愛の狂戦士部隊、見参!!

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第二章 デービスの叛乱(その7)

 柔らかい夢の中。
 明るいような暗いような、赤いような緑のような、極彩色のような単色のような世界。
 起きているのか眠っているのかさえ判然としないその世界の中、漠然と浮いている自分を感じる。
 地平線すら見えない茫漠とした世界。何もない。誰もいない。
 しかし、恐怖は感じなかった。むしろ、愛しい人に抱かれているような安心感に包まれていた。
(――グレイ……)
 いるはずのない人を呼ぶ。寂しさからではなく、愛しさから。
(ゴメン……わがままばっかり言って……。どんな酷いこと言われても、大好きだよ……グレイ)
 過去の思い出の海の中を漂う。


 出会いは――十年も前になるだろうか。
 父の友人のお父さん――グレイの祖父にあたる――が亡くなった。
 その葬儀の席で、グレイと会った。
 その時、自分は六つか七つ。彼は十四、五歳。既に眩しいほど立派なお兄さんだった。一目で好きになった。確か、その場で父親にせがんだことを憶えている。グレイお兄ちゃんのお嫁さんになる、と。
 祖父を亡くした彼は、悲しげな表情ではなかった。彼の父親と同じく、怒っているかのように無表情だった。
 口惜しがっているのだ、とわかったのはその七年後。
 グレイの両親が亡くなった時――葬儀の席で、彼は同じ顔をしていた。
 七年の間、大好きなお兄ちゃんと過ごしてその表情の意味がわかるようになった。
 助けたい、と思った。だから、喪が明けるなり婚約をした。
 自分の方から言い出し、渋る父親をねじ伏せ――もとい、説き伏せ、周囲を納得させた。もっとも、七年間周囲に見せていた仲の良さから、いずれそうなるだろうと(父親以外は)予想していたらしいが。
 そして……土台は固まった、後は幸せな家庭を築くだけだとガッツポーズを極めた日の夜、グレイは姿を消した。祖父、そして父から受け継いだ形見の品と共に。
 半年は泣いて暮らした。
 次の半年は呆けて暮らした。
 次の半年で誰彼構わず怒り当り散らして暮らし(この時に酒も覚えた)――最後に家を飛び出した。
 グレイ=スレイグスの名を求め、東に西に南に北に、持ち前の勝気と決断力と意地と執念で彷徨い続けた。
 それでも、幸せだった。旅は大変だったけれど、なすすべもなく水の中でもがいていたような一年半より、よほど充実していた。
 何より、一歩一歩彼に近づいていると感じていた。


 順序なく過去の思い出が甦る。
 グレイと過ごした七年の間の思い出。
 グレイを思って過ごした一年半。
 グレイを追った半年。
 そのそれぞれの場面が、現われては消え、消えては新たに生まれる。
 それは源泉の奥から湧き出してくる温湯、海の底から浮き上がってくる泡沫。
 形象(かたち)無き世界にたゆたいつつ、クリスはその全てに幸福感を感じていた。

 突然、世界が暗転した。
 真っ暗な闇の中に感じられるどす黒い赤。禍々しき世界。
 恐怖が身体を縛る。

 気配を感じた。
 何かが、そこに――目の前にいた。
 暗黒の世界よりもまだ黒い存在。
 目の部分だけが血に飢えた邪悪な真紅に輝いている。
 漆黒の闇が形を取ったその存在は、見えるはずのない口元を淫靡な喜びに歪めた――ように思えた。
 心の深淵の更に奥底からの激しい恐怖に襲われ、そいつに背を向けて走り出す。
 しかし、身体が異常に重い。一歩ごとに足がぬかるみに沈む感覚。
(グレイ……グレイ、グレイ、グレイ! 助けて! グレイ!!)
 独り旅の間でも感じたことの無い恐怖。命とか、貞操とかそんなものが奪われる恐怖ではない。
 魂の危機。自分自身であるものの根本を奪われ、打ち砕かれる恐怖。
(いやっ! いやいやいやああぁぁぁぁっっ!! 来ないで! 来ないでえええぇぇっっ!!)
 泣きながら必死で走るクリスは、身体が前に沈むのを感じた。
(あっ……倒れちゃだめ! 追いつかれちゃう!)
 落ちるその身体を支えてくれる腕があった。
 思わずすがりついた身体はたくましく、頼もしい。
(グレイ!?)
 喜色を満面に浮かべて見上げる――そこには赤く光る双眸が、邪悪な喜びをたたえて輝いていた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 翌朝。

