愛の狂戦士部隊、見参!!
第三章 襲撃 (その2)
ストラウスがミリア=エルシナの家に戻るのと入れ替わりに、ミリアの父親は畑仕事に出て行った。
すれ違い様に軽い挨拶を交して家の中に入ると、テーブルにストラウスの分の朝食が用意してあり、ミリアが母親と自分達の後片付けをしていた。
「あ、お帰りなさ〜い。これ、ストラウスさんの分です。私達先にいただきました」
ミリアの笑顔が眩しい。クリスの青白い顔が一瞬ダブった。慌てて頭を振り、そそくさとテーブルにつく。
「昨晩はどうしたんですか? 夜中に急に出ていかれて……」
ミリアがストラウスの前の席に座ってそう聞くと、母親が大きな声を上げた。
「これっ、はしたない! 女の子がそんなこと聞くもんじゃありませんよ。……すいませんねぇ……で、今夜も?」
話の見えないストラウスは、食事の手を止めて小首をかしげ、母親をじっと見た。何か勘違いしているらしい。
少し考えて、ストラウスは思い当たった。おそらく他の娘のところへ夜這いに行ったとでも思われているのだろう。こういう田舎ではままあることだという話を師匠から聞いたことがある。まして、昨日はゴンの歓迎パーティから小さなお祭りになっていた。そういう連想が働くのも無理はないだろう。
(祭りの夜は女の子のガードも緩む、狙い目だとか言ってたのはアレフさんだっけな)
スプーンをくわえたまま、さらに考えた。とりあえずデービスの件は表向き終わっているし、その話がこの家に伝わるのも時間の問題だろう。ここは正直に話しておいた方がいい。
「あのぉ、昨晩のは仕事でして。私、農業技術指導の他に、オブリッツ監査官のお手伝いもさせてもらってまして」
朝食を頬ばりながら答えると、ミリアの母親は頬を染めた。
「あら、まぁ、すみません。とんだ勘違いを……おほほほほほ。それで、どんなお仕事を?」
「どうぞ」
ミリアが空になったストラウスのコップにミルクを次いでくれた。
礼を言ったストラウスは自分の本当の目的と今朝の一件を包み隠さず、母娘に全部話した。ただし、デービスの死因だけは泥酔の果ての転落死ということにしておいたが。
「……そんな、マイク様が国王様に逆らおうとするなんて……。信じられないわ」
ミリアが目を見開いて首を振った。ストラウスも、彼女らを刺激したくなかったので、あまり強い言い方は避けるようにしていた。
「そうですね。魔がさしたんでしょうかねぇ……。彼の行状が変わったことについて、何か噂でもいいから知りませんか?」
母親は頭をひねっていたが、やがて恐る恐る話し出した。
「あの……あの人の聞いてきた噂話なんですけど……」
「はぁ。どのような?」
「領主様のところに夜な夜なきれいな女の人が訪ねて来るらしいって……。それも、いつもお屋敷にいらっしゃる遊び女たちとは別に。それがまた、この世のものとも思えない美しさだとか何とか。――いえね、あくまでも男衆の噂話ですから、どこまで本当だかわかったものじゃないんですけどねぇ」
「ふぅん? なんだか、意味深な噂ですね」
「私は、あの方がいつまでも身をお固めにならなかったので、男衆が作った話じゃないかとも思うんですけど……」
「……なるほど? そうですか……」
ストラウスの頭脳の琴線に何かが触れた。だが今は、敢えて形を取らせる努力をしなかった。彼にも睡魔が襲ってきたのだ。少し食事のペースを上げ、失礼にならない程度の速さで掻き込む。
「――ぷはぁ。ごちそうさまでした。とてもおいしかったです。じゃ、私はこのまま寝ますんで、何かあったら起こしてください」
「はい、おやすみなさい」
ミリアが眩しい笑顔で笑った。
―――――――― * * * ――――――――
シュラから報せを聞いたグレイは、革の鎧に剣を佩いた軽装姿のまま、すぐさま傭兵宿舎を飛び出し、苦りきった面持ちで村道を集落の中心に向かっていた。
