愛の狂戦士部隊、見参!!
第二章 デービスの叛乱(その6)
人の目には満月と変わらぬように映る月が、南の空の真ん中にぽっかり浮かんでいる。
人影絶えたモーカリマッカ神殿は、内といい外といい散らかり放題だった。食い散らかした料理、飲み散らかした酒のビンや樽、倒れたままの椅子、クロスの乱れたテーブル、誰かが忘れていったショールや上着……なぜか、下着まで落ちていたりする。男物の。
夜中が近づくと、さすがに村人たちは一人また一人と帰って行った。
一応、明日片付けに来ると約束はしたが、果たして何人が集まるか……そもそも、女性と共に鼻の下を伸ばして出て行ってしまったブラッドレイ司祭が戻ってくる保証すらない。
ゴンは神殿の玄関前にいた。テーブルの上にあぐらをかいて、口にぶどう酒の瓶をくわえ、月を見上げていた。
「……………………んん?」
ふと、振り返る。何か、すすり泣きのようなものが聞こえた気がした。
「はて? ……みんら帰っらんじゃらかっらのらぁ?」
ろれつの回らぬ呟きを漏らしながら、テーブルから下りる。たかだか腰の高さにもかかわらず、ゴンは見事にひっくりこけた。
慌ててテーブルで支えようとして――
「おおっと……っとっとぉ!?」
クロスを握り締めて滑り、後頭部をテーブルの角に打ちつけ――
「ぐぉはっ!!」
地面に倒れ落ちると同時にひっくり返ったテーブルに押し潰された。
「ぐぇぇっ!!」
脚を上に向けたテーブルの下から生えた手足が、ぱったり力を失って倒れる。
そこへ――
「うっさいバカぁっ!!」
ヤケクソ気味の娘の声と共に、樽が落ちてきた。
―――――――― * * * ――――――――
気を失いかかったが、樽の衝撃でむしろ目を醒ましたゴンは、テーブルをはねのけた。
「ぬがあぁぁあっ!! だれらっ!! 僕に喧嘩を売ろうっれのらぁっ!!」
酒臭い息を吐き散らしながら、膝立ちになって周囲を見回す。
犯人と思しき人間は、一人。神殿の正面階段の上、玄関ポーチに居た。
厚手の服に革鎧を着込んだ何者かが、あぐらをかいて、ぶどう酒の酒瓶を口にくわえている。
「れめー……この僕に喧嘩売ろうろはいい度胸ら……」
危ない目つきで、危ない笑みを浮かべながら階段を一歩一歩踏みしめるようにして上がってゆくゴン。そうしないと、またこけそうだった。
「あーによー」
登って来るゴンに対し、玄関ポーチに座り込んでいた娘も立ち上がった。腰に拳を当て、傲然と見下ろす。切れ長の眼は凶悪に据わっていた。
「人が悲しみに浸ってるときに、ピエロみたいなマネしてんのが悪いんでしょーよぉ。思わず噴いちゃったわよ」
唇の端を持ち上げて、へっと嘲笑する。
対するゴンも怒りに頬を引き攣らせた。
「あんらぁ? 人がピエロみたいなマネしれるときに、悲しみに浸っれんじゃねーつーの」
たちまち、娘の頬も怒りに引き攣る。肩の高さで切りそろえたブラウンの髪を手でぱっとはねあげ、ふン、と鼻を鳴らす。
「あたしに口答えしようとは、い〜い度胸じゃない。冥土の土産に聞いておいてあげるわ。あんた、名前は?」
「ゴン! 愛の狂戦士部隊一の力自慢にして唯一の良心!」
無意味に両袖を捲り上げ、力こぶを誇示してみせる。
「さあ、名乗っらろ。そっちも名乗れぃ。それが紳士淑女のお約束ら」
「あたしは、クリス=ベイアード! イークエーサの宿屋の娘! 元気がとりえよ、ざまあみなさい! あははははははは」
グダグダの会話をしながら、二人の視線の間で火花が散る――ふと、お互いの表情が怪訝そうに崩れた。
「……ゴン?」
「……クリス?」
お互いに目を細めて、じっと相手を見る。そして、お互い同時に同じセリフを吐いた。
「 「どこかで…………お会いしましたっけ?」 」
―――――――― * * * ――――――――
「そうよね……関所でお世話になったよね、確か……ゴメンね。気づかなくて」
ぺったり座り込んで、がっくり肩を落とすクリス。
向かい合うゴンもまた、正座で頭を垂れていた。
「いえいえ、僕の方こそ……ほんとすみません。調子くれてました」