 山岳地方にふさわしく靄が立ちこめ、幻想的な趣きさえある白い世界には、まだ太陽の光は差し込んでいなかった。しかし、その余光だけでも、もう灯火の光がいらないほど充分明るい。
 ミアの村外れのマイク=デービスの邸宅は、四十名ほどの傭兵に取り囲まれていた。
 オブリッツ監査官と傭兵部隊の話し合いと妥協の結果だった。
 監査官の指揮下へ入る代わりに、すぐにでも行動を起こしてマイク=デービスから事の真相を聞き出す――それが傭兵部隊側の出した条件であり、オブリッツ監査官はそれを受け入れたのだった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 カーテンの隙間から外を覗いたマイク=デービスの表情は、この上なく険しかった。
「おのれ……いったい、何がどうなっている。なぜ傭兵どもが、監査官に率いられているのだ」
 檻の中に入れられた野生動物のように、うろうろとカーテンの前を右往左往する。
「まさか、私の企みがあの監査官にバレたのか? そんなバカな。……第一、奴はどうやってそれを知った? 私以外、傭兵を集めたことの意味を知っている者はいないはず……」
「……そんなことはどうでもいいわ」
 部屋の奥の暗がりから響いてきたのは、官能的な女の声。
 思わずマイクは足を止め、声のした方向に顔を向けていた。
「ふふ……『どうして』なんて、もはや詮無きこと。今大事なのは『どうする』ではなくて?」
 微かに軽蔑の含み笑いを伴うその声に、マイクはぐびりと喉を鳴らす。頭の隅で、何かが鳴り響いている。
 マイクの見ている天蓋付きのベッドの中には、妖艶な美女が一糸まとわぬ姿で横たわっていた。
 むっちりと張り詰めた腿、くびれた腰、豊かな胸、やや疲れた風に陰を宿した細面(ほそおもて)――どんな男も思わず前屈みになりそうな見事な肢体、全身から男を蕩かす気配を放つ女だった。
 闇の中に仄白く浮かび上がる陶磁器のような滑らかな肌。闇に沈んで白磁の肌を裂くシルエットと化した漆黒の長髪。両生類の肌のようにぬめ光る真紅の唇は白貌の中に浮き上がり、いかにも淫猥な雰囲気を漂わせている。
 年は二十代半ばから三十代。しかし、その外見を遥かに超えた時の流れを感じさせる、妖しい雰囲気がある。
「『どうする』だと? それはこっちのセリフだ」
 マイクは喉がからからに乾くのを感じながらも、強気に睨み返した。
「お前達の言う通りに傭兵どもを集めてやった。出来ることは全て協力した。もちろん、真意を口に出したこともない。にも関わらず、こうなったのはお前達の方にも落ち度があったからではないのか。一方的に私だけを責められても……コ、コマ、る……」
 女が起き上がっていた。まつげの長い、切れ長の眼を伏せ、寝台から官能的な美に溢れた両脚をそろえて降りる。その微妙な動き、いやシーツの擦れ合う微かな音までが男を誘う媚態に感じられて、マイクは思わずどもった。
 感情の消えた冷たい眼差しがマイクを一瞥し、ふっと鼻で嗤う。
 つい最前まで自分を抱いていながら、まだ思春期の少年のように欲情に戸惑いを見せる男の弱さを嘲っているのか、それとも女を前にしながら責任転嫁に走る矮小な男を哀れんでいるのか。
「あなたの役割は終わったわ、マイク。少し早かったけれど……予定が早まっただけ。もう、あなたにはひとかけらの価値もない……。逝きなさい……」
 白く細く長い女の人差し指が、マイクを指す。腰を振りながらゆっくりとマイクに近づく。尻の下辺りまで伸びている長い黒髪が、くびれたウエストの右に左に揺れて覗く。
 マイクは硬直していた。声が出せない。動けない――背後で死の世界への門がぽっかり口を開いているのを感じた。
 死ぬような努力の末に、ようやくかすれた声を喉の奥から絞り出した。
「……ま、待て……じゃあ、あの、あの約束はどうなる。永遠の命は……」
 ふと、女の足が止まる。
「永遠の命? ――ぷっ」
 こらえきれないように吹き出した女は、そのままその見事な裸体をのけぞらせてけたたましく笑い続けた。地獄から彼を迎えに来た死の烏の鳴き声のように、甲高く、耳障りな声で。
 女の哄笑は次第に激しく、甲高く、狂おしくなった。もはや聞くに堪えない――マイクの思いが頂点に達した時、女の笑みは瞬時に掻き消えた。
「使える人間を集める……ただそれだけのことすらまともに遂行できない男に、永遠の命? 思い上がりも甚だしいのではなくて?」
