愛の狂戦士部隊、見参!!

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第二章 デービスの叛乱(その4)

 とっぷりと日の暮れた山道を、一人の男が歩いていた。
 グレイの命を受け、クリスをミアの村まで送り届けてきたベリウスである。
 ほんのり白く見える程度の暗い山道をさっさか歩いて行くベリウスの歩調に澱みはなく、その口許には薄笑いを浮かべている。
(運が回ってきたかな、オレにも……)
 くつくつと喉を鳴らして笑う。
 ベリウスは、モンスター退治というデービスの大義名分を信じてはいなかった。
(何かある。マイク=デービスという男、別の目的で傭兵をかき集めてやがる……しかも、オレの勘じゃかなりヤバいことだ)
 道の真ん中に転がっていた拳ほどの石を見つけ、ベリウスは何気なく避けた。
(ま、その目的がなんにせよ、うまく立ち回るに越したこたぁねえ。あの直情型の組頭をうまく操ってデービスに取り入るためにゃ、あの娘……あの婚約者はいいコマになる。あの娘さえ手なずけておけば、グレイの奴も――)
 ふと足が止まった。
 常人には見通せぬ暗がりに、先ほどと同じぐらいの石が転がっている。知らずに踏めば足を痛めるだろうし、馬車が踏めば脱輪しかねない。
「またかよ。危ねえな、おい」
 ベリウスは腰をかがめてその石をつかみ上げると、脇の藪に放り込んだ。
「やれやれ……。そういや、来たときにはなかったな。ってことは……どこの――どいつだ!?」
 叫びながら、瞬時に腰のショートソードを抜き放ち、虚空を一閃した。
 手応え無し。
 ベリウスは低く腰を落とし、周囲に気を放つ。
「……なにもんだ? さっきからオレを見てる奴……。出て来い」
 だが、返事はない。
「オレを相手に追剥ぎだってんなら、そいつはちとお門違いだ。どちらかってーと、オレはお前さんたちの仲間だぜ? これでもマックスハープの裏町じゃあ、ちっとは知られてるんだ」
 無言。
 返事だけではなく、気配すら感じない。にもかかわらず、背筋をチリチリと異様な寒気が駆け上ってゆく。確実に、何かがいる。
(……このオレ様に気配を悟らせねえたぁ……ちぃっとばかしヤバげだな。逃げるか?)
 元来た道を引き返すべく、じりじりと後退り始める。その間も、得意の舌を回し続ける。
「――追剥ぎじゃねえってんなら、まずは出て来て話をしようぜ。オレだって話のわからん方じゃない。お互いに得になるようにだな――……」
 ぽん、と背後から右肩を叩かれた。その刹那、身体が凍りついた。
 比喩ではなく、右肩から全身の体温が一瞬にして奪われた気がした。走って逃げるどころではない。立っていられず、その場に膝から崩れ落ちた。
(な……何が起きやがった……)
 かろうじて這いつくばることだけは耐えたが、全身が痺れ、膝立ちのまま動けない。手からショートソードが転がり落ちても、そちらに顔を向けることすら出来なかった。
 全身の感覚でわかるのは、肩に手が置かれていることだけ。服と革製の鎧の上から触れられているにも関わらず、肩が凍り付いてゆく冷たさが手の形として感じられる。
「なぐ……あ…………か…ふ……」
 声も出ない。急速に視界が狭まってゆく。
 闇の向こうで輝く赤い二つの点、それがベリウスの見た最後の光景だった。
 首の辺りでぶつりと何かが破ける音がして、ベリウスの意識は混濁した。

 ―――――――― * * * ――――――――

「――何をしている!」
 カンデラを手にした人影の誰何に、少女はにっこり微笑んだ。
 口許から長く伸びた犬歯が光を弾く。それは血にまみれていた。
「……あら、無粋ですこと。見ての通り、お食事ですわ」
 目のパッチリした少女は、悪びれた風もなく言った。年はまだ十歳にもならぬほど。豪奢な金髪に、異常なまでに白い肌、コバルトの瞳。服は黒を基調にフリルをふんだんに使った、やや時代がかったドレス。見た目には上級貴族の子女、もしくはアンティークドールだ。
