心地よさげに頬笑む。
「なかなかの居合い、そして気合いだ。少々面食らったわ」
「ぬかせぇっ! 貴様だけは、貴様だけは許さん!! よくも俺のクリスの喉に、その汚らわしい牙を突き立てやがって……叩っ斬る!」
 バスタードソードを力一杯引き戻す。
 しかし、それはびくともしなかった。伯爵は剣を挟み込んだ肘に力を入れる風もなく、ただ悠然と立っている。
「無駄だ」
 笑う伯爵の右肘で剣身が、薄い氷の板を砕いたかのように簡単に砕け散った。
「な……」
「邪魔だ、失せろ」
 一瞬の忘我の隙を突いて、伯爵の手の甲がグレイの顔を撫でた。それほど力が入っているようには見えなかったが、グレイは凄まじい勢いで壁際まで吹っ飛ばされ、派手な音を立てて祭壇を叩き潰した。
「グレイ!」
 キーモとゴンが駆け寄る。グレイは白目を剥いていた。
「おい、グレイ、しっかりせえ! 死ぬなっ!!」
 わめくキーモを押しとどめ、ゴンは呼吸と心臓を確かめた。とりあえず正常に動いている。
「……大丈夫。頭を打って意識を失ってるだけだよ」
 その様子を顧みることもなく奥へ進もうとした伯爵――しかし、再びその足は止まった。
 眼前に、大きな蜘蛛の巣が待ち構えていた。その向こうにいるのは、いつになく真剣な眼差しのシュラ。
 蜘蛛の巣は白く輝きを放つ鋼糸によって形作られていた。
「ほぉ……?」
「――条の奥義、その五、蜘巣陣(ちそうじん)!」
 言いながら糸の端を引きたぐる。蜘蛛の巣型に張られた鋼糸が、投網のように円錐形に集束されてゆく。
 伯爵は咄嗟に身を引いた。しかし、一瞬早く投網がその右腕を捕らえ、そのまま細断した。
「ぬぅ!?」
「蜘巣陣からの変化、捕網斬」
 右腕の肘から先を切り刻まれ、失った伯爵はバランスを崩して二、三歩後退した。
「ぬうぅ、貴様ぁ……」
 たちまち怒りと困惑の瘴気が、してやったりと不敵に頬笑むシュラに吹きつけられた。紅の唇が憎々しげに歪み、鋭い犬歯が露わになる。
「……その白い光。『ゴッド・ブレッシング』か。一体、いつ」
 『ゴッド・ブレッシング』。何の変哲もない武器に、神の聖なる属性を一時的に与える魔法。いわば、簡易の神聖武器を作り出す魔法。神官・司祭が使う魔法ゆえに、その効果は闇の属性にある者ほどよく効く。
 シュラは白く輝く鋼糸を器用に片手で手元に手繰りつつ、得意げに言った。
「ふふん。てめぇがキーモと遊んでいる間にだ。愛の狂戦士部隊の底力、舐めんなよ」
「ふん、なるほど。少し甘く見たか。だが……しょせんは小物よな」
 悠然と鮮血の血の滴る右腕の傷をなでつつ、卑猥な笑みを浮かべる。
「んだと、こら。次はてめえの全身を切り刻んで――」
「貴様の師匠ラリオスなら、今の会話の隙に再び襲い掛かってきていた。貴様は師匠に何を教わっている」
 その言葉にシュラの動きが止まった。殺気が増大し、顔から表情が消えた。
「てめぇ……さっきから……師匠を知ってるのか」
「そうだよ。さっきアレフ師匠の名前も出した」
 ゴンもグレイを介抱しながら、口を挟んだ。
 途端に、聖堂は魔界に落ちた。
 伯爵の身体から噴き出した瘴気が聖堂内を覆い尽くした。怒り、憎しみ、屈辱、恨みつらみ……陰にこもったあらゆる感情のエネルギーが、風となって吹き荒れる。心の弱い者や生命力の衰えている者なら、それだけで死の危険に陥りかねない禍つ風。
 キーモは小動物よろしく慌てふためいて祭壇の残骸の陰に潜んだ。ゴンも蒼ざめる。意識のないグレイすら、呻いて身じろいだ。
(なんだ、この魔風は……一体、奴と師匠達の間に何が……!!)