行く先は言うまでもなく、モーカリマッカ神殿。
その荒れ狂う心中を映すかのように、頭上に低く垂れ込めた黒雲の中で低い唸りが響き始めていた。
―――――――― * * * ――――――――
神殿の扉を、誰かが激しく叩いている。
寝ぼけまなこをこすりながら応対に出たのは、ゴンだった。
「どなたです? 今、ブラッドレイ司祭はお出掛けですが……」
「……司祭服……。そうか、貴様か。クリスを放置したゴンとか言う坊主は」
「は?」
扉を開けた途端に投げつけられた、敵意に満ちた声に戸惑った瞬間、視界に火花が散った。
気づけば、ゴンは床に倒れていた。
「何が『愛の狂戦士部隊』だ。役立たずめ」
何が起きたかわからず、頭を振り振り立ち上がるゴンの頭上から、怒りに震える言葉が投げつけられる。
「ちょ、ちょっと……どちら様? 何をおっしゃって……」
「俺はグレイ=スレイグス。クリス=ベイアードの婚約者だ!」
「グレイ……? ああ……」
少し冷静になったゴンは、今がどういう状況かをようやく把握した。
つまり、自分はいきなり殴られたのだ。クリスの婚約者に。
「あなたが……。あー、なるほど――いきなり何するんだよっ!!」
右フックが、傲然と立っていたグレイの左頬をまともに捉えた。
「ぐおっ!!」
ゴンの怪力で吹っ飛ばされたグレイは、扉に叩きつけられ、そのまま外へ転がり出た。
上空の雷雲が、なにやらゴロゴロと唸りを上げている。
グレイを追って聖堂から出たゴンは、上体を起こして首を振るグレイを傲然と見下ろした。
「何で僕が、見ず知らずのあなたにいきなり殴られなきゃならないんだ。わけのわかんないことするからだよ」
「わけがわからんだ? ふざけるな、クリスを汚らしい吸血鬼の前に放置したくせに! 本来なら八つ裂きにしても飽き足らんところだ!」
血のにじむ口元を拭うその双眸に、怒りの炎が渦巻く。
「え〜と……………………もしもし?」
ゴンは昨晩からのことを頭の中で整理してみたが、そこまで言われるほど酷いことをした憶えはない。吸血鬼の前に放置、といわれても別に外で寝かせていたわけではない。応接室で寝かせたのも、彼女の希望だ。
いや、放置したというなら向こうだって同じだろう。山の中にある傭兵宿舎までわざわざ会いに行った婚約者をすげなく追い返したのは、他でもない彼自身ではないか。
「なんだよ、それ。完全な逆恨みじゃないか。自分のことを棚に上げて、何をえらそうに」
「なに……?」
「クリスから全部聞いたよ。せっかく行方不明の君を探し出して、会いに来てくれた彼女を婚約解消を持ち出してまで追い返そうとしたそうじゃないか。僕を責める前に、そのことはどうなのさ。あなたの傍にいれば、あなたの力で救えたかもしれないよね。もっとも、昨晩の状況から考えれば、それでも噛まれたかもしれないけどさ」
「う…………お、お前には関係ないだろう! それは俺とクリスの問題だ!」
「じゃあ、クリスがここで僕に泣きながらそのことを相談したのも、行くところがないからこの神殿に泊めてあげたのも、全部僕とクリスの問題だよね。あなたに殴られる筋合いはないよね」
「う…………」
「僕より相当年上のクセに、ほんとになにを言っているのやら」
やれやれ、と両手を広げ、肩をそびやかせる。
「く……」
うつむいて唇を噛み締めるグレイに、ゴンは背を向けた。
「とにかく、顔洗って出直しておいで。じゃ」
「ま、待て!! クリスに……会わせろ」
足を止めたゴンは、少し考えて――振り向かずに言った。
「あのさぁ。恥ずかしくないわけ? ……今のあなたはクリスに会う資格、ないんじゃないの?」
グレイの表情が硬張った。四つん這いになって、がっくり肩を落とす。
「……すまん」
扉を閉めかけていたゴンは、雷の唸りにまぎれてかろうじて聞こえたその声にその手を止めた。