「村人には、手を出さないとの約束のはずだ」
「あら、約束は破っておりませんわ。よく御覧なさいな、この方は……」
 少女は木靴の先で傍らにうつ伏せる人影を蹴った。ごろりと転がった人影がカンデラの照らす光の輪の中に入ってきた。
 恐怖に凍りついたまま息絶えたのか、見るに堪えない表情をしていた。
「……デービスの集めている傭兵か」
「ええ。そろそろ充分な数も集まりましたから。……それに、国王が感づいているとか……?」
 少女とは思えぬ凄艶な流し目に、カンデラを持つ男は怯えたように少し後退った。
「そんな目で私を見るのはよせ。私は――」
「ふふ、小心者ですものねぇ……ま、あなたに何かを期待しているわけではありませんわ。ただ……」
 少女は男に背を向けた。その先、大きく曲がった山道の向こう側にポツリポツリと明かりが見える。ミアの村の明かりだった。
「ただ……?」
「今宵はよそ者が村にも多くいらっしゃるようですわね。乙女もいらっしゃるようで……」
 少女は再び足元の男を軽くつま先で蹴った。
 カンデラがぶるぶると揺れた。
「村に……下りて来られると……?」
「あの方は飢えておられます。最近はなかなか乙女も少ないと、お嘆きです」
 その口調に含まれた責めるような響きに男は何も言わず、歩き出した。少女の脇を抜け、村の明かりへと歩を進める。
 すれ違いざま、男は呻くように漏らした。
「……私がそちら側と交わした約束は、ただ一つ。村人に手を出さぬこと、それだけだ」
 闇に沈んだ少女は、ウフフ、と嗤った。

 ―――――――― * * * ――――――――

 この村で造ったというワイン、丸々太った七面鳥の丸焼き、焼き立てのパン、その他色とりどりの料理がテーブルを飾る。
 どれもこれも、新しく赴任してきた若い司祭を歓迎するため、近所の人たちが持ち寄ってきたものだった。
 神殿を中心にした会場はお祭り騒ぎになっていた。騒ぎを聞きつけてさらに村人が集まって来たため、パーティが始まって2時間が過ぎた頃には、もはや全ての人が初期の目的を忘れ、ただただ飲んで食べて陽気に騒いでいた。主催者であったはずのブラッドレイ司祭からして、両脇に女性を抱きかかえてどこかへ姿をくらませてしまった。
 誰かが楽器を弾き始めた。手拍子が加わり、歌が流れ、踊りが始まった。
 誰も彼もが笑っていた。
 最初は自己紹介と握手責めにあっていたゴンも、その頃にはようやく落ち着いて神殿正面の階段に座り、村人の踊りを見ながら食事をとっていた。
「……あれ?」
 踊りの輪の中に、見知った顔があった。麻のチョッキに黒いセーターとズボン……ストラウスだった。同じ年頃の娘と手に手をとって踊っている。
 やがて一曲終わると、ストラウスの方でもゴンを見つけ、相手の娘の手をとって近づいてきた。
「よう、ゴン。なんだ、一人で食事か。さびしいなぁ。…ゥイック」
「うわ、くさっ……」
 あまりの酒臭さに顔を背けて鼻をつまむと、ストラウスはなぜか高笑いをあげた。
「んなはははははは、鍛え方がたら〜ん」
 かなり酔っているようだ。顔も赤い。そのだらしない口調に、ゴンは心で舌打ちをした。
「そういう問題じゃないだろ。だいたい、なんでストラウスがここにいるのさ」
「ふっふっふ、紹介しよう。今日から俺が厄介になる農家の娘さんで、ミリアさんだ」
 紹介された娘は、ぺこっと頭を下げた。後ろでまとめた長い黒髪が揺れる。年は16、7だろうか。背は高からず低くからず、農家の娘にしては上品で物腰の柔らかな雰囲気を持っている。鳶色の瞳に知性の閃きが輝き、いかにも利発そうに思えた。
「あの、ミリアです。よろしく、新しい司祭様。え〜と、……なんてお呼びしたらよろしいですか?」
 差し出された手を握り返し、ゴンは愛想よく微笑んだ。
