愛の狂戦士部隊、見参!!

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第 0 章(閑話 その6) 揺らぎ (後編)

 前庭を見晴らす城の玄関ポーチ。
 姿を現わしたネスティスは、その場で腕組みをして佇んでいた。
「……御寵愛、か」
 腕は組んだまま、拳をきゅっと握り締める。
 一切の感情を殺ぎ落とし、前だけ見つめるその横顔は大理石の彫刻。
 閉じられた城門を見つめる切れ長の双眸には、天空にかかる三日月が映り込んでいた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 フリルをあしらった黒のドレスをまとった娘の、軽く波打つ金の髪に櫛を入れる。
 陰鬱に落ち込んでいるような表情で姿見に映るノルス。その髪を、持つ者のない櫛がすいてゆく。
 その様子を見つめるナーレムの表情は少し曇っていた。
「……自分が映ってないってのは……かなり複雑な気分ね」
 ふと漏らした呟きに、ノルスが反応して首を動かす。
「あ、ちょっと――まだ動いちゃダメよ」
 慌ててノルスの頭を押さえて元のように鏡へ向かわせたナーレムは、にっこり笑った。しかし、その笑顔も鏡には映らず、ナーレムの笑みは硬直した。
「あーもう……腹立つわね」
 呟くと、たちまちノルスの表情におののきが浮かんだ。不安げに口を開く。
「あの……わたし……なにか…………」
「違うわよ。あなたのせいじゃないの」
 ふぅ、とため息を漏らす。
「自分の姿が映らないのがもどかしくてね。――そもそも独り言だから、いちいち気にしない」
 ノルスはこっくり頷いた。
「…………ん、髪はひとまずこれでよし」
 一通り金髪をすき終わると、ナーレムは化粧道具に手を伸ばした。
「さて、と。じゃあ、お化粧を……あら?」
 道具を戻して、ノルスの肌を指先で撫でる。
「ちょっと血の気が戻って来てるじゃない。お風呂に入って、肌から水気を取ったからかしらね。それとも、食事を摂ったせいかしら」
 その言葉通り、ノルスの肌は少し健康的な赤みを帯びていた。
 鏡に映らないのをいいことにぷいっと顔を背けたナーレムは、悔しげに表情をしかめた。
「ちぇ、若いっていいわねー……って言うか、生きてるっていいわよね。元気になれば、それだけでキレイになる基礎が出来るんだから」
「――お姉さんも、キレイだと思う……」
 うつむきながら、小声で漏らす。
「あたしの美しさなんて、しょせんまがいもんだわ。見なさいよ、この肌。真っ白けで透けそうだわ。前はもっと健康的にちょっと日焼けして――……」
 ノルスの顔の横からにゅっと腕を出したナーレム。しかし、自分で自分の腕を見た途端、言葉に詰まった。
 数秒の沈黙。
 ノルスは言いつけに背かず動かなかった。ただ、鏡越しにナーレムのいる辺りをちらちら見やる。
「……化粧は、唇に紅さすだけでいいわよね。せっかく血の気が戻ってきたんだし」
 その声が少し濡れていることに少女が気づいたかどうか。
 少女が何かを聞くより早く、ナーレムは紅を小指ですくいとり、小さな唇に薄くさしてやった。
「――わぁ」
 少女は紅をさすだけで少し色気を放ち、大人びて見える――もっとも、眼の下に隈の縁取りがあるので、あまり健康的な色気とはいえないが。
 それでも、よほど嬉しかったのだろう。それまで強張っていた表情が緩み、嬉しそうに微笑んでいる。
「鏡でよく見ておきなさい。この世で最後に見る、あなた自身の顔なんだから」
 途端に、少女ははっとして息を止めた。
 数秒、眼を瞬きもさせずにじっと鏡の中の自分を見つめた後、ぼそっと漏らした。
「お姉ちゃん……ありがと……」
 ナーレムの手の平が、優しく少女の頭を撫でる。
「多分、あなたは伯爵様に殺されるわ。……そっちの方がいいって考え方も出来るけどね。ま、なんにせよ、思い残してることはない?」
 ノルスは首を振った。充分に乾いた金の髪が緩やかに波打って、左右にうねる。
「生まれてはじめてお腹いっぱい食べさせてもらえたし、お風呂もとっても気持ちよかったし、こんな服や化粧までしてもらったから。こんなにしてもらえて、もう……もう何にもないよ。夢見てるみたいだもん」