「何か言った?」
正座したグレイは、両拳を腿の上に乗せ、口を真一文字に引き結んでいた。
「悪かった。……謝る。君の気の済むようにしてくれていい。だから……だから、クリスに会わせてくれ。さっきの今で虫のいいのは百も承知だ。だが、それでもあいつに会いたい。あいつにも謝りたい。頼む、会わせてくれ。中に入れてくれ」
凄まじい気迫とともに、上体を前に折っていた。
正座をしたまま深々と頭を下げている戦士に、ゴンは少し顔をしかめた。
(……なんだろう。この違和感……何か、見落としていた重要なことのヒントが今、ちらっと見えたような……)
「――頼む!!」
グレイの必死の声に、ゴンは我に返った。
軽く吐息をつく。
「しょうがないなぁ。まあ、一発は一発で返したし、謝ってくれたし……自分の彼女と会うのに僕が許可出すのも変な話だしねぇ。いいよ、案内してあげるから。さ、入って」
口許に微笑みを浮かべたゴンは神殿の扉を開き、グレイを差し招いた。
戦士は嬉しそうに顔を輝かせ、弾けたように勢いよく立ち上がった。
「すまん。許してくれて、感謝する。……ところで、君の名前はゴンでいいのか?」
「うん。ここのブラッドレイ司祭と同じモーカリマッカの司祭で、ゴン。ここで寝泊りさせてもらってる」
聖堂内へ案内しながら、ゴンは答えた。
「ブラッドレイ司祭?」
「あれ? 傭兵部隊兵舎の方へ行ったでしょ? ちょっと体格がよくて、頭の禿げた司祭様。会ってない?」
「いや、俺は会ってない。なら、他の部隊の方へ行ったのかもしれんな」
「ああ、そうかも。僕も今朝方は第五部隊の兵舎の方にいたんだけど、あなたとは会えなかったしね。会えてたら、クリスがここにいることももっと早く伝えられたかもしれない。もっとも、その頃にはもう噛まれた後だったみたいだけど」
「……いずれにせよ、残念なすれ違いだな」
「ほんとにね」
話しているうちに、廊下を通ってクリスが眠っている部屋の前についた。
「ここだよ」
ゴンの手がノブをつかんだ。
―――――――― * * * ――――――――
同じ頃。
ストラウスは目を覚ました。時刻は午後遅く……三時ぐらいか。
ミリアの家の二階の窓から見えるのは、低く垂れ込めて空を埋め尽くす黒い雷雲。そのため、もう夕暮れ時は過ぎたかのように薄暗かった。
(この時期、この地方に雷雲か……。しかし……雨は降る気配なし。というより、これは――)
ストラウスは難しい顔で唸った。疑念が直感と結合して、予想をひねり出す。
(太陽光を隠すために広がってるのだとしたら……。おそらくは自然現象ではなく、あの宿屋の主人が言っていた嵐を呼ぶ化け物……たぶん、あの司祭が言っていた何とか伯爵が、これを呼んでいるのだとしたら……魔法一つ取ってみても、凄い強敵の証明、ということだな)
天候操作の魔法は、簡単に出来るものではない。炎の玉を作り出したり、稲妻を作り出すのとは訳も規模も違う。何より、その状態を長く維持するためには、膨大な魔力が必要となる。ストラウスの知る限り、そんなことのできる魔法使いは師匠スターレイク=ギャリオート以外になく、その師匠でさえ、自らの魔力だけではなく、日頃より水晶玉やら杖やらに蓄積しておいた魔力をつぎ込む必要があるとか何とか。
「敵は強大、かぁ。……さて、どこまで強いのかな?」
少し緊張した面持ちで立ち上がり、窓から下を見下ろす。
ちょうど、裏の勝手口からミリアが出てくるところだった。誰かを捜しているらしく、きょろきょろと辺りを見回している。声をかけるために窓を開こうとしたストラウスは、納屋の陰から出てきた人影に手を止めた。
若い男だ。年は二十歳ぐらい。
辺りに誰もいないと思っている二人は大胆にも、抱き合って口づけを始めた。
(おお〜、お熱いことで……って、あれ?)