「あ、ゴンです。よろしく。しばらくこの村でご厄介になります」
「……ゴン司祭様って。結構ごつい手をしてるんですね」
 握り合う手をじっと見下ろすミリアに、ゴンは少し頬を染めた。
「ごつい手はお嫌いですか?」
 手を離したミリアは、両手を振って否定した。
「いいえ、とんでもない。うちは農家ですから、父も祖父もこんな手でした。でも、ジョセフは衛兵なんて仕事してる割りに結構きれいな手だし、農業技術顧問のはずのマーリンさんもそんなに力強い手をしてないし」
「ぬはははは、男は力より速さっ! 拙速は巧遅に勝るといってぇ」
「節足は耕地……? よく、わかりません」
 酔っ払いの戯言を真に受けて、小首を傾げるミリア。
「ああ〜、つまりぃ――」
「もういいから。ストラウス、酔いすぎ」
 びし、とストラウスの顔にチョップでつっこみを入れると、ミリアは思わず吹き出した。
「お二人って、仲がいいんですね。……あ、そういえばお二人はどういう関係なんですか?」
「「腐れて爛れ切った縁です」」
 二人の声が重なり、ミリアはまたころころと笑った。
 ミリアの背後で、新しいダンスミュージックが流れ始めた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 しばらくして、ゴンとストラウスは神殿の裏手にやってきた。ミリアは新しい踊り手と踊っている。
 人気がないことを確認したストラウスの表情が引き締まる。
「……手短に話そう。仕事の件だ」
 初めから酔っていないかのような、しっかりした口調。
 ゴンも頷いて、表情を引き締める。
 ストラウスは伊達眼鏡を外した。
「今日一日関所にいたが、色々わかった。まず、衛兵の間では国王陛下がデービスの領地を取り上げようとしている、という噂が流れている。いや、もう噂じゃないな。ほとんど既成事実のように言われている。で、その口実を探すために、グラドスから密偵が送り込まれると踏んで、連中はあんな必死になってるんだ。結構忠誠心が篤いのか、裏で金が動いているのか」
「ふぅん……でも、グラドスから出る時はそんな話なかったよね。陛下、僕らには隠しておいたのかな?」
「俺達がトラブルメーカーとして期待されてる、という可能性もあるけどな。つまり、俺達自身が口実だ」
「ありえない話じゃないけど……うちの師匠達も、陛下もそんな回りくどいことする人じゃないでしょ。やる時は真っ向勝負で叩き潰すタイプだよ、みんな」
「確かになぁ」
 ストラウスは苦笑して、頭をぽりぽり掻いた。
「話を戻そう。そんなわけで衛兵部隊の連中、血眼になってるがあれじゃダメだ。練度が低すぎてお話にならない。あれじゃあ見たこともないキノコを山の中で探しているようなものだ。密偵なんか捕まるわけがない。だいたい、俺達以外に密偵なんかいないだろうし」
「だよねぇ。全員滞りなく関所を通過したわけでしょ? ものの見事に見逃してるよね」
「ただ、密偵の潜入を恐れるということは、それだけの陰謀がここにあることの証かもしれない。衛兵達を煽る嘘を流しておいて、裏で別の……叛乱の準備を進めているとか。そこから先はわからなかったが、衛兵達の話を聞いている限り、モンスター出現の話は傭兵を集めるためのガセネタ臭いな」
 ストラウスの報告を聞き終わったゴンは、頷いて話し始めた。
「僕の方もパーティに来てくれた人たちから、それなりに探ってみたけど……村人は何も知らないみたい。傭兵のことも、モンスターが出たとかいう話も。ただ……」
「ただ?」
「ここ三月で、マイク=デービスの様子が変わったっていう話はよく聞いた。前は良い領主の見本みたいな人で、暇があれば領内を見回っては村人と触れあっていたそうなんだけど、今じゃ館にこもりっきり。使用人もあらかた追い出しちゃって、新しく雇い入れたのはゴロツキっぽい連中や、色っぽい商売女風の連中ばっかりなんだって」
「……そのきっかけになるような事件でも?」