 本当に幸せそうに笑う。
 その笑顔が、ナーレムの次の言葉を引き出した。
「じゃあ、誰かに最後の言葉を伝えようか? 誰か世話になった人とかいるでしょ?」
 しかし、再びノルスは首を振った。
「いないよ。わたし、村では邪魔者だったから……いるだけでみんなを嫌な気持ちにさせてたから……みんな、わたしがいなくなって喜んでるんじゃないかな。だから、わたしここへ来てよかった。死ぬ前にみんなに喜んでもらえたし、お姉ちゃんや、鎧のお姉ちゃんに優しくしてもらえて、本当に嬉しかったの。ありがとう」
 幸せのあまりか、それとも村での生活を思い出したのか、涙ぐむノルス。
 ナーレムは少女の肩口からそっと両手を回し、後ろから首をかかえるようにして抱きついた。
 少女の肌のぬくもりを慈しむように、冷たく白い頬を首筋に押し当てる。
「……人間に酷い目にあわされて、化け物に優しくされるなんて……つくづく業の深い子ね、あなた……」
 ノルスは黙って微笑み、ナーレムの冷たい手の上に自分の手を重ねた。ただそうやって誰かと肌を合わせているということが、何よりも嬉しいように……。

 ―――――――― * * * ――――――――

 支度が整ったノルスは、先に部屋を出された。
 扉の前で待っていると、部屋の中から鏡を割る派手な音が響き、びくりと華奢な身体を震わせた。
 しばらくして、ナーレムも部屋から出てきた。
 その身にまとった黒いドレスは、形状としては貫頭型のマント風。生地が薄く、下の肌が透けて見えている。裸より扇情的な姿だが、少女にはただの珍しい薄着にしか見えない。
 扉から出てきたナーレムをじっと見上げるノルス。
 ナーレムもその視線に気づいて、見下ろした。
「……なに?」
「なにか……大きな音がしたから」
「ああ」
 ナーレムはため息をついて目をそらした。
「……ちょっとね。あなたには関係ない話だから、気にしないで」
「うん……」
「じゃ、行きましょう」
 ナーレムは自然に手を差し出した。ノルスもさも当然のようにその手を握る。
 二人は歩き出した。
 つないだ腕を振り振り、城の奥へと進むその後姿は、到底吸血鬼とその生贄には見えなかった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 カイゼル=フォン=ノスフェル伯爵は寝室にいた。
 寝台脇のソファに身を沈め、古い書物を睨んで――もとい、読みふけっていた。
 ノックの音に、ぎろりと扉を睨みやると扉は自動的に開いた。
「誰だ」
「ナーレムにございます」
 ナーレムは件の扇情的な薄いドレス姿を恥ずかしがることもなく、部屋の外で深々と頭を下げた。
「何用か」
 言いながら、再び書物に目を落としかけ――その動きが止まった。畏まったままのナーレムに視線を戻す。
「……ほう……生娘の臭いがするな」
「シレッケ村からの生贄でございますわ。しかし……お気に召されるかどうか」
 言い終ると同時に、ノルスがナーレムの後ろから横に動いた。ノスフェル伯爵の姿を認めると、ぎこちなく深々と頭を下げる。
「……シレッケ村の、エルケルじいさんの水車小屋の傍の穴に住む、ノルスです。こんばんは、御貴族様」
 伯爵は眼を細め、愉快そうに頬を緩めた。
「ほう。……若いな」
 本を脇のテーブルに置き、身を起こす。
 伯爵自らが生贄のもとに歩いてきた。
 少女の前に傲然と立ちはだかり、遥か頭上から見下ろす。ノルスをもう一人ノルスの頭の上に乗せても、伯爵の背丈に届くかどうか。それほどの差がある。
 伯爵はしばらく何も言わず、ただじっとノルスを見つめていた。
 ノルスも遥か上空で光る伯爵の紅い瞳をじっと見上げている。さすがに伯爵の放つ圧倒的な瘴気に当てられてか、その足はかくかく震えているが。
「ノルスか。……ふん、いい面構えだ。覚悟を決めた面をしておる。多少恐怖はしておるが、自己犠牲による自己憐憫も自己陶酔もない。ただ真っ直ぐに在るものだけを見つめるその眼。……くく、これほどの逸材、ついぞ出会うたことはないわ」
 ばさり、と伯爵のマントが伸びた。風もないのにはためき、ノルスを呼ぶ。
「……娘。貴様を徹底的に堕としてくれる。来るがいい――貴様がどんな悲鳴をあげるのか、楽しみだ。くくくく……」