上から覗いていたストラウスは、ふと顔をしかめた。男の顔に見覚えがあった。
(あいつは確か、え〜と……そうだ。関所にいた衛兵のジョセフじゃないか。ああ、そうか。婚約してるとか何とか言ってたっけ)
関所でさんざん"協力"させられた後、エルシナの家を宿泊先として案内し、紹介してくれたのは彼だ。
(家の中に人の気配もないし……なるほど、そういうことね。邪魔するのはかわいそうだし……モーカリマッカ神殿に行くか)
勝手口脇での熱烈な抱擁と口付けを見下ろしながらへらっと笑って、ストラウスは麻のチョッキを羽織った。
鍬を担いで階下に降りると、ミリアがジョセフに茶を入れているところだった。カップは三つ。ミリアの優しい心づかいがよくわかる。彼女はストラウスを見ると、いつもの笑顔で笑った。
「あ、ストラウスさん。起きられたんですね。お茶、どうですか」
「ああ、今から神殿へ行くつもりだったんだけど……。起きぬけで喉が乾いてるし、一杯だけもらおうかな」
そう言いながらテーブルの方へ行くと、ジョセフが微笑んで会釈した。
「やあ。マーリン君。こんにちは。昨日はありがとう。」
「あ、どうも。こちらこそ、こちらの家を紹介してもらいまして。ありがとうございました。おかげでゆっくり休めました」
ストラウスも会釈を返して席に着いた。
「そういえば、奥さんは?」
「お父さんにお昼を届けに。……嵐が近づいてるみたいですけど、出て行かれるんですか?」
ミリアがカップにお茶を注いでくれる。礼を言ってカップの端に口をつけた彼は、少しいたずら心が働いた。
「いやぁ、白昼堂々熱烈な口付けを交わすお二人の邪魔は出来ないしぃ」
カップに口をつけていた二人は、いきなり吹き出した。しばらく咳込んだまま声が出ない。ストラウスは、そ知らぬ顔で悠然と茶をすする。
「や、やだぁ。上から見てらしたんですかぁ。恥ずかしいなぁ」
耳まで真っ赤にしてミリアがうつむいた。男の方も真っ赤になっている。
「まずいところを見られてちゃったなぁ」
「お二人は、もうすぐ御結婚されるとか。おめでとうございます」
「あ、いや、ありがとう」
「ありがとうございます〜」
二人は幸せそうに見つめあっては笑いあっている。
ストラウスは残りの茶を一気に流し込み、席を立った。
「ごちそうさまでした。それでは」
「あ、もう行かれるんですか? 私たちのことなら別に……ねぇ」
そっと頬を染めて、頷きあう二人。
ストラウスは苦笑して、鍬の柄を握った。
「いやいや。槍が降ろうが雷が落ちようが、行かなければならない用事がちょっとね。まあ、大丈夫です」
それでも、二人は不安そうだった。
「あぁ、それよりミリアさん、僕は多分明日まで戻れないから御両親によろしく言っといてください。お父さんには農業技術指導の方は、今関わってる件が終わったら必ず、と。……じゃ、頑張ってね。ジョセフ」
親指を立ててそう言うと、ジョセフはその意味を正しく受け取ったらしく、照れくさそうに頭を掻くばかりだった。
ミリアの行ってらっしゃい、を背に外に出たストラウスは、少し顔を引き締めて神殿の方へ足を向けた。
―――――――― * * * ――――――――
クリスは目を覚ましていた。長い間眠っていたような気がする。
その眠りの最中に、言葉に表せないほど恐ろしい夢を見たように思うのだが、漠然とした恐怖しか彼女には思い出せなかった。
喉に違和感を感じたので手をやると、柔らかい包帯が指先に触れた。なぜ喉に包帯が巻かれているのかわからなかった。
(なんだろう……寝ている間に何かで傷つけたのかな?)