 ゴンは両手を広げて、首を振った。
「村人もなんでそんなことになったのか、わからなくて困惑してる。十年前に赴任してきた領主でさ、家族や親族もいないから、誰も事情がわからなくてさっぱり。ただ、これまでの実績がある人だからね、一時の気の迷いってことでいずれ目を覚ますのを待ってるみたい」
 ストラウスは舌打ちをして、眼鏡のツルを口にくわえた。
「道を誤った奴は、ひっぱたいて戻すもんだ。見てたって何も解決しないってのに」
「でも…………変だと思わない?」
「なにが?」
「そんな引きこもってる人がさ、なんで傭兵なんか集めてるんだろう。第一、関所で傭兵集めなんてしてたら、バレバレじゃない? 師匠たちでなくても怪しいって思うよ? 全体的に見ると、レグレッサに反旗を翻すにしてはなんだか杜撰っていうか、無計画というか……ほんとに叛乱なのかなぁ?」
 ふむ、と頷いて腕を組んだストラウスは、顎を撫で撫でしばし考え込んだ。
「確かに、叛乱や独立闘争を画策しているにしては大雑把だよな。こういうことはどこまで秘密裏に事を進められるか、が肝のはずなんだけど……。とすると……レグレッサへの叛乱が目的じゃない、か」
「どういうこと?」
「わからん。独立闘争でも、他の領地への侵犯でもないとしたら、百人もの傭兵を抱える目的はなんだ……? それとも、これらは密偵の潜入を前提にしたポーズで、やっぱり裏では別の計画が進んでいるのか?」
 ストラウスは神経質そうに眼鏡のツルをかじりつつ、じっと考え込んでいる。
 ゴンは考えるのを諦めたような、溜め息をついた。
「まあ、その辺は本人に聞かないとわかんないんだろうねぇ。考えれば考えるほど、泥沼にはまりそうな気がするよ。そういえば、オブリッツ監査官の方の首尾はどうだったんだろう。今日デービス邸に行ったはずだろ?」
「そうだな……」
 ストラウスも諦めがちの溜め息をついて、眼鏡のツルを口から吐き出した。
「これまでの情報を監査官に伝えて、その判断を仰いだ方がいいな。向こうも情報を待ってるだろうし。とはいえ……」
 ストラウスは夜空を見上げて、頭をぽりぽり掻いた。
「シュラ達の情報はどうしようか。傭兵隊兵舎は山奥で、そうそう抜けては来れないだろうし……」
「つか、あの二人だと早々に火ぃつけちゃいそうだよねぇ。叛乱軍に対する叛乱とかいって」
 脳天気に笑うゴンに対し、ストラウスは本気で蒼ざめた。
「笑い事じゃない。あいつらならやりかねん……」
 厳しい面持ちで眼鏡をかけ、ゴンを見やる。
「俺は監査官と連絡を取ってみる。ミリアさんには飲み過ぎで帰ったと伝えておいてくれ。それじゃ」
 ストラウスはそのままゴンの返事も待たず、少し千鳥足気味に街道の方へ歩き去った。
 その遠ざかる後ろ姿を見送りながらゴンは不安気に呟いた。
「やれやれ、あの二人、師匠達の慎重に行動しろってセリフ、覚えてるかなぁ」

 ―――――――― * * * ――――――――

(……変だな……)
 マイクが集めている傭兵部隊の第一部隊兵舎のロッジの屋根の上に、黒尽くめの装束に、口許を覆い隠す覆面姿のシュラの姿があった。
 胡座座りで腕を組み、周囲の風景を見回す。
 傭兵部隊は総勢百名。二十人づつの部隊に別れ、五つのロッジを占拠している。ロッジはこのために急遽新築したものらしく、まだ木のかぐわしい香りが漂っているほどだ。
 シュラが不審を覚えたのは、その立地だった。五つのロッジがそれぞれ結構離れている。地上からではまったく見通しが立たず、この屋根の上からでもようやく隣の第二部隊兵舎の屋根が見える程度だ。他の三棟は森に埋もれて、灯りすら見えない。
 百人の荒くれによる想定外の一悶着を避けるためだとしても、少し離れすぎだ。この距離は安全確保というよりは、隔離に近い。
(……なんだ? これが意図的なものだとしたら、これを建てた……建てさせた奴は、なにを考えてるんだ?)