 ただ一人立ち向かうシュラの視界を塞ぐように渦巻く、暗黒の瘴気の彼方。暗黒のシルエットに、伯爵の瞳だけが赤い輝きとなって灯っている。
「十年前だ……」
 コントラバス十台を並べてもまだ足りない、怒りと屈辱に満ちた重低音が、妙な残響を伴って轟く。
「わしは貴様らの師匠どもと、我が城にて一戦を交えた。そして、当時まだ転生したてのわしは手傷を負った。この傷を」
 伯爵が指差す額に黒々と開いた孔の痕。一目でシュラにはわかった。それがラリオスのつけた傷であると。
「わしは辛くも連中から逃れた。そして十年をかけて牙と魔力を磨き、配下を集めた。今度は奴らを血祭りに挙げるべく。……だが」
 ノスフェル伯爵の口から、瘴気の塊が噴き出した。腹の底に溜まっていた怨念を吐き出すかのように。赤い瞳がいよいよ紅に輝き、血の色を帯びる。
 その風圧に押されるように、シュラは知らず一歩下がっていた。
「だが、貴様らと手合わせしてわかった。十年かけた結果が貴様ら程度では、奴らの今もたかが知れる。もはやこの国にわしの敵など――」
 伯爵はふと言葉を切って目を細めた。
「もしや……マイク=デービスの件を探り出し、闇の軍団結成を未然に阻止したのは、監査官ではなく貴様らか……?」
「ぬははははは、そのっとおぉぉぉぉぉり! この偉大なキーモ様と愉快な家来達でぶっつぶしてやったのよ! ざまあみくされ!」
 ここぞとばかりに祭壇の残骸をはねのけ、立ち上がったキーモ。
 次の瞬間、シュラの右腕が瞬速で動き、鋼糸がキーモの顔で弾けた。キーモはもんどりうって床にひっくり返った。
「なななな、何すんねや! 痛いやんけ!」
「誰がお前の家来だ」
「おんどれじゃ、おんどれっ! あとストラウスとゴンもやっ!」
 グレイの介抱をしていたゴンが顔を上げた。
「はぁ? なに言い出すんだよ!」
「だぁ〜! おんどれら誰が真のリーダーなのかわかっとらんようやな! この、スラム生まれのスラム育ちっちゅうバイタリティ溢れるキーモ様が、どこからどう見てもリーダーやんけ!」
 中指立てて喚くキーモに、シュラが喚き返す。
「ふざけんな、お前のどこがリーダーの器だっ! リーダーってのは、俺みたいなのを言うんだよっ!」
「なんやと、盗賊上がり風情がなにえらそうに――」
「あーあーもう!!」
 睨み合う二人の間に、ようやくグレイの介抱を終えたゴンが割って入った。
「なにやってんだよ、二人ともっ! 今は敵の前――あ、あれっ!? 伯爵は!?」
 辺りを見回せば、伯爵の姿は奥へ通じる扉の前にあった。
 その前に、寝巻き姿のままのクリスが立っている。だが、その表情は何か大事な物が抜け出てしまったかのように締まりない。
「ク、クリス!?」
 ゴンの悲痛な叫びにも、クリスは反応しない。反応したのはグレイだった。がばっとはね起きる。
「ク……クリスだと!?」
 三人の――いや、意識を取り戻したグレイも入れて四人の目の前で、クリスは片膝をつき、寝巻きの裾を広げて頭を垂れる宮廷式のお辞儀をした。憎き伯爵に。
「――……お待ちしておりました、伯爵様……。どうぞ、クリスをお連れになってくださいまし……」
 呆けた表情に少しろれつの回らぬ口。抑揚のない言葉。明らかに、彼女以外の意思が、彼女を操っている。
 伯爵が頷き、お辞儀を終えて立ち上がったクリスは、そのまま伯爵の腕の中にもたれかかった。意識を失ったのか、甘えたのか。
 ともかく、伯爵はそんなクリスをいつの間にか治った両手に抱え上げ、勝利の笑みを満面に浮かべた。
「では、参ろうぞ。我が城へな」
 伯爵が無人の野を行く如く悠然と玄関に足を踏み出した時、シュラが伯爵に飛びかかった。
「行かせるかっ!! ラリオス暗殺術、鋼糸殺法――」
「――ライトニング・ストライク」
