蒼きバンダナのアレス First Episode
〜Engage Destiny〜【LUSTER/ROUGE】
天 啓
サイクスの屋敷から帰る間、ルスターは考えていた。
ようやく自分のなすべきことが見えた。カットナーたちと話し、情勢が見えたせいだ。
エキセキルとヘルディン、シレキスが手を組めば、マンタールの脅威となる。マンタールの脅威はすなわちシレニアスの脅威だ。
同時に連合誕生の報せはアスラルに響き渡り、各地で起きているという反体制活動の参加者たちを奮い立たせるだろう。彼らには、まだ半分以上夢物語であった打倒貴族社会も現実味を帯びて見えてくるはずだ。
そうなれば、貴族によるたがは緩み、平民が樹帝教を信仰する理由の大半はなくなる。新しい宗教を広める絶好の機会となる。それはこのシレキスでシュタインベルクが実証済みだ。
だが、それは貴族や樹帝教と明確に対立する教えではいけない。むしろ、彼らを取り込んでゆけるものでなければ意味がない。また、反体制側にもしっかりと根付く教えでなければ。
この試みが成功すれば、もし不運に不運が重なってエキセキル・ヘルディン・シレキスの連合が戦に負ける事態になった場合でも、次の種を蒔いておけることになる。その方法論は、シュタインベルクが遺していった。『潜伏』『侵食』『発症』『転移』――その計画はどこでも使える。奴自身が言っていた。民は今、飢えているのだから。
そして、連合誕生の報せには貴族側も今以上に鋭敏に反応するだろう。
恐らくは現状の武力戦から、樹帝教の手も借りた様々な戦いの局面へと移り変わる。つまり、見えている敵である騎士団や兵力だけを見ていてはいけないということだ。
貴族側の勢力の半分は、分かちがたく融合した樹帝教の力。
義勇軍を名乗る彼らは、まだその脅威に気づいていない。どれほどの深い闇を抱えているのか、ルスター自身でさえその片鱗しか知らないのだから。
また、気づいたとしても義勇軍では戦い方が判るまい。ただ純粋に自由を求める戦いに命を懸ける彼らには、敵を取り込む戦い方は出来ない。そもそもそんな発想もないだろう。
戦とはどんな目的があろうとも殺し合いだ。殺し合いは憎しみを膨らませ、永代に渡る傷を人々の絆に残す。
それでは意味がない。貴族の1000年に渡る横暴を許すつもりはないが、その恨みを晴らすためだけにまた1000年いがみ合う素地を残すのは、賢明ではない。いがみ合うための理由など、放っておいてもこの世ではいくらでも湧いて出るのだ。ならば、消しうるものは消しておくべきだろう。
取り込んでしまえば敵は敵でなくなる。そうなれば、義勇軍が無為な殺人を犯す必要も、犠牲者を出すこともなく済む。
そのお膳立てが出来るのは恐らく、どこにも属さぬ自分だけだ。
なぜなら――宗教における布教とは、つまるところそういうことだからだ。
敵を味方に。他者を己の信条に染める。
戦いの理由は正義ではなく、復讐ではなく、ただ人を思いやるがゆえに。そうでなければ、この戦は負ける。
だから、ルスターはシレキスの代表の座を固辞した。
自分にしか出来ない戦いがある。
それは皆を守る戦い。誰にも知られず、密やかに。
――その時、ルスターはまだ気づいていなかった。
サイクスの屋敷での会合で、最も影響を受けたのは自分であることを。
かつて、『最も楽な道』として司祭を選んだ自分が、自ら平穏な生活を捨て、シレキスの住民たちがこれより立ち向かう、幾多の困難よりなお困難な道を選んだことを。
それを少しの後悔と共にはっきり気づくには、まだ一年ほどを待たねばならない。
―――――――― * * * ――――――――
(……道を見出したか……あとは……)
「あれ?」
気づくと、ルスターは道に迷っていた。
いや、迷ったというレベルの話ではない。