二人は同時に大きなため息をついた。半分はお互いに気づかなかったことへの自責の念、あと半分は酒に酔ってとんでもない姿を見せてしまったことへの羞恥の念。
しばらく、沈黙が続いた。
沈黙を破ったのは、クリスだった。恐る恐る切り出す。
「あのー……なんであなたがここに?」
「なんでって……。そもそもこのパーティは僕の歓迎パーティだし。それより、君こそどうして?」
クリスは照れくさそうにはにかんで、ますます恐縮した。
「ああ、その。ごめんなさい。勝手に入っちゃって。ちょっとヤなことがあったもんだから、憂さ晴らしに。だって…………楽しそうだったんだもん」
「ああいや、別に責めないよ。そもそもパーティ参加は自由だったしね。途中から僕は関係なくなってたし。でも、ヤなことって何があったのさ? そういえば、婚約者の彼とは会えなかったの?」
その瞬間、クリスの切れ長の瞳が妖しい光を放った。頬に一瞬、引きつりが走る。
「……あんな奴……」
「あんな奴?」
クリスは唐突に立ち上がると、階段を下りてまだ中身の残っている酒瓶を何本かと、グラスを二つ集めてきた。
明らかに怒っている面持ちで、グラスをゴンに押し付ける。
「あんな奴の話、シラフじゃ話せないわよ」
「いや、僕らもう十分酔って……」
「あに?」
「……ぃぇ」
ゴンの口答えを酔っ払い特有の据わった一瞥で封じ、胡坐をかいて座り込むクリス。
「今ので醒めちゃったわよ。飲み直しよ飲み直し――でなきゃ、話してやんない」
「はぁ」
正座したままのゴンは、別にそれほど聞きたいわけでもないんだけどなぁ、という放てば致命傷となりかねない呟きを飲み込み、両手を揃えてグラスを差し出した。
クリスは二人のグラスにぶどう酒をなみなみつぐと、胡坐座りから女座りに足をかえて話し始めた。
―――――――― * * * ――――――――
クリスが再会の喜びのあまり、グレイを絞め落としかかった後のこと。
野次馬を追い散らし、二人はロッジ正面のポーチに並んで座った。
まず、グレイが大きく溜め息をつく。困惑げに短く刈り込んだ頭を掻いた。
「まさか、こんなところまで追ってくるとはな。どうせ、家を飛び出してきたんだろう」
「うん。でも……グレイの傍にいたかったから」
クリスは婚約者の腕に抱きついて、身をすり寄せた。しかし、グレイはそれを邪険に引き剥がし、突き離した。
「よせ。今の俺は、それどころじゃないんだ。知ってるはずだろう」
クリスはうなだれた。
「…………そりゃ、グレイのお父さんのことは聞いているけど……それでも、あたしは傍にいたいんだもん! あなたの支えになりたいの! あなたを助けたいの!! だから、だから、あたしも傭兵になるって決めてきたの!!」
再びすがりつく腕を、グレイはまたも振り払い、立ち上がった。
ポーチを上がり、婚約者に背を向けたまま吐き捨てる。
「迷惑だ」
「え……」
愛情のひとかけらも感じられない冷たい口調。クリスは凍りついた。
「お前は傭兵稼業がどんなものか、わかってない。敵はモンスターばかりじゃないんだ。人を相手にすることもある。善悪を顧みず、ただ生きるため、殺すために剣を振るう戦場……そんな場所で、正義感だけは強い宿屋の娘風情に何が出来る。お前は……イークエーサに帰れ」
「いやよっ!」
クリスは勢いよく立ち上がった。グレイの前に回りこみ、その胸に飛び込んで顔を埋める。
「イークエーサに帰ったって、グレイが戻ってくるのはいつになるかわからない――ううん、無事に帰ってくるかさえわからない。そんな不安を抱えながら暮らすのはもういや! 気が狂っちゃうわ! もう、傍を離れたくないのっ! お願い、グレイ!! 何でもするから!!」
「……何度も言わせるな。俺はお前を傍に置く気はない」
グレイは無理やりにクリスを引き剥がした。その潤んだ切れ長の目をじっと睨みつけ、噛んで含めるような口調で続ける。