 夢遊病者のような足取りで、ノルスは部屋の中へと踏み込んだ。マントが少女の身体を巻き取り、覆い隠す。
 ついで、扉が閉められた。
 予想外の展開に、声も出ないほど驚いているナーレムを一人残して。

 ―――――――― * * * ――――――――

 デュランがよく出没する前庭を見下ろす二階テラスに、ナーレムがふらりと姿を現わした。
「……デュラン、いる?」
 直ちに床からデュランがぬぅっと生えてきた。
「お呼びですか、ナーレム殿」
 軽く頭を下げるデュランに、ナーレムはため息を返した。
「暇になっちゃったわ」
「は?」
「……まさか、あんな小娘が伯爵様の御眼鏡にかなうなんてね」
 テラスの手すりにもたれかかり、月明かりにかろうじて見える前庭を見下ろす。
 再び漏れるため息。そして、自嘲の笑み。
「あの女を追い出して、あたしが一番になるつもりだったのに……あたしの方が先にお払い箱になりそうだわ」
「……………………」
 小首を傾げるデュラン。
「わかりませぬな……なぜです? なぜ、あれほどにネスティス殿を憎まれる? あの方は実体を持たぬゆえ、あなたのようにご寵愛を受けることもない。初めから比べることなど意味をなさないではありませんか」
 ナーレムはその場でくるっと体を翻し、手すりに腰を預けた。その頬には相変わらず自嘲の笑みが浮かんでいる。
「あなたこそ。誰彼構わず憎んで、所構わず破壊の限りを尽くすスペクターとは思えない発言ね。……あの女と伯爵様だけは特別ってわけ?」
「それが……理由ですか? つまり、妬み――」
「違うわ。……でも……あなたが答えてくれたら、教えてあげてもよくてよ?」
 誘うように流し目を送る。
 束の間、ヘルムの中の闇に灯るデュランの紅い瞳が消えた。
「別に隠すことでもありませぬが…………我にとって、今は余生のようなものだからではないかと」
「スペクターの余生? なにそれ。どういう意味?」
「我がこのような姿になったは、全てロンウェル王家の卑劣極まりない罠によって殺されたため。無能なくせに自尊心ばかり高く、猜疑心の強かったロンウェル王家への恨み、そして我が全能を以って仕えるべき強者への渇望が、我が存在を支えておりました。ロンウェル王家は根絶し、我が復讐はなったものの……もう一つの望みが満たされぬゆえ、この城にて強き者の到来を待っておったのです」
「そこへ伯爵様が来たのね」
「はい。我が実際に戦ったのはネスティス殿です。ですが、そのネスティス殿も伯爵様の手ほどきを受けて腕を磨かれたとのことですし、一旦は満足して消えかけた我を再びこの世に固定なさったのも伯爵様。おそらくその際に与えられた魔力により、本来の破壊衝動などが抑制されたのかもしれませぬ。あるいは……本来、我はもう消滅しているべき存在。もはやスペクターではないのやも」
「ふぅん……それで、不安に思わないわけ?」
「別に。スペクターとしてはいざ知らず、騎士としては仕え甲斐のある強き方と、肩の並べ甲斐のある戦友がおられるのです。そして、その強き方を守るために強き敵と戦えるのであれば、もうこれ以上何も望むことはありませぬ」
「……幸せなのね」
 ふっとため息を漏らして、俯く。
 デュランは再び小首を傾げた。
「ナーレム殿? ……何でしたら、我は何も聞きませぬぞ。レディの秘密を無理に訊くつもりはございませぬゆえ」
「いいのよ……。あたしから言い出したことだしね」
「はぁ」
「あの女はね……あたしを殺してくれなかったのよ」
 衝撃的な発言に、デュランは何も答えられなかった。
「あなた、ヴァンパイアになった人のことどれだけ知ってる?」
「どれだけ、と言われましても。我には関わりないことゆえ、通り一遍のことしか」
 ナーレムは再び身体を翻し、手すりに両肘でもたれかかった。頬杖をついて、三日月を見上げる。
「なって初めてわかることもあるわ。例えば、どうして口づけを受けた者の性格が変わるのか……性格なんて、それまでの経験から紡ぎだされるものなのに、どうして口づけ一つでコロリと変わってしまうのか」
「なぜです?」
「ここ」
 ナーレムは首を捻じ曲げて流し目を送りながら、首の左側を撫でた。そこには伯爵による口づけの痕が残っている。