 一切の感情を失った細面の中、紅に光る瞳に怒りの灯火が揺らめき踊る。
 不意に女が手を伸ばし、軽くマイクの肩を突いた。
 途端に、マイクはハンマーで殴り飛ばされたように、部屋の隅まで吹っ飛ばされた。サイドテーブルを薙ぎ倒し、壁に叩きつけられる。
 呻いて身を起こそうとするマイクに対し、女は再び指を差し、傲然と言い放った。
「能無しが。その上、保身のために人を売って恥じることのない卑劣漢。そんな役立たずがあたくしと肩を並べようなどと……愚か者!」
 マイクの額に侮蔑の唾が吐きかけられた。
「身の程をわきまえなさい。あなたの価値など、あの傭兵どもほどにもないのだから。――……あなたに残された役目は、死んで今回の件を迷宮入りさせることだけ。うふ、うふふふふ……おーっほほほほほほほ」
 全裸の肢体を隠そうともせず、乳房を揺らし、狂ったように哄笑する女。
 その裸体に見惚れながら、マイクは唇を噛んだ。
(この女……っ!!)
 ことの始まりは四ヶ月ほど前の夜、唐突にこの妖艶な美女が来訪してきたことに遡る。
 その美女はナーレムと名乗った。
 その美しさ、妖しさに魂を奪われたマイクが悪いのか、その媚態を存分に振りまいてその気にさせた彼女が悪いのか――ともかく、二人はその日のうちに枕を共にすることになった。
 その枕元で、彼女が囁いたのだ。言う通りにしてくれたら、さらに極上の快楽……永遠の命をあげる、と。
 それまでなら一笑に付したであろうマイクが、その時は従順に頷いた。
 その後、マイクは彼女の言う通りに動いてきた。
 彼女を煙たがる使用人を全て解雇し、余計な詮索をしない使用人を雇った。彼女の存在を秘密にするため、商売女や尻軽女を手元に置いた。傭兵を百人集めてくれ、と言われて集めた。目的を聞いて仰天はしたが、その闇の軍勢の長にしてあげると言われ、協力することにした。
 今になって考えれば、なぜ自分がそんなことで喜んでいたのか、わからない。
 以前の自分なら、それほど永遠の命とやらに魅力を感じていたわけではないはずなのに。
 魔法・呪術の類をかけられたのか。
 それとも……甘美な体験を失いたくないばかりに――ありていに言えば、彼女の肉体に溺れていたために、ただひたすら彼女に尽くすことに喜びを覚えていたのか。自分さえ見失って。
 そうだ。この女は余りに甘美だ。麻薬など足元にも及ばぬほどに。
 呆然としている間に、女は中庭に面した窓を開け放っていた。そちらは傭兵達からは見えない。
 朝の冷えた風が体温のこもった室内の空気を払ってゆく。女の黒髪がなびき、波打ち、揺れる。
(……取り返しのつかない事態になる前に失敗したのは、僥倖と言うべきかもしれん)
 マイクは傍の棚の上の花瓶に手を伸ばした。
(まだだ……まだチャンスはある。この女さえいなくなれば、監査官に真相を話し、国王陛下に恐るべき陰謀と敵の存在を知らせることができる。そうなれば――)
「さあ、もう――」
 女が窓を開け放ったまま何かを言おうとした刹那、マイクの手から花瓶が女の後頭部に向かって飛んだ。
 朝にふさわしくない派手な音がして、花瓶が砕け散る。
 びしょ濡れになったナーレムが、ゆっくり振り返る。振り向いた女の額から血がしたたり、口元にまで届いていた。
「……う、うふふ……。せっかちねぇ……」
 唇同様の真紅の舌でその血を舐めた女の目は、明らかな欲情に潤んでいる。
 マイクは硬直していた。恐怖ではなく、女のその媚態に。
 彼女が振り向いた瞬間、背筋を突き抜けた欲情に身動き出来なくなっていた。
「……うふふっ……あたし、今興奮しているの、わかる……?」
 女はマイクの顔を両手で挟むと、血にまみれた凄惨なほど美しい顔を近づけていった。恍惚とした表情に浮かぶ、凄惨な狂気の笑み。
 蛇に睨まれたカエルのように、マイクは声も出せない。ただ、この女を抱きたい、という思いだけが脳裏に膨れ上がってゆく。命が危ない状況にも関わらず。
「マイク……悪いけど、あなたに抱かれてもちっともよくなかったわ……」
 くすくすっと嗤ってマイクの鼻の頭をちろりと舐める。それだけで、マイクは忘我の境地に跳びそうになった。
「なぜって、あたしはねぇ……あの方に抱かれる時以外では、命を奪う時が一番興奮するの……。特にあなたのような純朴で愚かな人を誘惑し、道を踏み外させて、最後に殺す時なんて最高だわ。……これは、あたしのお礼と……ほんのちょっぴりの同情の気持ちよ。おやすみ……」
 唇が重なる――同時に女の切れ長の目が真紅に光る。

