愛の狂戦士部隊、見参!!
第 0 章(閑話 その7) 帰還
レモンのような十三夜の月が、空の真ん中にぽっかり浮かんでいる。
珍しく狼も吼えぬ――どころか、虫も鳴かず風すら止んで、ひたすら静寂だけが村を包んでいた。
午前二時。たいていの生者にとっては平和な眠りの時間。
しかし、その眠りは唐突に破られた。家を一つ薙ぎ倒す、凄まじい大音響とともに。
―――――――― * * * ――――――――
様子を見に集まってきた村人たちはその光景に息を呑んだ。
村外れの水車小屋は瓦礫の山と化していた。
どんな壊し方をすればこうなるのか、村人には見当もつかない。地震で倒壊してもここまで、というほどに原形をとどめず、跡形もなく壊し尽くされた水車小屋。
「……なんだ、これは。いったいなにがあったんだ?」
「竜巻……って感じじゃないな」
呆然と残骸を見上げる村人が呟く。
「そんなことより、エルケルじいさんは大丈夫なのか」
「いやぁ、この有様じゃあとても……」
水車や小屋の残骸が水路を塞ぎ、辺り一面には水が溢れ出している。
口々に騒いでいると、彼らが来た方角から新たな破壊音が轟いた。
木材を引き裂き、レンガ壁を打ち崩す異様な騒音が、静寂を破って夜空に響き渡る。
「おい、今のは……」
「村長の家の方角だぞ」
「一体、何が起きてるんだ!?」
「わからんが、ひとまず村長の家だ!」
色めきたった村人達は、慌てて音のする方向へと元来た道を戻って行った。
―――――――― * * * ――――――――
凄まじい破壊音と共に襲ってきた突き上げるような衝撃に、離れで寝ていた長老フュルフは寝台から投げ出された。
「ぬおおっ、なんじゃなんじゃ!?」
慌てて辺りを探って倒れていた杖を拾い上げ、身体を起こす。
木材がへし折られる音、瓦が落ちて割れる音、レンガ壁が崩れる音……地震とは明らかに違う暴力的な破壊音と震動、衝撃は続いていた。
窓から外を覗いたフュルフは目を疑った。
月明りの下、立ち込める粉塵の中で何か黒く大きなものが動いている。
「……なんじゃ、モンスターか?」
その姿は、それが振るった物の風圧で粉塵が吹き散らされた瞬間にはっきりと見えた。
およそ人が着られるとは思えぬほど巨大で、月明りに黒光りする鎧。それが、人の背丈を遥かに超える巨大な斧を振りかざし、母屋を力任せに壊している。
母屋には、この夏に村長の座を譲った息子夫婦と三人の孫が寝ていたはず。
フュルフは真っ青になって離れの自室を飛び出した。
―――――――― * * * ――――――――
フュルフが外へ飛び出すとほぼ同時に、騒ぎを聞きつけた村人達が駆けつけてきた。
「あ、あ……村長の家が……」
一様に、目の前に展開されているあまりに悲惨な状況に唖然として息を呑む。
「おい、何だありゃ……!?」
もうもうと立ち込める土埃の中で巨大な戦斧が振るわれるたびに、一瞬巨大な漆黒の鎧の姿が垣間見え、同時に手当たり次第に家が壊される凄まじい破壊の音が響き渡る。
もう、そいつが何を壊しているのか誰にもわからない。木造物、石造物、レンガ、小物……あらゆる物が同時に壊される音だった。
「でかい……でかすぎる!」
「エルケルじーさんの水車小屋もこいつが……!!」
「モンスターなのか?」
そこへ、呆然と立ち尽くしていたフュルフが裸足のまま、白い髪もヒゲもを振り乱して走り出た。
「もう、もう、やめてくれ! そこにはわしの息子夫婦と、孫たちが……やめてくれっ!!」
半狂乱になって喚く老人を、手近にいた村の者達が必死で追いつき、止める。
漆黒の巨鎧が振り返った。