サイクスの屋敷からシュルツの町の中心にある教会まで、道沿いに歩くだけだ。
その間いくつかの木立はあるものの、森の中を通ったりなどしない。
にもかかわらず――今、ルスターは新緑生い茂る森の只中にいた。周りを見回してみても、自分の背丈より少し高いほどの潅木の茂みに囲まれており、どこにも道はない。
どこからやって来たのか。服を見下ろしてみても、ことさら森の中を掻き分けてきたような汚れはない。
ふと気づいた。周囲の植生が、微妙にシレキス周辺のものとは異なっている。
シレキスの森は深い。昼なお陰鬱な影落ちる樹間に木漏れ日はわずかに差す程度。時たま奇跡のように差し込んでいる木漏れ日を求めて、様々な下生えが精一杯葉を広げている。
だが、今いるこの場所は信じがたいほど明るかった。まるで天蓋となって日の光を塞ぐはずの梢の葉が、光を透過しているかのように。
木々の葉も春の若芽のように黄緑色に輝いている。足元の下生えは、絨毯のようにルスターの足の裏に心地よい感触を返してきている。小さな白い花がぽつぽつと咲いている。緑がしたたる、という表現はまさにこのような光景のためにあるのだろう。
……というか、この光景からはとても今が冬とは思えない。春爛漫、といった方がぴったり来る。
ルスターはもう一度辺りを見回し、木々の密度が低そうなところに左手を突っ込んで開いた。
すると、獣道らしき隙間がその先に続いていた。
その獣道をたどってゆくと、やがて目の前が広がって水辺に出た。
水底が透き通って見える、信じがたいほど透明な泉。大小さまざまな魚が悠然と泳ぎ、浮き草が可憐な花を開いている。岸から離れるほど蒼さを増すその水はまさに清浄の象徴に見えた。
ルスターはふらふらと引き寄せられるようにその水辺にたどり着くと、左手で水をすくい、口をつけてみた。
甘美。
これまで飲んできたいかなる水、飲料もこの甘露には及ばない。
まるでこれは――
「……神の泉のよう、か?」
突如聞こえてきた声に、ルスターは顔を上げて辺りを見た。
少し離れたところに岩場があり、いつからいたのか、ひときわ大きな岩の上に老人が――いや、違う。ルスターと同じくらいの年齢の女? いやいや、筋骨たくましい男?
そこにいる誰かを、自分の意識が同時に別の者と認識する奇妙な感覚に眩暈がした。
思わず泉の水をすくって、目を冷やし、それからもう一度見直した。
やはり、最初の印象が正しかった。そこにいるのはルスターの身長の半分ほどの背丈の、膝まで届くほどの白ひげを伸ばした老人だった。粗末なローブ姿で、荒縄を帯代わりにして腰の辺りを締めている。
先端が丸い瘤になった杖を傍らに置き、ルスターにえもいわれぬ笑顔を振りまいている。
「おじいさん、こんなところで何を?」
ルスターは近づきながら聞いた。不思議と警戒心は一切沸いてこない。むしろ……なぜだろう。安心感さえ覚えている。
「ここはわしの庭のようなものじゃでな。ひなたぼっこをしておるよ」
「ああ、確かに。いい陽射しですもんね」
「わしゃ、この幸せだけで十分じゃ。じゃが、人は争う。悲しいことじゃのう」
「本当に……」
ルスターは老人が座っている大きな岩の下に腰を落ち着けた。岩に背を預け、降り注ぐ柔らかな日差しを満身に受けて大きく息をつく。それはすぐあくびになった。
「何とかならんもんかのう。……森の中で生きる者は、森の恵みを互いに受け合って生きる兄弟みたいなものじゃ。兄弟同士で喧嘩は、いや、殺し合いはいかん。いかんよ」
「どうすればいいのでしょう……ね……」
ルスターは半分寝ぼけ眼(まなこ)で聞いた。陽射しの暖かさに、眠気が物凄い勢いで襲い掛かってきている。
昨日までの無理がここで吐き出されているかのような眠気。それをこらえようという気力はどこからも湧いて来ない。
そのまま深い水底に落ちてゆく感覚を味わい――