それよりも、今自分がどこにいるのかわからなかった。この喉の手当をしてくれたのは誰なのか。着ている物は木綿のゆったりとした夜着だし、装備はそばのテーブルに置かれている。さらわれて閉じ込められているわけでもないらしい。
(ええと……)
最後の記憶をたどろうと目を閉じると、何やら腹の底に響く音が聞こえてきた。
(……雷?)
確かに、それは雲の中で轟く雷鳴だった。だが、なぜそれが聞こえてくるのかわからない。
「う……」
全身が気だるさに冒されている。二日酔いとは違う、体の芯からの疲れ。上体を起こすのさえ億劫だったが、何とか起こして辺りを見回す。やはり見たことのない部屋だった。
窓の外には、妙に胸のざわめきを覚えずにはいられない、気味の悪い黒雲が広がっている。時折、光の筋が走っているのは稲光だ。
「あたし……どうしたんだっけ?」
額に手を当て、考え込む。
その時、部屋の外から微かな声が聞こえて来た。
『――まだ彼女には、噛まれたことは話してない。それどころか、彼女は噛まれてから一度も目を覚ましていないんだ。もし目を覚ましてもあまりショックを与えない方がいいと思う』
(噛まれた? 何の話?)
訝しげに小首を傾げる。そのとき――。
「あぁ。わかった」
聞き違えるはずもない。グレイの声だ。彼が近くにいるというだけで、嬉しさが身体中を駆け巡ったクリスは、自分の置かれている状況を一瞬にして忘れてしまった。
「じゃあ、入るよ……あっ!?」
扉が開かれた途端、扉を開けた目の細いの男が驚きの声を上げた。
そしてその背後、がっしりした体格に短く刈り込んだ髪型。そして、これまで見たことのないほど心配げな表情。
不安は一息に消し飛んだ。
「……グレイ! グレイ!!」
思わず叫んで、両手を差し出す。母親の抱擁を求める幼子のように。
瞳が潤む。溢れる思いが声にならない。
「クリス!」
グレイはゴンを押し退けるようにして、部屋の中へ入ると求めに応じてクリスを抱きしめた。
「グレイ……、グレイ……。あたし、とっても恐い夢を見た…の…。今日はこのまま一緒にいて……」
「あぁ、わかった、一緒にいてやる……。俺が悪かった。お前は俺が守る。なにがあっても……だから、傍にいろ」
うんうん、と頷くクリス。
「絶対離れないっ! もう、婚約解消されたってついて行くんだからっ!」
胸に顔を埋め、頬擦りをするクリス――そのとき、はらりと喉の包帯がほどけた。
「あ、グレイ、ちょっと待って……んもぅ、包帯がほどけちゃったよ」
切り替えも素早く胸を押しやり、包帯を巻き直そうとする。その指が喉を撫で――クリスは凍りついた。
グレイも、ゴンも制止する暇がなかった。
「……え………………これ……」
最初は爪の背で、次いで指の腹で恐る恐る撫でる。そこに確かに存在している、二つの孔。
グレイの目の前で、なすすべもなくクリスの青白い顔からさらに血の気が引いて行く……。
彼女はその孔の存在が、何を示すのか知っていた。よほどの物知らずでもなければ誰もが知っている、あまりに有名な恐怖の刻印――ヴァンパイアという存在は、それほど広く知られている。
クリスの切れ長の瞳から新たな涙が溢れ出し、呆然とグレイの顔を見つめた。嫌がるように首を振る。
「グ、グレイ……? あ、あた、あたし……、あたし……」
グレイはものも言わずにクリスの腕を引っつかむと、いきなり力一杯抱きしめた。
「すまん。俺がついていれば……。だが、泣くな、怯えるな。お前は必ず俺が元に戻してやる。命に替えても……だから、心配せずに今はゆっくり休んでいろ。そして……落ち着いたら、いつものように笑ってくれ」
