蒼きバンダナのアレス First Episode
〜Engage Destiny〜【LUSTER/ROUGE】

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迷い、惑う者――汝の名は司祭

 シレキスより離れること遥か西、アスラル大樹海の辺縁部に属するエキセキルの町近郊。
 幾重にも折り重なる緞帳(どんちょう)のごとき木々の茂みの合間に、激しい剣戟の音が響いていた。
「こらえろ、旭陽騎士団(グロリアス・ナイツ)! シレニアスの名において、正義に逆らう愚か者に死罰を下すまで倒れるな!!」
 叫ぶ声に応じる低い声は、金色に輝く頑強な甲冑で全身を包んだ騎士十数名。
 茂みの向こうからひっきりなしに飛んで来る矢と槍が、打ち揃えて構えた盾の表面に弾かれ、落ちてゆく。
 やがて、矢の雨が途切れた。
 一瞬の間を置いてときの声があがり、茂みのあちこちから手に手に武器を持った者たちが飛び出してきた。
「――応戦! 応戦! 旭陽騎士団、敵を殲滅せよ!!」
 見通しの悪い森の中。騎士たちを分断し、個別に倒そうとする襲撃者と、分断されまいと集団で応戦する騎士の戦いが続く。
 甲冑鎧に刃は立たない。襲撃者はハンマーやつるはし、棍棒に棘つき鉄球を鎖で棒先につないだモーニング・スターなどで甲冑ごと叩き潰そうとする。
 しかし、甲冑の中にまで届く衝撃を与えるには大振りにならざるをえず、戦い慣れた騎士たちの巧みな剣捌きの前に、革の胸当て程度しか身につけていない襲撃者たちは次々に切り伏せられてゆく。
「ふははははははは、見よ! 反逆者ども! 我らにシレニアス王家の正義ある限り、貴様ら平民風情に勝利などないわっ!」
 ひときわ派手な装飾の鎧に身を包んだ騎士隊長らしき男の哄笑に恐れをなしたかのように、襲撃者たちは退き始めた。
 武器を捨て、そのまま茂みの奥へと走り去る。
「追え! 逃がすなっ! シレニアスに逆らう愚か者の末路を、思い知らせてやれいっ!!」
 今こそ勝利の瞬間と確信した甲冑の騎士団は、一斉に襲撃者たちを追走し始めた。ガチャガチャと鎧の鉄板が触れ合う音がやかましく樹間に響く。
 やがて、植生が変わった。うっそうと繁茂して視界を塞ぐ比較的背丈の低い広葉樹の茂みが消え、背丈の高い針葉樹――杉の林へと。高い梢が自然の天蓋をなし、昼なお太陽の届きにくいそこは、下生えも少なく柱のごとき杉の幹が無数に林立しているだけで、先ほどとは打って変わって視界が広がっていた。
 襲撃者たちはさらに奥へと逃げてゆく。
「待て!」
 騎士隊長は部下を止めた。
「待て待て待て。罠かも知れぬ。全員集まり、盾を構えて慎重に進め」
 視界が広がれば、敵も弓矢で狙い易くなる。それを警戒してのものだった。
 だが――

 ―――――――― * * * ――――――――

 少し離れた場所。
 薄暗がりが広がる林の中でも、金色の鎧はよく木漏れ日を弾いてよく目立つ。
「……てやんでえ。甲冑に矢が通らぬのは先刻承知だってんだ」
 嘲笑の色を含んだ笑み声で呟き、男は右手を上げた。
 傍にいた男が頷いて、やたら矢じりの大きな矢をつがえた弓を、空に向けて引き絞る。さらにもう一人が、その矢じりの先に持っていた松明で火をつけた。
 右手が振り下ろされると同時に矢は弦を離れて、梢の隙間から空へと走り――破裂音を残して弾け飛んだ。