気づくと、眠りに落ちる前と変わらぬ風景が広がっていた。
いったいどれだけの時間眠り込んでいたのかわからない。日の光にいささかの翳りもなく、数分か数十分でなければ、まる一日眠り込んでいたのではないかと思うほどだった。
ふと見上げれば、老人は相変わらずそこにいた。杖を抱いて、こっくりこっくり舟を漕いでいる。
ルスターは小さく息を吐いて、目を前に転じた。薄い青に染まった美しい水面が、陽射しを弾いて踊っている。
見ているだけで胸が――
「――洗われるようじゃろ?」
ほんの少し得意そうな声。その頭上からの声にルスターは微笑んだ。
「ええ、本当に。こんな落ち着いた気持ちになれたのは、久しぶりです……」
和む。
子供たちやエルデと一緒のときに感じた平穏とはまた別の、森の一部になってゆくような安心感。
自分が何か大きなものに包まれ、守られているような気持ち。
そう、それは遥か昔、もはやおぼろげにさえ覚えていない母の胸のぬくもりを――
「寝起きの一杯は気持ちがよいぞ。飲んでみれ」
「そうですね。じゃ、遠慮なく」
のろのろと身を起こし、四つん這い(実際は右腕が使えないので三つん這いだが)で水辺まで寄ると、その中を覗き込んだ。
水面に映る自分の顔――しかし、それはいつも鏡で見る自分の顔ではなかった。
最初あの老人を見たときに感じたのと同じ眩暈――焦点が合わない感覚。そこに映っているのは輪郭、髪型、耳、首、肩――いずれも自分なのに、自分ではない。
その理由はしばらく見つめていてわかった。
顔がなかった。
つんつるてんののっぺらぼう。
目も鼻も眉も口も頬の盛り上がりも眉間の皺も、額の――気をつけなければわからないほどの――傷も、なにもない。
しかし、不思議と恐怖を感じなかった。
「……それがお主の中にあるものじゃよ」
ルスターが何を見ているのかわかっているかのように、老人の声が届く。
そしてルスターは、老人がそれを判っているのが当然だと感じられていた。
「私の中の……」
「名も無き、顔も無きもの。そやつの顔を見たければ、簡単なことじゃ。名前をつけてやればよい。お主の名前を呼べばその顔はお主のものとなり、神の名を呼べば神の顔となろう」
「これは……人の心の内に必ずある、大事な何かなのですね」
「そういうことじゃな」
「そして私はまだ、その大事なものが何か見つけていない。だから、見えない」
「そうではないな」
ルスターは眉をひそめた。だが、その表情の変化は水面に映るもう一人の自分には現れない。少し首をかしげてやれば、同じように首をかしげるというのに。
「大事なものが何であるか見つけておらぬ者は、そもそもそこに姿が映らぬ。じゃから、お主は既にそれを持っておるよ。しかし、お主はまだそれを見る術(すべ)を見つけておらぬ。ゆえに、見えぬ。定まらぬ」
「見る術……」
ルスターはそっと左手を泉の中に差し入れた。水面を波立てぬよう、ゆっくり静かに。そこに映る自分の顔を削ぎ取るように手を動かし、すくい上げると――つんつるてんの顔だけが左手に残った。
そこへ口をつけ、一息にすすり飲む。
甘美なさわやかさが喉を滑り落ちていった。
「そうか……それがお主の答えか。面白い男じゃ」
いささか嬉しげな響きと共に、背後で下生えの草がかさかさと鳴った。
振り返ると、老人が岩の上から降りてきていた――と、そのままよたついて再び座り込む。
ルスターは立ち上がった。何か礼を言わなければならない気がしたが、その前に座ったままの老人が口を開いた。
「あのな。頼みがあるんじゃが」
「はい。私でよければ、何なりと」
すると老人は、照れくさそうに頭を掻いた。
「いや、実はな。ここはわしの庭のようなもの、と言いはしたが、実はわし、迷子でのう」
「そうなんですか?」