 伯爵の突き出した掌からまばゆい電光が伸び、シュラの身体を貫いた。驚愕に眼を見開いたまま、受け身さえ取れずに落下する。悶絶し、痙攣しているシュラの身体の表面を電気の放電が走る。グレイの回復を終えたゴンが慌ててかけつけた。
「シュラっ!! シュラっ、しっかりしてシュラ!!」
「ふふん、殺しはせぬ。貴様らごとき、我が手で死をくれてやるほどの価値もない。ゴミめ。せいぜい首都に逃げ帰り、わしの強さ、恐ろしさを師匠どもに伝えるがよい。ノスフェル伯爵が待っている、と聞けば飛んで来おるわ」
 屈辱のあまり、愛の狂戦士部隊の面々は、思わず文句の言葉を飲み込んだ。
 伯爵は侮蔑の眼差しを瀕死のシュラに送ると、聖堂の玄関に向かった。
 その背後から今度は、完全に目を覚ましたグレイが隠れているキーモの長剣を奪って襲いかかった。
「逃すかぁ!」
 振り上げた剣身に、ゴンが『ゴッド・ブレッシング』を掛ける。白き輝きをまとった剣が、伯爵に襲い掛かる。
 虚をつかれた上に、腕にはクリス、そしてグレイの剣技。さすがの伯爵も一撃食らう覚悟を決めた。かわりに反撃の態勢を整える。しかし――
 甲高い金属音。グレイは跳ね飛ばされ、たたらを踏んだ。
「なに!?」
「……な、何や!? こいつは」
 いつの間に現われたのか、どこから入り込んできたのか、赤いスーツアーマー(全身鎧)に身を包んだ騎士が伯爵の前に立ちはだかっていた。
 血の色の紅地に、金の象嵌細工をあちこちに施したフルフェイスの兜とスーツアーマー。その形状は鎧の内側にいる者が女性であることを証明するように、全体的に細身で胸部が突き出している。
 騎士の握る剣の切っ先はグレイの喉元を狙っている。
「女……騎士? いや……」
 グレイは唸って、剣を構え直した。
 下ろした兜のバイザーの奥で輝く赤い目は、相手がただの騎士でないことを告げている。
「ノスフェル様、お怪我は?」
 その声は若い女のものだった。背後を振り仰いだ騎士のヘルムの裾から、黒髪が溢れている。普通は結い上げて兜の中に押し込むものだ。そうでなければ、鎧の装甲の隙間に髪を挟まれ、悪夢を見る。
 伯爵は護衛の登場に、にんまり頬笑んだ。
「大儀である、ネスティス。こ奴等の始末はうぬに任せる。好きに遊ぶがいい。わしは先に城へ帰る」
「はっ……お気をつけて」
 伯爵はクリスを抱いたまま玄関を出て、横付けされた馬車に乗り込んだ。
「待て! ――う!」
 追おうとしたグレイを、ネスティスと呼ばれた赤い鎧の騎士が遮った。速い。全身に鎧という重りを身につけているとは思えぬ速さだ。
「どけ! クリスが……邪魔をするな!」
 叫びながら長剣を振り回す。ネスティスはそれをことごとく躱しながらも、彼が外へ向かえる隙を見せない。
 グレイは内心で唸った。足さばき、足運びだけを見ても相当の手練れだ。
 焦るグレイの大振りの一閃を、身軽に後ろへ跳んで躱す。舌打ちをしたグレイはしかし、間合を詰めずに剣を構え直した。
 一時の静寂が聖堂を包み、地面を穿つ鉄の車輪の騒々しい轟きは、たちまち遠く消えていった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 轟きが完全に消え去っても、聖堂内は凍りついたように空気が張り詰めていた。
 その元凶は、グレイと赤の騎士。
 向い合う二人の剣士は、お互いを凝視したまま動かない。
「貴様ぁぁ……!」
 憤怒に歪むグレイの形相に、ネスティスは静かに答えた。
「何を怒る。お前にあの女を奪い返すだけの力がないことこそ、恥ずべきことのはず。つくづく、人間は愚かだ」
 言いながら赤い騎士はなぜか剣を鞘に収め、兜を脱いだ。
 その両肩に、つややかな黒髪が広がる。クリスに似た切れ長の瞳に憂いを秘めた表情が、ひっそりと日陰に咲く花を思わせる。そんな女だった。剣士であるにははかな過ぎ、騎士であるには優しすぎる――そんな印象さえ感じずにはいられない。