夜空よりも黒い角付きの兜の奥で黄色く澱んだ光が灯っている。それが、新たな獲物を見つけて嬉しげに明滅した――その時。
「……マルムーク、そーこーまーでっ」
甲高く、甘ったるい笑みを帯びた少女の声。
村人の眼は、声の主を探して虚空を彷徨い――見つけた。
崩れかけた母屋の屋根の上。十三夜の月を頭上に立っているのは、細身の鎧武者のシルエット。胸や腰のラインを見るに、女の騎士のようだ。そして、兜の後ろからは長い髪がたなびく。
若者に組み付かれたまま、フュルフの表情に動揺が走った。
「お、お主は……確か、伯爵の城におった……女騎士……」
フュルフは覚えていた。村にいた役立たずの厄介者の孤児を生贄に差し出しに行ったとき、城門で応対に出た美しい女騎士を。
村人がざわめいた。
「ま、まさかこいつは伯爵からの遣いってことか!?」
「けど、なんでこんな」
フュルフは身を投げ出すようにして若者達の手から逃れ、這いずって前に出た。
「ノルスか!? あの小汚い浮浪児が何か粗相をしおったのか? それでこんなことを!?」
「あいつか……あのガキ、なんてことを」
「さっさとくたばりゃいいものを、最後まで面倒かけてくれるぜ」
フュルフの後ろで唾を吐き捨て、悪態をつく村人。
その時、再び愉快そうに声が響いた。
「そんなことはなくてよ。伯爵様はその小汚い浮浪児のことをいたくお気に召されておられましたもの」
女騎士のシルエットは身じろぎもしない。
フュルフはひざまずいた姿勢のまま、杖にすがりつき問い返した。
「なら、なぜじゃ! 伯爵が気に入ったのなら褒められこそすれ、このような、このような無体を受ける筋合いなぞありゃあせんじゃろうが!!」
「だって、これは伯爵様の御意志じゃなくてぇ――」
クスクス笑いを漏らしながら、本当の声の主が現われた。
女騎士の後ろから、その胸ほどの背丈の新たなシルエットが。
「わたくし、ノルス=エル=シェッドラントの意志ですもの」
いささか場違いなフリルドレスのシルエット。夜目にも白い肌。
少し眼を細めてその陰を覗き込んだフュルフの顔が、たちまち負けじとばかりに蒼白になった。
「お……お主……! お主、ノルス!! ノルスかっ!?」
ネスティスの横に並んだノルスは、月光を浴びて白銀に輝く髪をすっとすき上げ、首を少し傾げてみせた。
「ウフフ。お久しぶりね、フュルフ前村長。それにシレッケ村の皆さん?」
にっこり笑う口許に、白い牙が光る――同時に、瞳が紅く光った。
次の瞬間、その場にいる者全てが不自然に動きを止めた。
「な……なんじゃ……身体が……」
「か、身体が動かない」
「どういうことだ!?」
呻きと悲鳴が交錯する。その声を、ノルスは心地好さそうに聞いていた。
「ヴァンパイアの力の一つ、金縛りよ。わたくしの眼を見た者は全て、自らの力では指一つ動かせなくなるんですって。わたくしも使うのは初めてだけど、結構面白いものよね。ウフフフフ」
「ノルス、お主なぜこんなことを……何をしておるか、わかっておるのか」
「もちろんよ、フュルフ長老様」
怒りに顔を歪めているフュルフの呻きを、ノルスは涼しげに笑い飛ばした。
足のつま先でこんこんと屋根を叩き、足元で無残に残骸の山と化した母屋の半分を示す。
「一言お礼を言いたくて帰って来たのに、家に入れなくて。急きょこちらで入り口を作っちゃったの。でも、このマルムークは細かい作業が出来ないし、何事も大雑把だから……どこが入り口だかわからない状態になっちゃった。ごめんなさいね。うふふ」
ノルスが笑えば笑うほど、就寝中の息子家族を奪った理不尽な行為への怒りが湧き上がる。