 シュラは背後にそびえる山を振り仰いだ。今日の入隊受付での説明では、その山の向こうにドラゴンが潜んでいるとのことだった。
 だが、ドラゴンは飛べる。山など障壁にならない。にも関わらず、こんな近くに五つも兵舎を設営した上、五つともろくに連携が取れないような距離にあるのはドラゴンを舐めているのか、それとも別の思惑があるのか……。
(例えば、オレたちを生贄に……違うか。まあ、女の傭兵もいないわけじゃないが、大半がむさくるしい男だしなぁ)
 乙女好きのドラゴンの逸話や伝説は山ほど聞いたことがあるが、男好きのドラゴンの話は聞いたことがない。まして、美少年とか幼子とかいうのならともかく、血と汗と埃にまみれた男など。
(ああ、珍味好きか……? いやいやいや、それはないな)
 苦笑しながらもう一度山を見る。真円に近い月が、山の稜線から姿を現わしつつあった。
(明日辺り、満月か……。あ〜、だめだ。こういうごちゃごちゃしたこと考えるのはストラウスの領分だ。オレの領分じゃねえや)
 音をさせぬよう、ごろりと寝転がって夜空を見上げる。
(……なんにせよ、何かが引っかかるんだよな、ここ。何かがずれてるような……叛乱を企んでいるとも――)
 シュラはすっと目を細めた。人の気配――ロッジの裏口側だ。
 猫のようなしなやかな動きで身を起こし、屋根の上を移動する。
 裏口は、すぐそこまで迫る森の陰になっており、夜は真っ暗闇になっている。シュラが持つ暗殺者の技能でも、容易には見通せない。しかし、話し声は聞こえてきた。本人達は声を潜めているつもりなのだろうが、シュラの耳にはまる聞こえだった。
「わしじゃ」
 少しかすれた風な声。聞くからに年の頃は初老ぐらいだろうか。口調、声の出し方、息継ぎから考えて、少し前屈みの小男だろう。発音に変な被りがあるのは、口元にヒゲを生やしているのか、それとも口の中に何か出来物があるのか。
「……あんたか……。いよいよか?」
 応えた声の主は、若い男だ。とはいえ、シュラよりは年上――二十四、五といったところか。腹に力の入った声の出し方からして、戦士系の傭兵だろう。ただ、なぜかその口調に、はっきりと興奮と喜びが感じられる。それも、なにやら邪悪な雰囲気の。
 シュラは念には念を入れ、一層深く夜闇に沈む自分をイメージした。そうして自分の気配を限りなくゼロに近づける。
 下の二人はシュラに気づいた風もなく、会話を続けていた。
「ああ、いよいよじゃ。ナーレム様とノルス様も、たいそうお楽しみにしていらっしゃる。何しろ、この計画がうまくいけば、あのお方の手ゴマが一気に増えるだけではない。この計画を発案したお二人もより深く寵愛を受けられるであろうからな。……なんにせよ、あのお二人にはそれしか興味はないが」
「俺もそういうことにはあまり興味はない。ただ暴れたいだけだ」
 舌なめずりする気配。
「では、ここと第二部隊兵舎はお主に任せるぞ。せいぜい仲間を増やすがよい」
「ああ、任せておいてくれ。……満月も近い。あんたからもらった力は――誰だ!!」
 シュラは顔を曇らせた。自分のことではないはずだ。気配は完全に殺せているはず。しかし、周囲に他の人の気配はない。
「……そこの、屋根に潜んでいる奴……隠れても無駄だ。気配を消していようと、その匂いまでは消せない。出て来い」
(匂いだ?)