「俺は今、この部隊の組頭を任されている。戦う相手は、この山の奥に出没する強大なモンスターだという。部隊の規模から考えて、相当な強敵のようだ。ドラゴンかもしれんし、ワイバーンかもしれん。あるいはもっと別の、種族単位で動くモンスターなのかもしれない。ゴブリンとか、オークとかのな。いずれにせよ、部隊の一つ二つは壊滅するぐらいの被害が、こっちにも出る可能性がある」
「そんな……」
クリスの表情が見る見るうちに青ざめていった。
「そんな修羅場に、お前を連れて行けるものか。足手まといのお前を連れて行けば、確実に命を落とす。その上、それに巻き込まれて何人かも命を落とすだろう。あらかじめ被害が予見できるのならば、極力避ける。それが組頭の務めだ」
「組……頭、の……? 婚約者として、じゃないの……?」
「婚約者として言ってほしいなら、言ってやる。だが、いかなる立場であろうと、俺はお前がこの傭兵部隊に入ることを絶対に認めない」
「そうじゃない、あたしが聞きたいのはそんな言葉じゃない! なんでわかってくれないの!?」
グレイの腕をつかんで激しく顔を左右に振るクリスを、グレイは苦々しげに振り払った。
「お前こそ、先月で17になったんだろう! もう子供じゃないんだ! いい加減冷静に状況を見て、ものを言え! お前はここにいてはいけない人間――」
「……あ…………あたしの誕生日……覚えていてくれたんだ……」
口許を両手で覆って感激しているクリスに、グレイは舌打ちを漏らした。
「そんなことはどうだっていい。とにかく、山を降りてイークエーサに戻れ! これ以上面倒をかけるなら――」
ふと声が途切れた。
だが、目は口ほどにものを言う。
グレイが吐き捨てようとした言葉に気づいたクリスの切れ長の目が、驚きに見開かれる。足がもつれ、ポーチを滑り落ちた。
かろうじてバランスを保って地面に着地したクリスは、小さく首を振った。恐れと怯えをその満面に浮かべて。
それがわかっていながら、グレイは続けた。踵を返しながら。
「――婚約は解消する」
「い、いや……いやあああああぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!」
クリスは両耳を押さえ、激しく首を振りながらその場で膝砕けにへたり込んだ。
そして、そんな彼女を放置したまま、グレイはロッジの中へと入っていった。婚約者を一顧だにすることなく。
―――――――― * * * ――――――――
「……その後、ベリウスって男の人に日が暮れる前にって、村まで送ってもらったのよ」
ちび、とぶどう酒で唇を濡らす。
前に座っているゴンは、黙っていた。
クリスは頭を抱えて、うつむいてしまった。
「あたし……わがままなのかな……。好きだから、傍にいて役に立ちたいと思ってるのに……それじゃダメなのかな……」
呟きに、嗚咽が混じる。
ゴンはちびちびぶどう酒を舐めながら、切り出した。
「……似たもの夫婦だねぇ、君たち」
「え?」
顔が上がり、涙で濡れ光る切れ長の瞳が、不思議そうにゴンを見た。
「だってそうでしょ? 自分のわがままを通す男と、自分のわがままで押しかける君と。そっくりだよ。……ま、いいんじゃない? 別にその男は君が憎くてそんなこと言ってるわけじゃないんだし。婚約解消とか言ってても、致命的にお終いってわけでもなさそうだし」
クリスの頬がぴくぴくっと痙攣した。
「……あのね、ゴン? 話聞いてた? あたしはグレイの傍にいたいのよ?」
「いればいいじゃん」
すっぱり答えたゴンに、クリスの表情が少し硬張る。
「だぁーかぁーらぁー」
「別に君が傭兵になれないわけじゃないでしょ。そいつが反対してるだけで。だったら、勝手に入隊して傍にいついちゃえばいいじゃん。その男だけじゃなくて、傭兵部隊の中で『クリスは役に立つ奴だ』って思われたら、その男も邪険にはできないと思うよ?」
思いもしなかった助言に、クリスは目をぱちくりさせていた。
「え……でも、あたし……実はあんまり戦うのとか無理かなーなんて……ただの宿屋の娘だし」
照れ隠しに頭を掻き掻き、乾いた笑いをあげるクリスに、ゴンは据わった眼でグラスを置いた。