フュルフはぎりぎりと歯噛みをした。その瞳は、視線でノルスを絞め殺そうとするかのように白くか細い首にかかっている。
「……今さら村に何用じゃ! お主の居場所はもう、ここではないぞ!」
「あら、今言ったじゃない。やーねー、長老ったらもうボケが始まったの?」
ノルスはからからと笑った。フュルフの頬が引き攣る。
「とりあえずはお礼を言いに来たの。生贄に差し出してくれたおかげで、エル=シェッドラントなんてお名前もいただけたし、こんな綺麗な服も着せてもらえたしぃ――」
屋根の先で、くるっと回ってみせる。スカートの裾がふわっと舞い踊った。
「気分もとっても素敵。生まれて初めて、何にも怖がらず、何にも気兼ねすることなく好きなことが出来るようになったの。だから、ありがとうって、ね。ウフフフフ」
軽く頭を下げる。その表情は実に幸せそうだった。
その笑顔が、余計に長老フュルフの癇に障る。少女の足元には、息子家族五人が埋まっているのだ。
「ならばこそ、余計にこのような無体を働かれる覚えはないわっ! なんという非道を……」
「それはしょうがないわよ。だって、穴を空けたのはお礼を言うためだけど、今の村長さんを殺したのはぁ――『お仕置き』だもの」
その瞬間、少女の笑顔は全く別のものに変わった。邪悪ささえ漂う、冷たい笑みに。
「お、お仕置きじゃと!? なぜじゃ、お主を伯爵が気に入って、お主もその境遇に満足しておるなら、わしらが仕置きを受ける筋合いがどこにあるんじゃ!!」
「自分で言ったじゃない、今」
「なに? なんじゃと?」
意味がわからずうろたえる老人に、少女は冷笑を浴びせながら説明した。
「畏れ多い話よね。いくら生娘といっても小汚い浮浪児。しかもあんな薄汚い身なりのままで、風呂にも入れずに連れてくるなんて。これって、どう考えても伯爵様を侮っているか、喧嘩を売ってるってことでしょ? そんな礼儀知らずはお仕置きされて当然じゃなくて? 何か言い訳はある?」
長老は顔面蒼白になって黙り込んでしまった。背後に居並ぶ村人も沈黙している。
たっぷり十秒もその沈黙を楽しんだノルスは、改めて宣言した。
「それじゃ、お仕置きの続きということでぇ――」
「待てっ! 待たぬかっ、ノルス!」
フュルフの思いつめた声が、ノルスを遮る。
「もう……もう、そこまでにしておけ。この老いぼれと村長家族の命。これだけあれば伯爵への侘びには充分じゃろう。じゃから、他の村人には手を出すでない……」
今にも地の底へ沈んで行きそうな、沈うつな声。
「長老!?」
「フュルフ様!?」
「ん〜……と。足りるかどうか決めるのはあなたじゃなくて、私たちなんだけどなぁ……でもまあ、いいわよ?」
首を傾げて考えていたノルスは、意外にもこっくり頷いた。
「じゃあ、その件はここと水車小屋でお終いにしてあげる。……まだお仕置きしなくちゃいけないことはあるしね、ウフフ♪」
月明かりに冴え冴えと輝く、悪魔の笑み。
村人がざわついた。
ノルスは指を折って何かを数えた。
「んと、伯爵様が五回、わたくしが……お主にあいつ呼ばわりを入れて、全部で十一回だったわよね。あと、ネスティスの分も入れちゃおっか」
「な、何の話じゃ?」
「呼び捨てにしたでしょ? 伯爵様と伯爵様の傍女であるわたくし、それにその使いであるネスティスに対して、その口の利き方はちょっと礼儀を欠いているんじゃない? お仕置きしなきゃでしょ♪」
「そ、それは……」
「礼儀知らずは年寄りの責任よね。じゃあ、この件では村の年寄り全部に死んでもらいましょ。あと、見せしめも兼ねて、わたくしたちへの敬意を忘れないように、家という家も全部潰しておきましょうか。誰が支配者なのか、肝に銘じておくといいわ」