「出口がさっぱりわからんようになってしもうた。出来ればお主、連れてってくれんかのぅ」
ルスターは目を二、三度瞬かせた。そういえば、自分も迷子だったのだ。
ここから脱出する道どころか、ここがどこなのかさえ知らない。
それを老人に説明すると、老人はうんうん頷いた。
「よいよい。適当に歩いておれば、わしの見覚えのあるところに出るじゃろ。で、済まんがわしを背負ってってほしいんじゃ。ちょっと岩の上に座りすぎたせいか、足が萎えてもうての」
実に適当かついい加減な先の見通しな上、右腕を三角巾で吊っている者に頼むこととは思えなかったが、不思議と抗議する気にはならなかった。その場で老人に背を向け、しゃがみこむ。
「どうぞ」
背中によじ登ってきた老人の尻の下に左手を差し込み、立ち上がる。ずり落ちそうな感覚はまったくなかった。
「じゃ、行きましょうか」
どこへ行くともしれなかったが、胸に湧いてくる確信のままルスターは歩き始めた。
どれほど歩いたのか。
数分のような気もするし、数時間のような気もする。
数年は歩き通したような感覚も残っているし、数歩だったような感覚もある。
深い森を掻き分け続けて来た気もするし、森の小道をスキップ気分でやってきた気もする。
気づけは、切り開かれた道に立っていた。
「うん、よう連れ出してくれた」
頭の後ろで嬉しそうな老人の声が聞こえた。
「お主ならよかろう。……後のことはお主に任せる」
ふっと背中の重みが消えた。その瞬間、少し背中を押された気がして、二、三歩前に進む。
振り返ってみると、そこに老人の姿はなかった。
(――礼代わりじゃ、教えておいてやろう。お主はもうお主の選んだものに仕えておる。ほれ、その力使ってみい)
どこからともなく、こだまのように、梢を渡るそよ風のように響く声。
力。
力といえば――
ルスターはふと左手を右腕に添えた。
自らの意思ではなく、何かに操られるように。しかし、それを不思議とも思わなかった。
口が願いを紡ぐ。これもまた自らの意思を超えて。
「――壊れよ、我が折れし右腕。あるべき姿を取り戻せ」
清浄な蒼き光が左手から溢れ出し、ルスターの視界を埋め尽くす――
―――――――― * * * ――――――――
ルスターは大きく揺さぶられて目覚めた。
「……スター様、お目覚めください、ルスター様!!」
パッチリ目を開くと、間近に見覚えのある顔。その向こうに薄青い冬の空。日の光も季節に相応しく、弱い。
見覚えのある顔はセリアスだった。
むくっと身を起こしたルスターは、辺りを見回した。見覚えのある風景。振り返れば、見覚えのある建物。ここは教会の玄関前だった。
周囲でどよめいているのは教会待機を命じておいた司祭補佐たち、近所の住民、それにサイクスの会合に顔を出していた各地の施設の長たちまでが集まっていた。
「……何の騒ぎだ、これは」
思わずルスターが漏らした呟きに、周囲の人間は顔を見合わせた。
「何の騒ぎって……サイクス邸を出た後、13日間もどこへおいでだったんです? 大騒ぎだったんですよ?」
「13日? ……なんでそんなに」
きょとんとしていると、セリアスがルスターの両肩をがっちりつかんでもう一度ゆすった。
「しっかりしてください、ルスター様! いったいなにが」
「ああもう。うるさい」
思わずセリアスの両手を邪険に払う――その姿勢でルスターは止まった。
自分の右腕を見やる。今、確かにセリアスの手を払ったのに、痛みがまるでない。普通の感覚が戻っている。
右手を握ったり開いたりしてみる。以前なら走っていた痛みがまったく走らない。
「……じゃあ……あれは、夢じゃない……?」
ルスターはセリアスを見た。
「セリアス、すまん」
「は?」
いきなり謝られて呆気にとられるその鼻面へ、右の拳を叩き込む。
たちまち鼻血を吹いてのけぞり倒れるセリアス。周囲で悲鳴が飛び交う。