 暗殺者という稼業ゆえ、シュラは匂いには人一倍気を使う。匂わせない術に加えて、匂いを変える術も学んでいる。この第一部隊兵舎での情報収集に当たっては、可能な限り匂いは消したはずだ。よほど訓練された犬でもない限り、嗅ぎ取るのは不可能――。
 考えている間に、相手が動いた。
 大地を蹴る気配――次の瞬間、そいつは屋根の上にまで飛び上がってきた。
「なに!?」
 盗賊ならともかく、戦士系の傭兵の技術ではない。
 大雑把な着地に屋根が派手な音を立てる――やはり、この男は盗賊の技術を持っていない。となると、力ずくで飛んだのか。
 シュラは大きく跳び退った。こういうわけのわからない相手は、間合いを取るに限る。
 屋根の上に上がってきた戦士は、低く唸った。
「――若造、わしは帰るぞ」
 下から、初老の男の声が聞こえた。
 戦士はちらりと背後に視線を向ける。
「明日、この時間にもう一度来る。命じた仕事を済ませておけ」
「了解了解、軽いもんだぜ。まずはこいつから片づけてやる」
 くっくっく、と含み笑いを残し、老人の気配が消えた。
 戦士はシュラを睨んだ。
「さぁて……んん? ほほぅ、貴様、今日来た新入りか。こんなところで何をしていた?」
「月がキレイなんでな。月見酒としゃれ込もうと思ったが、どうもそうはいかないみたいだな」
 懐に手を差し込み、いくつかの道具を探る。相対する戦士の目はやたらと光っている。
「月見酒か……それはいいな。だが、後回しにしてもらおう――」
 男の姿が変わり始めた。全身から剛毛が生えてきた。口と鼻が前方へとせり出し、牙が伸びる。体格が一回り以上大きくなり、衣服が内側から膨れるように破けた。そして、凄まじい獣臭が漂いだす。
「ライカンスローピィ……狼男かっ!!」
 シュラは再び大きく跳び退った。狼男の身体能力は強烈なものがある。特に、満月を控えた今日の夜などは、これだけ距離を置いても安全とは言い切れない。
 人型の狼と化した男は、山の端にかかる満月に向かって吠えた。
 太く、長く、そして長く長く長く長く伸びる咆哮。
 その凄まじい声量に、シュラの足元の屋根板がびりびり震えている。屋根の下でもその声に気づいた傭兵達が騒ぎ始める。
「――ふっふー。新入り、この力はいいぞ。貴様にも分けてやろう」
 シュラは瞬時にその言葉の意味を悟った。仲間を増やす気だ。
 ライカンスロープ――狼男や熊男など、人の姿から獣の姿に変身するモンスターは、ライカンスロープ病という病気を持っている。たとえ目の前のライカンスロープを倒したとしても、その戦いの最中に傷を負わされていた場合、その病により自らが次のライカンスロープとなってしまう。
 その病を癒す方法はある。だが、ゴンやストラウスならともかく、門外漢のシュラにはわからない。今わかるのは、迂闊に傷つけられるわけにはいかない、ということだけだ。
 屋根の端と端で睨み合う。
 狼男はゆっくり近づき始めた。
「くくく……新入り、諦めろ。今のオレに対して抵抗も逃走も不可能だ。満月の近い今、この身体は無敵の再生能力を誇り、この鼻はどこへ逃げようとその微かな匂いを捉える。そもそも、貴様からは銀の匂いがしない。俺の身体を傷つけるには、銀か魔法の武器が必要だぞ」
「そいつはご丁寧にどうも……」
 シュラは懐に手を入れたまま、じり、と退がった。
 踵が宙に浮く。後がない。騒ぎを聞きつけた傭兵達が出て来て、屋根の上のシュラに何か叫んでいる。
 狼男が長い舌で、口許をなめずりまわした。
「……飛び降りるか? いいとも、オレもそっちの方が面倒がなくていい。みんなぶちのめして、明日には狼男軍団の出来上がりだ」
「狼男軍団……?」
 シュラの眉間で何かが弾けた。
「そうか、それが目的か! モンスターなんぞはいなくて、集めた傭兵をみんなライカンスロープ化させて、無敵の軍勢を作ることが目的……マイク=デービス、何てことを考えやがる!!」
「マイク? ああ、あのおっさんか。あいつがこんなこと考えるわけなかろう――まあいい、貴様も仲間になれば全てわかるさ。もっとも、その頃には反抗する気も失せてるだろうがな」
 狼男は屋根の半ばまで来ていた。
(マイク=デービスは黒幕じゃないのか? 師匠どもの言ってた通り、裏で糸を引く奴がいるってことか!!)