 ―――――――― * * * ――――――――

 突然頭上遥か高くで鳴り響いた軽快な破裂音に、騎士たちが思わず頭上を振り仰ぐ。
 不意に、その視界の一角が動いた。同時に木の繊維がねじれ、ひしゃげてゆく不気味な音が四方八方から聞こえてきた。
 気づけば、木が倒れてきていた。一本二本ではない。周囲の木という木が、めりめりと音を立て、梢同士を打ち鳴らして倒れこんでくる。
 騎士たちは慌てて逃げ惑った。
 しかし、舞い散る落ち葉と粉塵、千切れ飛んだ杉の枝葉で視界は塞がれ、先に倒れた木が逃げ道を塞ぐ。
 真っ直ぐ倒れてくる木ばかりではない。途中で立ち木にぶつかったり、木同士でぶつかって弾き合って予想もしない方向へと倒れ込む。まして狭い覗き窓程度の視界しか確保できない騎士の兜では、そもそも倒れてくる木を確認することすら難しい。
 また、甲冑の重さそのものも、まさしく足枷となった。速度を増して落ちかかる巨大な質量の前に、鎧甲冑の騎士などまさに陸に上がった亀だった。
 いかに総金属製の甲冑とはいえ、倒れてきた杉の成木の直撃から中の人間を守れるほどの防御力はない。次々と倒れてくる一抱えもある木の幹の下に悲鳴が消えてゆく。
 倒れる木々から何とか身を翻し、安全地帯へ逃げた者も、一度は逃げた襲撃者たちの集中攻撃を受けてたちまち命を落とした。
 武器を捨てて騎士たちをここへ引きずり込んだ襲撃者たちが今手にしているのは、人の頭ほどもある石だった。