グレイの目に光るものを見たクリスは、心に広がる安心を感じ、素直に彼を抱き締め返していた。
―――――――― * * * ――――――――
外へ静かに滑り出たゴンは、音をさせないように後ろ手に扉を閉めた。
ふぅ、とため息をついて、天井を見上げる。
(ひとまず、これでいいよね)
突然肩をつかまれた。振り向くとシュラとキーモが親指を立てて、いたわるように笑っていた。
「シュラ、キーモ。君達、起きてたの?」
「まぁまぁ、何も言わなくていいからよ。とりあえず応接間に行こうぜ。失恋の痛手は飲んで忘れろって、アレフのおっさんも言ってただろ」
「はぁ? 失恋? 誰が?」
きょとんとするゴンに、キーモが肩をぶつける。
「またまたぁ。お前、あの女に惚れとったんやろ? いやいや、言わんでもええ。わかるわかる。何せ、こいつの態度見とったら……なぁ、シュラ」
「そうそう、あの娘が噛まれたとわかった時の、お前の取り乱しようっていったら……俺はピーンと来たね」
「……あのさ、そういうのを邪推って言うんだよ? 僕は別に……」
「まぁまぁ、その辺の言い訳はあっちで酒でも飲みながら聞こか」
「ちょ、ちょっと。だから僕は」
戸惑うゴンの右腕をキーモが取る。左腕をシュラが取った。
「では、被疑者一名連行いたしま〜す。んかかかかか」
「……被疑者って…………さては二人とも、既に飲んでる!?」
答えず、下品な笑い声を上げた二人は、ゴンを応接室に連れて行った。
―――――――― * * * ――――――――
目の前にグレイのうなじがあった。
意識したわけではないが、そこを見た途端、視線が吸いついたまま離れなくなった。やけに口の中が粘つき、喉が乾く。前歯の両脇がむずがゆい。震える舌でそっと触れると、犬歯がかなり伸びていた。
クリスの意識は悲鳴を上げた。しかし声は出なかった。その代わり、熱い吐息が次から次へと喉の奥から沸き上がってきては、真紅の唇を押し開け、グレイのうなじに向けて吹き出て行く。
熱い吐息を感じたグレイは、きゅっと両腕に力を込め、ぽつりと呟いた。
「……構わん……。噛んでいいぞ……。お前がそれで楽になるなら。今お前に対して俺ができるのはそれぐらいだから……」
その言葉を聞いた途端、頭の中で眠っていた男勝りのクリスが立ち上がり、どす黒い欲望をあっという間に蹴散らした。
「ふ……っざけたこと言ってんじゃないわよっ!!」
無理矢理グレイから身体を引きはがしたクリスは、彼の頬に稲妻の如き平手打ちをお見舞いした。
突然のことに反応できず、もろに食らって床に転がるグレイ。ベッドを降りたクリスは、ブラウンの髪をぱっと手で跳ね上げた。呆然として頬を押さえるグレイの前に、息を荒げ、腰に手を当てて立ちはだかった。
麻薬か何かの禁断症状のように、体が悪寒に襲われる。脂汗が額に浮かぶ。しかし、クリスは叫んだ。
「あなたがそんなことでどうするのよっ! さっきあたしを元に戻してくれるって言ったの、あれは嘘なの? あたしの好きなグレイなら、あたしが血を吸おうとしたら殴り飛ばしてでも止めるはずよ! だって……だって、そんなあなただから、あたしは好きになったんだからねっ!」
ぽかん、としていたグレイは、不意に表情を崩し、笑った。照れくさそうに、首を振りながら。
「いやいや……全く、今日はいろんな奴に説教される。そうだな。俺がしっかりしないとな。悪かった、今度から俺の喉を狙いやがったらその牙を叩き折ってやるよ」