 年の頃は二十五、六才、肌の色は伯爵のような真っ白ではなく、内から仄かに輝くように青白い。
 女は、何を思ったのか目尻をそっと指先で拭った。涙など出てもいないのに。
 そして、ふむと一人合点する。
 グレイは聖なる力に輝く長剣の切っ先を、ネスティスに向けた。
「奪い返す力があるか否かは問題じゃない。あいつが俺の命より大事な女だということこそが問題なんだ!」
 ネスティスの目が細まった。脇に抱えたヘルメットが砂漠に揺らめく陽炎のように揺れて消える。
 彼女は剣の柄に手を添えつつ、感情を抑えた声で静かに言った。
「命より……? 案外軽いのだな、あの女の価値は。命など塵芥と同じ……価値などないに等しい」
「貴様のような、人外の化け物にはわからんっ!」
「人外の化け物、か。ふふん……我が名はネスティス」
 鼻で笑った女騎士は、不意に名乗った。そして、剣を抜く。柄元にしゃれた飾りのついた、貴族趣味の長剣だ。それを、顔の正面に立てる。
「亡霊騎士(スペクターナイト)・赤のネスティス。ノスフェル伯爵閣下の命により、お前達を排除する。人外の化け物の力、とくと味わうがいい」
 その言葉が終わるや否や、グレイは踏み込んだ。上段から長剣を振り降ろす。ネスティスは自らの長剣で受け流した。返す一撃でグレイの胴を薙ぎ払う。グレイが後退して躱したところへ、さらに踏み込んで鋭い突きを放つ。
 それを難なく下から払い上げたグレイは、そのまま自ら後ろへと倒れ込んだ。つられてつんのめるネスティス。
 その下腹部を寝転がったまま左脚で蹴り上げ、巴投げの要領で彼女を頭上方向へ投げ飛ばす。
 しかし、赤い騎士は猫のように空中で一回転して難なく着地してみせた。グレイも即座に立ち上がった。
 再び睨み合う二人。グレイの背後には玄関が開いていたが、もはや彼はそこに向かおうとはしなかった。
 グレイは応じず、長剣を構える。凄まじいばかりの殺気が渦巻き始めた。
 ネスティスは無表情のまま、ぼそりと呟いた。
「……人間にしては、悪くない」
 言い終わるや否や、剣を振るうためとは思えぬほど優雅な足さばきで、グレイの間合に踏み込んだ。右腕をいっぱいに伸ばして必殺の突きを見舞う。グレイは慌てる事なく、彼女と逆の突きを放った。二人は全く同じ動きで、互いの心臓を狙った。
 右半身に体を伸ばせば、当然左胸は後ろに下がる。二人の剣は互いの鎧に弾かれた。二人はその反動を利用して剣を戻し、再び相手に切りつける。幾度も剣を弾き合わせながら、互いに一歩もその場から退かない。
 聖堂に乾いた剣戟の響きだけが鳴り続けていた。

 ―――――――― * * * ――――――――

(おかしい)
 何度も何度も剣を交えながら、グレイは違和感を感じていた。
 ネスティスは間違いなく一流の剣士だ。その狙うところには明確な目的があり、その目的がグレイを殺すことだということまではっきりと感じ取れる。遊びや手抜きで振るえる剣筋ではない。
 しかし、殺気がない。切っ先が心臓を狙っているのに、本人から殺す気が感じられない。その矛盾が違和感の正体。ネスティスの意図が読めない。
 遊ばれているわけではない。だが、向こうが今ひとつ乗り切れていないようだ。
(……馬鹿か、俺はっ!!)
 グレイは自分を叱咤した。これは剣術の試合でも何でもない。愛する者を取り戻すための命懸けの戦いだ。その戦いの最中に相手の――人間ですらない敵の調子を気にしてどうする。相手が本調子でないなら、こちらのものじゃないか。
 違和感への疑問を振り払い、グレイは剣の切っ先へと意識を集中した。


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