 ―――――――― * * * ――――――――

 やがて、舞い上がっていた粉塵が収まった頃、林のあちこちから勝どきの声があがった。
 木の切り倒しを命じた男は、満足そうに横倒しになった木の一つに足をかけ、腕組みをした。
「へっ、バカたれが。こと森の戦に関して、俺たち義勇軍に勝てると思うか。思い上がりも甚だしいってもんよ」
 隆々たる筋肉ながら、背丈はそれほどでもない。ただ、その肌は赤銅色に輝いていた。鍛冶屋など、炉の前で長時間作業する者に特有の炉焼けだ。そして、その服装もまさに鍛冶屋のものだった。藍色の使い古されて色剥げや油染みだらけの前掛けを首からかけ、頭にはこれまた染みだらけの手拭いを巻いている。
 戦場の戦士の姿ではない。鍛冶屋の工房からたった今駆けつけてきた、とでも言いたげな姿。
「ゼラニス親方、この後はどうするよ?」
 ヒゲ面の大柄な男が聞いてきた。
 ゼラニスと呼ばれた鍛冶屋の親父は、鼻の下を親指で一拭きして答えた。
「おうよ、無論怪我した連中の手当てと残ってるクソ野郎どもの始末だ。騎士団は一人残らず息の根止めとけ。エキセキルは既に貴族どもの支配から脱したと、思い知らせてやらにゃあな。へへっ、今夜の酒はひときわ美味そうだぜ」
「まったくだ」
 豪快に笑いながら、大柄な男は立ち去って行った。
 代わってやってきたのは、質素ながらも隙のない革鎧の着こなしをしている女剣士だった。戦勝に浮かれて右往左往している素人が目立つ戦場で、ほとんど唯一と言っていいほど浮かれもしていない。
 年の頃は二十代後半から三十代ぐらい。左目を跨ぐ大きな傷が整った顔立ちを台無しにしている。気をつけてみれば、耳元にも、喉元にも、手の甲にも傷痕はあった。
「ひとまずは完勝、おめでとうございます。指揮官殿。お見事でした」
 戦っている最中にほつれたのか、背中の中ほどに届く長い黒髪を束ねて紐でひとくくりにしながら、女はゼラニスに戦勝の祝辞を述べた。
「おう、ありがとよ。え〜と、メルシー?」
 ごつい岩の塊のような手で握手しながら、ゼラニスは顔をほころばせた。
「残念。メルヴィエです」
 名前を間違えられたにもかかわらず、さほど気にしない風で女剣士メルヴィエは握手を振り返した。
「そういえば、そろそろではありませんでしたか? 『シレキスの解放者』との会談は」
「シレキス……? ああ、なにやら胡散臭い司祭が会いたいとか言っていた、アレか。んん〜……」
 途端にゼラニスは渋い顔つきになった。腕を組んで考え込む。見るからに気が進まぬ様子だ。
「ここから東のシレキス地方との連携が出来れば、我らヘルディンの義勇軍を加え、マンタールの南部はほぼ掌握できます」
 ヘルディン地方はシレキスの南西、エキセキルの南東部に位置する。女剣士メルヴィエはそこから戦技訓練のためにエキセキルへ派遣されていた。
「この三地域に領地を持つ貴族どもにも睨みを利かせられますし、マンタール北部への牽制にもなるでしょう。また、北部やフェルミタ西部で散発的に戦っている反体制グループへの大いなる士気向上にも資するかと。もう一つ加えるなら、シレキスは良質の火薬を産することでも有名。一定量の火薬が確保できれば、戦い方が変わる可能性も……。お会いになって、是非手を結ぶべきです」
 懸命に利を説くメルヴィエ。だが、ゼラニスは腕組みをしたまま、う〜んと唸っていた。
 しばらく考え込んだ挙句、ぽんと分厚い手の平を打ち鳴らした。
「よし、決めた」
「では」
「まだ俺の出る幕じゃねえ」
 喜びかかったメルヴィエの表情が強張った。がっくり肩を落とす。対照的にゼラニスは清清しいほどの笑みを浮かべていた。
「ま、お前らで適当に人を選んで行っといてくれや。正直、俺はこの街を傲慢な貴族どもの圧制から守りてえだけなんだ。そういう面倒なやり取りは肌が合わねえんだよ――と、そうそう。出来たらうちの息子をその中に入れておいてやってくれんか」
 メルヴィエは困惑の上に困惑を重ねた渋い顔をした。
「……レンディルをですか?」
「何だ、嫌そうだな」
「……実は先日、ベッドに誘われました。無礼に程がある。……あなたのご子息と知っていなければ、叩きのめしたところです」
 ゼラニスは豪快に笑った。