「そうよ、その意気よ。ほら、立って」
満足げに頷くクリス。グレイを立ち上がらせようと手を差し伸べた。
立ち上がったグレイは、その手を放さず、そのまま再びクリスを抱き締めた。
真顔を近づけながら、ぼそりと漏らす。
「唇に噛みつくなよ」
「馬鹿……」
クリスは赤くなりながらも応じ、やがて二人の唇が重なった。
外ではいよいよ雷鳴が猛り狂っていたが、この室内では静寂だけが支配していた。
―――――――― * * * ――――――――
「まったく……。ほんとに可哀相な奴だねぇ、お前は。よりによってあいつの恋人を好きになっちまうなんてよ」
「ほんまになぁ。他にもおなごはいっぱいおるやろうに、よりによって、なぁ」
「だぁーかぁーらぁー。そうじゃないってば。……そりゃ、初めて会ったときには、確かに可愛い子だな、とは思ったけどさ」
「それが恋の始まりってもんだよ、ゴン君。……ぷ。ぷふはははははははははは」
シュラは馬鹿笑いをあげて、ソファの肘掛を叩く。キーモものけぞって笑っていた。
「だいたいさ、僕のことそれだけ馬鹿にしておいて、自分たちはどうなのさ」
途端に、二人は石化したかのように動きを止めた。
「僕ら、こうして冒険初めて二年ぐらいになるけど、二人の色恋沙汰って聞かないよね。まあ、ストラウスもだけど」
「…………いや、その、師匠が師匠だし……女の子とも接点が……」
シュラがごにょごにょと呟く。
「そういえば、この間単独潜入任務で綺麗なお姉さんと知り合った、とか言ってたのはどうなったのさ」
「うわあああああ、それを言うなぁぁぁぁっ!!」
シュラは両手で耳を覆って、狂ったように顔を振った。
「かかかか、そいつやねんけどな。実は敵の手の者やったんやと」
「ええっ!?」
「キーモ! てめえっ! それ以上言うなっ!!」
「やかまし。それがな、見事に弄ばれて、捨てられたんやと。残された手紙に『純情坊や、また遊びましょ』やて」
シュラは意味不明の喚きをあげて、ソファに突っ伏した。
その姿にゴンも思わず笑ってしまう。
と、不意に跳ね起きたシュラはゴンを指差した。
「思い出したぞっ! キーモ、てめーだって女で酷いめにあったっつーてたな!!」
「さあ? 知らんなぁ。何せ、わしは生きるのが必死で、女ごときにかまけとる暇はないよってな」
へらへらっと笑ってグラスをあおる。
「モーカリマッカの司祭見習のアニタの話だっ!!」
途端に、キーモはぶぅ、と酒を噴いた。咳き込む。
「え、なになに、それ!? うちのアニタちゃんがどうしたのさ!?」
モーカリマッカ教の総本山だけあって、グラドスのモーカリマッカ神殿には、多くの司祭見習がいる。
売られて来た者、置いていかれた者、望んできた者、望まれてきた者……様々な理由で集まって来ている。アニタは最近になってアレフ師匠がどこからか連れてきた女の子で、自分の年齢も知らない孤児だ。外見的には多分七つか八つぐらいだろう。自分と境遇が似ているので、妹のように思って面倒を見ていた。
「この間、お前がアレフ師匠のお使いでいなかった時があるだろう。その時の話だよ。突然、アニタがキーモと結婚するとか言い出したんだよ。で、詳しく聞くと、夫婦になって仲良くご飯食べて、一緒に寝たって」
「ね、寝たぁ? ちょ、ちょっとキーモ!! それはいくらなんでも!」
「ま、待て! 誤解やっ! わしはなんもしてへん! ただ……」
キーモは顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。長い耳が力なく垂れ下がっている。