ルスターはそのままセリアスの顔に右手の平を向けた。また殴られると思ったのか、セリアスの顔が引き攣る。
「――壊れよ、セリアスの傷! あるべき姿を取り戻せ!」
夢で見た青い輝きが右手の平から溢れ出した。
やがてその光が収まると、ルスターは勢い込んでセリアスに迫った。
「どうだセリアス! 鼻血はまだ出ているかっ!?」
「は? ……あ、いや。止まってる……?」
鼻をぬぐったセリアスは、目をぱちくりさせた。
「痛みも消えてる……ルスター様?」
「力が……戻った!!」
事態がよく飲み込めない周囲のざわめきをよそに、ルスターは右拳を天に向けて突き出した。
「再び司祭の力を取り戻したぞっ!! 人を救う力をっ!!」
爆発する喜びに、自然と頬が緩む。
これまでの自分ならそんな行動も発言もしない、と我が身を振り返る余裕もなく、体の奥から溢れ出る力に感情が引きずられる。そしてまた、それが心地よかった。
「しかし、どうしてまた急に……」
不思議そうに顔をしかめながら立ち上がるセリアスに手を貸しながら、ルスターは力強く堂々と答えた。
「知らんっ!」
「いやあの……」
「だが問題ないっ! この力が今ここにあることに意味があるんだ。ともかく、セリアス! 中で状況を説明しろ」
言うだけ言うと、ルスターはやたら元気な足取りで教会の中へと入っていった。
残されたセリアスはため息とともに呟いた。
「……ルスター様、なにやら性格変わられた? のか?」
―――――――― * * * ――――――――
「セリアス。エキセキル・ヘルディンとシレキス代表との会議はどうなった?」
聖堂を抜け、奥の居住区へ入る。
ずんずん進みながら、ルスターはセリアスから現状の説明を受けていた。
「6日前に終わり、交渉団は帰りました。シレキスの選択はエキセキル・ヘルディン連合への参加ですが、その前に戦術指南役が派遣されてくるとのことです。兵力となる者を集め、十分に訓練を施して――」
「そっちには興味ない。それで今、シュルツに残っているボラスディアの代表者たちは何人だ?」
「全員揃っています。あなたが行方不明になったと聞いて、ペルナーもホルマールから駆けつけました」
ルスターの足が止まった。司祭室の前だ。振り返ってセリアスを見やる。
「なんだ。交渉団は帰ったのに、皆残ってるのか?」
意外そうな顔つきに、セリアスは思わずため息をついた。
「みんな、行方不明のあなたを探すために……いやまあ、それだけではありませんが。そもそも一体どこへ行っておいでだったんですか?」
「わからない。夢のようなふわふわした体験はしたが、そもそもあれが現実だったと言う確証もない。なんだったんだかな。……わかるか?」
「体験したあなたにわからないものが、私にわかるわけないでしょう」
不味い薬でも飲んだような顔つきで吐き捨てて、セリアスはまたため息をついた。
「ともかく、皆にいきさつの説明を――」
「そんなものどうでもいい。全員いるならちょうどいい。聖堂に集めてくれ。先行きを決めた」
そんなもの、と言われて一瞬鼻白んだセリアスはしかし、すぐに表情を引き締めた。
「とうとう……お決めになったのですね」
ルスターはセリアスの表情にもさしたる感慨を抱いた様子もなく、司祭室へと入った。
一緒に入ろうとするセリアスを押しとどめる。
「ルスター様?」
「少し考え事があるんだ。一人にしてくれ。とにかく、皆を集めてくれ。集まったら呼んでくれ」
「は……わかりました。では」
頭を下げたその目の前で、司祭室の扉が閉じられた。
―――――――― * * * ――――――――
司祭室の応接ソファに座るやいなや、ルスターは目を閉じて瞑想を始めた。
そうしたいと思ったわけではなく、ただ自然に。眠気を覚えた者が目を閉じて眠りに就くがごとく。