「ここから流れ込んだあの方の魔力だか闇の力だかが、欲望を膨らませ、理性とか正しい心の動きを捻じ曲げてしまうの。心の抑制なんて起こす気もなくなるし、膨れ上がった欲望に目の前が真っ赤に染まる時もあるわ。そして、自分がそれまで心の片隅に追いやっていた最も醜い部分さえ、その力は容赦なく掘り起こし、増大させる」
「……………………」
「笑っちゃうわ。正義と勇気を司るエイドル神の司祭だったあたしが、今や汚らわしい吸血鬼に身体を開いて喜々とするのよ? 吸血鬼の歓心を買うために、古参の化け物に嫉妬するのよ? 屈辱だわ。屈辱なのに……そんな屈辱を、快感に感じてしまうのよ? もう、わけがわからない」
 ぷいっと顔を戻したナーレムの頬から、きらめくものが散る。
「……ナーレム殿、ひょっとしてまだ正気を?」
「もう何が正気だか、わからないわよ」
 ナーレムは首を振った。長い黒髪がなよなよと揺れる。
「多分……まだ日が浅いから、ヴァンパイアとしてのナーレムと人間ナーレム=ホルシードの間を揺れてるんだと思うわ。今夜は人間に近いんじゃないかしら。比較的冷静に自分を振り返れるし、言いたいことも言えるしね」
「なるほど……。――しかし、ネスティス殿を憎まれる理由の『殺してくれなかった』と言うのは……」
 ナーレムはきゅっと唇を引き結んだ。頬に憎しみの痙攣が走る。
「口づけを受けても、記憶は残ってる。あたしは最初の口づけを受ける瞬間、死を望んだわ。正義と勇気の神に仕えるあたしが、闇と欲望にまみれた悪の化け物にされるなんて……屈辱なんてものじゃない。あたしの人生、あたしの存在が全て否定される瀬戸際だったのよ。だからあたしは、ネスティスに殺してって懇願したわ。恥も外聞もなくね」
 敵に懇願した記憶が刻む屈辱か、それとも口づけを受けた記憶に対する嫌悪か――端正な顔が醜悪に歪む。
「あそこで伯爵さえ出て来なければ、あたしは彼女に殺されていたはずだったんだから。でも、彼女はそれをしてくれなかった。そのせいで――」
 手すりを握る手に力がこもる。ヴァンパイアの力は、大理石の手すりをいとも容易く砕いた。
「あたしは今、地獄を見てる」
「……ナーレム殿……」
 振り返ったナーレムはデュランに拳を突き出した。手の中で砕けた大理石がさらに細かく砕ける音がして、砂となってこぼれ落ちる。その瞳は爛々と憎悪の炎をたぎらせていた。
「あたしはあの女を絶対に許さない。……この憎しみさえも、おそらくは伯爵の注ぎ込んだ邪悪な力の作用によって膨張したものだろうけど、それならそれでもいいわ。伯爵の力であの女を苦しませることができるなら、何よりだもの……だから、デュラン?」
 拳を開いて残る砂粒を夜風に散らす。
「あなたがどれだけ心を砕いても、あたしは……――あら?」
 しかし、話し相手はそこにはいなかった。いつ姿を消したのか。
 ナーレム以外誰もいないテラスを、夜風が寂しく吹き抜けていった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 十日が過ぎた。
 ノスフェル伯爵の呼び出しを受け、謁見の間に一同が揃っていた。ロゲとノルスが玉座の脇に控え、他の者は壇下に居並んでいる。
 玉座の脇に佇む黒いフリル服の少女を示し、伯爵は宣言した。
「今日よりうぬらの仲間となるノルスだ。――ノルス、うぬにはエル=シェッドラントの名を与える。これよりはノルス=エル=シェッドラントと名乗るがよい」
「ありがとうございます、ノスフェル伯爵様」
 十日前とは打って変わった姿のノルスは、スカートを持ち上げながら恭しく頭を下げた。
 その眼の下から隈は消え、頬も年相応にふっくらしている。肌の白さが以前より引き立ち、波打つ豪奢な金髪によく似合っている。まるでアンティーク人形だ。何より、少女の姿をしていながらそこはかとなく漂わせる大人の女の風情が、アンバランスな色気を醸し出している。
 たったった、と玉座の段を駆け下りたノルスは、まずナーレムに飛びついた。
「ナーレム姉様ぁ。わたくし、ノルス=エル=シェッドラントですって。うふふふ」
 屈託なく笑う笑顔はしかし、どこか陰気さが漂う。何より、まったく別人のようなその言葉遣いにナーレムはただ驚き、頷くことしかできなかった。