「あぁそぅ。グレイの傍にいたいけど、戦えないから無理だと自分でわかってるんだ。――だったら家に帰れよ」
クリスはぐっと唇を噛んだ。ゴンは構わず続けた。
「まぁ……別に傭兵稼業なんて、腕っ節が強けりゃいいってわけでもないんだけどね。全員が戦士なわけでもないし、後方支援担当だって必要だろうし。結局、グレイって奴も君も、同じ定規で同じように君を測ってるようにしか見えないね、僕には」
「………………」
「正味の話、宿屋の娘なら食事のまかないさんで雇ってもらうとかさ、洗濯をやらせてもらうとかさ、あるいは各部屋の掃除とかをしっかりしてあげるとかあるわけじゃない。できるでしょ? そういうこと。そうなると、まあ、戦場で肩は並べられないだろうけど……後はイークエーサで待つか、ここの兵舎で待つかの違いだよね。それもいや?」
一時くさりかけていたクリスの表情が、たちまち明るくなった。身を乗り出してぶんぶん顔を横に振る。
「全然いやじゃない! すごい、すごいよ、ゴン! そんなのあたし、考えもしなかった。そうだよね、別に傭兵にならなくても……人の役に立つ方法はあるんだよね!」
「いや、本当はもっと簡単な方法もあるんだけど」
「なになに?」
血沸き肉踊る冒険譚を聞きたくてたまらない少年のように、眼を輝かせる。
ゴンはすぐ背後の神殿を親指で指し示した。
「ここに寝泊りすればいいんじゃない? 別に入信しろとまでは言わないけどさ、この神殿のまかないとか、村のお手伝いとかしながら、定期的にグレイって奴に会いに行けば、向こうもそれなりに安心するんじゃないかな?」
「あー…………って、いいの?」
ゴンは少し視線をそらした。確かに、この神殿の管理者のいないところで進めていい話かどうか。しかも今日やってきたばかりの自分が。
しかし、目の前で困っている彼女を見捨てることはできなかった。
「いい……んじゃないかなぁ。僕ンちってわけじゃないけど、ブラッドレイさんはいい人だし」
最悪、怒られればいいや、と腹をくくる。いくらなんでも、あのブラッドレイ司祭がアレフ師匠以上に凄まじいお仕置きをしてくるとは思えない。
「僕の方から明日、聞いてあげるよ。宿は取ってあるの?」
クリスは首を振った。
「じゃあ、今夜から僕の部屋に泊まるといい。僕は応接間のソファで寝るから」
「ちょっと、そんなのダメよ! あたしがそっちに寝る!」
「え、でも……」
クリスはなぜかゴンの襟首をつかみ上げた。切れ長の眼をさらに吊り上げて、必死な表情で叫ぶ。
「絶対ダメったらダメ! あたしの方がたくさん助けてもらってるのに、これ以上そんなことダメ! もしどうしてもそうするって言うんなら、あたし今夜はここで野宿するからね!」
何でそんなことになるんだ、と困り顔で笑うゴン――その頬に、クリスの唇が押し付けられた。
キスの不意討ちにゴンはたちまち真っ赤になった。クリスはそのまま首に抱きついた。
「――……ありがとう。本当に、ありがとうね……この恩は絶対忘れないから…………」
「あ、いや、そんな、それほどでも――……え? ……え? え? えぇぇ?」
急にクリスの体が重くなる。気を抜いていたゴンは、押し倒されるようにのけぞり倒れてしまった。
耳元で規則正しく静かな呼吸音が――寝息を立てて、クリスは眠っていた。
「……お〜い、出来たら部屋までは自分の足で行ってほしかったな〜」
苦笑して起き上がったゴンは、クリスを軽々と抱えあげた。
抱き上げ加減で、自分の胸に寝顔を埋めているクリスを見下ろしたゴンは、そっと微笑んで祝詞を口にした。
「モーカリマッカ様、この可憐な娘に夢の中だけでも安息をお与えください……」
眼を閉じて、聖堂に向かって軽く頭を下げる。
それから神殿の中へと運んで行った。
―――――――― * * * ――――――――
約束通り、応接間のロングソファにクリスを寝かせて毛布を掛けたところで、ゴンは呼ばれていることに気づいた。
「……なんだろ? もう夜半過ぎだってのに……」
眠気を覚えつつ、聖堂へと出るとストラウスが待っていた。