少女が浮かべた無邪気なのか邪悪なのかよくわからぬさわやかな笑みに、村人は戦慄した。そのことを口にすることに、全くためらいが感じられない。つまりそれは、実行することにもためらいなく進むということだ。
村人が絶句している間に、少女は続けていた。
「それから、これは個人的なことなんだけど……わたくしが村にいたとき、色々してくれちゃった子供たちは全部わたくしの配下にするわね」
途端に、フュルフと村人の顔色が変わった。
「ま、待て! いかん、それはいかんぞ! 子供たちにだけは、手を出さんでくれ!」
「やめてくれ!」
「頼む!」
「後生だ! 子供だけは助けてくれ!!」
口々に騒ぐ村人。その喧騒を愉快げに一通り聞いた後、ノルスは続けた。
「そうよね、子供の教育は大人の責任よね。しつけを怠った大人にもバツを与えないと、だわ。んーと……――うん。面倒だからみんな死んじゃえ♪」
爽快な笑顔で、村人たちを指差す。
その一言を待っていたかのように、マルムークが嬉しげに咆哮して巨大な斧を振り上げ――絶望に顔を歪めたフュルフに向かって振り下ろした。
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追われる者の恐怖の叫び、打ち殺される者の絶望の悲鳴、立ち込める血臭、噴き散る血飛沫、黒き鎧を叩く返り血、肉片。
眼前で続く殺戮の宴を、ネスティスは無感動に見つめていた。
その手を、ノルスがそっと握る。
「どう? 楽し――」
目をきらきらと光らせて、傍らを見上げたノルスは声を途切れさせた。
ネスティスが泣いていた。無表情のまま、ただぼろぼろとこぼれた大粒の涙が頬を伝い、落ちてゆく。
「どうしたの、ネスティス……? 何か気に障って?」
「いえ。いつものことです。お気になさらず」
ぶっきらぼうな物言いに、すこしノルスの表情がこわばる。
「ふ〜ん……それよりさ。行かなくていいの?」
「行く? どこへですか?」
表情を曇らせて聞き返したネスティスに、いよいよノルスは顔をしかめた。
「どこじゃなくてぇ。この村の人間どもを殺しによ。あなたの糧にするもよし、ただ心の赴くままに殺すもよし――マルムークみたいにね。ほら、早くしないと全部とられちゃうわよ?」
「私は……別に」
「どうして? あ、ひょっとして連中に同情してる?」
「いえ。ノルス様のおっしゃったとおり、奴らは伯爵様を侮っていました。自らの招いた結末です。同情の余地など」
「そうよ。そもそもわたくしたちは、人間に対する同情なんて持ち合わせてないし。……じゃあ、どうして? どうしてそうやって泣いたり、殺しに行くのを渋るのよ」
ノルスの表情には不審がありありと映っている。
ネスティスは首を振った。
「そのどちらの問いに対しても、私は答えを持っておりませぬ。私にも、わからぬのです」
「むー……その答えの方がわかんないわよっ」
とうとうノルスは癇癪を起こした。握っていた手を振り払うように勢いよく放す。
そして、ふと気づいたように目を丸くした。
「どうしてもわたくしに弱みを――あ……そうか。そういうことなのね」
その目尻がたちまち吊り上がる。ノルスはネスティスに指を突きつけた。
「わかったわ。あなた、わたくしに命じられるのが嫌なんでしょ! 自分の方が伯爵様に長く仕えてて、わたくしなんかまだ来て十日ほどしか経ってない新参者だから言うことなんか聞けないし、気遣いもうっとおしいんだわ!」
「そんなことは――」
「うるさいっ!」
うろたえ気味に腰をかがめかけた瞬間、ノルスは両手でネスティスを突き飛ばした。