身体を駆け巡る、光めいたイメージの力が胸の奥を刺激しているのか、頭の中に沸いてくる光景。
それはルスターが思い出そうとしているのではない。
だが、浮かんでくる。
『わからないから、人は足掻き……時に道を誤る……。けれど……いかに誤ったとしても、踏み外してはならない道もある。そうは思いませんか、エルデさん』
愛する者たちとゆっくり過ごし、洗濯物を干せる幸せな時間。それを望むのは、決して望みすぎではないはずだ。
『嫌です……もう……もうこれ以上、人が死んだり傷ついたりするのを見るのは……嫌です』
哀しい人生を送ってきた人の、魂を削るような叫び。
そして、最期の瞬間に見せたあの微笑。
『……ごめんね、エルデさん。春になったら……お花いっぱい摘んでくるから』
『神様……エルデさんの魂を安らかなる眠りにつかせてやってください』
ルージュ、ケイト、トリーデ、ヘレンのささやかな祈り。
『彼らは飢えていた』
『この家畜の餌にもならない現実を破壊してくれる力にな』
『――千年の飢餓だ。ここに神はいなかった』
傲慢な男の、しかし真実を突いた言葉。奴のしたことは許せない。しかし、その言葉に偽りはない。
『……わたくしははじめて、自ら人と関わることの喜びを覚えた気がします』
『ルスター様のお導きをいただきたい。それがわたくしの望みでございます』
『ま、できれば、あんたたち若いもんにとっても住みよい世の中になってほしいもんだけどね、この先はさ』
『おばば様……神様は、信じなきゃダメ?』
『だって……祈っても、神様は助けてくれないから』
『いいの……? 神様なんか嫌いだけど……みんなと一緒に祈ってもいいの?』
『……大勢の人間を戦火から救うための犠牲だ』
『それを願ったのはシレキスの民です。それは間違いない』
『一人二人の娘が貴族に白昼堂々連れ去られ、弄ばれ陵辱されたとしても、我慢するというのか。それは、我慢か』
『戦う理由はある。おそらくはこの戦に参加する者それぞれに、それぞれの理由が』
『その孫が、長男夫婦のような悲劇に遭わぬ世の中にしたいのです。私の望みはそれだけ。そして、老い先短いわしの命ごときで、孫の未来が勝ち取れるなら、安いもの』
『わしゃ、この幸せだけで十分じゃ。じゃが、人は争う。悲しいことじゃのう』
人の望みは千差万別。人の喜びもまた。
だがそこには必ず切ないほどの祈りがある。
それを守るのは、何だ。
『我が神は破壊神。破壊をこそ好む』
『彼(か)の神はシレニアスが認めるいずれの神より平等だ』
『この世に破壊されないものなど無いのだ。そう、破壊神こそがこの世の洗いざらいを創り変えられる唯一の力なのだ』
シュタインベルクの哄笑が響く。
『シレキスの民がこぞって入信したのは、やはり皆が壊して欲しいと願っていたからでしょう。……世の中を』
セリアスが感情を封じ込めた声で呟く。
そうかもしれない。破壊――現状を打破し、自由を得るために戦う者たちがいる。
ルスターを、子供たちを救うために、シュタインベルクの支配を破壊した女(ひと)がいた。
けれど、それは……それでいいのか。よかったのか。
『……ほんと、報われない子だよ』
『あの子は本当に幸薄い星の下に生まれてたんだねぇ』
『何とかならんもんかのう。……森の中で生きる者は、森の恵みを互いに受け合って生きる兄弟みたいなものじゃ。兄弟同士で喧嘩は、いや、殺し合いはいかん。いかんよ』
そうだ。平穏に暮らすためには殺し合いなどあってはいけない。しかし、今世の中は殺し合いによって開かれようとしている。
『あらゆるものを敵に回してなお傲然と立とうとする貴様こそ、『叛逆者』の名に相応しい』
そうだ。私は――俺は叛逆者だ。
皆が戦いを肯定し、そちらへ進むこの時に一人背を向け別の道を進もうとしている。
――別の道?