「ああ、ゴン。いたか。迎えに来たぜ」
「迎えに? どこへ行くのさ」
ストラウスは親指を立てて、背後を示した。
「『灰色の岩山羊』亭だよ。オブリッツ監査官から呼び出しだ。シュラも待ってる」
ゴンは目をぱちくりさせた。
「はぁ? 何でそんなことに。そんな直接会ったりしたら、僕らの隠密性が――」
「隠密とかアンミツとか、それどころじゃなくなったってことだろ。いいから来いって」
ストラウスはゴンの手首をつかんでさっさか歩き出した。
「ちょ、ちょっと、ストラウス! なに? なにがあったのさ? ……あ! ひょっとしてシュラ達が――」
「だから、俺もまだ話を聞いてないんだよ。呼び出されたついでに、ゴンも呼んで来てくれ、って言われただけなんだから」
玄関の階段を下り、前庭を抜け、道へと出る。
ストラウスはふと月を見上げ、呟いた。
「――満月かぁ。満月の夜には、魔物だけじゃなくって人間も血の騒ぐって言うけど……さて、どうなることやら」
その独り言を肯定するように、頬を撫でるのは春にそぐわぬ生暖かい風。やけに狼の遠吠えや、犬が騒いでいるのが聞こえる。
「……なぁんか、やな感じだな」
立ち止まったストラウスの脇を、ゴンはさっさか歩いて行く。
「感慨にふけってる場合じゃないんでしょ? 僕は先に行くよ」
「お、この野郎。……ふっふっふ、俺に脚で勝てると思うてか」
ゴンを追って歩き出すストラウス――あと数秒、彼が月を見ていたら、気づけたかもしれない。
頭上に輝く白い月をよぎった、黒く巨大な影に。
―――――――― * * * ――――――――
二人が『灰色の岩山羊』亭に着いた時、一階の酒場は既に店じまいをしていた。
しかし、店の前にはオブリッツ監査官付きの護衛の衛兵が立ち、監査官自身も酒場のテーブルで彼らの到着を待っていた。シュラも同席している。
二人がテーブルに着いたところへ、年のせいで少し腹の出てきた宿屋の親父が、水の入ったコップを四つテーブルまで持って来た。
「ああ、これは……営業時間外に申し訳ありません」
オブリッツ監査官が律儀に頭を下げる。
親父は、監査官の肩を軽く叩いて笑った。
「いいってことよ、オブリッツの旦那。こんな時間にやろうってんだ、よっぽど大事な話なんだろ? 監査官って仕事も大変だねぇ」
「おそれいります」
恐縮仕切りに頭を下げる監査官。親父はちらと開かれた戸口の外を見やった――生ぬるい風が吹き込んで来ている。
「それに、明日あたり嵐になりそうだしな。そうなりゃ開店休業状態になっちまうから、稼げる時に稼いどかんと」
ストラウスが怪訝そうに眉根を寄せた。
「嵐? まさか。この辺りは春に嵐が来るようなところだっけか?」
「お前さん達は他所もんだから知らんだろうが、ここいらじゃ、今夜みたいな生暖かい風が吹いた翌日は必ず嵐になるのさ。もっとも、ここ十年ほどこんな夜はなかったがね」
「ここ十年ほど? どうして?」
ストラウスの問いに、おつまみを持って来た親父は肩をすくめた。
「さあなぁ。この辺りを根城にしてた嵐を呼ぶ化け物だか魔法使いだかが、十年程前に倒されたからだ――ってな話をここへ飲みにくる村のじじいが話してた時もあったな。ま、俺は信じちゃいないがね、嵐を呼ぶ化け物なんて。天気なんてものは、単なる神様の気まぐれだろ」
「そうだね」
一瞬、何か言いたげな気配を見せたものの、ストラウスはその一言で話題を収めた。
「そんじゃま、後は適当にやってくれや。俺は引っ込むからよ。用があったら呼びに来てくれ」
親父が奥へと姿を消すと、カウンターの傍に立つ衛兵が監査官に向かって深く頷いた。
「さて」
オブリッツ監査官は場が落ち着いたのを見計らって、咳払いをした。
「シュラ君、傭兵部隊で得た話を二人にもしてあげてくれないか?」
シュラは頷いて話し始めた。
狼男との会話で得られた情報、ヴァンパイアが話したという情報、それぞれとの戦い、そしてその事後処理。
「……第四、第五部隊は全滅してやがった。みな血を吸われてな。しかし、やった犯人の姿はなかった。ベリウスが噛んだ連中は、ベリウスを倒すことで呪いから解き放たれてたから、その二部隊については別の奴の仕業に違いない」