 ナーレムが困惑げに玉座を見やれば、伯爵は頬笑んで言った。
「ナーレム。我が配下として働く折りの心構え、しかと叩き込んでおけ。うぬの妹分だ、しっかりとしつけるのだぞ」
「は……はいっ。承りましてございます。立派なレディにしつけてみせますわ」
 ドレスの裾をつまみ、しっかりと腰を折って深々と頭を下げるナーレム。
 満足げに頷いたノスフェル伯爵は、玉座から腰を上げた。
「期待しておる。それから、ナーレム。今宵の夜伽、久々にうぬに申しつける。来るがよい」
 ぱっとナーレムの表情が輝いた。再び深々と頭を下げる。
「ありがたき幸せにございます」
「よかったわね、お姉様。十日間も独り占めしててごめんなさい。今夜はうんと愛していただいてね」
「あ、ありがと……」
 照れ臭そうに苦笑してノルスの頭を撫でたナーレムは、しかしすぐに少し表情を曇らせて膝を折った。
 ノルスの目線の高さに屈み、その頬を両手でそっと包む――そこにはもう、以前の温かさはなかった。死者の体温。
 自然とその表情も憂いに惑う。
「……ノルス。気分はどう? 何か……嫌な感じとか、苦しい感じはなくて?」
 しかし、ノルスは元気良く首を左右に振った。お返しとばかりにナーレムの頬を包むように持ち、にっこり微笑む。
「全然。平気ですわ! それより、これまで感じたことがないほど素敵な気分ですの。これが生まれ変わると言うことですのね。今なら言いたいことも言えるし、やりたいことも全て出来そうな気がしますわ。本当にとってもいい気持ち。だからナーレムお姉さま、気を遣わないで下さいな。わたくし、大丈夫ですわ」
 うっとりと目を細めるその顔は、もはやあの大人しい少女のものとは思えない。
(……伯爵様のお力で解放された姿がこれ……? だとしたら……結果的にはよかったのかしらね……)
 ナーレムはふっと表情を緩め、ノルスを抱きしめた。
「……ようこそ、ノルス。夜の世界へ。これから二人で、しっかり伯爵様にお仕えしてゆきましょう」
「いろいろ教えてくださいませね、ナーレムお姉さま」
 身体を離したナーレムはにっこり微笑んで頷いた。
「ええ。――それでは、あたしは伯爵様に呼ばれているから。行くわね」
「いってらっしゃーい」
 既に奥へと姿を消した伯爵を追って、段をしずしずと上がってゆくナーレムに手を振るノルス。
「――……えーっと」
 ナーレムの姿が消えると、ノルスは振り返った。
 居並ぶ三騎士に対し、スカートの裾をつまんで可愛くお辞儀をする。
「緑の騎士デュラン、黒の騎士マルムーク、赤の騎士ネスティスね。ノルス=エル=シェッドラントですわ。よろしく」
 すぐにデュランがノルスの手をとって、その甲に口づけた。
「ノルス殿。緑の騎士デュランにございます。どうぞ、よろしく」
 ノルスに比して巨大すぎるマルムークは、親指と人差し指でかろうじて握手らしきことをするのが精一杯だった。
「ぐふふふふ、ちんまい手だのう」
「大きい手ですわね。……この手でたくさんの人を叩き潰してきたのね。素敵だわ」
 きらきらと目を輝かせる。
 その様子を傍で見ていたネスティスの表情が、わずかに曇った。
 そしてネスティス。ノルスの差し出した手を礼儀に従い、片膝をついて握った。
 すると、ノルスは嬉しそうにその手にもう一つの手を重ねた。
「ネスティス。やっとあなたに触れられたわね」
 くすっと笑う少女に、しかしネスティスはいつもの無表情・無返答で応える――ノルスは少し笑顔を強張らせた。
「……なんだか、不服そうなのは気のせいかしら?」
 ノルスの青い瞳に、ゆらりと危なげな炎が揺れる。しかし、それに気づいたデュランがネスティスをかばう間もなく、そしてネスティスが否定する間もなく、少女は次の話題に移ってしまった。
「ああ、それより。あなたにお願いがあるんですけれど。いいかしら?」
 ネスティスは頷いて、頭を垂れた。
「は、なんなりと」
「じゃあ、今から一緒に来て。あ、マルムークも来てね。デュランはお留守番」
 ネスティスの手を引いたノルスは、喜々として謁見の間から出て行った。


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