「さあ、観念しろっ!!」
 狼男が一足飛びに迫ってきた。
 シュラは懐から小さな袋包みを取り出しつつ、左手で鋼糸を放った。
「ラリオス暗殺術、鋼糸殺法、条の奥義その五――『蜘巣陣』!!」
 鋼の糸で織られた蜘蛛の巣が、突進してくる狼男に覆い被さった。そして、自分は屋根から身を躍らせる。
 足元で驚きの声があがった。
 その輪の中に、三回転半のトンボを切って着地したシュラは、周囲の傭兵達を押し退け、叫んだ。
「モンスターだ!! 狼男が出やがった! 魔法使い、神官、司祭が頼りだ! 他の連中は――」
 ドン、と重い音を立てて狼男が降って来た。身体にまとわりつく鋼糸を力任せに剥ぎ取り、周囲の傭兵達に凶悪な笑みを向ける。
「ぐふふふふ、無駄だ無駄だ。全員仲間になるんだよ」
「そうは行くかっ!!」
 シュラは右手に持っていた小さな袋包みを投げつけた。同時に左手を伸ばして鋼糸を飛ばす。
 狼男が首を傾けて袋包みを避けた刹那、追い討ちで放った鋼糸がその袋に突き刺さり、引き裂いた。白い粉が周囲に撒き散らされ、狼男の顔が一瞬、隠れた。
「ぐおあっ……こ、これは……ぐほっ!! げほっ!!」
「高価な麻薬なんだぜ、それは。おおっと、気をつけな。そいつは幻覚作用が強くてな、あらゆる感覚が狂う。それと、これもおまけだ」
 よたよたと足元のおぼつかない狼男の鼻先に、中くらいの皮袋を投げつけた。それも鋼糸によって真っ二つにする。
 今度は何も飛び散らなかった。しかし、たちまち、異臭が漂った。あまりの臭さに、近くにいた傭兵達も鼻をつまんで逃げ出す。
 まして、通常より鼻の効く狼男にとっては――狼男は鼻を抑えてのけぞり倒れ、転がり回った。
「ぐ、ぐおおおおおおおおっっっ、何だこれはぁぁあぁっっ!! は、鼻! 鼻が痛えええええ!!」
「麻薬でラリった鼻にゃ余計にズンと効くだろう。オレとキーモが半年かけて溜めた屁だ!!」
 シュラの周囲にいた傭兵が、一斉に後ずさった。
 そんなことには気づかず、シュラはにんまり悪党スマイルを浮かべ、もんどりうって悶絶する狼男を見下ろした。
「あとはここの傭兵達に任せるぜ。オレはお前らの悪巧みを防がにゃならんからな。――あばよ」
 シュラの右手が振り下ろされる。
 ぼん、と煙幕が焚かれ――白い煙が消えたとき、シュラの姿も消えていた。


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