そう、道は見えた。
殺し合いを止める道ではなく、殺し合いに進む道でもなく。
だが、それでは……それだけでは足りない。
『さあ、答えを示せ、"叛逆者"。私を否定し、ボラスドーを否定する貴様の答えを』
『拝むべき神も持たぬくせにそれでもなお司祭であろうとする貴様は、どんな答えを示してくれるのだ?』
『あんたが信じる神様なら、わたしも信じてあげるよ。だから、がんばんな』
『信じるに足る教えをいただければ、信仰はついて来るものと存じます』
『おのが身命を捧げ尽くしてなお、悔いのなき教えに出会えるならば、わたくしのこれまでの人生も無駄ではなかったと思えるのではないかと』
皆が答えを求めている。
『出口がさっぱりわからんようになってしもうた。出来ればお主、連れてってくれんかのぅ』
連れて行ってほしいのは俺だ。
答えは、どこにある。
『セリアス、神が欲しいか』
違う。俺だ。神が欲しいのは俺――
『お主は既にそれを持っておるよ。しかし、お主はまだそれを見る術(すべ)を見つけておらぬ。ゆえに、見えぬ。定まらぬ』
見えなければないのと同じ――
神は、どこだ――
神は――
水面に揺れる目鼻のない自分。
なぜ映らなかった? なぜ輪郭は映るのに、目鼻が見えない? なぜ俺はその顔を飲んだ?
見えないのに見えているもの。
輪郭はあるのに中身が見えないもの。
それはつまり――
『神様ってね、みんなのここにいるんだよ』
ヘレンの胸にかざされるベティおばばの優しい手。
そう。ここに――
見えなくとも、ここに――
見えなくとも、いるから――人の思いを超えて実体など持たずとも存在できるから――神。
『本当の神様はね、なぁんにもしてくれない。ただ、ちょっと悩んだ時や迷った時に、背中を押してくれるの。それだけ』
『お主ならよかろう。……後のことはお主に任せる』
イメージが弾ける。
血まみれで微笑むエルデ、暖かい日差しに緩むおじいさんの顔、まっすぐに気持ちをぶつけてくるルージュ、斜に構えたワイズマン、いつも何かしら悩んでいるヘレン、元気な孤児たち、優しい村人、ハイデロアで学んだ学友、愛した女たち、教えをいただいた先生方、故郷でまだ元気だろうか両親は。兄弟は。
次々に溢れてくるイメージの最後に、見えた光景。
『……神が必要、なら、作ってやる……』
そうだ、確かに俺はそう言った。
『だが……それは……人を、子供を、命を……石ころと、同列に、考える、神なんかじゃない……!』
神は――いた。
そうだ。人の胸に、人の数だけ。
人を思いやるその心に宿る神。
だから――
水面に揺れる目鼻のない自分の顔。
『名も無き、顔も無きもの。そやつの顔を見たければ、簡単なことじゃ。名前をつけてやればよい』
顔はいらない。名前も要らない。大事なのは――
左手にすくいとったその顔を飲む自分。
なぜそんなことをした?
『あんたならわかってるはずだよ。大事なのは何か。神様の名前じゃないだろう?』
そうだ。
神の名なんて何でもいい。
俺が思い抱く、大事なもの。
誰かに伝えるべきもの。
伝えた相手の中でそれぞれを顔を持つもの。
人間にとって一番大事なもの。
そう。
大事なのは――