屋根の上から、マルムークが破壊した母屋の残骸の上へと落ちる。
空中で姿勢を正して足から落ちるのは難しくなかったが、ネスティスはなぜかそのまま背中から落ちた。
折り重なる木材とレンガと石材、それにこまごました家財道具の上で大の字になって倒れている女騎士を、少女は屋根の上から傲然と見下ろした。その瞳に最前までの優しげな光はない。
「あなたの気持ちはよぉくわかったわ。もういい。今回はわたくしとマルムークでやるから。あなたはそこで寝てなさいな」
「それは……御命令ですか?」
ノルスの激しい口調に、思わず出た質問。
少し落ち着きを取り戻しかけていたノルスの最後の一線が、そこで切れた。
フュルフたちにさえ見せなかった怒りの表情でネスティスを睨みつけ、わめく。
「そうよ! 命令よ! 全部終わるまで、指くわえてそこで寝てればいいのよっ! バカぁっ!!」
年相応の子供らしい癇癪。しかし、ネスティスはそれを治める術を知らなかった。ただ、困惑げに少し顔をしかめていた。
そして、二人の間が完全に断絶するセリフをネスティスは吐いていた。
「了解しました」
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これより以後、ノルスはネスティスに一切なつかなくなった。
そしてそのことを、ネスティスは気にも留めなかった。
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二年が過ぎた。
ある日、アモン=ロード帝国よりの使者がロンウェル城を訪れた。
「我らにこの地を去れ、と言われるか」
デュランの気色ばんだ声が、玉座の間に響く。
城の主は玉座にあって、壇の下に立つ黒衣の使者を見つめていた。
使者は頭のてっぺんから爪先まですっぽりフード付のマントを羽織っており、その顔はうかがえない。
「コノ地デハ、アマリニ人ガ死ニスギル……ソレハ陛下ノ望ムトコロニアラズ」
虚無の空間から響いてくるかのような、奇妙な残響を伴った声。
「ええい、黙れ黙れ! そもそもフードをかぶったままというのは我が主に失礼であろう! まず、それを――」
語気荒く剣をつかむ。
「……よい、デュラン」
「伯爵様?」
デュランは意外そうに振り返った。
いつもならばデュランが声を荒げるまでもなく使者を惨殺しているであろう主の制止。その声は、倦み疲れたように重い。何を感じ、何を思っているのか。
「相手はアモン=ロード帝国皇帝の使者。わしごとき、はなから眼中にないということだろう」
皮肉っぽい笑みを浮かべた伯爵は玉座の肘掛に頬杖を突き、使者を無遠慮に眺めている。その姿も皇帝勅使を迎える姿ではない。
「ならば、こやつの素っ首切り落として送りつけ――」
再び剣を抜こうとするデュランに、伯爵は愉快げに一言告げた。
「やめておけい。迂闊に手を出せば怪我をするのはうぬの方ぞ」
「……何ですと?」
「そ奴、『死鬼(デス・デーモン)』よ。実体系アンデッドの中でも、わしの様な転生体ヴァンパイアに匹敵する高位のアンデッド。ネクロマンサーなどによって魔界より召喚され、主の命のまま生命と魂を狩り集めるいわば低位の死神。――精神体の亡霊(スペクター)など、百舌の前のカエルぞ」
くつくつと笑みをこぼす。デュランは天敵を前に、一声呻いて後退った。
「なるほど……『死鬼』を使者として立てられる皇帝か。その正体、千年生きたるネクロマンサーという噂もあながち伊達ではないようだな?」
「返答ヲ……カイゼル=フォン=ノスフェル伯爵殿」
声の出所が聞き取れない、不思議な声が響く。