ストラウスは頷いて、訊いた。
「で、犠牲者はどうしたんだ? 処置するなり処理するなりしないと、目覚めたら……」
「ああ、わかってる。今、傭兵部隊の中から僧侶や司祭、魔法使いなどを選び出して、処置を続けてる。それに、この村に高名な司祭がいると聞いた。その人の助けも借りたい。ええと、ブラッドリーだっけな」
「リーじゃなくて、レイ。ブラッドレイ。僕がお世話になってる神殿の司祭様だよ」
ゴンは腕組みをしながら、少し不満げに漏らした。
「ただあの人、女の人とどっか出たまんまで、いつ帰って来るか……夜中になっても帰って来ないんだから、朝まで帰ってこないんじゃないかなぁ」
「それじゃあ困る。なんとかならんのかよ」
「まあ、そう焦るなって」
眉を寄せるシュラの肩を、ストラウスが軽く叩いた。
「幸い、犠牲者が完全にヴァンパイア化するには日にちがかかる。そのベリウスとかいう適応者みたいなのを除けばな。その司祭のことは、明日の朝に村人に訊いて捕獲しよう。そのあとは有無を言わさず傭兵兵舎に拉致監禁――」
「では、そちらの対処はそちらにお任せしてよろしいですね?」
話が危ない方向に飛びかけたせいか、オブリッツ監査官が不意に口を挟んだ。
「それとも、私の力が必要なことでも?」
一堂を見回す。ストラウスが首を横に振ると、ゴンもシュラも頷いた。
代表してストラウスが口を開く。
「多分大丈夫でしょう。言い方悪いけど、こうなったら官僚の出る幕じゃない」
「では、もう一つの懸念の方を」
オブリッツ監査官に促され、シュラは渋い顔で続けた。
「……傭兵どもがよー、契約違反だって騒いでんだわ」
「契約違反?」
ストラウスと共にゴンが不思議そうに首をひねる。
「何の話さ?」
「連中の雇い主、つまり契約主はマイク=デービスなんだが、事の真相を知った連中――特に、今現在することのない戦士・盗賊系の傭兵どもが、デービスにねじ込むって息巻いてんだよ。それを各部隊の組頭が抑えてるんだが――」
「戦士・盗賊系って頭悪いからなぁ」
問題発言をしれっと漏らしたストラウスに視線が集まる。
「一応、俺も盗賊系なんだが……」
苦笑いのシュラに、ストラウスはきょとんとした顔で答えた。
「知ってるよ? だから言ってんじゃない」
「………………い〜い度胸だ。てめえ、外へ出ろ」
立ち上がって、親指で店の戸口を指し示す。
「そうやってすぐキレるから、頭悪いって言われるんだよ。自分で証明してどうすんの」
「ぬぐぎがごげ」
ストラウスの冷たい眼差しに一言も言い返せず、両手を怒りにわきわき蠢かせて呻く。
シュラが新たな行動に出る前に、オブリッツ監査官がため息交じりに口を挟んできた。
「シュラ君によると、早ければ明朝にもデービス邸を無断で襲撃するグループが出かねないという状況のようです。監査官として、私はそれを見過ごすわけには行きません」
「ほっとけばいいと思うけどなぁ」
オブリッツの渋い表情を揶揄するように、ストラウスはへらへらっと笑った。
「今回の件、諸悪の根源はどう見てもマイク=デービスみたいだし、襲われても自業自得。いやむしろ、ラッキーかも。生きて引きずり出されれば、その場で今回の件も叛乱の件も問いただせるし、死んでも事がうやむやになるだけで――」
「馬鹿なことを言ってはいけません!」
珍しく声を荒げ、テーブルを叩いたオブリッツは激しく首を振った。
「契約違反の件は、巡回司法官が取り扱うべきもの。暴力に訴えていいものではありません。叛乱についても、あるのかどうかすら明らかになっていない以上、彼をその罪に問うことは出来ません。そんな彼を暴力的に扱ったり、あまつさえ殺してしまうなんて……。彼は領主なんですよ? 彼を襲うなど国への叛乱に等しいし、まず第一にあってはならないことです!」
「はぁ」
勢いに押されたストラウスはたじたじになって、ただ生返事を返す。