「別に遠慮するこたなかったんだがな。けどまあ、19っていやぁ、やりたい盛りだろうよ。いいじゃねえか、そんな傷があっても女と見てくれたんだろ? 素直に喜べよ」
「そういう問題ではありませんし、ああいう戦えない男に興味はありません。まして、軟弱者のくせに私をそういう眼で見ていたということが一番許せない」
 ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「それに、お父上の前で言うのは差し障りがあろうかとは思いますが、今日こそはっきり言わせていただきます。彼は義勇軍指揮官の息子だという自覚が無さ過ぎる。今日も戦場には来ず、町で遊び歩いている。彼と同い年の若者の多くがこの戦いに参加しているというのに。情けない臆病者だ」
「そいつぁどうかな。俺の留守を守って、きちんとうちの工房を回してくれてるぜ。鍛冶の腕も10年後が楽しみだ」
「今は戦う時です! 第一、指揮官の息子がその体たらくでは、いずれ部隊の士気にも影響が出かねません」
「そんなもんかね」
 メルヴィエの讒言など微塵も聞き入れる様子もなく、顎の無精ひげをぞりぞり撫でる。
「……ま、大丈夫だよ」
「何が大丈夫なのですか」
「俺はあいつの親父だぞ? あいつの頭ン中から、ナニの長さまでよぉく知ってる」
 がはははは、と豪快かつ下品に笑う横で、メルヴィエは眉間に皺を寄せた。
「……そういう下世話なところは確かに親譲りのようですね」
「俺はしょせんしがない鍛冶屋の下品なクソ親父さ。今のこれが精一杯だ。だが、あいつはもっとでかいことをやるぜ? 今はくすぶっちゃいるがな」
 からからと笑いながら、落ち葉を踏み締め歩き出す。エキセキルへ向けて。
 メルヴィエもその横に並んで歩き始めた。
「エキセキルの義勇軍を率いている時点で、あなたは『しがない鍛冶屋の親父』って代物じゃないと思いますが」
「いやいや、もういっぱいいっぱいだ。俺にとっちゃあ戦ってのは喧嘩の延長だが、これだけ大事(おおごと)になってくると腕っぷしだけではどうにもならんことも出てくる。シレキスに行きたくねえのはそれだよ。面倒になったら、何はともあれまず手が出ちまうからな、俺は。大将の器じゃねえんだよ」
「しかし、だからといって息子さんは……」
「あいつは……その気になりゃあ、マンタールだって獲るかも知れねえぜ」
 あまりに突飛もないその発言に、思わず女戦士の足が止まった。
「……親バカ発言としか受け取れませんが」
「バカ言え。娘のフロラ相手ならともかく、息子なんぞに。あれももう立派な大人だ。まあ見てろって。鳥の雛と同じさ。飛び方を知らねえうちははたから見てても危なっかしく思えるが、ひとたび飛べるようになりゃあ、ってな」
「そのために会合に参加させると?」
「おうよ。今のあいつに足りねえのは、世の中ってもんを知る機会だ。ちょうどいいじゃねえか。な、俺からの頼みだ、入れておいてくれや」
 メルヴィエは明らかに気の乗らない顔つきで目をそらした。
「ゼラニスさんがそこまで仰るなら……でも、本人がどう言うか」
「俺の代理ってことにしとけ。あいつも俺の立場はわかってる。そう言やぁむげに断りゃせんさ。……まあ、あんたが色仕掛けで誘ってもいいんだが?」
絶対に嫌です
 これ以上ないくらい強硬に吐き捨てたメルヴィエに、ゼラニスはまた豪快な笑い声を上げた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 ルスターはベティおばばと話をした翌日にはシュルツへ出発した。
 大人がいなくなることへの孤児たちの不安は想像以上だった。
 泣くわ、喚くわ、不機嫌になるわ、ついてくると駄々をこねるわ。(特にルージュが)
 入れ替わりにペルナーを戻すまでの二、三日だけということと、村の置かれている状況を説明したうえで、これも勉強の一つ、と何とか丸め込んで予定通りに出発した。
 シュルツ方面に向かう荷馬車に便乗、いくつか乗り継いでその日の夕刻にシュルツへ着いたルスターは、そのまま教会へ入った。
 ペルナーによる司祭補佐たちの紹介もそこそこに司祭室に引きこもり、手紙、メモ、指示書、免状、書物、その他様々なシュタインベルクの遺品を片っ端から漁り始めた。