「コノ地ヨリ立チ去ラレルカ、支配者トシテノ範ヲ示スカ……イズレナリヤ」
「わからぬな」
負けじと低く震えるような声で、伯爵は応じた。
「何ゆえ、皇帝はそのような選択を我に迫る? ネクロマンサーなら、その主義思想は我らに近いはず。にも関わらず、我らにとって糧に過ぎぬ人ごときを何故かばいだてするのだ? 元が人間だったゆえか? それなら、興醒めだな」
「使者タル我ニ答エウル範疇ニアラズ。――サレド、一言申シ上ゲヨウ。皇帝陛下ハ常々言ッテオラレル……『闇ハ光ヲ食ラウガ定メ。光ハ闇ヲ払ウガ定メ。闇ト光ヲ統ベテコソ王者ナリ』ト」
「ふん……闇にも堕ち切れず、人にもなりきれぬ弱者の戯れ言にしか聞こえぬな。――真の強者は闇も光も喰らい尽くしてこそ強者。アモン=ロード帝国皇帝とやら、力はあるようだが……その人となりはいささか買いかぶっておったようだ」
吐き捨てるように言って、玉座を立つ。
「よかろう。この地など、はなから腰掛け。この四年半でそれなりの力は戻った。もはやこの地にとどまる必要など、何もないわ」
「では……伯爵様」
デュランが喜色を隠さぬ声で聞き返した。
「――これより、我が故郷レグレッサ王国はミアへと帰還する」
「ははっ――では、さっそく皆にも伝えてまいりまする」
その場で片膝を着いたデュランは、そのままの姿勢で床の中へ沈んでいった。
その姿を無言で見送ったノスフェル伯爵は、微動だにせず佇む『死鬼』を見やった。
「使者よ。帰って惰弱なる皇帝に伝えるがいい。レグレッサを平らげた後は、この国だとな」
にぃ、と唇の端から白い牙を剥き出して頬笑む。
『死鬼』は頭を少し下げた。頷いたのか、会釈をしたのか。
「伝エテオコウ……ダガ……彼ノ地ハ魔界ニテモソノ名轟ク、英雄ヲ数多生ミ出シタル地。呑マレヌヨウ心スルコトダ」
「貴様ごときに言われるまでもないわ。……もう用はない、さっさと失せろ」
『死鬼』は再び今度は深々と頭を下げると、一瞬にしてその場から消え失せた。
ノスフェル伯爵は不服そうに、ふんと鼻を鳴らしてマントを翻した。
「数多の英雄を生み出したる地だと? そうとも。そして、次に英雄として歴史に名を刻む者の名は決まっておる。有史以来大陸全土を初めて統一する真の覇王カイゼル=フォン=ノスフェル――このわし以外におらぬわ」
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城の玄関ホールに、デュランから話を聞いた一行が集まっていた。
「どうせこの辺りにはろくな糧もいなくなったことですし、いい機会といえばいい機会ですわね」
口ぶりとは裏腹に、その表情はいかにも嬉しそうなナーレム。
いつもの黒いシルクドレスに豊かな肉体を包み込んで、艶やかな黒髪を肩口から胸に垂らしている。
「レグレッサの『街』ってどんなところなのか、楽しみですわ。人がいっぱいいるんですってね」
隠しもせずはしゃぐノルス。
楽しげにくるくると回ると、黒ドレスを縁取る白いフリルが舞い踊る。
「……ぐふふふふ、人か多くおるか。そこで暴れれば、さぞかし気持ちよかろうな……」
ノルスと同じようなレベルで喜んでいるマルムーク。
巨大な戦斧を立て、床に直接あぐらをかいて座り込んでいる。
「レグレッサ……彼の地は、歴史的にも数多英傑を輩出していると聞く。今の世にいかなる強者がいるか……ひとまずは、十年前に伯爵様を傷つけたという連中と手合わせがしたいものよ」
剣を抜き、顔の前で垂直に立てて肩を含み笑いに揺らすデュラン。
それぞれが思い思いに気持ちを高ぶらせる中、ただ一人ネスティスだけがじっと黙っていた。
デュランは剣を納め、ネスティスに訊ねた。