「まして、今回の件でデービス側の意図がより不明瞭になったとあれば、その真意を問いただす前に殺されてしまうような事態は、断じて避けなければなりません」
「じゃあ、どうするんですか?」
ゴンが口を挟んだ。不満そうに唇を尖らせている。
「傭兵とは言っても結局はゴロツキの集まりみたいなもの。監査官さんの正論なんて通じないでしょうし、国王陛下の権威だって通じるかどうか。彼らの暴発を力で止めようにも、こっちは僕達四人に加えて護衛の衛兵さん達四人だけですよ?」
「……密かにやっちまうか? 死なない程度によ」
シュラが拳をポキパキ鳴らしながら、危ない目で笑う。
しかし、腕組みをしたストラウスは首をひねった。
「得策じゃないなぁ。聞いた限りじゃ、組頭はこっちの味方なんだろ? ああ、味方というよりまともというか、分別があるというか」
「多少引っかかる言い方だが、まあそのとおりだな」
不承不承頷くシュラ。
「それを、暴発を防ぐという大義名分があるにせよ、部下を半殺しにされたら敵に回るんじゃないか?」
「ま、普通はそうだな」
「じゃあ、その案は却下だな」
「だったら、どうすんだよ」
苛ついた眼差しをストラウスに向けるシュラの脇で、欠伸を噛み殺しながらゴンが呟く。
「やっぱりここは、地道に説得をするしかないんじゃないかなぁ」
「――私が……雇いましょう」
オブリッツ監査官の唐突な一言に、三人は怪訝そうな目を向けた。
監査官は自分の中でその案の妥当性を確認したのか、誰にともなく頷いて繰り返した。
「うん。その傭兵部隊、私がまるごと雇いましょう。とはいっても、日雇いで二、三日というところですが。それぐらいのお金なら、何とか工面できます。額自体はあちらの契約より低くなるでしょうが、何しろレグレッサ王国の後ろ盾ですから払いはぐれることはありません。それに、それならもし暴発しても正当に処罰できる」
「またそれは……凄いことを」
ゴンの感嘆に、オブリッツはにっこり微笑んだ。口髭を得意げに撫でる。
「官僚は現場では役立たずですが、法律内で状況を変えることにおいてはどんな冒険者にも引けは取りません。なにしろ官僚の最大の武器は、法律の限界を知っていることなんですから。『現状のどこを変えればその法の限界内に事が収まるか』さえわかれば、後の対処は簡単です。それを可能にするだけの権限さえあれば、の話ですが」
「具体的にはどうするんですか?」
ストラウスの問いに、監査官はシュラを見ながら答えた。
「これから、シュラ君の案内で傭兵部隊の各組頭に会い、今の話を直接します。おそらく、反対はないでしょう。そうして各部隊の了解を取り付けた後、デービス邸へ赴きます。傭兵部隊を私の護衛として」
三人は目を見開いて驚いた。
オブリッツは続けた。
「今回の件でデービスを問いただす糸口が得られました。疑惑だけで問いただすのは難しいが、実際に傭兵部隊がおり、そのそれぞれが契約を結んでいたとなると、そうそう言い逃れは出来ない。そこから入って、今回の件の疑問を一つ一つ解き明かしてゆく。ここから先は私の戦いです」
「で、僕らはどうすれば?」
「決まってるだろ。もう住民への聞き込みは必要ないんだから」
ゴンの問いに答えたのは、ストラウスだった。
「ゴンと俺は第四、第五部隊の犠牲者の対応。何かわかるかもしれないし、師匠達への報告のためにも俺達が見ておく必要があるだろう。シュラは各組頭とオブリッツ監査官とのつなぎ、そして護衛。それから…………それから………………ええと、なんだろう。なんか忘れてる気が」
―――――――― * * * ――――――――
第三部隊兵舎で上半身裸になり、回復呪文の手当てを受けていたキーモは大きなくしゃみをした。
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しばしの間唸っていたストラウスの肩を、シュラは叩いた。
「まあ、そういうのは大抵思い過ごしだ。気にするな」
「……そうだな。んじゃま、それぞれの戦いに赴くとしようか」
その一言を合図に、四人はそれぞれに頷いて席を立った。