 ―――――――― * * * ――――――――

 そして、4日後。

 宵の頃。
「ルスター様、サイクス様がおいでです」
 ホルマールへ戻ったペルナーの代わりに、司祭補佐をまとめているセリアスが告げた。
 ルスターが左手で持った書類の書面から顔も上げずに頷くと、セリアスはサイクスを司祭室に招き入れた。
 40代後半の男だった。ブラウンの髪に白いものが混じり始めているが、シレキスにある集落の長の中では若い方だ。それだけ政治的手腕が高く、ジェラルディン子爵にもシュタインベルクにも信任厚かったのだろう。普段は交易商だと聞いている。
 各地の長が集まっているからか、モノクル(単眼鏡)をかけて少しおめかしした姿のシュルツ町長サイクスは、司祭室の中を見た途端にぎょっとした。
 それは室内に散らばる書類の尋常でない量に驚いたのか、この4日間全く身繕いをしてないルスターの惨状に驚いたのか。
「いやはや……シュタインベルク司祭がいたときと同じだな。彼がいるのかと思ったぞ、ルスター司祭」
 床を埋める書類だかメモだかわからない紙片の山を気にしながら、サイクスは慎重に中へ進んできた。
 それでもルスターは書面から目をそむけない。その眼つきが鋭いうえ、伸びた無精ひげが青々としていて、司祭というより荒くれ者に見える。
「すみません。限られた時間で、シュタインベルクのたくらみを推察しなければならないので……このままで失礼します」
「たくらみねぇ……」
「長たちの会議はどうです?」
 ルスター抜きの会議は、ルスター自身が提案したことだった。
 ルスター自身はシュタインベルクの遺品を調べる時間が極力多く欲しかったし、長たちも結果的にシュタインベルクを殺した男がいるよりは自由に発言できるだろうと考えてのことだった。
「おおむね意見の一致はしているね。シュタインベルクの後を君に継いで欲しいようだ」
「……そうですか」
「明日の会議には出て欲しい」
「わかりました。朝から?」
「そうだ。昼食を挟んで、夕刻まで。詰めなければならない事案が山ほどある」
「私の立場は?」
 ルスターはようやく書面から顔を上げた――かと思うと、次の書類を取ってそちらに目を落としてしまった。
 その姿に、サイクスはため息をつく。
「立場というと?」
「私はシュタインベルクではありません。奴の構想自体は大体つかめましたが……調べれば調べるほど、奴の真似は出来ないことが判る。それは伝えていただけましたか?」
「無論だ」
 いささかむっとした風に、サイクスは頷いた。
「だが、私も、ホルマール村の村長も、他の長たちも、君にその役を担ってもらう他ないと考えている。出来る出来ないではなく、やってもらわねばならんのだ。無論、我々で出来ることは何でも協力する」
「ただし、血は流さずに?」
「大前提だ。シュタインベルク司祭はうまくそれを――」
「うちの孤児院のメッケナー、私が仲良くしていただいていたエルデさん、その他色々死んだ方はおられますが」
 再び、サイクスは言葉に詰まったように黙り込んだ。胸の内を代弁するように、その表情には明らかな不機嫌さが表われていた。
「……大勢の人間を戦火から救うための犠牲だ」
 どこかで聞いた弁明に、ルスターは唇の端をほんのわずかに歪めた。
「なら、シュルツに集まっている全ての長の首を打ち落として、首都ミンスニアに送ってはいかがです? それぐらいすれば子爵一家惨殺の件も許してもらえるかもしれない」
 たちまち、サイクスの顔が青ざめた。
「なにをバカな」
「少ない犠牲で大勢の人間を救うことが正義だというのなら、それもありですよ」
「……………………君は――」
「サイクス町長。あなたは交易商だ。何かを手に入れたいときには、犠牲を出すか対価を払うのが社会のルール、というのはご存知のはず。あなたたちはシレキスの平穏のために何を犠牲にするのですか? あるいはどんな対価を払いますか? そしてそれは誰に? 私? それとも貴族?」
「ルスター司祭……それは、交渉かね」
「覚悟を聞いているまでですよ。私が見ている限り、皆さんまだシュタインベルクにかけられた幻術から目覚めておられないようですから」
 その一言に、サイクス町長は顔をしかめた。
「幻術……彼は魔法使いだったのか?」
 ルスターは初めて顔を上げて、サイクスを見た。たくらみ顔で、にんまり頬笑む。
「ま、ある意味ではね。その辺の話は明日しましょうか」
「よかろう」
 足を返しながら、サイクスはルスターに指を突きつけて続けた。
「だが、シレキスは今興亡の瀬戸際にある。みな必死なのだ。気も立っておる。明日の会議では、今のような冗談めいた言い回しは極力控えたまえ。いいな」
「ご忠告は胸に留めておきます」
 サイクスはふん、と鼻を鳴らして部屋を出て行った。
 そして扉が閉まると同時に、ルスターも鼻を鳴らした。
「必死ねえ……。さて、あなたがたの必死はどれだけ必死の必死なのやら」
 皮肉っぽい笑みを扉に投げかけたルスターは、すぐに書面へ眼を戻した。
 しばらくして、ふと頷く。
「そうそう。浮気がばれた時だって、考えるよな。それこそ必死に。……言い訳を、さ」