 マイクの意識はそこで途絶えた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 邸の門ではにらみ合いが続いていた。
 傭兵部隊は数班に分かれ、屋敷の周囲を固めている。
 オブリッツ監査官と護衛の衛兵、シュラ、それに各部隊の組頭は、正面の門の前で門番と押し問答を繰り広げていた。
 自らの権限を盾に、門を開いて直ちに会談の場を設けるよう求める監査官に対し、傭兵部隊を解散させない限り断るとつっぱねる屈強な門番。
 両者の睨み合いが最高点に達したその時――不意に後ろにいた傭兵達がざわめいた。見ると、邸の三階の窓の一つが開き、中年の男が身を乗り出している。
「野郎、マイク=デービスだ!!」
 誰かが叫び、組頭以外の傭兵達が一斉に弓をつがえた。門の内側で門番達が慌てふためく。
 慌ててオブリッツ監督官が馬を操り、射線に割って入った。
「待ちなさい! 実力行使は私が言うまで許しません!」
「知ったことかよ、こっちは命を狙われ――」
 澄み渡った音がして、つがえている弓の弦が一斉に断ち切れた。傭兵達が驚きの声をあげる。
 明け方の空に一条のきらめきが踊る。
「……シュラ君?」
 オブリッツ監査官が思わず見下ろすと、呼ばれた本人は何食わぬ顔でよそを向いていた。わざとらしく口笛を吹いている。
「とにかく、これでなんとか彼と――」
 ため息を一つついて、振り返る――その時、信じがたい光景が飛び込んで来た。
 マイク=デービスが宙を舞っていた。
 あまりに咄嗟のことで、誰も声をあげられなかった。デービスの身体が地面に叩きつけられる音が、誰の耳にもはっきり聞こえた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 数秒前までこの屋敷の主のいた部屋に、ナーレムが窓の脇に立っていた。額に滴っていた血も既に消えている。
 長いまつげの瞳を伏せ気味に、カーテンの隙間からじっと正門を見つめる。
「……ふうん、あの先頭にいるのが監査官ね。ただの野暮ったい男に見えるけれど……まあいいわ。うふふふふ……キレ者は嫌いじゃないから……うふ、うふふふふ、うふふふふふふふふ……」
 忍ぶように笑いながら女の姿は薄れて、代わりに霧がどこからともなく発生した。その霧も開け放たれた中庭に面した窓から出て行き――数秒後にはこの部屋に動くものは、窓際で揺れるカーテンだけとなっていた。


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