ゴンは細い目でキーモを睨みつけた。妹みたいなアニタを傷物にされたとあっては、いかにキーモといえども許すわけにはいかない。
「ただ、なんだよ」
「ただ……おままごとの相手になったっただけなんや……」
「はぁ?」
「せやからっ! 神殿の前で遊んどったんや。スラムの他の子供らもおってやな、それがまたみんな女の子やさけ、ままごとすんのにお父さん役がいるっちゅーんで、わしが呼ばれたんや。ガキの遊びやがな。その日に限って日雇いの仕事もあらへんし、まぁ、いつも他の子供の相手もしたってるし、ええやろ思うてつきおうたったら、お前……その夜やがな、何や知らんが殺気だった神殿の大人連中がわしの家に殴りこんできて……」
がっくり首を折るキーモの後を、すっかり元気を取り戻したシュラが継いだ。
「それはもう、大騒動だったんだぜ。モーカリマッカの司祭は何人も大怪我するし、こいつも貼り付けにされて火あぶりにされかかるし」
「……よく生きてたねぇ」
「すんでのところでアレフ師匠が止めたんだよ。『キーモにそんな度胸も知識もない』てな」
「度胸はともかく、知識って……」
意地悪そうににぃ、と笑ってシュラは頭を抱えたままのキーモに聞いた。
「なあ、キーモ。赤ちゃんはどこから生まれるんだっけ?」
たちまちキーモは顔を跳ね上げて叫んだ。
「おんどれ、こないだから何べんその話すんねやっ! 木の股からやゆーてるやろっ!! 何ぞおかしいんかっ!!」
シュラとゴンが大爆笑する。訳がわからずキーモは不機嫌そうに、グラスをあおった。
ゴンは笑いをこらえきれないまま、聞いた。
「ちょ、ちょっと待ってよ……くくっく……じゃあ、キーモは女の子とつきあったら、どういうことになると思ってるわけ? 最終的にさ」
「最後? 最後は結婚やろが」
「ゴン、聞き方が悪い」
シュラはグラスに酒を注ぎ足しながら割り込んだ。
「キーモ、女の子と付き合うよな。そうすると、普通は散歩とか、買い物とか遊んだりするよな。手ぇ握るよな。腕組むよな。抱き締めるよな。んで、キスするよな」
「ん〜、まあ、普通はそうやろな」
「その後はどうするんだ?」
キーモは荒々しくグラスをテーブルに置いた。
「おんどれ、馬鹿にすんのもたいがいにせぇよ。その後はお前、アレやないかい、アレ」
「アレ?」
キーモは耳の先まで赤くなって、そっぽを向いた。
「ほれ、その……女の胸についとるやつ。……おっぱい揉むんやないかい」
「……その次は?」
「つ、次?」
急にキーモから表情が消えた。
「つ、つ、次か。次は……お、おっぱい吸う?」
「いやあのな。……それで、そのあとは?」
「そのあと? ええと……おっぱい揉む?」
「いや、それさっきやったし」
「………………他に……なんかあんのか」
「お前、おっぱいだけかいっ!」
シュラが叫ぶと同時に、キーモは膝を叩いた。
「あー! せや、わかった! わかったで! 言うなっ、皆まで言うなっ!! わしが言う! ……お尻や、お尻を触るんやろ!?」
「その先は!?」
「まだその先なんかあるんかい!?」
二人の漫才じみた掛け合いの横で、ゴンは悶絶していた。笑いすぎてお腹が痛い。
その時だった。玄関の方で馬車の止まる音がした。
この村で馬車なんて珍しいなと言い合っていると、しきりに呼んでいる。
まだこらえきれずに湧いてくる笑いをどうにかこうにか我慢しながら、ゴンが応対に出ていった。
直後、彼の叫びが応接室まで響き渡った。
「シュラ! キーモ! ヴァンパイアだ!! 奴が、向こうから出向いて来た!!」