 ―――――――― * * * ――――――――

 次にセリアスが部屋を訪れたのは、夜半過ぎだった。
 夜食を持ってきたのだが、ルスターは片手で机の上を片付けている最中だった。左手一本では、束にした書類を整えるのが難しく、四苦八苦している。
「ルスター様、お片づけならわたくしどもを呼んでいただければ」
 セリアスは、応接テーブルに夜食のグラタンを乗せた盆を置き、恐れ入った様子で慌てて書斎机を回ってきた。
「いや、もう遅いし。起こすのも悪いと思って」
 苦笑するルスターに、セリアスは顔をしかめた。
「わたくしどもはあなたにお仕えし、仕事をするのが役目です。そのような遠慮は」
「いやいや。シュタインベルクはどうだったか知らないが、私は夜中に人を起こすなどという不調法は嫌いでね。そもそも、司祭ですらないし、君らをそう扱っていいものかどうかも」
 左腕しか使えないルスターから書類の束を奪い取り、代わって卓上の書類をまとめようとしていたセリアスは、ふと固まった。
「え? ……違うのですか?」
「え? ペルナーから聞いてない?」
「はぁ。彼からは、あなたはシュタインベルク司祭とは違う、としか……。どう違うのかは教えてもらっておりません」
 呆気に取られているセリアスに、ルスターは左手で思わず顔を覆った。
「ペルナーの奴……適当なことを。それで司祭補佐は全員残ってたのか」
「はい」
 新たな主人であるルスターについてゆくために残ったのではなく、どういう人物か見極めるために残ったということだ。
 となると、見極められる相手としては、いささか問題のある4日間だったような気がする。
 ルスターは大きくため息をつくと、三角巾から吊っている右手の甲を見せた。すると、セリアスは小首を傾げてルスターを見返した。
「なんです? その……焼印、ですか?」
「これは『破門の印』という。私は形式上、樹帝教から破門された身だ。だから、樹帝教の司祭ではない」
「では、なんの司祭なのです?」
 切り返すように即座に聞かれ、ルスターは気恥ずかしげに苦笑いを浮かべた。
「それが判らないから困っている。明日の会議もどうしたものやら」
 答えようがない、とばかりに肩をすくめてみせたセリアスは、応接テーブルを示した。
「ともかく、せっかくのお夜食が冷めてしまいます。こちらは私が。どうぞお召しあがりください」
「わかった。ではせっかくだし、言葉に甘えよう」
 ちょうど空腹を覚えていたルスターは、席を空けて書斎机を回り、応接ソファに座った。
 まだほこほこと湯気の立つグラタンを木のさじですくい、口に入れる。クリームソースの甘味とポテトの芳ばしい香りがつい頬を緩ませる。
 感に堪えぬ様子で次々とさじを口へ運ぶルスターを愉快げに見ながら、セリアスは話を続けた。
「司祭の件ですが、シュタインベルク司祭の後を継がれるのでしたら、ボラスドーが最適かと存じます。ここまで獲得してきた信者達も混乱せずに済みますし、わたくしもお教えできることが色々ございますから。いずれにせよ、何か決めていただかないと――」
 ルスターはその瞬間、硬張った。微笑む口元へ運びかけていたさじごと。
「……セリアス?」
「はい?」
 セリアスは手を止めてこちらを見た。
「君はボラスドーについて詳しいのか? ペルナーはあまり知らなかったようだが」
「は、わたくしはシュタインベルク様がここにおいでになったときから仕えておりますので」
 心なしか得意げな笑みを浮かべ、少し胸を張っている。
「ボラスドー布教のためにシレキスのあちこち遣わされたこともございます。ただ、ペルナーは少々意固地なところがございまして……。シュタインベルク司祭もボラスドー布教には秘密厳守ということが伴う以上、彼には任せられないと仰っておられました。ことボラスディアに関して、彼は信者以外の何者でもありません」
 片付けを続けつつ苦笑するセリアスをよそに、ルスターはさじを口にくわえて考え込んでいた。
「……ボラスディア、か」
 考えながら二、三回グラタンを口に運んだ後、ルスターはさじを置いてセリアスに顔を向けた。
「結局、ボラスディアにおける教義というのは、一体どんなものなんだ? シレキスのこれだけ多くの人がわずかな間にこぞって入信し、しかも余所者には口をつぐんで一切正体を明かさないんだ。よほど人の心を打つ教えなんだろうなぁ」
「そうでもありません」
 卓上の書類を片付け終え、ひもで縛り上げながらセリアスは淡々と応えた。
「破壊神ボラスドーの教え、ボラスディアの教義は『破壊』。それのみです。いやなもの、嫌いなもの、邪魔なもの、壊して欲しい何がしかを神に祈り、それを日々思い描けば、破壊神ボラスドーは必ずその機会を下さる。だから、必死で祈りなさい。それだけです。シレキスの民がこぞって入信したのは、やはり皆が壊して欲しいと願っていたからでしょう。……世の中を」
「世の中を壊す、か」
「その不条理の象徴として選ばれたのがジェラルディン子爵一家であり、その他各地で爆殺された貴族主義者や貴族迎合者なのです。手を下したのはシュタインベルク司祭と彼を崇め奉る民ですが、それを願ったのはシレキスの民です。それは間違いない」
「だからこそ、秘密は守られていた」
「そういうことです」
 ひもで次々と縛り上げた書類の束を卓上に積み上げ終たセリアスは、続けて書斎机周辺の片づけを始めた。
「シュタインベルク司祭は、破壊の神の代理人として皆が望むように世の中を破壊してみせました。住民の血をほとんど流すことなく。それが、ボラスディアという組織の求心力。……わたくし個人は、それはボラスドーへの信仰ではなく、シュタインベルク司祭への信仰だと思いますが」
「鋭いね。私もそう思うよ……ひょっとしてセリアスは、ボラスドーの教義を信じてはいない?」
「さあ、それはどうでしょうか」
 ふと作業を中断して顔を上げたセリアス。その顔ははにかむように笑っていた――が、目は笑っていない。
「少なくとも、これだけは申し上げておきます。シュタインベルク司祭を糾弾し、死なせたあなたのこれからの出方次第では、彼に盲目的服従を誓っていた者たちがどんな報復手段に出るか、わかりませんよ?」
「おどかすなよ」
「脅しではありません。ですから、できればボラスドーの司祭を名乗るのがよいと申し上げているのです」
 それだけ言うと、セリアスは再び作業に戻った。
 ふむ、と唸ってルスターは考え込んだ。
 セリアスのいうことには一理ある。彼なりの老婆心なのだろう。あるいは、こちらの器を量るための誘い水なのかもしれないが。
 とはいえ、今の説明でボラスドーに改宗するのは難しい。
 もっとも楽な道、ということで選んだ司祭の道とはいえ、ひとたびその道を選んだからにはそれなりの思いというものがある。