「ネスティス殿は彼の地に赴くにあたり、なにか感慨はないのか?」
「ない」
デュランの気遣いを、無愛想に断ち切ったネスティスは、いつもの無表情で何もない闇を見つめていた。
「――我が使命は伯爵様をお守りすることのみ。アモン=ロード帝国であろうと、レグレッサ王国であろうと何も変わらぬ。そして、それ以外に興味はない」
「つまらない女ねぇ」
「ほんと。みんなで伯爵様のご帰還をお祝いしようというのに、ねぇ」
二年を経て、本当の姉妹のように意気投合したナーレムとノルスが、白い眼で赤い騎士を見やる。
緑の騎士は天を仰いで両手を広げ、肩をそびやかした。
黒の騎士は何がおかしいのか、ぐふぐふと低くくぐもった声で忍び笑っている。
そこへ、主が姿を現わした。黒い旋風が二階の踊り場に渦を巻き、やがて伯爵の姿になった。
五人は一斉に片膝をついて頭を垂れた。
代表して、デュランが口を開く。
「伯爵様、我らいつでも出立の心構えは出来ております。どうぞ、御下知を」
魔人は軽く頷いて、ふとホールの中を見回した。あちこち壊れた窓、暗がりの深い高天井、幾多の冒険者の血を吸った石畳と壁……。
「思えば……故郷を追われて九年と半年。この地に来て四年と半年。記憶という銀の針が、この額に刺さったまま常にわしを苛んでおった……。――だが、時は来た」
突き出した拳が鈍い音をたてる。その拳はぼうっと緑色の光を放っていた。
「我が魔力は戻り、かつてなき駒も揃うた。もはや我が覇道を阻める者はおらぬ。手始めに、十年前にわしを屈辱にまみれさせた者どもを駆逐し、レグレッサを陥とす」
ははぁ、と五人は一層深く頭を下げた。
「我ら、伯爵様のお心のままに手となり足となり、時に捨て駒となりてその覇道をお支えすることをお誓いいたします」
デュランの口上に、ノスフェル伯爵は満足げに頷いた。
「存分に働くがよい。では――これより我が故郷レグレッサはミアへ帰還する」
ばさりと黒いマントが広がり――城中の明かりが落ちた。
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日が沈んだ直後、大きな黒塗りの箱馬車と小型の馬車がロンウェル城を出た。
馬車を引くは、黒い炎のたてがみを持ち、紅く瞳を燃やす馬たち。
三つの棺と二人の女、一体の女亡霊騎士を乗せた大型の黒い箱馬車の御者席にて手綱を取るのは、老執事ジンジ=ロゲ。
様々な荷物と共に巨大な亡霊騎士を乗せた小型の箱馬車の御者席には、デュランの姿。
一路、山道を南へ、その先のレグレッサ王国へと向かう。
伯爵は尋常ではない速度で過ぎてゆく窓の景色を見やりながら、にんまり笑っていた。
「……クク、帰還とは心躍るものだな」
低い呟きに、同席するナーレムとノルスが反応する。しかし、伯爵の高ぶりを示すように周囲に放たれる瘴気に息を呑み、声をかけられなかった。
「待っておれ。スターレイク、アレフ、そして……ラリオス。我が屈辱は、貴様らの血を呑み尽くして晴らしてくれる」
握り締めた拳がボキボキと音を立てる。
傍に座るネスティスは、その横顔を一心に見つめていた。
その口許にわずかな微笑が浮かんでいることに気づいたナーレムが悔しげに頬を引き攣らせ――ノルスも鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
山道を疾風のごとき速度で、しかし大して揺れもせず走り行く二台の馬車。
その先に待つ戦いを、そして結末を知らず――目指す先には、黒い稜線のシルエットを覆うように雷光閃く暗雲が広がっていた。
【第 0 章 閑話 終わり】