 人はなぜ、宗教にすがるのか――それを十年も前に考えたことがある。
 樹帝教という文字通りの金のなる木に群がる守銭奴、権力亡者はともかくとして、平民が神にすがるのはその強大な力が自分達のために振るわれることを期待してのものだ。無論、雷の神への信仰など、恐れから相手を敬い奉り、怒りを受けぬようにするための信仰もある。
 だが、そうした信仰対象もいずれはすがるべき力の象徴へと変質してゆく。
 なぜすがるのか。
 自分より強い存在があるときに、それから守ってくれるよう、その存在より上位の存在にすがる。その上位の存在というのが超自然的存在である場合、それが宗教だ。
 ならば、宗教家とはどうあるべきか。
 民は助けて欲しくてすがるのだ。だから、宗教家は民に救いの手を差し伸べる存在であればよい。彼らが救いを求める超自然的存在=神の代理人として、それに相応しい振る舞いと言動によって神の存在を証(あか)せばいい。
 たとえそれが樹帝教という硬化しきり、腐りかかった宗教組織に属することになったとしても、おのれを律し、樹帝シュレイドの教えを全うしてみせれば、その姿に民は救いを見出すはずだ。

 ――その思いはまだ胸の内にある。
 だからメッケナーのことでもエルデのことでも本気で怒ったし、シュタインベルクを許せなかった。
 道理を弁え、弱き者ルージュを助けてくれたバイド殿を尊敬した。
 ホルマールでベティおばばに見透かされたごとく、シュレイドへの信仰自体に未練はない。シュレイドを選んだのは教義ではなく、アスラルでもっとも一般的に信仰されていて、どこへ行っても話が通じるからに過ぎない。つまるところ、ルスターの信仰心などその程度のものだ。
 しかし、ボラスドーも今聞いた限りでは自分が信じ、代理人として振舞うに足る神としては物足りない気がする。そして、そう思っている時点で決して自分はその神の司祭にはなれない。自らより上位の存在を物足りない、などと考えている罰当たりが司祭など笑止千万だ。
 そもそも道理も何もなくただ破壊を奨励するだけの神など、信じていても益はない。
 破壊神が邪神扱いされるのは、『破壊』を邪なものととらえるからではない。『破壊』の名の下に、気ままに破壊活動をして他者を平気で傷つける者が多くなるから、禁忌とされるのだ。シレキスもこれだけボラスディアがはびこってしまえば、今は平穏だが、いずれそういう者が出てくる。それではいけない。不条理な苦難は破壊されてしかるべきだが、平穏は破壊されてはいけないのだ。
 とはいえ、現実問題として考えると、シレキスの全住民を混乱させないためにはボラスドー以外の選択肢はない。
「う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん。どうしたものかなぁ」
 すっかり思考の迷路に陥ったルスターは、それ以上考えるのを諦めた。諦めて、別の話題に移ることにした。
 さっきセリアスが言及したシュタインベルクの信奉者が気になったのだ。命が危ないという現実に対処するためには、ひとまずそちらの動きに気を払っておく、ということも必要だ。まだ死にたくはない。
「そういえばセリアス。シュタインベルクの息がかかった司祭や司祭補佐というのは、全員で何人いるんだ?」
「ルスター様を含め、シレキスには17名でございます」
 書斎机の卓上に重ねた書物を並べ替えながら、セリアスは答えた。
「そんなにいるのか」
「はい。ジュラルディン子爵領に9名、ガルディン準爵領に4名、その他の領地に潜り込んでいるのが4名でございます。シュルツ常駐の司祭補佐5名以外は孤児院や教会の運営を任されております。現在シュルツにいるのは、サイクス様のお宅で開かれている会合に出席するためもあって16名――ペルナー以外全員ということになりますが」
「彼らは……もし、もしだぞ? 私が宗旨替えをしろといえば従うのか?」
「わたくしども司祭補佐は司祭の指示に従うのが役目ですので。司祭格の方々はわかりかねます」
 その言葉には感情が感じられなかった。まるでお役人の言葉だ。それだけに不気味だ。
「なるほど……それでは、信仰心は期待できそうにないな」
 ソファの背もたれに背を預け、天井を見上げて息を吐く。お役目として布教活動するのであれば、意味はない。それでは樹帝教と同じだ。まして、求めるものがある民の心を破壊神から引き離すのは無理だろう。
「……………………」
 不意の沈黙。書物を持った手も止まっていた。
「どうした?」
「……信じるに足る教えをいただければ、信仰はついて来るものと存じます。樹帝教は現実と教えにおいて乖離が激しく、またボラスドーはあまりに現実離れした教えゆえに、信仰心を生むことは出来なかったのではないかと」
「へぇ、言うじゃないか」
 素直な感心だった。信仰心というものの核心をついている気がする――ふと、ベティおばばの顔が浮かんだ。
 セリアスはすぐに我に返って首を激しく左右に振った。
「失礼致しました。申し訳ございません。わたくしごときが言うことでは……」
「いや、私もホルマールで似たようなことを聞いたのを思い出したよ。神は自分の内にある、と。つまり……信じるに足る教えに、その内なる神が応えたなら、それは揺るぎなき信仰になる……ということか」
 独り言めいたその呟きにセリアスは答えなかった。
 ルスターは再び木さじに手を伸ばし、グラタンに舌鼓を打ちながらふと思いついた言葉を、そのまま口にしてみた。
「セリアス、神が欲しいか」
 少し大仰な言い方。
 すると、セリアスは予想外に真面目な口調で答えてきた。
「……神と呼ばれるものに失礼を承知で答えるならば、欲しゅうございます。おのが身命を捧げ尽くしてなお、悔いのなき教えに出会えるならば、わたくしのこれまでの人生も無駄ではなかったと思えるのではないかと」
「『おのが身命を捧げ尽くしてなお悔いのなき教え』……か。そういえば、『大事なのは神の名前ではない』とも聞いたな。いずれにせよ、それが司祭補佐たちの本音なのかな……。ペルナーも似たようなことを望んでいた」
「考え方はそれぞれですが、司祭補佐は司祭に最も近い者たちです。司祭の職務にも通じ、その職務の代行も行いますが、樹帝教ではどれほどお仕えしても司祭とは見なされません。ボラスディアでもそうです。ですが、やはり神に仕える者の端くれとして、人を超えた存在に身命を賭している実感をこの胸に抱きたい、と思うのは自然なことではないでしょうか」
 言葉こそ問いかけだが、そこに込められているのは望みだとルスターは感じた。ペルナー同様、セリアスもまた導き手を欲している。
「ならば……やはりそれが司祭に求められていることなのだな。人を超えた存在の代理人であるということが」
「ルスター様のお若さで、それは難しいことだとは存じますが」
「難しい、か。……セリアス、知っているか?」
 すっかり中身の消えた器に木さじを放り込む。軽い音がした。
 ルスターは、少し険しい顔つきで正面の壁を埋める本棚を睨みつけていた。ここから先に、見えない壁があると実感していた。その壁を睨んでいた。
「なにをでございますか?」
「世の中で難しい、と言われているものの多くは、実は少し見方ややり方を変えてみると、意外に簡単にかたがつくものなんだそうだ」
「そうなのですか? それは存じませんでした」
「だから、私も案外どうでもいいことで悩んでいるのかもしれない」
「……悩みの中身はどうでもいいことかもしれませんが、そのお悩みになっている時間はきっと大切なものですよ」
 ルスターは驚いた。その思いやりに満ちた言葉に。そして優しげな口調に。見やれば、セリアスは柔和な笑みを浮かべていた。
 せわしなく手を動かしているセリアスをしばらく見続けた後、ルスターはにやっと笑った。
「セリアス。お前……私を若造扱いしているだろう」
「はい。現にお若いわけですし」
「見てろ、そのうちそんな口叩けなくしてやる」
 鼻を鳴らしてソファの背もたれに背を預け、安堵めいた息を一つつく。

 数秒後――

 セリアスがふと目を向けると、ルスターはその姿勢のまま眠りに落ちていた。


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